旅人だったお姉さんは年下オーナーに話す
昨日投稿するつもりでしたが、体調不良が長引いて今日となりました。すみません。
今日からまた毎日更新しますので、よければお付き合いください。
一人で部屋に居ると、朝のフィンさんの顔を思い出して悶絶しそうだった。熱のせいか少しの間眠っていたが、結局目が覚めてからずっと、フィンさんのあの表情を思い出しては無駄に寝返りを打って平静を取り戻そうとしていた。
目が潤んで、頬を赤く染めて、唇がふるりと震えて。それは確かに、女性だった。そして少女のようでもあった。
こんなこと今までなかった。以前ならきっと、同じことをしたって軽く笑って流されて終わりだっただろう。今度こそ、少しは期待してもいいんだろうか……
こんこん、とドアが控えめにノックされる。どうぞと答えると、美味しそうな匂いと一緒にフィンさんが入ってきた。その表情は平然としていて、少し落胆したのは内緒だ。
「スープを作ったから、どうかと思って」
優しい表情で微笑まれてこっちが恥ずかしくなってくる。結局四つ上の、オレを弟のように扱うこの女性に適うはずがないのだ。
食べると答えたオレに、フィンさんは朝のようにベッドの縁に腰掛けてトレーごと渡してくれる。今度は食べさせようとはしないから、もしかしたら、少しくらいは照れているのかもしれない。
薄々気が付いてはいたが、フィンさんは料理が上手い。気になって元々得意なのか聞いてみたら、旅の途中で覚えたそうだ。路銀稼ぎに料理屋で働いた時に教えて貰ったのだ、と話してくれた。
「ねぇ、ディーゴ君。少しだけお話をしてもいいかしら」
躊躇いがちに問いかけてくるフィンさんに、こくりと頷いた。それにフィンさんはなんとも言えない表情で微笑んだ後、ありがとう、と小さく呟いた。
「あるところに……そう、ここではない、少しだけ遠い国に、貴族のお嬢様が居たの。その子には、十五の時に婚約者ができたけど、それはそれは酷い人だったわ」
母親が子供に寝物語を語るように、静かに、優しく、囁くようにフィンさんは言葉を紡いだ。なんとなく居心地が悪い思いをしながらも、残りのスープをごくりと飲み干してしまう。
「五つ年上の婚約者には、片手で数えられないくらい恋人が居たわ。一夜限りの女性も数えるなら、もっとたくさん。そしてその婚約者は、お嬢様のことが気に入らなかったわ。
お前のような田舎者が婚約者だなんて、僕はなんて不幸なんだ。そもそも国になんの利益もない田舎の領地なぞ、僕の家に釣り合うと思っているのかって」
フィンさんのこと、なんだろうか。淡々と話す彼女に言い知れない不安が募る。
もしこの話がフィンさんのことだとするならば、彼女は違う国の貴族ということだ。オレみたいな平民とは一生言葉を交わすことがなかったであろう、世界の違う人。
オレの不安なんてよそに、フィンさんは話を続けた。どこか寂しそうな、辛そうな笑顔で。
「お嬢様は領地も領民も大好きだった。嫁いで行った姉たちも、家を継ぐ兄も。貴族にしてはちょっと庶民的な両親も。
だから、その婚約者の言葉は到底許せなかったわ」
愛されてきたんだろうな、と思う。もちろんその婚約者にでは無い。それ以外の、たくさんの周りの人達から。
「だからお嬢様は父親に婚約破棄を願ったわ。でも相手は王都に暮らす、自分たちよりも身分の高い家の子息。到底、こちらから婚約破棄を願いでるなんて出来るわけもないし、何より父親はね、その婚約こそがお嬢様のためだと思ったの」
フィンさんの言葉が不思議で首を傾げる。聞いていて到底、良い選択とは思えなかった。
「貴族にとっては良い家に嫁ぐことこそが、幸せだから」
その時のフィンさんの横顔は、色々な表情が混ざっていた。寂しさ、懐かしさ、諦め、悲しさ。どれもこれも、オレではとても抱えきれないような感情の渦だった。
「そしてお嬢様は決めたのよ。この家に居ても幸せにはなれない。きっともっと、幸せになれる場所が他にあるはず――無謀よね」
ふふ、と微笑みをこぼすフィンさんは、どこか自嘲するように付け足した。後悔しているのだろうか。その婚約者と結婚しなかったことを。あるいは、家を出たことを。
「お嬢様は家を出て……恩人のお世話になって、そしてそこからも飛び出したわ。
色んな場所を旅して、色んな経験をつんで」
自由を手に入れたのよ、と語る瞳は、それでも物憂げな表情だった。だから思い切って聞いてみる。
「そのお嬢様は……今、幸せなのか?」
フィンさんはオレの質問に口を閉ざした。それから静かにオレの手を取って、そっと握りしめる。
「えぇ、とても。これ以上ないくらいに」
その、笑顔に。オレは我慢できなくなって、フィンさんの肩を思い切り抱きしめる。
幸せそうに、言葉以上に語るその笑顔は、何ものにも変えがたかった。嘘ではないと信じられた。
だからこそ、どうしようもなく愛しくて、どうしようもなく悲しかった。
愛していた家族を想って婚約破棄を願い。結果、その家族の元を、恩人……恐らくロズベールさんの元を離れることになって。それなのに幸せだと言える彼女の強さを、儚さを、オレはただ、抱きしめることしかできなかった。
そっとフィンさんが抱きしめ返してくれる。優しいのね、と囁きながら。そんなんじゃないと言いたいけれど、今口を開けば泣いてしまいそうな気もして何も言えなかった。
どのくらいの間そうしていたのかは分からない。長いような、短いような時間だった。その間に、オレは一つ決心していた。
フィンさん、と呼びかける。
彼女は優しい声音で「なぁに」と答えた。愛しげにオレの短い髪を梳く彼女にどきりとしながらも、オレはゆっくりと彼女を引き離した。
「オレは……オレの両親は、いきなり死んじまった。オレに店を任せて、二人で少し旅行に行くって。久しぶりの夫婦団らんだつって出かけた日に」
あの日のことは、正直あまり覚えていない。前日の夜親父と喧嘩したせいで、朝方出て行く二人になんとなく恥ずかしくて、気まずくて、小さな声で「気を付けろよ」と言ったのは覚えている。そして、もっとちゃんと、聞こえるように言えば良かったと思ったことも。
その夕方、店を開けてしばらくしてから両親の死を知らされた。目の前が真っ暗になるなんてことはなく、ぼんやりした頭で親父が「なにがあっても、お客さんに笑顔になってもらえるようになればお前も一人前さ」と言っていたのを思い出していた。だからオレは、客連中に両親の死を隠して、閉店まで仕事をした。
ぽつりぽつりと言葉を重ねるオレに、今度はフィンさんが静かに聞いてくれた。しっかりとオレの手を握りながら。
「ほんとに……突然だったんだ。なんにも言ってやれなかった。だから」
言葉を切る。フィンさんの手を強く握り返して、緊張に打ち勝つようにしながらもう一度口を開く。
「だから、フィンさんにはそんな後悔してほしくねぇ」
下げていた視線を上げる。見えたのは、唇を噛み締めて難しい顔をするフィンさんだった。
ありがとう、と呟いた彼女が何を考えていたのかは、オレにはまったく分からなかった。
ディーゴ君が初めて教えてくれた、彼の両親の死について考えながら、私はぼんやりと店の掃除をする。なんとなく、何かしていないと落ち着かなかったのだ。
私は家を捨てたようなものだ。家族を愛していながら、領地を、領民を愛していながら、そのために生きることは出来なかった。何度あの日を繰り返したとしても、私は何度だって全てを捨てて自由を欲しがるのだろう。
他に方法がまったくなかったわけじゃない。それでも一人で旅に出たのは、ずっと憧れていたからだ。自由を。
だから、そんな私が今更戻れるはずなんてない。親の心配をするなんて許されるはずがない。それなのに、ディーゴ君は言うのだ。後悔してほしくないと。
先程は堪えた色々な感情が込み上げてきて、胸の奥がぐっと熱くなる。
許されないことをしてしまった。それなのに幸せになろうとしてしまった。その罪悪感をずっと、見ないふりをし続けてしまった。
しんどくて吐き気までしてきた気がして蹲りそうになる。それをどうにか押し留めたのは、来客を告げるベルだった。
カランコロン、と軽い音がしてドアが開く。今日はお休みなの、と言おうとすれば、そこにはティーファの姿があった。びっくりして彼女を見つめると、少し申し訳なさそうな顔で「来ちゃった」と言った。
「来ちゃったって……それはいいけど、どうしたの?」
「ん……ちょっと、ね。ディーゴは?」
風邪を引いて寝てるわ、と答えながらお茶の準備をする。ティーファは「珍しいこともあるもんね」と驚いていた。
「何かあったの?」
私の問いにティーファは難しい顔をする。何かある時は立て続けにあるものだ。私で力になれるなら、と言おうとしたところで、彼女は躊躇いがちに口を開く。
「何かあったのはあんたじゃないの、フィー」
ティーファの言葉に何も言えなくなる。心配しているつもりが、されていたなんて、と頭の片隅で呑気なことを考えた。
「ねぇフィー、みんな心配してるわ。昨日からあんたたち、様子がちょっと変だって」
ぎこちなくお茶を入れる私にティーファが言い募る。この辺りの人達は、気のいい人が多い。そして、噂話が大好きだ。昨日の様子があっという間に広まるのが目に見えるようだった。
「何かあったんでしょ、フィー」
「……私の、郷から人が来て、父が病に倒れたらしいわ」
途切れ途切れに、なぜか嘘もつけずに言葉にする。その瞬間、喉が焼けるように熱くなって、視界が僅かに揺らぐ。
フィー、と心配そうに呟くティーファの声が聞こえる。それなのに私は何も言えなくて、何か言いそうになる度に泣きそうになってしまった。
本当はずっと、認めていなかった。お父様が病に倒れたなんて嘘だと思い込みたかった。大好きなお父様。厳しくて優しくて、私が良い家に嫁ぐことが幸せだと思い込んでいるお父様。彼の大きくて広い背中を思い出して、一生懸命口元を抑えた。
「フィー……ねぇ、ディーゴには」
ふるふると首を横に振る。彼には言えない。言えば、有無を言わさずに宿を出されて親に会って来いと言われそうで恐ろしかった。
「会いに行くべきよ。きっとディーゴも」
「ダメなのよっ」
自分でも驚くほど大きな声が出てしまって、咄嗟に口元を抑える手の力を強くした。
会ってしまえば、ここに戻れなくなる気がして。それならまだいい。むしろ、私が怖いのは――
「会って、親を恨むのが……そうなるのが、怖いの」
大好きなお父様。きっとあの人は「私の為に」と言って、婚姻話を持ってくるのだろう。今まで苦労してきたことを、さも不幸のように語るのだろう。結婚こそが幸せだと、そう言って枯れ木のような老人の後添えにしようとするのだろう。
もし、そうなった時。
私はきっと、父を恨んでしまう。
「酷い親なの……?」
ティーファの言葉に強く頭を振る。ちがう、と辛うじて言えたが、その声はかなりつっかえてしまっていた。
「とても……優しいわ……でも、彼らと私の……幸せは違うの」
ずっと、心にしこりのように残っていた。あの方だけは嫌ですと言った私に父が言った「だが、あの家ならお前は幸せになれる」という言葉。母が言った「良い家に嫁ぐことが、私たち貴族に生まれた女の幸せなのよ」という言葉。
確かにそうなのかもしれない。お姉様達はみんな、王都に近いお家に嫁げて、歴史あるお家に嫁げて、豊かな領地に嫁げて、家にいた頃よりも贅沢ができて幸せだと言っていた。
でも、私はそこに幸せなんて、これっぽっちも見いだせなかった。
しがらみだらけの鳥籠の中で歌を歌ったって、聞いてくれるのは飼い主だけ。どれだけ綺麗を装ったって、見た目だけの話。そんなものよりも、私は領地を巡った時のように、広い世界を見たかった。飛ぶことは叶わなくても、自分の足で地面を歩いてみたかった。
その結果たくさん嫌な思いもした。優しい気持ちにもなった。後悔なんてなかった。だけど、だけど。
「私は……ただ、ただのフィンとして、生きていたい」
涙が溢れ出た。顔がぐちゃぐちゃになるのも構わずに。そんな私をティーファは優しく抱きしめて、背中を撫でてくれる。きっとまだ幼い弟妹にも同じようにしてあげているのだろう。その手つきはとても暖かで、慣れていた。
「私はあんたの事情を何も知らないわ。でもね、フィー。だったら余計に、けじめはつけなくちゃ」
けじめ。
彼女の言葉を真似るように口の中で呟いた。未だに止まらない涙を優しく拭ってくれながら、ティーファは柔らかく微笑む。
「そう。ちゃんとあんたの幸せを、あんたの口から親に言わなきゃ。
それでも分かってもらえなくて嫌なことをされそうになるなら、その時は逃げてくればいいわ」
年下のはずの彼女が酷く大人びて見える。そして、きっと私は酷く幼く見えるのだろう。
でもね、とティーファが続けた。
「何もしないうちから逃げ続けるのは、きっとお互いに辛いわ。そんな状態で幸せだなんて、絶対言っちゃダメ」
それともちゃんと親に言って、それでもダメだったの?
ティーファに問われて言葉をなくす。
言ってダメだったと言えば、ダメだった。でも私は、ちゃんと話したことがあっただろうか。私の幸せはそこにないと。
ずっともやもやと、嫌だと思い続けるだけだった。それをちゃんと言葉にできるようになったのは、一人で旅を始めてからだ。
あれから十年、私は自分の気持ちを語る言葉を見つけたのに、それを伝えることはしなかった。逃げて逃げて逃げ回って、大好きな家族と言いながら、向き合おうなんてこれっぽっちも考えなかった。
ティーファは言う。分かり合えない人は居るし、それが不幸にも自分の親だということもあると。一番安心出来るはずの家が、一番恐ろしい場所だと思う人も居ると。もしそうであるならば帰る必要はないと。
分からない。と、素直に呟く。だって、私はまだお父様にもお母様にも、自分の気持ちを自分の言葉でちゃんと伝えられてない。それなのに分かり合えないかなんて、聞かれても分からない。
するとティーファは、じゃあ確かめに行っておいで、と言った。
「確かめに行っておいで。それで分かり合えても合えなくても、あんたのこと待っててあげるから。私も、ディーゴも」
「ディーゴ君も……?」
「当然よ!むしろあいつ、あんたが居ないとなんにもできないわよ、きっと。
ちゃんとみんなで、ここで待っててあげる」
ティーファがぎゅっと抱きしめてくれる。それからよしよしと頭を撫でられると、またぽろぽろと涙が零れた。
「でもね、もし家族と分かり合えて、向こうの方があんたの幸せだって思ったなら、帰ってこなくてもいいの」
その時は手紙を書くわと言えば、彼女に「私、字なんて読めないわよ」と怒られた。
「行っておいで、フィン」
ティーファの優しい声に、私は黙って頷いた。




