年下オーナーは旅人だったお姉さんの事情を知らない
ロズベールは元々、私の生家が雇っている人間だ。ロズベール自身も一代限りとは言え騎士の爵位を持っている。婚約者が嫌で嫌でたまらなくて家を出たけど、結局頼る宛もなく、ロズベールの屋敷に押しかけた。
父も思うところがあったのか、一年間何も言わず、好きなようにさせてくれた。今思えば、あれが最後の優しさだったのかもしれないし、もう見捨てられただけだったのかもしれない。
社交界で噂になり始め、さすがに無視できなくなった段階で無理矢理連れ戻されそうになった。それまで子供ながらに、私の味方をしてくれると思っていたロズベールにも戻るように強く言われて、逃げ場はどこにもなくなってしまった。
婚約破棄を条件にしてくれるなら。
父に何度も訴えたが、それが聞き入れられることはなかった。それもそうだ。相手はうちよりも格上の貴族で、断れるような家ではない。姉たちだって、会ったこともないような相手に嫁いで行ったのだから、私だけ我儘が許されるはずもない。
さらにはそのタイミングで、ロズベールに恋人ができてしまった。私より年上の、綺麗な女性だった。庶民ではあるものの、面倒見がよくて闊達で、とても気さくな、素敵な女性だった。適わない、と思った。
それで私ができたのは、諦めて結婚することではなく、逃げることだった。
幸い令嬢らしからぬほどには剣や体術の心得があった。その点は護身術として簡単に教えてくれたロズベールにも、レッスンをこっそり共にさせてくれた兄にも感謝した。
家を出て、僅かなお金だけを持って、ほとんど身一つに近い状態で旅に出た。最初は苦労ばかりだった。危ないことも多かった。それでもこれまで、身も心も無事だったのは運が良かっただけなんだと思う。
でも、家を出て後悔したことはなかった。広い世界をこの目で見れたことは、かけがえのない経験となった。
そして今、ディーゴ君に出会って、この街でフィンとして暮らしていることは、感謝してもしたりないほどの幸福だ。
「旦那様がご病気で、もう」
ロズベールの言葉に「そう」とだけ答える。家名を捨てた時に、家族のことも捨ててしまったのだ。今更悲しむことも、哀れむこともできない。その資格がない。
「フィオナ様、旦那様はあなたに一目会いたいと」
「無理よ」
一目会えば、それで済まなくなる。きっと連れ戻されてしまうだろう。あの窮屈でしがらみだらけの箱庭に。
そうして今度は、妻に先立たれた老人の後添えとして嫁がされてしまう。そんなこと、わかり切ったことだ。父の死期が近いと言うのなら、兄が跡を継いだ時を盤石なものにするためにも必ずそうなるはずだ。
そんなのはごめんだ。
食べ終えた二人分の食器を流しに置いてから、ディーゴ君のために煮込んでいたリゾットを器に入れる。いつかはもしかしたら、と覚悟していなかったわけではなかった。そしてその覚悟とは、何をしてでも戻らない覚悟だ。
項垂れるロズベールを置いてディーゴ君の部屋へと向かう。今度こそちゃんとノックすれば、起きていたのか掠れた声で返事が聞こえた。ドアを開けて部屋に入ると、昨夜よりも顔色のいいディーゴ君が迎えてくれる。
「さっきはごめんなさい。気分はどうかしら?」
「いや……オレの方こそ、昨日から迷惑かけてすんません」
ほんのりと頬を赤らめるディーゴ君を見ながら、昨夜と同じようにベッドの縁に腰掛ける。それからそっとリゾットを掬って、十分に冷ましてから彼の口元へと運ぶ。
目を真ん丸にして驚きながら、ディーゴ君は首を小刻みに横に振った。
「や、自分で食うから」
「だめ。大人しくしてなさい」
病人はお世話されるものよ、と少し怒ったふうに言えば、ディーゴ君は観念したように躊躇いがちに口を開く。ちょん、とスプーンが唇に当たると、彼の顔は今度こそ真っ赤になってしまった。
「〜っ、熱、上がるから!」
そう言って彼は私からスプーンを奪ってしまう。その様子が可愛くてクスクス笑っていれば、じろりと睨まれる。たしかにこの顔は、怖いかもしれない。
無言でリゾットを食べるディーゴ君を見つめる。鋭い目付きに、尖った八重歯。シャープな顔立ちは、どう見ても堅気の人間とは言い難い。だけど私は、この人がどこまでも優しいことを知っている。
そして、その体が男の人のものであることを、知ってしまった。
昨夜を思い出して、気まずくなって視線を逸らす。覚えているんだろうか、ディーゴ君は。あれは……私を押し倒したのは、熱で朦朧としていたから?それとも、
「そういや、昨日は話の途中で寝ちまってすんません」
「……いいのよ、気にしないで」
ちゃんと笑えているだろうか。恥ずかしさでぐるぐるする頭でそんなことを考えた。これはつまり、私が考えていたようなことはなくて、本当にただ、熱で朦朧として倒れ込んだだけらしい。「昨日から謝ってばかりね」と、恥ずかしさを気づかれたくなくてつい茶化してしまう。
ディーゴ君は困ったような顔をしてから「迷惑かけてばっかだから」と俯く。その反応に慌てていれば、「なんて」と微かに笑いながら私の顔を覗き込んできた。その表情に、心臓が止まるかと思った。
「フィンさん、料理上手いっすね」
あっさりと話題を変えられて、私は「そうかしら」としどろもどろに答えるしか出来なかった。最後の一口を食べ終えたディーゴ君は「美味かったです」と言ってくれる。
たしかに料理はそれなりにできるほうだとは思っている。思っているけど、ディーゴ君にそう言われるのはなんだかくすぐったい。
「と、ところで、今日は酒場はお休みにしているから」
「あ……そう、だな、そうするしかないよな……」
私の言葉に、彼は独り言のように呟きながら苦い顔をした。そう言えば以前、彼はご両親からこの宿を継いでから一度も休業したことはないと言っていた。多分、そのことが引っかかっているのだろう。
私はディーゴ君の頭をいい子いい子と撫でる。たっぷりの親愛を込めて。少しの緊張を感じながら。
「今日一日くらいお休みしたってバチは当たらないわ。しっかり休んでね、オーナー」
私の言葉にディーゴ君はどこか悔しそうな顔で頷く。それが昨日とは違って子供っぽくっておかしかった。
ディーゴ君の顔の汗を丁寧に拭き取ってから食器を下げる。またお昼頃見に来るから、ゆっくりと休むように言い置いて。すると彼は少し寂しそうな顔をするから、なんだか意地悪したくなる。
「なぁに?私が居ないと寝れない?」
「…………、」
ぐ、と苦い顔をするディーゴ君が可愛くて笑ってしまう。冗談よ、と言おうとしたら、彼は私の腰に手を回して簡単に引き寄せてしまう。
「そうだっつったら、居てくれんのかよ」
拗ねたような、怒ったような、照れているような。そんな表情で見上げられて言葉が出なくなってしまう。顔が熱くなる。今きっと、すごくみっともない顔をしている。
トレーを片手に持ち直して、ぱし、と軽くディーゴ君の顔を私の手のひらで覆うように叩いた。見ないで、と無言で訴えかけながら。それなのにディーゴ君は、すべてお見通しだとでも言いたげにくつくつと喉を鳴らして笑う。
「ありがと、フィンさん」
あっさりと私を解放して彼は背を向けて寝転がってしまう。ずるい、と思った。
だから私は、拗ねるように「知らないわ」と呟いてから部屋を後にする。
さいあく、と目が覚めて一番に呟けば、ばしんと頭を叩かれた。心配と怒りと、それから別の何かが混ざった瞳でオレを見下ろしながら、ロズベールさんは朝日を受けながら口を開く。
「心配したんだぞ。オレもフィンも、お客さんたちも」
「……すんません」
十歳も離れているからか、昔からロズベールさんは兄貴のような、親父のような、不思議な立ち位置の人だった。気怠い体を起こして再度頭を下げれば「もういい」と溜息まじりに言われる。
「や、でも、朝起きておっさんの顔があったら誰だって目覚め最悪だろ」
「そんだけ憎まれ口叩けるなら大丈夫だな」
ばしん、と濡れたタオルを顔に叩きつけられる。首を傾げていれば「熱で倒れたんだよ」と端的に説明された。言われてみれば喉の奥がひりつくような痛みは、寝起きだからと言うよりは風邪の時のようだ。申し訳なさが込み上げてきて誤魔化すように頭をかく。
体を拭くように言われて大人しく従う。聞けばフィンさんがかなり遅い時間まで看病してくれていたらしく、余計に申し訳なさが込み上げた。
「それで、だな」
気まずそうにロズベールさんが口を開く。その様子にまさかとは思うが、熱で浮かされたまま、彼女を無理矢理……なんて事態になったのだろうかと不安が過った。
「お前らはその……結婚、していたりするのか?」
「あ?」
なんでそうなんだよ。オレが無言で訴えれば、ロズベールさんはそれでも、真剣な表情でオレを見つめた。
「……オレが一方的に好きなだけで、フィンさんはなんとも思ってねーよ。言わせんな」
ガキみてぇに拗ねて見せれば、ロズベールさんはそれでも難しい顔で腕を組んでいた。そんなロズベールさんを横目に見ながらあらかた体を吹き終えて、用意してくれていた新しいシャツに着替える。
どこまで聞いているんだ、と、唐突に聞かれた。とぼける訳でもなく、ただ疑問で「どこまでとは?」と聞き返せば、困ったような顔をされる。
それに何となく、フィンさんのことだろうな、と思った。とは言えその内容が、例えばフィンさんの恋についてなのか、それとももっと別の事情についてなのかは知らないが。
「フィンさんのことならなんも知らねぇよ」
心の中に苦々しいものが広がりながら、吐き捨てるように言う。いつの間に持ってきていたのか、店の椅子にどかりと腰掛けてロズベールさんはオレに頭を下げた。
「たのむ。フィオナを解雇してくれ」
「……は?」
オレの疑問の声に答えるでもなく、ただロズベールさんは無言で頭を下げ続ける。なんだそれ、と思った。そして同時に、ふつふつと怒りが静かに湧き上がっていた。
「……それは、フィンさんの頼みか?」
そんなわけはないと分かっていた。あの人は辞めるなら辞めると、はっきり言える人だ。それくらいはオレだって分かっている。
オレの問いかけにロズベールさんは首を横に振って答える。んだよ、それ。漏れ出た声に、すまんと返されてカッと頭に血が上るから、ぎり、と歯を食いしばってこらえる。
「ふざけんな。あんたになんの権限があってフィンさんから仕事を奪うんだよ」
「……フィオナは本来、こんなところで下働きなんてするような奴じゃない」
頭を下げたまま呻くように言われた言葉に、思わず反射的に鼻で笑ってしまった。こんなところか、と。それに彼は顔を上げる。しまったと言いたげな顔で違うんだ、と言いながら。
「この店を侮辱する意図はない。ただ、フィオナは」
「あの人のことは、あの人の口から聞く。おっさん、あんたから聞く気はねぇ」
ひたとロズベールさんを見つめると、彼は顔を歪ませて「フィオナが話さないとしてもか」と聞いてきた。
当然だ。彼女が話したくねぇなら、オレも聞きたくねぇ。
窓の外を見る。まだ朝の早い時間なのだろう、陽の光が目に痛いくらいに眩しかった。
「こっちから解雇するつもりはねぇ。ただ、フィンさんが辞めるって言うなら、その時は引き止めねぇ」
これがオレの精一杯だった。
フィンさんのことは好きだが、それと同じように、ロズベールさんのことも家族のように思っている。年に数回しか帰ってこない、年の離れた兄貴のような、そんなふうに思っているんだ。どちらに対しても一方的にオレが思っているだけではあるが。
だから、二人の顔を立てるためにも、オレはこう言うしかできない。願わくば、フィンさんがここを去りませんように、と柄にもなく祈りながら。
すまない、と呟くロズベールさんの声を聞きながら、結局フィンさんが乱れた夜着姿のまま飛び込んでくるまで、二人で無言で朝日を眺めていた。




