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旅人だったお姉さんは年下オーナーに戸惑う

 どれくらいそうしていたか、月の傾きを見るに、長い時間ではなかったんだろう。オレたちは無言のまま隣合って座っていた。何をするでもなく。

 フィンさんを横目で見ると、なにかを考えるような、昔を見つめるような、そんな目をしていたから、オレから話しかけるのは躊躇われた。ただ、いつまでもこうしている訳にもいかないし、何よりオレも、謝らなければと思った。

「すんませんでした」

 頭を下げる。ゆっくりと、ちゃんと気持ちが伝わるように。それにフィンさんが息を呑むのが聞こえてきた。

「お店のことは」

「店放ったらかしにしたのもそうっすけど……フィンさんにも言いたくないことがあるのに、それを無理矢理言わせようとしてるみたいになって、すんませんでした」


 そんなつもりはなかったなんて、そんなのはガキの言葉だ。特に客商売をしてたら、その言葉はただの言い訳でしかない。フィンさんを「話さなければ」と追い詰めてしまったオレの言動に問題があると思ったなら、ちゃんと謝らないといけない。

 ゆっくりと顔を上げると、フィンさんはまた、泣きだしそうな顔でオレを見ていた。そんな顔をさせたかったわけじゃない。でも……その顔を、笑顔じゃない顔を見せてくれたことに、仄暗い喜びが心を満たしていく。

 こんなんじゃダメだと分かってんのに、自分でもどうしようもなかった。

「話したくないわけじゃないわ……」

 フィンさんがゆっくりと、オレの頬を撫でてくれる。それにぞくりと背中が粟立った。ダメなのに、違うのに、そんな意味じゃないのに。それなのに、オレは、







 気がつけば視界には、天井が目一杯映り込んでいた。どくどくと心臓が大きく、早く鼓動を刻むのが耳の奥に響いている。ずっしりとした重みに目を白黒させるけど、当のディーゴ君は何も言わない。

「ディーゴ君……?」

 私をベッドに押し倒して、そのまま覆い被さった彼に呼びかける。それでも何も言わない彼に違和感を感じて、押し返すようにすれば簡単にベッドへ転がってしまった。苦しげに呼吸を浅く繰り返すディーゴ君の額は僅かに熱を持っていて、思わず目を見開く。

 いつからだろうか。そう言えば、今朝から少し顔色はおかしいとは思っていた。それなのにディーゴ君の怒りを言い訳に、見ないふりをしてしまっていたのだ。


 よくよく考えれば、彼は私と出会ってから一度も休んでいない。それ以前はお客さんも少なかったようだし、それで良かったのかもしれないが、私が来てからはかなり忙しい日々を過ごしていたはずだ。それなのに彼は無理矢理私に休みをくれたり、早く上がらせてくれたり……

 これでは、年上失格ではないか。

 悔しい気持ちと情けない気持ちが入り交じりながら、そっとディーゴ君の頬を撫でて立ち上がる。こうしてる場合ではない。


 恐らく疲れからくる熱だろう。何がどうしてそうなったかは分からないけれど、びしょ濡れのまましばらくいたのも悪かったのだと思う。桶に水を張って、キレイなタオルを濡らすと、しっかりと絞ってから彼の形のいい額にそっと乗せた。気休め程度ではあるけれど、何もしないよりはマシなはずだ。

 それから酒場を休業する旨を書いた紙を表に張り出す。宿屋の方は冬が近いこともあってあまり人が来ないし、今はロズベールしか居ないから私だけでも大丈夫なはずだ。


 ディーゴ君の部屋に戻ってその様子を見ると、先ほどよりも赤らんだ顔になっていた。恐らく熱が上がり始めてきたのだろう。苦しげな様子に眉をひそめながらベッドの縁に腰掛ける。何度も、何度も額の汗を拭って、タオルを濡らして、絞ってを繰り返して。

 そうこうしている間に、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


 真っ暗闇の中、ふわふわとした感覚でどこかに運ばれる。いつだったか、前にも同じことがあったなぁ、と思いながら。

 そうだ、確かあの時はとてもたくさん泣いた後だったと思う。気がついたら朝、自分のベッドで寝ていたのだ。ディーゴ君にありがとう、と翌朝言うと「は?なんのことっすか」と素っ気なく返されたのだ。

 でもその時、耳が真っ赤になっていて、嘘のつけない子だなぁ、とこっそり笑ったのだ。


 ふわりと、優しくベッドにおろされる。大切なものを扱うような、そんな優しさで。

 ディーゴ君。ありがとう。いつも、いつも、優しくしてくれて。大好きよ。あなたのそういうところ。好き。とっても。とっても好きよ。

 きっといつか、ちゃんと、もっとちゃんと、ロズベールのことを過去のことにできたら、その時は言わせてね。


 大好きよ、ディーゴ君。


 そこまで考えて、ぱちりと目が覚める。いつの間にか自分の部屋のベッドでねていたらしく、窓からも朝日が差し込んでいた。昨夜のことは夢だったのだろうか……そう考えて、もう一度うとうとしかけたその直後、強めに頭を振る。

 ベッドから出て、自分の部屋からも出て。ディーゴ君の部屋へ、ノックをするのももどかしく飛び込めば、そこにはベッドで体を起こしたディーゴ君と椅子に座るロズベールが、驚いた顔で私を見ていた。

 ……やってしまった、と思った。


 冷静になればとんでもないことをしていると思いながらも、後に引けず。視線をウロウロと彷徨わせてから口を開いた。

「ディーゴ君の……様子を見に来たのだけど」

「お……おぉ、そうか。ディーゴなら喉はやられてるが、熱はすっかり落ち着いてるぞ」

 戸惑い気味のロズベールが言うのを聞きながら、ほっと安堵する。よかったと、そう呟けば、二人は視線を逸らしながら「着替えてきた方が」と同時に言った。

 それに自分の体を見下ろせば、夜着を着たままで、しかも寝崩れているのに気が付いて顔が熱くなる。やらかしたどころじゃない。


 慌てて自分の部屋に戻って急いで着替える。よくよく考えれば化粧だってまったくしていなかった。こんな姿、ロズベールと一緒にいた頃ですら、見せたことなんてなかったのに。

 恥ずかしくて恥ずかしくて、どうにかなりそうだった。いくら心配だとしても、なんでもっと冷静になれなかったのか。

 ここに来てからずっとそうだ。

 今まで旅の中で、色んなことを、いろんな人を見捨ててきた。同情で生きていけるほど優しい世界にはなっていないから。どんなことだって冷静に対処してきた。それなのに、ここに来てからはそれができなくなっている。冷静に振る舞えなくなっている。

 こんな感情、知らない。


 ディーゴ君のことは好き。だけどそれは、私が知っているものとはまったく違う気がする。ロズベールの時、こんなにもなりふり構わないような感情が、衝動があっただろうか。

 私の知っている好きは、ロズベールを好きだったときのそれは、もっと穏やかで、優しいものだった。暖かで、失うその時まで、痛みなんて感じさせないものだった。

 なのに、ディーゴ君を想う感情は、暖かで優しくて、それなのに苦しくて痛くて。簡単なことすら忘れてしまうくらい、めちゃくちゃな感情だ。


 溜息のような深呼吸をしてから、着替えて身なりを整えていく。なんで私、こんなことすらできずにディーゴ君の部屋へと飛び込んだのかしら。答えはすぐそこにあるのに、それを知りたいような、知りたくないような。分かっているような、分かっていないような。

 鏡の中の私は、酷い顔をしていると思った。寝不足のせいもあるだろうけど、本当に酷い顔だ。

 支度を終えて部屋を出れば、ちょうどロズベールもディーゴ君の部屋を出たところだった。なんとも言えない、気まずい空気に眉尻を下げる。

「……おはようございます、フィオナ様」

「おはよう、ロズベール」

 お互いにぼそぼそと小声で、いつかのように朝の挨拶を交わす。苦笑をこぼしあって、そのまま無言で店の方へと出る。朝食を準備するから、掛けててちょうだいと言えば、彼は大人しくカウンター席に座った。


 調理の音が静かに店に響く。

「いつから、ディーゴ君の部屋へ?」

「……今朝。昨日のこともあったし、心配になって」

「そう……」

 じゃあ私を部屋まで運んでくれたのは、ディーゴ君だと言いたいのだろうか?熱で魘されていた彼が?そんなはずはない。だけど、知らないふりをするのなら、言うべきではないのだろう。

 何より彼は奥さんのいる身だ。いくら昔馴染みとは言え、女性の部屋に入ったなんて言えるはずもないだろう。

「……フィオナ様は」

「フィンよ」

 簡単なスープと目玉焼き、それからパンを一つロズベールに出しながら訂正する。


 その顔は少し寂しそうな、悲しそうな顔をしていた。私が彼の元を去ってから何年が過ぎただろう。初めて出会ったのが十二の時。一緒に暮らし始めたのは……婚約者が嫌で家を飛び出した時だったから、十五だったはずだ。思い出したくない人を思い出したせいで、心に苦いものが広がった。

「私はもう家名を捨てて、今はただのフィンよ」

 私の分もトレーに乗せて、ロズベールの隣に腰掛ける。彼はなんとも言えない表情でスープを飲んでいた。

「……まぁ、ロズベールたちに見つからないために、偽名を使っていた面もあるけれど」

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