年下オーナーは旅人だったお姉さんのことを抱きしめる
あれから三時間ほどが経っただろうか。お店は既に閉めて、がらんとした空間には私だけが居る。ロズベールも先程まで一緒に居てくれたけど、申し訳なくて客室に上がってもらった。その瞳の奥に、心配と怒りが少し混ざっているのが見えて、居心地が悪かったのもあるけれど。
一月ほど前、上がるようにと言われたあの日、ディーゴ君が怒っているように見えた。でもすぐに、あれは怒っているのではなく、心配していただけなんだと気が付いた。だから、この子は本当に何があっても怒らない子なんだなぁと、そう思っていた。
そんなはずはないのに。
ディーゴ君だって人間だ。怒らないはずがない。それも、信用して雇った相手が名前すら偽っていたなんて、いい気はしないだろう。半年以上一緒に居たのに、と思われたって仕方ない。しかもそれに関して、私は未だにディーゴ君に何も話していない。
ロズベールとの関係だって、ごく簡単にしか話さなかったのも悪かったかもしれない。どう考えたって、あんなやり取りを見せられて「ちょっとした恩人で」なんて、信じられるはずがない。それも、名前すら偽りだったと知った後には。
テーブルの木目を無意味になぞりながら窓の外を見る。月が半分ほど隠れていて、今日はなんだか少し、暗く見えた。
ぎ、とドアが開く音が聞こえて勢い良く振り返る。そこにはなぜかびしょ濡れになっているディーゴ君が、驚いた顔で立ち尽くしていた。お互いに何も言えず、数瞬の間見つめ合う。先に口を開いたのは私だった。
「た……タオル、持ってくるわ、すぐ。待ってて!」
言いたいことはたくさんあった。聞きたいことも。だけどそんなことよりも、今は早く体を拭いてもらわないと、と慌てて立ち上がる。
それを引き留めたのは、ディーゴ君だった。
腕を掴まれて、くん、とつんのめりながら振り返る。彼の目が視界に映ったとき、息が止まるかと思った。
切なげで、悲しげで、どうしようもないのだと言いたげな、そんな瞳が、呼吸を奪ってしまった。
ディーゴ君の腕が伸びてくる。ゆっくりと。
その腕は私の体を閉じ込めると、ぎゅっと抱きしめて離さなかった。濡れたディーゴ君が冷たくて、ぶるりと身震いしたけれど、それが本当に冷たさのせいだけだったかは分からない。
ただ、彼は見た目よりも余程逞しくて、男の人なんだと、改めて認識させられた。
戸惑っているうちに、ほとんど無意識に、ディーゴ君のその背中へと私も腕を回した。思っていたよりも広くて硬い背中は、ちゃんと大人だった。そう思うと、彼を弟のように扱っていたことがなんだか恥ずかしく思った。私の方が、よほど未熟だったのに、と。
私が抱きしめ返すと、ディーゴ君はびくりと体を跳ねさせる。それすら構わず、少し背伸びをしてその肩口に顔を埋めた。
「おかえりなさい、ディーゴ君」
私の言葉に、その腕がぎゅっと、ぎゅっと力が籠る。痛いくらいに抱きしめられて思ったのは、好きだなぁとか、守りたいなぁとか、大切にしたいなぁとか、そんなことだった。不謹慎と言えばそうだけど、それでもそう思ってしまったのだ。
いつもの「……っす」と、小さく答えるのが聞こえて少しだけおかしくなる。思わずふふ、と笑えば、彼は一層力を込めて抱きしめてきた。もう痛いくらいにと言うよりは、苦しい。
それでもその必死さが嬉しくて、心地よくて、されるがままになる。もっと言わなきゃいけないことはたくさんあるのに。謝らないといけないのに。体だって、このままじゃ冷えてしまうのに。
それでも、この瞬間が酷く心地よくて、このままでいたいと思ってしまった。
「すんません」
目を閉じてディーゴ君を確かめていたら、不意に申し訳なさそうな声が聞こえてくる。どうして、と聞くと、彼は戸惑ったように「店……」と呟いた。だから首を横に振る。
「そんなことはいいの。だってこのお店は、私にとっても大切な場所だから」
でもお客さんには謝らないといけないわよ、と耳元で優しく語りかければ、彼は勢い良く私を引き剥がした。見るとディーゴ君の顔は真っ赤に染まっていて、ただの純朴な青年のような顔になっていた。
「お、れ……っ、すんません、すぐ、すぐ着替えてくるんでっ」
飛び出すように自室へと駆け込んでいく彼を、私は呆気に取られて見送るしかできなかった。
自室に飛び込んで蹲る。手で隠すように抑えた顔が物凄く熱いし、なんなら体中熱いし、そのくせやたら背中はぞくぞくと粟立つし、心臓はありえないほどバクバク言ってるし、さっきまでのフィンさんの柔らかさとか匂いだとかそんなものが一気に蘇ってくるし。
死にてぇ。
恥ずかしさが極限まで高まって、それしか頭の中になかった。だってオレ、何してた?よりにもよってガキみてぇにあの人を無理矢理抱きしめて。なのに、あの人は、フィンさんは、優しく抱きしめ返してくれて……
「〜っ、な、さけねぇ……」
がしがしと頭を掻き乱す。ほんとに、情けねぇよな、と溜息を吐き出しながら。
ふらりと立ち上がって服を脱ぎ、タオルで体を拭いた。さすがにこの季節、井戸水被るのは良くないよなぁ、なんて今更なことを考えながら。
ロズベールさんがフィンさんを可愛いと、自慢の妹だと言った時、カッと頭に血が上った。あんたがそれを言うのかと。その時のフィンさんの、諦めたような、寂しそうな、そんな表情に何も考えられなくなって、もう無理だ、と思った。
気がついたら店を飛び出ていて、我ながら青臭くて死ぬほど恥ずかしいやつだと思った。
ただ、そのままの感情では店に戻れないのも確かで、適当に街の中を走り回って。一時間くらいそうして、気が付いたら店からすっかり離れたところに立っていた。この街でも珍しくはない花街のあたりに来てしまっていたようだった。つまり、この街の端にあたる場所だ。
今が稼ぎ時なのだろう、あたりは艶っぽい声や、空気がそこら中にひしめいていて思わず顔を顰める。変なとこに来ちまった、と来た道を店へと戻っていったのだ。
歩きながら考えるのは、フィンさんのことばかりだった。
あの人は今日、自分からは決してロズベールさんに触れようとはしなかった。オレとも客の誰とでも、頭を撫でたり、手を握ったりするくらいはなんともないような人が。ロズベールさんには、近づかないようにしているような、そんな節すらあった。
結局、そういうことなんだろうか。オレは、そう見られていない、ということなんだろうか。本当は少し期待していた。誰よりも触れ合いが多くて、誰よりも距離が近くて、誰よりも一緒に過ごしてきたという自負が、もしかしたら、という期待になっていた。
だけど、と思う。
オレは結局、フィンさんの過去なんて知らないし、オレよりも近いロズベールさんの存在だって知らなかった。ただ、昔好きだった人が居たんだろうなぁ、くらいにしか知らなかった。
彼女の切なげな顔も、悲しそうな顔も、寂しそうな顔も、全部が全部、ロズベールさんのもんだった。オレはただ、笑顔しか引き出せないのに。それだけでいいと思っていたのに、それじゃダメだったんだと、思い知らされた気分だった。
また鬱々としてきた気分を晴らしたくて、とりあえず手近にある井戸水被ってから何やってんだかと呟いた。気分は最悪だった。これ以上ないくらいに。
なのに、それなのに。
フィンさんが一人で待っていてくれただけで、抱き締め返してくれただけで、おかえりなさいと言ってくれただけで、オレの名前を呼んでくれただけで、笑ってくれただけで。ただ、それだけで、どうしようもなく嬉しくて、辛くて、愛しくて、悲しくて。
どうしてこんなに、感情が乱されるんだろうと、ぼんやりした頭で考えても理由は考えつかなかった。好きだからなんて、そんな単純な言葉で片付けられないそれは、居心地がいいのか悪いのかも分からなかった。
不意にドアが叩かれて「ディーゴ君」とフィンさんの声が聞こえる。続けて入っていいかと問われて、待ってもらいながら慌てて着替えを済ませた。
ドアを開けると、フィンさんもまた夜着に着替えを済ませていて、少しだけドキリとする。その姿を見たのは、初めてだ。いつもより無防備な姿にごくりと喉を鳴らしてから気がつく。
オレが濡れたまま抱きしめたから、着替えざるをえなかったんだ、と。途端に気持ちの昂りがしゅるしゅると萎んで、代わりに申し訳なさがとてつもない勢いで膨らんだ。
「入っていいかしら?」
小首を傾げ、躊躇うような笑顔で聞かれれば頷くしかなかった。頭の片隅では、男の部屋に入るなんてとか、オレってやっぱり男として見られてないんだろうなぁとか、そんなことを考えながら。
物なんてほとんどないオレの部屋を見回したあと、フィンさんは躊躇いがちに、どこかぎこちない仕草でオレの腕を引っ張る。「お話がしたくて」と、オレを上目遣いで見上げるフィンさんを抱き締めたくなる。そんな欲望をなんとか押さえ込んで、仕方なくベッドに腰掛けると、フィンさんにも隣をすすめた。
今ほどソファを買わなかった自分を恨んだことは無い。こんなことならテーブルセットの一つでも買うんだった。誰だよ、ベッドとチェストがあれば事足りるとか言ったやつ。オレだよ。
「あの、」
「ごめんなさい」
やっぱり店の方で話しませんか。
そう言いかけたオレの言葉は、フィンさんの謝罪に遮られた。
「名前を偽っていて、ごめんなさい。
……それと、名前のことも、ロズベールのことも説明しなくて……ごめんなさい」
俯き気味に、唇を震わせながら、目を潤ませながら「ごめんなさい」と繰り返すフィンさんを見て、心臓が砕けるかと思った。オレは大切にしたい人を、馬鹿みたいな理由で追い詰めてしまったんだと気付いてしまった。
フィンさんの細い肩に手を伸ばそうとして、やめる。その資格が自分にあるとは思えなかった。行き場を失った手を握りしめて膝に置いてから口を開く。
「ふぃおな、さん、でいいんすか」
ぎこちなく、彼女の本名を呼ぶ。彼女は泣きそうな、困ったような顔で頷きかけ、やっぱり首を横に振った。その名前はもう捨ててしまったの、と囁きながら。
フィンさん、と呼ぶ。彼女はそれに、どこか嬉しそうな、そのくせ今にも泣き出してしまいそうな顔で「ありがとう」と呟いた。
多分、出会ってから初めてオレは、彼女にようやく近づけた。
不謹慎ながら、そんなことを考えていた。




