年下オーナーと旅人だったお姉さんは恋を自覚する
お休みをもらった次の日から、まともにディーゴ君の顔を見れていない気がする。もちろん仕事に影響は出していない。みんな、いつも通り笑顔が可愛いと褒めてくれる。鏡で何度も確認したけど、全然違和感はなかった。でも、どうしてもディーゴ君を見るのが辛かった。
あの焦げ茶の、切れ長の目で見つめられてしまえば、粉々に砕けたものがなんなのか、嫌でも正体を知ってしまいそうで恐ろしかった。あの恋はもう終わって、次に進むべきだと言われているようで辛かった。
「フィンさん」
料理のせいか、この季節なのに汗だくなディーゴ君に呼ばれて行けば、彼は料理の乗ったトレーを押し付けてくる。休憩にはまだ早い時間だ。注文の品でもない。意図がわからずに目を白黒させていれば、彼はひたと私を見つめた。
「今日は上がれ」
短く、そして珍しく命令口調で、怒ったような顔で言われて戸惑う。どうして、と聞く前に、周りのお客さんがブーイングを上げる。
「ディーゴ、てめぇフィーちゃんになんて言い草だ!」
「俺たちのフィーちゃんに冷たくするんじゃねぇ!」
いつもならただの休憩にも上がらないでとか、置いていかないでとか、そんな冗談を言う彼らなのに、今日は違った。まるで上がることは前提のような物言いだ。るっせ、と呟くディーゴ君の声が聞こえて、そのまま視線をディーゴ君に戻す。
やっぱり彼は、怒ったような顔をしていた。僅かな変化だけど、変わらず悪人顔だけど、でもその鋭さはいつもにないものだ。なにか怒らせるようなことをしたかと必死で頭を巡らせるけど、結局思い当たることは何もなかった。
あの、と声をかけると、彼はちらりと私を見る。どくどくと、嫌な音を立てる心臓が止まればいいと、今ほど思ったことはないかもしれない。
「フィンさん」
もう一度、静かに、少し低めの彼の声に名前を呼ばれる。
「オレはあんたの笑顔が好きだ。だから、笑えねぇなら無理せずに休んでくれ」
素っ気ない、飾り気のない、それなのに優しい言葉。
また言ってくれた。私の笑顔が好きだと。本当は嫌いでしょうがない、私の笑顔を。
気がついてくれた。自分勝手な理由でぎこちない私のことを。
お客さんの冷やかすような言葉に、顔を真っ赤にして怒鳴るディーゴ君に涙が出そうになる。好きだなぁ、と思いながら。この子の、こういうところがあの人みたいで。そして、誰でもなくディーゴ君の優しさを感じられて。
ありがとう、と小さく呟いた。
それからくるりとお客さんの方に振り向いて、肩の力を抜いた、満面の笑みを振りまく。
「ふふっ、私の大好きなオーナーがお休みをくれたから、今日はお休みさせてもらいますね」
みんながみんな、ぽかんとした顔で私を見ていた。それはそうだろう、先程までの反応を見る限り、多分みんなにも無理をしているのが気付かれていたのだから。それなのに、急に元気になっていたら驚くのも当たり前だ。
だけど私は続ける。顔がにやけそうになるのを堪えながら。
「また明日からは、みんなのフィーちゃんで頑張るから、よろしくね」
鼻歌でも口ずさみそうな上機嫌で部屋に戻る。思っていたよりも、ずっと、ずっと、お客さんからも、ディーゴ君からも好かれていたそのことが、とてつもなく嬉しくて。余所者の私を気遣ってくれる、その優しさが愛しくて。
それから、大好きなディーゴ君の料理が美味しそうな匂いを放つから。
今日はなんて良い日なのかしら、なんて、本当に柄にもないことを呟いた。バカみたいに浮かれてみた。だって、心が少しだけ、軽くなったから。好きになっちゃったんだからしょうがないと、そう思い切れたのだから。
あの人のことは絶対に忘れられない。忘れられなくて、いいんだと思う。そして、その上で、ディーゴ君のことを好きになってもいいんだと思う。
きっと彼は、いつか可愛い女の子と、可愛い恋をするのだろう。私はまた、苦しい気持ちで「おめでとう」と、そう言うのだろう。それでいい。それがいい。
もういい歳した大人なんだから、甘んじて受け入れよう。無理しなくたっていい。今はこの気持ちに正直になって、そして、彼が好きだと言ってくれる笑顔で隣に居たい。
いつか、彼に要らないと、そう言われる日が来たとしても。
そんな日が来たとしても、ディーゴ君になら言われてもいい。多分そんなことを言わないだろうけど、だからこそ、彼にならそう言われたっていいんだ。あの人と同じように、私に親切にしてくれた彼になら。
一生は無理かもしれない。いつか何かの理由で、彼の傍を離れるかもしれない。その時までは、彼の隣で笑って、そして彼の優しい料理を食べるのだ。それがきっと、私があの恋をちゃんと過去のことにできる、唯一の方法だ。
ポロポロと急に涙がこぼれる。料理が美味しすぎて。砕けた心が可哀想で。ぼやけた視界で、ただただ味を噛み締める。
さっきの笑顔も、この涙も、どうしようもなくコントロールがきかない。さっきは確かに、ディーゴ君が好きだと素直に認められて嬉しかったのに、なぜだか今は悲しくて悲しくて、そして寂しくて仕方ない。過去の自分と今の自分がせめぎ合うような、そんな不安定な心が辛かった。捨ててしまいたいと思ってしまった。
それでも無理やり、ディーゴ君の作ってくれた料理を掻き込むように食べる。味なんて分からなくなりながら、なのにその優しさを感じながら。
店を閉めたあと、フィンさんの部屋のドアを叩く。結局彼女はあの後、オレの前に顔を出すことはなかった。怒っているのか、悲しんでいるのか、怯えているのか。どれだろうかと考えるオレが一番怯えているのかもしれねぇな、なんて思った。
客連中には散々に言われた。言葉が冷てぇだの、女には優しくしろだの、そんなだからガキなんだの、本当に散々に。悪人面がと言われた時には、今それ関係ねぇだろと怒鳴り返していた。あいつら、絶対面白がってんだ。
返事のないフィンさんの部屋のドアを、もう一度、今度は少しだけ強めに叩く。それでも返事はなく、しんと静まり返っていた。寝たのかもしれねぇ。多分そうだ。そう考える自分とは裏腹に、もし中で倒れていたら、もし何かあったらと不安になる自分も居る。心の中で「すんません」と小さく謝って、ゆっくりとドアを開ける。
部屋の中は真っ暗で、窓から入る月明かりしか光はなかった。綺麗に整頓されていて、思った以上にものが少ない部屋の中、テーブルの上でフィンさんが突っ伏していた。嫌な汗がぶわりと吹き出る。
フィンさん、と思わず駆け寄るが、すやすやと聞こえてきた寝息に息が止まるかと思った。寝てるだけ。そう気がついて、ゆっくりと息を吐き出してから、起こさないように頭を撫でる。寝るならちゃんとベッドで寝てくれよ、とぼやきながら。
食器を見ればしっかり空になっていて、それが彼女らしくて思わず笑いがこぼれる。そういう人だよなぁ、なんて思いながら彼女をゆっくりと抱き抱えた。
意識のない人間の重さに、ぐっと腕に力を込める。そっと、そっと移動しながら、そんな場合じゃないのにその柔らかさにドキマギする。ふわりと柔らかな匂いすら漂ってきて、バカみたいに心臓が跳ね回る。
落ち着け、と何度も心の中で唱えながら、割れ物でも扱うかのようにフィンさんをベッドに横たわらせた。腕の中の重みが消えて、その体に毛布をかけて、ようやくまともに息ができた。
食器を持って部屋を出る時、小さく呻く声が聞こえてハッと振り返る。しかし、寝返りを打っただけのようで、その細い背中が見えるだけだった。ぐらぐらと揺れる理性にしっかりしろと内心で怒鳴りつけながら部屋を後にする。
もう二度と、二度と女性の部屋には入りません。
意味があるかは分からないが、心の中で何かに誓う。それが何に対して――神様なのか悪魔なのかなんなのか――誓ったのかはまったく分からなかったが、とにかくそうしないと落ち着けなかった。皿を洗いながら溜息をつく。
『いい加減、自分の気持ちを認めろよ』
今日言われた言葉を思い出す。
フィンさんが部屋に下がった後。閉店の少し前。どいつに言われたかはもう忘れたけど、苦々しい気持ちでその言葉を飲み込んだ。
とっくに認めてる、と言いたくなったその言葉を。
半年も一緒に居たんだ。この気持ちがなんなのか分からないほどガキじゃねぇし、バカでもねぇ。初めての感情に戸惑ったのは確かだが、認めちまったら簡単だった。でも、だからこそ、認めていない、気付いていないフリをするしかなかった。
フィンさんが、それを望んでいなかったから。
言葉の端々に、表情の端々に、彼女は痛いほど叫んでいた。恋なんてしたくないのだと。
『恋の仕方なんて忘れちゃったわ』
『ディーゴ君はきっと、可愛い女の子と素敵な恋に落ちるわ』
『私はもうおなかいっぱい』
『私、ディーゴ君のご飯が食べられたらそれだけで満足だわ』
『あら、これって私、ディーゴ君のご飯に恋してるのかも』
一緒に過ごす中で聞いたフィンさんの言葉がいくつもいくつも頭の中に溢れかえる。切ない笑顔に、死にたくなるほど胸が苦しくて、何度も何度も掻きむしった。この人はきっと、オレと出会う前に苦しい恋をしたんだと思った。そして、それが忘れられないのだろうとも。
悔しかった。憎かった。情けなかった。
フィンさんに見てもらえないオレ自身が惨めで悔しくて、それでも諦めきれないみっともなさが情けなかった。そして未だフィンさんの心を縛る、見たことも無い、実際に居るかも分からないその男が憎くて仕方なかった。誰かを好きになることが、こんなに苦しいもんだなんて思わなくて、なのにフィンさんの笑顔を見る度に浮かれちまう自分がバカみたいで。
長く、長く溜息をつく。うだうだ考えたってどうしようもないって分かってんだけどなぁ、とぼやきながら。
きっと、あの人の目にオレは映らない。ただでさえ四つ下で弟みたいに扱われてんのに、こんなガキみたいなやつが相手にされるわけがない。分かってんだ。
ぐしゃりと髪を掻き回す。
分かってんのに、諦められないんだからタチが悪い。そのくせ好きだと言うことすら拒まれているあの空気が、きつい。
いっそ言ってしまって、ふられちまえば楽なのに。だけど多分、それはオレの自己満足でしかないんだと思う。雇い主であるオレから好意を寄せられていると分かれば、優しいフィンさんのことだからきっと悩む。追い詰められる。それは本意じゃない。
フィンさんにも言ったように、オレはあの人笑顔が好きなんだ。柔らかくて、穏やかで、時々意地悪に笑うあの人の笑顔が好きなんだ。あの笑顔を奪いたいわけじゃねぇんだ。
誰も居ない店で、そこには居ない彼女を見つめる。
どんな客相手にも笑顔を絶やさない人。どんな仕事も文句一つ言わない人。恐れるように、休む間もなく働き続ける人。見た目で敬遠されるオレをフォローして、支えてくれる人。親父たちがいた頃のように、この店を笑顔で溢れさせてくれた人。
この半年で、オレにとって無くてはならない存在になってしまった人。
無自覚に、無意識に色んな男の心を奪ってきたんだろう。多分色んなところに、オレみたいな男がいるんだろう。でも、だからこそ。オレはあの人の唯一になってみたい。
そのへんの、数多くの一人じゃなくて。フィンさんのとびきりの、特別な笑顔を向けてもらえる、そんな男になりたい。
どうすればいいかなんて分からないし、何したって無駄かもしれねぇけど。でも、そのための努力は惜しみたくないと思ったんだ。




