旅人だったお姉さんは年下オーナーに命じられる
フィンさんは働き者だ。料理の下拵えも、客の相手も、客室の掃除も、嫌な顔一つせずになんでもやってくれる。開店前の店の掃除も、オレがやってたら「私も手伝うから、今日はあの辺もしましょ」と、普段は時間に追われて中々できない場所を手伝ってくれる。
彼女が働き始めてから、半年。
季節は秋に差し掛かり、肌寒い日と暑い日が入り交じるようになっていた。彼女のピンクゴールドの髪も、心なしか出会った当初より僅かに伸びている気がする。気のせいかもしれないが。
「フィンさん、少しくらい休んでくれ」
頼むからと言えば、彼女はきょとりと可愛らしくオレを見つめた。年齢を感じさせない彼女は、時々そうして、少女のような顔をする。そうするとぐっと近くにいるような気がして、いつも変な緊張が体に走ってしまう。
彼女は働き者だ。そして、まったく休もうとしない。
こちらとしてはそりゃ有難いが、それじゃさすがに申し訳ない。そもそも、元は旅人のフィンさんが、ひと所でずっと働き詰めで疲れないのだろうか。
最近は笑顔の中にも彼女の隠れた喜怒哀楽を読めるようになってきたとは言え、こればかりは図りかねていた。今日は休んでくださいとオレが言う度に、いつも困ったように「でも、それだとディーゴ君が大変だわ」と言って断られるのだ。
だから今日こそは、と頭を下げるつもりで言えば、彼女はやっぱり困ったような顔をする。それからどこか悲しそうな顔で口を開いた。
「私……邪魔かしら?」
「は?」
思いがけない言葉に、ただただ間抜けな声しか出なかった。邪魔って、誰が?フィンさんが?いや、それはないだろ。
戸惑うオレにフィンさんは言葉を重ねる。
「このお店、ディーゴ君と私しか居ないじゃない?それなのに私が休んだら、ディーゴ君がしんどいわ。
だいたい、私なんかよりもディーゴ君の方がよっぽど休むべきよ。
それともやっぱり、私は邪魔かしら?ディーゴ君一人の方がやりやすい?」
いや、いや。
何言ってんだ、この人。あんたのおかげでどれだけ店が繁盛してると思ってる。どれだけ、オレが助かってると思ってる。
そもそも、客が増えて忙しくなったとは言え、元々オレ一人でやってきた店だ。フィンさんがオレを気遣う必要なんてどこにもない。
「あの、」
「それに……お休みだと賄いがないじゃない」
さらに思いがけない言葉を恥ずかしそうに言われて頭が真っ白になる。
賄い……?
「私、ディーゴ君のご飯が食べられないなんて、嫌だわ」
フィンさんが頬をほんのりと桜色に染まる。初々しい少女のような表情に、胸の奥を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
……あ、もう、むり。
顔が熱くなって、心臓がばくばく暴れて、なんにも考えられなくなって。ニヤけそうになる口元を必死で手で覆い隠す。
ずっと、ずっと目を逸らし続けていた。気付いたらきっと、苦しくなると思っていたから。
だけどまさか、こんなにも嬉しいなんて。
誰かが自分の料理を好きだと思ってくれることが、こんなにも幸福に満たされるなんて。
本当は気付いてた。フィンさんが賄いの度に嬉しそうにするのも、何を作っても蕩けるような笑みで食べてくれることも、絶対に褒めてくれることも。ただ、それを認めちまうと、後戻り出来なくなるような、そんな恐れにも似た感情で目を逸らし続けてきた。
優しいからだ。きっと誰にだってそうだ。そんな言葉で誤魔化し続けてきた。
「……っ、あ、の、それは、嬉しいんすけど」
それとこれは別っすからと、なんとか声を絞り出した。耳が焼けるように熱くて、絶対赤くなっていると自覚しながら。情けねぇなぁ、なんて思いながら。
「とにかく、明日……は急でちよっとオレも困るんで、明後日はフィンさんに休んでもらうんで。オーナー命令」
オレの言葉にフィンさんは「そんな……」と、まるでこの世の終わりみたいな顔をする。そんなにか?と思わず苦笑すると、びっくりした顔をされた。
「飯くらい作るんで、ちゃんと休んでくれ」
恥ずかしくなりながら、去り際に形のいい頭をわしゃわしゃと撫でた。ふと彼女が何かを呟いた気もするが、なんとなく聞き返すのは躊躇われて、結局そのまま料理の下拵えのために台所に向かう。
私、どうしちゃったのかしら。
ディーゴ君のオーナー命令でお休みになった今日。カフェの隅で、昨日はお客さんに「フィーちゃんやめないで!」と大袈裟な反応を返されたのを思い出す。
思わず溜息を零した私に、やれやれと首を横に振ったのは私よりも三つ下の、この半年で仲良くなった花売りのティーファだ。父親は商家で下働きをしていると言っていた。まだ幼い弟妹のために花売りで少しでも稼いでいるそうで、年齢よりもだいぶしっかりとしている。恋人は居るが結婚をする気は無いらしく、そのくせ人のことはなんでも恋愛話に繋げようとする子。
「ねぇフィー。あんた、なんでディーゴのとこで働いてんの?」
ティーファに問われてぱちくりと瞬きをする。そんなの決まってる。ギブアンドテイクが合致したからだ。あと、
「だって、料理が美味しいんだもの」
口の中の記憶を呼び覚ますかのように、今朝の料理を思い出す。スクランブルエッグに、ふわふわのパン。それから野菜の味が優しくて染みたコンソメスープ。どれもこれも、目眩がするくらいに美味しかった。
休むように言われたあの日から、ディーゴ君は料理の腕をさらに上げてしまった。たった二日ほどで、だ。
蕩けるような、夢心地になるような味わいは、まさに私好みで。お客さんからも評判が上がって、嬉しいことづくめで。
急にどうしてと聞けば、今までサボってた分、ちゃんと手間をかけて作るようになったと言っていた。それもなんでもないような顔で。それだけで出来が良くなるんだから、そもそものセンスもあるのだろう。料理人になればもっと成功していただろうにと言えば、彼は少しだけ遠くを見るような目で苦笑していた。
はふ、と吐息を漏らすと、ティーファは口を引き攣らせながら「あんたのそういう顔、ほんとやめて。心臓に悪いから」と言った。そういう顔って、どういう顔かしら。そう尋ねると、彼女は「鏡みなさいよ、馬鹿」と投げやりに言う。
質問を変えるわ、となぜかこめかみをグリグリと力強く揉みながらティーファが呟く。私、何かおかしなことでも言ったかしら。
「そもそもなんで、ディーゴの宿に泊まり続けたの?あんな凶悪面の男がやってる宿に」
散々な言いように苦笑が零れる。とは言え、完全には否定できなくて言葉を濁らせた。
「そうね……綺麗だったから、かしらね?」
私の言葉に、ティーファが思いっきり顔を顰める。嘘は言うなとでも言いたげな顔に、苦笑を深めるしか無かった。ティーファの中で、ディーゴ君の評価は一体どうなっているのだろうか。分からないでもないのだけれど。
「確かにあいつ、整った顔してるけど、綺麗って顔じゃないでしょ」
ティーファの言葉に首を横に振る。そういうことじゃないの、と言いながら。
あの日を、そっと、大切なものをなぞるように思い出す。
「看板が、とても綺麗だったわ。外観も。新しいとか、そういうのじゃなくて。とても、とても丁寧に手入れがされていて、きっとこの店を慈しむような店主が営むお店なんだと思ったわ」
外から見たお店は、それなりに古いようなのにとても綺麗だった。窓にはホコリ一つ見当たらなくて、曇りなんて以ての外だった。雨風に晒され続けてきたであろう、その看板ですら、とても綺麗だったのだ。
あぁ、きっと、このお店はとても愛されているのね。
お店に入って、その思いはさらに増した。春の麗らかな陽光を浴びる物憂げな店主。その顔は確かに悪人顔ではあったけど、瞳の奥はとても綺麗に見えた。この人だ。この人が店主なんだと、そう確信した。
「宿屋の中も、とても綺麗だったわ。丁寧に、毎日掃除をしている、ちゃんとした宿屋だと思ったの。
だからディーゴ君のことも、きっと優しくて、素敵な子なんだろうなって、そう思ったのよ」
それに。
彼の「気を付けていってらっしゃい」が、好きなのだ。真摯な声で、決しておざなりにしない彼のそれが、久しぶりに心を暖かくしてくれたのだ。
そんな思いを込めてにこりと笑えば、ティーファは深く、それは深く溜息をついた。
「あたしらから見たら、完璧両想いなんだけどね」
「やぁね、ティーファったら。私たち、ただの雇い主と下働きの関係よ?」
そりゃあ、たまに男っぽく見えるディーゴ君にときめかないこともないけど、この前みたいに頭を撫でられてドキッとすることもあるけど、でもそれとこれとは別。そもそも、こんなおばさんを相手にするわけない。だって私たちは、四つも年が離れている。旅人でなければ、もう行き遅れと言われてもしょうがない年齢だ。
それに、困るのだ。
また誰かを、それも近しい人を好きになるなんて。あんな苦しい想いをするくらいなら、このときめきも、ドキドキも、息苦しさも、胸の締めつけも、ぜんぶぜんぶ、気のせいであればいいと思う。体調不良、疲労、そういったものであればいいと思う。
「それにね、もう私、恋の仕方なんて忘れちゃったわ」
駄目押しのように言い足せば、彼女は「あっそ」と呆れたように呟くだけだった。それでもしょうがないのだ。
だって私は、失ってなお、忘れられない恋をしてしまったのだから。
あんな想いはもうたくさんだ。
胸がきしりと悲鳴を上げるのを聴きながら、まだ過去のことにできていないのかと我ながら呆れてしまう。もう何年前のことなのだろうか。そう言えば、こうしてふらふらと当てなく旅をするきっかけは、確かにあの恋だった。遠い昔を懐かしむように目を細める。
「ねぇ、取られても知らないわよ?」
唐突にかけられた言葉に思考が止まる。ゆっくりとティーファを見つめれば、彼女は不機嫌そうな顔をしていた。
「あいつ、あんな見た目だから今まで中々女の子が近寄らなかったけど、でもあんたが、フィーが来てから変わったわ」
彼女はゆっくりと紅茶を飲み下す。それを見つめながら、心臓が早鐘のように脈打つのを胸の上から手で抑えた。
「だいぶ丸くなったわ、あいつ。最近じゃ女の子たちから人気よ」
ティーファの言葉を聞きながら俯く。知ってたわ。そんなこと。とっくに。
お客さんのおじさん達だって言っていた。一緒に買い出しに出かけた時に実感していた。いつか……いつかきっと、可愛い女の子と恋をして、私が要らなくなる日が来るかもしれないと、そんなどうしようもないことを考えていた。
私が休みを拒み続けていたのも、それが一つの理由だ。もちろん、あそこで働くのが楽しいし、雇い主であるディーゴ君の負担になるようなことはしたくなかったという思いもある。でも、それでも。
ディーゴ君に、あなたは要らないと、そう言われたくなかったのだ。一瞬でも、そう思われることすら苦しかったのだ。
「フィー」
ティーファが彼女にしては珍しく、とても優しく呼びかける。それにそろそろと視線をあげれば、呆れたような、困ったような、哀れむような、そんな笑みを浮かべていた。馬鹿ね、と言いながら。
「あんたそれ、恋する女の顔じゃない」
その時、確かに私の中の何かが砕けてしまった。




