飽和空間
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
おおっ、君かあ。この時間にこの車両で出くわすとは、奇遇だな。
どうしたい? 今日は定時で上がれたんじゃないのか? なんか用事でもあったのかい?
――帰宅ラッシュの満員電車に耐えられないから、時間をずらした?
ははあ、あるねえ確かに。行きはともかく、帰りまでおしくらまんじゅうなんぞしたくないよなあ。ただでさえ疲れ気味だってのに、咳払いひとつで風邪うつされるんじゃないかと、気が気じゃなくなる。
人がいない環境が好き。大いに結構じゃないか。気兼ねしなくて済むしさ。それに、いっぱいの空間じゃ何が起こるか分かりゃしないからな。
――痴漢の冤罪?
お〜っと、そいつも確かに男にとっちゃあ致命的な痛さだが……もっと怖いものが存在することもあるんだ。
確か小説を書いているって言っていたよな? こいつもネタのひとつになればいいんだが。
そいつはとある路線の満員電車の中で起こった。
その路線は、結構な頻度で人身事故が発生してな。電車が遅れるのは日常茶飯事。しかし沿線上には数々の企業の会社が並んでいて、お勤めする人にとっては欠かせない存在だ。混雑率も非常に高い。
特に乗換駅を直前に控えた車内の圧迫感たるや、半端なものじゃない。加えて、吐き出される息ひとつ。垂れ落ちる汗ひとつ。他人から浴びせられた日には、不機嫌を通り越して不快の極みだ。
俺なんか、緊急停止のレバーを引いて、今すぐにでも車外に飛び出したい気分になる。高所恐怖症の人も、高いところで置き去りにされたら、助けなんぞ待たずに、飛び降りたい衝動に駆られることがあるだろ? あれと似たような感覚だ。
そして、乗換駅に到着。ドアが開く時に流れる「ピンポーン」という音は、通勤アスリートたちにとって、陸上の号砲と同じ。押し合いへし合いの障害物競争だ。他人出し抜いた者にも、もれなく壮絶なイス取りゲームが待っている。通勤は戦争だ。
だが、それに水を差す事態。それまでドアに押し付けられていた、トップを走る資格ある、一人の男。彼はドアが開いたとたん、車両とホームに挟まれた空間に橋を架けるかのごとく、うつ伏せにぶっ倒れてしまったんだ。
後に続くランナーたちは、かすかに彼を見やった後に、次々と飛び越えていくんだが、幾人かはなぜか二度見やることがあったという。彼らが顔を戻すと、その足運びは先ほどの二割増しほどの速さになったとか。
彼は駅員さんが持って来た担架に乗せられて、運ばれていったんだが、その場に居合わせた人から話を聞くと、にわかには信じがたいことを口にする。
電車から降りた瞬間、彼には右腕と右足がなかった、と。
噂のざわめきは、その日の各オフィスの片隅をにぎわわせたが、仕事が終わる頃には、すでに話題に挙げる者もいなくなっていた。その倒れた彼のことが、ニュースで報道されることもなかったからでもある。
だが、その夜。コンビニで惣菜を買って帰った、社員の一人に着信がきた。
相手は昔なじみの友人。自分の会社に近い、別の会社に勤めていたんだ。
その友人が言うんだ。「俺、今朝の車内で手足をなくして、転がったんだ」って。
一瞬、息を呑んだ。昼間、耳にした噂が思い出される。
今は大丈夫なのか、と尋ねると、意識を取り戻した時には、すでに五体満足で身体を動かすのに問題はないらしい。だが、倒れる少し前には自分の腕と脚がなくなっていて、声も出すことができなかったとか。
普段は不快に思う、望まれない圧迫があったからこそ、ようやく立っていられたようなもので、ドアが開いた時に、一気に支えを失って倒れてしまった……。
「お前も満員電車の世話になるだろ? 気をつけとけよ……っていっても、どう気をつけりゃいいんだってとこだがな、はは……」
それから他愛ない話を二、三して、通話はお開きに。
だが、寝入る前。電話を受けた彼は思わず手足をいつも以上に、入念にストレッチしてしまったとか。
翌日。彼はいつも通りの時間に駅に着いたんだが、つい先ほどまで電車が停まっていたらしく、ホームにはいつも以上に人がごった返していた。
やがて三十分遅れの電車が来て、ドアが開く。どっと中からあふれる、色の群れ。だが、窓越しに見る車内は、まだまだ豊かな人だかり。これからあそこへ、自分を押し込みにいくのだ。
周囲の波にさらわれないよう、カバンを胸の前に抱える彼。入った先から背中を押されて、人まんじゅうの奥深く。あんこ部分へ押し込まれる。
寄る辺とするべきつり革は、もはや定員。あてになるのは、肉壁の役を果たす四方八方の見知らぬ人のみ。倒れれば最後、抗うすべはこちらにない。
鼻をつく香水のにおいと、視界の真正面に広がる中年オヤジのバーコードを道連れに、電車が動き出す。ここからわずかに三つの駅だ。二つ目と三つ目の間がちょっと長いが、辛抱あるのみ。
一つ目。新たな人だかり、追加。
更に奥まった位置まで押し込まれる。できた人たちばかりで、足を踏まれても舌打ち一つ出てこない。
二つ目。先ほどよりもてんこ盛り。
「空いたドアから、車内へお進みください。入ったらドア付近で止まらず、中へお詰めください」とアナウンスが流れるが、もはや一番外側の人が押し出されないように、ドア上の車内広告のヘリに手を掛けてしまうほど。
彼自身もまた、背伸びをすることでスペースの確保に、わずかながら力を貸していた。
キンコン、キンコン、プシューン。ドアが閉まる。そしてそれは、まんじゅうの具にとっての試練の始まり。
バーコード親父の脇から、いくつかの山を越え、かすかにのぞくは大きな川。何艘かボートが浮かぶその場所は、満員電車の三途川。
ここから六分、地獄が続く。
外は風が強いらしく、車両ごとがたがた揺れた。それにつられて、車内の人もぶるぶる震える。つま先立ちを強要された彼も、非常に不愉快。
特に左隣の女。麦わら帽子をかぶった、肩までの高さしかない背丈だが、少し揺れるたびにこちらへしなだれかかってくる。女とはいえ、望まないボディタッチに喜ぶほど、若くはない。
けど、やけに変だ。女はそれほど強くぶつかっているわけでもないのに、抱えたバッグが大きく揺れる。しっかり押さえているはずなのに。
そっと手元に視線を落として、息が止まりそうになった。
ないんだ、左手が。袖はある。腕もある。けれど、手首から先がすっぱりない。
意識するや、感覚からも左手が抜け落ちた。無防備になったカバンの左側面に、女が身体を押し当ててくる。これが揺れている原因だったんだ。
声をあげようとしたが、できない。息が口を通ろうとすると、舌が勝手に丸まって、喉への道をふさいでしまうんだ。
「えっ、えっ」という詰まった音に、周囲が怪訝そうな眼を向けてくる。もはや口を閉じて、鼻で息をするしかない。
また揺れる。今度は身体が不自然なまでに、右へと傾ぐ。
見た。ない。右足が。
裾はある。ふくらはぎもある。太ももだって当たり前。なのに、足首から先がない。履いていた革靴さえも、目に見えない。痛みだって感じない。自力だけでは支えられない。半身を。
変わらず悲鳴もあげられない。声なき者のSOSを、どれだけの人が受け取れる。各々が潰されまいと必死で生きる、この鉄箱の中で。
次はどこだ。右手か。左足か。それとも……もっと別のところか。
髪を伝って、落ちる汗。それが両の眼に入り込み、思わずまばたく、その間に。
駅への到着を告げるアナウンス。心なしか速度が遅くなり出した。
だが、不安は別にある。今の状態、自分はアスリートに混じった障害者だ。どう考えても、いつもと同等に動けるわけがない。
情状酌量の余地など、この時間の電車に乗った時から、あらゆる人が捨てている。
案の定、彼は歩こうとして、その実、まともに動けず後ろから玉突きされて、車外に出ると共にぶっ倒れた。倒れた時に意識が飛んでしまったらしく、次に目が覚めた時には、駅の救護室のベッドの上だったという。
気がついた彼は、自分の体を見る。
左手がある。右足がある。そばの丸イスの上には、自分の通勤用のカバンもある。声を出すことだってできた。
直後。年取った駅員さんが室内に入ってくる。身体の具合を尋ねられて、ありのままに答えた彼。その一部始終を聞き、駅員さんは答えた。
「実は私も少し前に、同じように車内でだけ手足を失いましてね。外に出ると、元に戻ったんですわ。この不思議な現象、私らは『飽和』と呼んどります。その空間に存在できる最大限度、ということで。そして満員電車になると、まれにその飽和の限度を超えてしまう。すると、そこにいられないものが出ていく。……それが人の手足でも」
目撃していない人には、到底信じられないことですがな、と駅員さんは笑う。
それ以来彼は、早めの出勤、遅めの退勤で、ラッシュを避けるようにしているとか。