4.業務記録:七峰の引き継ぎ
23時頃、繁華街の外れ辺り。
小路を入っていく二つの影。先を行く一つはスーツ姿の男、続く一つは同じくスーツ姿の女。二人とも背筋が伸び、足運びも若々しく、すっきりとしたたたずまいだ。
「驚かれましたか?」
七峰が視線を手帳から後ろへと向けて問いかける。やや楽しげな声だ。
「それ以外に言いようがないわね」
涼風のように通る綾乃の声は、もはや呆れた雰囲気でさえあった。
この50年の変わりように、まさにそれ以外はなかった。ビルは建ち並び、道はどこも整備されている。夜でも街は明るく、唖然とするほど色鮮やかだ。例えば、タイムスリップしたらこんな印象を受けるのだろう。
いや、例え話ではなく、その通りと言っても過言ではない。
街の風景は50年後、しかし、綾乃の姿は刺された当時の、50年前の姿なのだ。しかも実体として存在はしている。28歳の身体で50年後の世界に現れれば、それはもうタイムスリップと同義ではないか。
ただ、異なるであろう点は、誰にも認識されないということだ。間違いなく実在しているというのに、すれ違う人は誰も七峰と綾乃に気づきもしない。
病院のベッドで目を覚ました時からそんな感じだった。そして、既に、記録の上でも、人の記憶の上でも、綾乃は老衰で死亡し埋葬された、ということになっていた。
これも“生と死の理から外れた”ことの一端らしい。
「さて、ここですね」
七峰が足を止めたのは、質素、というよりは無味乾燥な扉の前だった。足下の小さな看板からすると、バーらしい。
「この店?」
「いえ、今回はここが入り口、ということです。少々お待ちを」
手帳を仕舞い、代わりに懐中時計を取り出して、盤面に目を落とす七峰。
「……3、2、1、はい、っと」
声に合わせて開かれる扉。その先にあるべき光景が無かった。
あるのは、薄暗い廊下のみ。
「さ、行きましょう」
七峰の足が躊躇無く進む。綾乃の足は動かなかったが、思い切ったように地面を踏み切った。
すぐに追いついて後に続き、進みながら、間もなく気づいた。
廊下が長すぎる。建物に対して。
もう外に出てもおかしくないはずなのに、延々と廊下が続いている。
高まる不安。しかし、引き返したところでどうにもならないことは分かっていた。もう首までどっぷり浸かっている、そんな確信があった。
ただの一本道を10分近く歩いたところで、ようやく突き当たった。
木製の、重そうな扉が一つ。
七峰の手がドアノブを握り、押す。
本、本、本、本……。
とっさの印象はそれだった。
立ち並ぶ、本が詰まった本棚。明らかに綾乃の身長の2倍以上はあるそれが、いくつも、整然と並んでいる。ざっと見渡して相当な数、所蔵量は見当もつかない。
見上げれば、そのさらに向こうに天井が。どうやら、かなりの大きさのある部屋だった。
いや、部屋と言うより体育館、それ以上のサイズのホールだ。広さだけならドーム並と言われても納得出来てしまいそうなほどで、形は四角ではなく円形らしい。
昔に写真で見たどこか海外の図書館に似ている、と綾乃は思った。クラシックで美しい、芸術作品のような図書館。
ただ、大きさは比較にならないだろう。古今東西全ての本、いや、歴史上存在したであろう全ての本があると言われても不思議ではない。それほどの大きさだ。
そして、大がかりな照明は見当たらないのに、暗さは感じない。これほどの広さだというのに、室内は意外なほど明るい。木漏れ日のような光が広がっている。
気がつけば、絶景に見とれる綾乃を置いて、七峰はさっさと進んでいた。慌てて後を追う綾乃。
「あ、あの、ここ……本がこんなに……」
追いついた綾乃が訊くが、文章になっていない。
「ただの事務室ですよ。我々のね。本は、まあ、古今東西全ての書物及び全ての歴史を記した記録文書がそろっています。そのうち本棚がまた一段積み上がるでしょうね」
想像したままのことをさらりと言われてしまって、綾乃は二の句が告げなくなってしまった。
七峰は部屋の中心へと進んでいく。そして、進むほどに明るさが増している気がした。
どうやら、中心に光源があるらしい。近づいてくると、モノリスのような本棚の向こうに何かがあることが分かる。
モノリス達の頭上に、何かが見える。
モノリスの森を、抜けた。
光の樹、に見えた。
部屋の中心は広場のようになっていて、真ん中の床から、無数の光の線が昇っている。
始めは、床から現れてしばらくの間は真っ直ぐ上へと伸びているが、途中から分岐していくようだ。そして、一度分岐するとどんどん枝分かれするらしく、複雑に絡まりながら一気に広がっていく。
まるで、光の線で編まれた大樹だ。
「戻ったか、七峰」
「はい。一ヶ谷さん」
「七峰さんお疲れさまッス」
「お疲れさま、六津井くん」
七峰が続けざまに声をかけられ、挨拶を交わしている。一ヶ谷と呼ばれた男は40代ぐらいの印象で体格の良い大男、対して六津井は線の細い少年のようだ。
もう一人の先客、七峰と同年代だがずいぶんとラフな雰囲気の男が、綾乃を親指で指す。
「で、こいつが新入りか?」
「そうです、四道さん。で、二滝さん、三村くん、五百木さんは?」
綾乃が口を開く前に七峰が答える。そして軽く、探すように視線を走らせた。
「彼らは勤めに出ている。どうせ今回は自分の番ではないだろうから、とな」
一ヶ谷の太い声が応えた。
綾乃には話が、状況がさっぱり分からない。
「あ、あの……」
あまりの置いてけぼりに、綾乃が声を振り絞った。が、何を言っていいのか分からず、おずおずと一言出ただけ。自分でも情けない声だった。
その様子に、七峰が苦笑した。
「ああ、すみません。皆さん、この方が小清水綾乃さんです。で、同僚の一ヶ谷さん、四道さん、六津井くんです」
七峰がお互いを紹介した。やや慌て気味に「こ、小清水です」と頭を下げる綾乃に、「よろしく」「ああ」「よろしくッス」と声がかかる。
「それで、あの……ここは?」
ようやく何とか質問らしくなった綾乃の声。それを聞いて、一ヶ谷が首を傾げる。
「ん? 説明していないのか? 七峰」
「まず見てもらった方が早いでしょう?」
七峰にあっけらかんと返されて、一ヶ谷が眉間を押さえた。
「それはそうだがな……」
「いーんじゃねーか、旦那。大体、引き継ぎすりゃあ知識なんざ全部頭に入ってくんだからよ、説明自体必要ねえだろ?」
顔をしかめる一ヶ谷に、四道が面倒くさそうに手のひらを振る。六津井は「ま、それもそッスね」と首を縦に振ったが、一ヶ谷は横に振った。
「そうもいかん。細かいところはそれでもいいが、基本的なことは言っておかんとな」
四道に「固いなぁ」と言われながらも、一ヶ谷は綾乃へと向き直った。
「さて、小清水さん」
「はい」
綾乃も姿勢を正す。
「まず、君は生と死の理から外れてしまった。君は今後、ごくゆっくりと年を取りはするが、死ぬことはない。そして、職務以外では生者の世界に干渉することは一切出来ない。ここまでは分かるかね?」
「はあ、まあ、聞きましたので、一応」
軽くうなずく綾乃。聞きもしたし、実際体験したので、分かるかと言われれば、まあ分かる。
正直言えば、完全に理解の範疇外なのだが。
「よろしい。で、ここは今から君の職場だ。我々は事務室と呼んでいる。実際の業務は外、生者の世界だがね」
「職場? 業務?」
「ふむ。こちらを見なさい」
明らかに腑に落ちていない綾乃を見て、一ヶ谷が顎で光の樹を指し示す。
「これは、まあ、言うならば人間の生の軌跡だ。下が過去、そこから昇って現在、未来へと伸びていく。一つの軌跡が一人の生を示している。我々の担当地域は概ねこの国辺りだから、これは、この国の人間の生きる軌跡の集合体ということになるな」
「なっ!?」
いきなり話の規模が大きくなって、綾乃は面食らった。
人生の軌跡? これがそれを示しているというの?
予想していたリアクションだったのか、一ヶ谷は落ち着いてうなずいた。
「まあ、受け入れられる話ではないとは思うがな。ああ、これは示しているだけで、光を切ったり消したりすれば人が死ぬといったことは無いので安心したまえ」
「ただのグラフだと思えばいいッスよ」
一ヶ谷の補足を、六津井がさらに補足する。
「はあ……」
安心しろだの、ただのグラフだのと言われても、はいそうですかと言えるものではないが、心持ち落ち着けることは出来た気がした。
しかし、そうすると、光の線が半ばほどから枝分かれしまくっているのはどういうことなのだろうか。
「で、光の軌跡が半ばから分岐しているだろう? あれはまだ確定していない未来だからだ。過去ではなく未来は定まっていないからな。選択によって未来は変わる。したがって、選択されるまでは光の軌跡も広がっているわけだ」
綾乃の心中を推し量ったように、一ヶ谷が話を進める。その話通りなら、この、上に広がっているのは、人々の可能性ということだ。
無限にも思える広がり。
「我々の業務は、この形が歪になり過ぎないようにすることだ」
「歪にならないように?」
「そうだ。基本的に、大前提として、選択は個人の自由。だから手を加えてはいけないのだが、中には他を巻き込んで突拍子もない方向へ進み出すものもある。完全に放っておくと、これら光の軌跡は滅茶苦茶になってしまうんだよ。それを避けるために、必要最小限度の手を加える。それが我々の役割だ」
一ヶ谷が大樹を見上げながら語った。その脇から、六津井がひょこっと顔を出す。
「いや、こんなに綺麗でなくてもいいんスけどね、ぐっちゃんぐっちゃんになっちゃいけないんスよ」
「はあ」
曖昧にうなずく綾乃。
六津井のまとめ方は、ある意味納得しやすいものだった。
一ヶ谷はちらりと六津井を見ただけで、すぐに綾乃へ視線を戻した。
「どの軌跡を選ぶのか、どういうアプローチを取るのかは各自の判断に任される。具体的な手法は引き継ぎ時に理解できるとして、まあ、大体は迷っている者に接触し、きっかけや気付きを促すといったところだな」
「誰かと出会わせるとか、幻を見せるとか、夢に入り込むとかもアリっすよ?」
六津井がウインクしたが、今回は、その発言を一ヶ谷はスルーしなかった。
「ただし、やりすぎは禁物だ。先ほどの繰り返しになるが、選択は個人の自由、我々の干渉は必要最小限度でなければならない。イメージとしては、せいぜい“ささやく”程度でなければならない」
なるほど、では、七峰が夢の中に現れたのも具体的な手法とやらの一つ……と思ったところで、綾乃の心臓がどきりと鳴った。そのまま、心臓が荒れ狂い始める。
きっかけや気付きを促す? それならば――
「なら、何故私には気付かせてくれなかったのよっ!?」
文字通り一ヶ谷の胸ぐらを掴んで、綾乃は激昂した。
「気付かせてくれてたら、こんなことにはならなかったじゃない!!」
自分が死んでなくて夢なのだと気付いていたら――
それ以前に、あんな結末になると知っていたら――
いや、あんな男がいると分かっていたら――
こんなことにはならなかったはずなのに!
噛みつくような綾乃の目を、一ヶ谷の表情のない目が迎える。
「君は迷っていたわけではない。言ったはずだ、選択は個人の自由だと。それをねじ曲げることは禁忌なのだよ」
「ふざけないでっ!!」
力一杯胸ぐらを揺さぶる綾乃。しかし、一ヶ谷の巨体は微動だにしなかった。
動かぬと見て、綾乃の手は握り拳を作って一ヶ谷の胸を叩き始める。
トラックのタイヤのような感触に、何度も何度も抗う綾乃の拳。その拳が開き、すがるように掴まれるまで、一ヶ谷は何も言わなかった。
「……ふざけないでよ……」
いつの間にか、綾乃の目から涙がこぼれていた。
激情が去るのを待ってか、はたまた、単に呆れただけか、四道が頭をかいてから淡々と割り込んだ。
「つーか、無茶言うんじゃねえっての。こっちとら、たった7人で切り盛りしてんだぞ? この1億以上もある軌跡をよ。隅から隅まで目を利かせられるわけねーだろうが」
綾乃の視線が四道へ向き、一ヶ谷へ戻る。
その綾乃は見ずに、一ヶ谷は四道へと顔を向けた。
「いや、そうでなければならない。それも、我々の干渉が最小限となるために必要なことなのだ」
一ヶ谷に「ちっ、分かってるけどよぉ」と愚痴る四道。それから、綾乃へ顔を向けた。
「君については、本当に残念なことだと思う。心からお悔やみ申し上げる」
静かではあるが、無機質ではない目。
そこに一ヶ谷の思いを見た綾乃は、ようやく少し落ち着きを取り戻した。
「……いえ、みっともないところを……」
身を引き、ようやく絞り出せた綾乃の呟きに、一ヶ谷がうなずく。
場の空気を見て、四道が大きく息を吐いた。
「さーて、もういいんじゃねーか? 旦那。今回は誰の番か、そろそろ決めようや?」
「そうだな」
うなずく一ヶ谷。
涙を拭った綾乃が目を上げる。
「誰の番って、何ですか?」
一ヶ谷が応える。
「誰が解放されるか、という意味だよ。この職場は7人が定員だ。誰かが加われば、誰かが抜けることになる」
「ひっく返せば、新入りがなきゃ、ずーーーっとここに縛られるっつーことさ」
四道が憎々しげに吐き捨てた。
「ず、ずっと……?」
綾乃がたじろいだが、一ヶ谷は全く動揺せずに腕を組んで悩み始めた。
「うむ、通例なら勤めが長い者順なのだが……なあ? 七峰」
「いえ、私は別に今回でなくてもいいですよ?」
「お前、前回も同じことを言っておったではないか」
「七峰さん、いいんスか? せっかくのチャンスなんスよ? 自分なら絶対逃さないッスけどねー」
「いーじゃねーか、いいって言ってんだからよ。なら、業績的に俺だよな旦那?」
綾乃を置いてけぼりにして、話がどんどん進んでいく。
四道のアピールを受けて、しかし、一ヶ谷は首を振った。
「……いや、やはり、今回は七峰だ。お前もう500年以上いるじゃないか」
「500年!?」
綾乃の声が響いた。
結構な大声だったにも関わらず、一ヶ谷はあっさりとうなずく。
「そうだ。こいつはもう500年以上ここで勤めている。いい加減解放されてもいい頃合いだろう」
「それを言うなら、一ヶ谷さんは1000年を軽く超えてるじゃないですか」
「俺は管理職だからな」
一ヶ谷と七峰の掛け合いに、唖然とする綾乃。
その様子に、四道が意地悪く笑った。
「ずーーーっと縛られるっつう意味が分かったか? 新入り」
その言葉の重さに、綾乃の顔から血の気が引く。それを見て六津井が慌てて手を振った。
「いやいや、小清水さんっ、あの二人は異例ッスよ? 普通は、早けりゃ20年ぐらいで新しい人が来て、順番に解放されますから、そんなに長くはならないんスよ?」
それでも、最短でも140年はかかるということだ。
めまいがしてふらつく綾乃に、四道が「ちなみに、お前は40年ちょいぶりの新人な」と追い打ちをかけ、六津井が「ちょっ、四道さん!」と言い返す。
一ヶ谷が手を叩いた。
「そこまでだお前等。四道、茶化すんじゃない。今回は七峰で決定だ」
一ヶ谷の宣告に、四道は「ちっ」と舌打ちし、七峰は「本当に、別にいいんですけれどねえ」と苦笑した。
「さあ、引き継げ、七峰」
一ヶ谷に促されて、やれやれといった風情で七峰が綾乃の前へと進む。
「小清水さん」
「は、はいっ」
七峰の声に、綾乃が我に返る。
「これを」
七峰が取り出したのは、あの懐中時計だった。
「はあ……」
差し出される時計を、綾乃が受け取る。
「お疲れっした、七峰さん」
「けっ、さっさと逝っちまえ」
「ご苦労だったな、長い間」
六津井、四道、一ヶ谷からの別れの挨拶。
「お世話になりました。お先に失礼」
にこやかに返す七峰。
そのまま綾乃を見つめる。
「あの……」
何を言っていいか、綾乃には分からない。
七峰も、何か言おうとして、結局苦笑いしただけだった。
少し申し訳なさげな、穏やかな顔。
が、崩れた。
「ひっ!」
思わず後ずさる綾乃。その目の前で、七峰の体が、肉が端からどろりと崩れ、崩れたとたんに灰となって散っていく。骨も割れ砕けたそばから灰となっていく。
見る見るうちに、瞬く間に、灰と化した。
そして、引き継がれた。
灰と化した男の知識、経験、思いが。
残った女が振り返り、穏やかに微笑む。
逝った男が、かつて見せたような笑顔で。
一ヶ谷が、わずかにうなずく。
「さようなら、七峰。そして、よろしくな、七峰」
七峰は軽やかに一礼する。
「ええ。こちらこそ、どうぞよろしく」
その手に、銀の懐中時計が煌めいていた。
7/31に間に合わすために突貫工事、ヒューマンドラマでまとめるつもりだったのに、何故かSFというか“○にも奇妙な~”っぽいオチに……あっれぇー?????
とまあ、期待外れだったと言われてしまいそうですが(汗)、最後まで読んでいただきありがとうございました!