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2.Case No. NE08-Ⅶ2017030891 津村和志

2は『夜更けに一握りの温もりを』を改稿しています。

 いつものホームに、いつものように降り立つ。


 津村和志の後ろで、電車の扉が軽い音を立てて閉じた。そして、そのままレールを軋ませ、彼に見送られながら、終電は下り方面の闇の向こうへと走り去っていく。市街の中心から2回ほど乗り換えて着くこのローカル線の駅では、22時台までしか時刻表に表記がない。


 もっとも、これでも昔に比べれば、本数ははるかに充実したものなのだが。


 上り下りのホーム、それらをつなぐ歩道橋のような通路、そして改札。駅として必要最小限のもの以外は特別なものは何もない。それは改札を出ても同じで、一昨年ようやく出来たコンビニ以外は、ロータリーと言われればそう見えなくもない道路が敷かれているだけ。


 実に風通しが良い。というか、良過ぎる。


 肌を刺す夜風に、和志は少し顔をしかめた。夜中とはいえ随分な冷え込みである。もう3月も終わるというのに、春の気配がまだ感じられない日々が続いていた。老体には少々こたえる冷気、というやつだ。


 それでも、息苦しくはない、か。


 首をすくめ、軽く口の端を歪めながらも、和志は胸の内で安堵のため息を吐いた。彼は人混みは苦手なのだ。何十年と、そして定年を過ぎてもさらにその雑踏の中で勤めてきても、その本質に影響はなかったらしい。この、単線でホームと外灯ぐらいしかないような駅に着くと、いつもほっとしたものだった。


 だからといって、どうすればいいやら。


 帰ったところで、待っていてくれる人はいない。急ぐ理由はどこにもなく、かといって、この年で朝まで居座るのもどうかと思われる。


 朝に電車に乗り、夜に電車を降りる。その間のことは、繰り返し過ぎで何も印象に残っていない。いや、それどころか、言ってしまうなら記憶がない。そして、ようやく帰ってきても、特にすることがない。


 つまりは、所在がないのだ。


 和志が立ち尽くしている間に、数名しかいなかった人の気配も消えていた。降りた乗客は、もう改札をくぐっていったようだ。外灯を除いて電源は全て切られたようだが、まあ、大した不便はない。


 月明かりで、十分。


 外灯に照らされるホームの灰色。


 月明かりで薄く浮かぶ雑草と雑木の緑。


 ほの暗い緑が揺れ、かすれた葉音が尾を引いて鳴り続ける。


 時折、雲が月を隠して、灰と緑の色合いが微かに変わる。


 ゆったりと、薄い鼓動のように。


 和志は、レールに目を落としながら、ただ立ちすくんでいた。


 今度は、本当にため息を一つ吐く。


 風が一吹き、二吹きと行き過ぎる。


 月が一つ、薄く鼓動を打つ。


 何も起きなかった。


 彼も動かなかった。


 風が、少しだけ鳴りながら吹き抜けた。


「おや、まだおられましたか?」


 唐突に、人の声。


 虚を突かれて思わず振り返った和志の目線の先に、これまた虚を突かれたような顔の男が立っていた。何の気配もなく、いきなり、そこに。


 まるで、風に運ばれてきたかのように。


 その服装に気づいて、和志は少し慌てて手を振った。


「いや、駅員さん、申し訳ない、少々ぼうっとしていました」


 鉄道会社の制服に身を包んだ男、こちらは愛想良く手を振った。


「いえいえ、別にいいんですよ。お仕事帰りですか? お疲れさまです」


 そつのない返事に、和志も落ち着きを取り戻す。声の印象は落ち着いたものだが、見た目は意外と若い。過不足なく着こなした制服の上で、人の良さそうな目が笑っている。駅員よりも、何か、接客業に向いていそうな愛嬌があった。


 ただ、その割には、どことなく不思議な雰囲気が感じられる。浮き世離れしている、というか。外灯と月明かりの陰影のせいだろうか。


 影に隠れて、目の奥が見えない。


 それにしても、こんな駅員はいただろうか?


 どうにも思い出せなかった。心当たりがない。大体が、こう言っては駅員の皆さんに大変失礼なのだが、あか抜け過ぎているのだ。特に、こんな寂れた駅には似つかわしくない。映画のロケか何かが行われている、と言われた方がよほどしっくりくるというものだ。


 そう、まるで役者のよう。ただし、大根とは真逆の。


「ああ、今日は臨時でここに配属されてるんですよ。急に人手が足りなくなりまして」


 ちょうど思い出したかのような物言いだが、自分の胸の内を読まれたような感じがして、和志は若干うろたえた。


「いや、じゃなくて、ああ、そうですか」


 言動が軽く迷走してしまったが、駅員は軽やかな笑顔になっただけで、特に不審がったりはしなかった。


 その様子に落ち着きを取り戻して、そして和志ははたと気づいた。


「あ、申し訳ない、すぐに出ますので」


 終電だったのだ。自分が居座ってしまっては、彼の仕事がいつまでも終わらないではないか。


 慌てて動き出そうとした和志を、駅員は、軽く手を挙げて、笑顔で制した。


「いえいえ、本当にいいんですよ。後に用事はありませんし、私に急ぐ理由は全然ありませんから、まあお気になさらず」


「はあ……」


 あっさりと言われて、和志の気勢もあっさりと削がれた。


 何故か、本当に気にならなくなった。そうは言われても和志の性分では気になるはずなのに。


 容易く和志を鎮めた駅員が、今度は軽く首を傾げる。


「ですが、お客様はよろしいのですか?」


「ああ、僕は、特に待ってくれている人もいないので……」


「独り身でいらっしゃる?」


「妻が先に逝ってからは、ね」


「……そうでしたか。不躾なことを、申し訳ございません」


「いえ」


 静かに、礼儀正しく頭を下げる駅員に、和志は小さく笑って返した。


 無言。


 ふと、影だけが、姿勢を変えたような気がした。


 一瞬、わずかに。


 小さな、煙のような雲が、月の前を横切っていた。


 改めて影を見る。


 動いていない。何も変わっていない。


 気のせいだ。


 だが、影につられるように、和志の口が滑った。


「十年少々ほどかな、心不全、という診断でした」


 呟きが転がり出た。意外なほど、あっさりと。


「……何かご病気を患われていたんですか?」


 駅員の声は、場に軽すぎず重すぎず、聞き手としてはこれ以上はないであろう程に、静かで、そして温かかった。


「いや、特には。医師によれば、過労かストレスかじゃないかと……まあ、両方でしょうね」


「両方、ですか」


「多分ね」


 自虐の笑みが和志に浮かんだ。


 そう、命を縮めてしまったんだよ。僕が。


 言葉には出来ない、呟き。


 結婚当初は気づかなかった。妻、志津子の家庭は問題を抱えていた。卑小なくせに豹変する父親、保身しか出来ない依存的な母親、同じく依存的でかつ他罰傾向が著しい姉。


 おまけに、家族で関わっていた宗教団体は少々、いや、はっきり言って多分に問題があった。


 選民思想に終末思想。「神の世紀である21世紀になる前に、我々が人々を救わなければならない」と公言する程度には。


 進学で実家を出た後も、ことあるごとに両親は干渉し、彼らの思い通りにならなければ、志津子が悪いと手を変え品を変えて責め立て続けた。


 和志と出会ったとき、実は、既に彼女は疲弊し尽くしていた。それでも、気丈に耐え続けていたのだ。


 それに気づかず、結婚してしまった。


 和志の両親にもそれなりに問題があり、特に母親が嫁に、志津子にべったりと依存してしまったのだ。


 結果、志津子は壊れてしまった。


 それから二十年近く、和志のやることなすこと全て裏目に出る日々を越えて、結局、彼女は自力で回復した。


 そう、自分の力で。和志の認識では、自身はただ居ただけで、何の役にも立たなかった。余計に傷つけることはあっても、癒すことは出来なかった。


 それが和志の認識。


 だから。


「命を縮めてしまった、んですよ」


 飲み込んだはずの言葉が口を衝いた。


 風が吹く。


 緑が暗く、小さくざわめいた。


 言ってしまえばたったの一言。もっと色々な思いやら記憶やらが山とあったはずなのに、和志の口が吐き出したのはそれだけで、そして、それが全てだった。


 風がつないだ間の後を引き取った駅員の返しは、思いもしないものだった。


「それだけ、でしょうか?」


「……は?」


 面食らう和志。意表を突かれて、視線を駅員へと向ける。


 月の光が鼓動を打つ。


 少しだけ、長く。


 陰にかくれた影が、穏やかに首を傾げた。


「奥様は命を縮めた、それだけでしょうか? そうではない時はなかったのでしょうか? 一時も?」


 相変わらずの、静かで暖かな声。


 否定でも肯定でもない、純粋な問いかけに、和志は戸惑った。


「あ……いや、それは……」


 純粋であるが故に、感傷抜きに記憶が蘇る。


 それだけ、とは言えない。


 少なくとも、志津子が回復して以降、逝くまでの十年ほどは、穏やかな日々だった。彼女が心から安心した笑顔を見せてくれたと思える、そんな日もあった。


 忘れていた。


「しかし……」


 呟いて、和志は唇を噛む。


 だからといって、どうだというのだろう。それがどん底の二十年と釣り合うとでもいうのか?


 冗談じゃない、彼女はもっと幸せになれるはずだったんだ!


 吐き出す代わりに、握る拳に力を込める和志。


 影が息を一つ吐いた。


「……なるほど、確かに少々頑固者ですねぇ」


「は?」


 影が呟いた言葉に引っかかった和志の口調に、少し険が混じる。


 月の鼓動が過ぎ、影から戻った駅員の顔には、わずかに苦笑いの気配が表れていた。


 ただし、嫌みなものではない。どちらかと言えば、拗ねた子供をあやす大人のような。


 が、それも一瞬で、元の、向かい合う者の毒気を抜いてしまう笑顔を見せる。


「いえ、何でもありません。それより、間もなく昇りの最終電車が参ります。少しの間停車しますので、一つご検討ください」


 また気勢を削がれた和志だったが、それは笑顔のせいだけではなかった。


 言われたことが理解できない。和志は終電で帰ってきたはずだ。いや、和志の乗ってきた終電は下りの最終だったのかもしれないのだが、しかし、そもそも上りはその前に終わっているはず。


 それに、何を検討しろというのか。


「いや、僕が乗ってきたのが終電のはずで……? 検討って……?」


「今日はもう一本、特別に走るんですよ。乗る乗らないはお客様の自由で……そろそろのはずなんですが……」


 少なからず戸惑う和志をよそに、駅員は懐を探って時計を取り出した。


 銀の鎖に銀の細工物らしき懐中時計。薄明かりの中で複雑な表情を見せるあたり、おそらく相当に凝った作りなのだろう。


 何故か、美しいと感じた。


 よく見えたわけでもないのに。


「ああ、うん、ちょうど時間ですね」


 駅員の笑顔に合わせるように、和志の足元に微かな振動が伝わってきた。それは徐々に大きくなり、近づいてきて、やがて電車がホームへと滑り込んできた。


 音も無く。


 一昔前の形式のくたびれた車体の扉が開く。


 車内は光に満たされていた。


 目もくらむほどに。


 その光を背に、影が一人。


「まだいる気?」


 二十代ぐらいの女性の声。歯切れの良い、涼やかな。


 懐かしい声だった。


 故に、和志は理解した。


 全てを。


 ややばつが悪そうに肩をすくめる和志。首に手を当てながら頭をひねり、おずおずと応える。


「どうしよう、かね?」


「どうしようも何もないでしょうに」


 即答で切り返され、さらに、呆れたように小さく笑われる。思わず和志も苦笑いしてしまった。


「そうだね」


 頬を刺す風が、緩やかに、緩やかに、なでるように流れていった。葉音が楚々と鳴り続ける。


 ややあって、和志がうつむきながら呟いた。


「なあ……訊いていいかい?」


「なぁに? ワタシはシアワセでしたって言って欲しいの? それとも、アナタのせいでって責めて欲しいのかしら? 気の済む方はどちら?」


 影が呆れた口調で応える。立て板に水の如く、そして辛辣な言葉だったが、害意は全く感じられない。


 そう、長い付き合いの間柄の、気の置けない間柄での言葉のやり取り。


「相変わらず、厳しいね」


「あなたが甘いのよ」


 和志が頭を掻き、影が勢いよく息を吐く。


 和志の目が少し慣れてきた。光の中のシルエットが見て取れる。


 手を後ろに回しながら、影は少しだけ前かがみになった。


「……私は私、貴方は貴方よ。私が自分の人生をどう思おうと、どう感じようと私の勝手。貴方が捕らわれることはないのよ」


 語りかけられる声は、やや低めの声になっていた。


 諭すように、慈しむように。


 それから、影は姿勢を戻してそっぽを向いた。


「大体、私はありがとうって言ってたはずだけど? 何度も。信じてもらえてないって心外だわ」


 不満げに言われて、頭に手を当てたまま、和志は首を傾げた。


「そうは言ってもなあ……」


「そうなのよ」


 和志の釈然としない呟きへと、影が即座に切り返す。一連のやり取りを黙って聞いていた駅員にも軽く吹き出されて、和志はもう苦笑するしかなかった。


「さ、行くわよ」


 影が一歩踏み出し、和志へと手を差し伸べる。


 遠い日の、出会った頃の、懐かしい姿。


 志津子の微笑みが、そこにあった。


「わざわざ、このために?」


「そうよ? 死ぬまで添い遂げた間柄とはいえ、一回順番を飛ばして来たんだから。感謝しなさいよ?」


 軽やかにウインクしてみせる志津子。


「かなわないなぁ」


 和志は、ばつが悪そうに肩をすくめるしかなかった。


 さあ、と催促されて、和志は志津子の手を取った。


 引かれて電車へと乗り込むその姿は、老いたものではなく、志津子と同じく、出会った頃のものだった。


 車内に戻った志津子が、駅員へと振り返る。


「ありがとうね、七峰さん。この電車のことを教えてくれて。でなきゃ、この人この世でずっと迷いっぱなしだったわ」


 和志が苦笑する。


 七峰は駅員の制服を摘んでみせた。


 愉しげに。


「いえいえ、それが私の仕事ですから」


 それから、懐中時計に目を走らせる。


「では、発車の時間です。お二人とも、永らくお疲れさまでした」


 静かに頭を下げる七峰の前で、音も無く扉が閉まる。二人を乗せた車体は何も告げずに滑り出し、速度をあまりあげることなく駅を出て、そして、闇の彼方へと去っていく。


 ゆっくりと、ゆっくりと。


 夫婦を見送りながら、七峰は微笑んでいた。


「幾世までも、末永くお幸せに」


3、4は何とか今日中には投稿しますっ。

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