単二色の異世界
8
日曜日の人混みの中、僕は駅前のベンチに腰を下ろしスマートフォンと睨めっこしていた。文化祭野外劇の脚本のアイデア作りである。まだ何も思いついていないのが現状だ。
柚子との漫画の件は、南さんの件があってから完全に止まってしまっている。予定では百ページになる内の完成度は八割と言ったところで、僕がクライマックス辺りのシーンで詰まってしまったのだ。
「裕太ちゃん!」
人混みをかき分け進んでくる彼女に手を振り立ち上がった。
「おはよう、南さん」
「おはようございます。……どうしたんですか?」
「いや……流石に人前でちゃん付けは恥ずかしいと思って」
見たところあまりお洒落と言えない、言ってしまえば安っぽい服を着ていた。南さんは口をぐっと曲げる。
「裕太ちゃんだって名字にさん付けじゃないですかー。よそよそしいです」
僕が考えるふりをして歩き出すと、彼女はすぐ横についてきた。
「じゃあなんて呼べばいいんだ?」
「……南ちゃん?」
「却下で」
流石にちゃん付けは恥ずかしい。
「じゃあ呼び捨てでお願いします」
「南、か。分かったよ」
夏休み最初の週末、家族連れがあふれていた。僕らはなんとか電車に乗り込み、車両の繋ぎ目辺りに狭いスペースを確保する。
「柚月ちゃんは明日退院なんですよね」
「そうだよ。学校来れるのは明後日からだな」
南は嬉しそうに笑っていた。
そうだ、と南はこちらを見上げる。
「ロガシー、昨日見終わりました!」
夜遅くまで見てたんだなと眠そうな彼女を見返す。
「へえ、どうだった?」
「面白かったです。なんで今まで知らなかったんだろう!」
いつもよりハイテンションな彼女は、電車の揺れに合わせてスキップ気分だった。まともな人間さえいれば友達なんてたくさんできるのに、と心から思った。
「主人公は……」
「なに?」
南はこちらを見ずに言った。
「主人公は、裕太ちゃんに似てます」
僕はなんとなく、聞き流すことにした。
改札を出た辺りで鞄から財布を取り出した。
「これ、入場券。失くすなよ」
「がってんです」
僕はスマートフォンを操作しGPSで地図を確認する。徒歩で移動してもそう遠くない距離だった。
「そういえば、どうして美術館なんですか?」
南はそんなに絵画に興味はないだろうと思う。
「柚子が中学まで美術部だったのは知ってるかな。そのときに描いた絵が展示されるんだよ。見てみたいでしょ?」
このチケットは、柚子のお母さんからもらった。一人で来ても良かったのだがなんだか寂しいので、受験生でなく勉強の忙しくない南を誘ったのだった。
「そうなんですかー。何年も前の絵が展示されるって、すごいことじゃないんですか?」
「歴代の賞を取った作品は毎年飾られるんだと」
夏の日差しの下、南だけでなく僕の頭もダレていくのがわかる。熱中症注意なんて言う、言うだけで何もしてくれない看板を横に通り力尽きそうな南を横に見る。
僕は脚が重い彼女の手を引きコンビニに入ると、飲み物とアイスを持ってレジに並んだ。
彼女は大袈裟に嬉しがると、作った声で言った。
「何か裏があるんですか。先輩まさか、溶けかけのアイスを私に」
「だまれだまれ」
レジの女性が苦笑いしている。
楽しそうに笑う彼女は冗談で言ったんだろうが、僕はいまいち笑うことができない。南の素を見るのが怖くもあった。
一昨日の夕方。僕は柚子の病室を出ると、夕焼けに染められた廊下を俯いて歩いた。柱が作る黒が長く伸び、奇妙に赤い地面を襲う。
正面に老人が見える。僕は駆け寄って重そうな段ボールを受け取ると、元来た道を戻るように、談笑しながら歩いた。
「ありがとう。優しいね」
「……いえ。役に立てたなら良かったです」
小さくお辞儀してその病室から出ると、入り口に見慣れた人物を見つける。
「前田くん……」
そこに立っていたのは、柚子のお母さんだった。
「私は正直、あの子の絵については詳しくないの」
柚子のお母さんにその話題を振ったのは僕だった。とても口が重く、あまり柚子について何か話してくれそうな雰囲気ではなかった。
柚子には絵の先生がいる、そう教えてくれたのはお母さんだった。毎年貰っている入場券のうち、二枚を僕にくれたのだ。
「その先生は毎年そこで運営をしてるの。連絡はつけておくから、是非会ってみてくれないかな」
柚子は何かを隠していて、お母さんは柚子が隠すことを尊重している。お母さんとはそれまでに何度か会っていたけれど、とても柚子に気を遣っているように見えた。実の親子にしては大きい、よそよそしさ。
涼しい館内を、僕らは疎らな人の流れに沿って散策していた。日本でも有名な人から無名な人、更には中学生の絵まで幅広く展示されている美術展だそうで、部屋ごとの雰囲気はまるで違っていた。
南は場に当てられてか、唇を瞑って真面目ぶっているのが可笑しかった。からかいたくなるがやめておく。
僕らは周りの人がしているようにそれらしく絵の前で足を止め、体裁を繕っていた。
「裕太ちゃん、思ったことがあるんだけど……」
真面目ぶってる南は部屋の外、別の展示室にチラリと目をやる。
「彫刻って結構えっち……」
全然違ったわ。
「裕太ちゃんは何か思ってたんですか?」
「当たり前かもしれないけど若者が少ないなってのと……」
こんなことを言っていいのだろうかと周りに人がいないことを確認して、
「案外……すごく見えないというか」
もちろん価値のわかる目を持っていないことに原因があるのだけれど、本物の絵画というものをほとんど見たことがなかった僕としては、なんだか物足りない気がしていた。創作物の見過ぎだが、何か凄みを感じられない。
「それは聞き捨てならんな、若者」
突然背後に幽霊のように現れた女性に、南と二人して悲鳴をあげた。
「人を化物みたいに言わないでくれよ」
その悪いことを企む笑みを、どこかで見たことがある気がしていた。
「新井、香織さん?」
僕らは彼女に一つ一つの絵の良さを懇切丁寧に解説されながら語られながら、ゆっくりと時間をかけて部屋を移動していた。
「そ。君のクラスの担任をしてるのは私の弟。君も似てると思ったんでしょ」
僕の苦笑いを見て、新井さんは豪快に笑った。
「で、君が前田裕太君だよね。柚月の母親から話は聞いてるよ。そちらは妹さん?」
「いえ。後輩の南です」
まだ戸惑っている彼女を僕の隣に引っ張り戻すと、彼女はぺこりとお辞儀をした。新井さんは意味深な笑みで南を眺めると、やがて頷いて握手していた。
年齢は彼女の外見と新井先生の年齢を考えると、三十前後だろうか。
「それで南ちゃんは前田先輩のことが好きだってわけか」
時間が凍りついた。主観的に全ての粒子の運動が止まる。
「ちちち違います! 好きじゃないです。大っ嫌いです!」
それはそれで傷つきますよ、南さん。
「私の前で誤魔化しは効かないよー。私は心が読めるんだから」
姉弟揃って同じことを言う。ここまで来ると何か信念めいたものを感じる。
新井さんが言うには、この時期には珍しく若者が訪れたのを知って僕らに興味を持ち、運営の仕事を放り出してストーキングしていたということだった。
この時期というのは、ここに展示された絵を描いた学生への無料開放期間が一昨日までで、通常若者が来ることは珍しいといった話だ。
「この辺は美大がないからねぇ。寂しいっていうか張り合いがない。若い芽が付けた実を切って捨てるのが、私の生き甲斐なんだ」
三時間ほどかけて足が棒になり、幹になり枝葉が実を結び始めた頃、ようやく最後の部屋に辿り着いた。
彼女の絵の前に、辿り着いた。
「黒い向日葵、大きく存在感のある太陽、白に浮き出した満月。タイトルは……」
◎
光の届かない地下深く、地面に座り込む彼女を見つけた。横に座っても何も言わず、僕は彼女の小さく震える手を握る。
「……くらいね」
掠れた声が乾燥した空気を伝う。全ての粒子が止まってしまったかのように、素っ気ない目が僕たちを見ていた。
僕は指の先に白い火を灯す。照らされた君の翼は、瞳は、少しだけ黒ずんで見えた。
子どものように擦り寄ってくる彼女を、壊れてしまわないように抱き寄せた。
「幸せ、だったなあ……」
完成、そう言って君は小さな声で笑う。僕は床に敷かれたそれに目を向けた。
絵画だった。君のその幼い、しかし深く澄み切った世界がそこに在った。洗練され洗練され、美しく成りきった灰色の風景。いつも見ていたはずの日常の風景。
絶望と後悔、懐古と愛着。
感情の海に、僕は無力に沈め込まれる。
「タイトルはね……」
◎
タイトルは、『単二色の異世界』。
この世のものの風景。
白と黒だけで描かれた、日常の風景だった。