失楽園
6
新井先生は荒々しく書類にサインし、いつものように僕に押し付けた。僕が帰ろうとすると、
「おい、ちょっと待ってろ」
僕を引き止め三分ほどした後、職員室に見知った顔が入ってきた。
南さんは驚いたように僕にぺこっと頭を下げ、新井先生に用事だったらしい、僕の隣りまでやってきた。
「じゃ、これ頼むわ。おい前田」
問題集の山を見て、僕は納得する。
「分かりましたよ。南さん、そっちの山持ってくれる?」
僕らは職員室を出ると、一年生の教室に向かって歩き出した。二個上の先輩として話を振る。
「……どうだった? 周りの様子は」
南さんはどこかおぼつかない調子で答えた。
「いつも嫌なことを言ってくる人たちは、何もしてきませんでした。元々私、友達がいないんですが……、でも、嫌なことを言われるよりは、ひとりぼっちのほうがずっといいです」
彼女は、僕を怖がってはいなかった。むしろ彼女は、自分が怖がっていると思っている僕に困っているのだ。
そっか、そう僕は外の運動部の豆粒のような姿を、窓から見下ろしていた。
「あの!」
振り返った僕の、彼女はしっかりと僕の目を見た。
「昨日の……私、こんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど、すごく嬉しかったです! あんな風に、私を守ってくれた人、いなかったから」
「……僕はお礼を言われるようなことはしてない」
「それでも!」
彼女は立ち止まる。纏わりつく空気を払い、彼女は断言した。
「私は、嬉しかったんです」
なんだか彼女は真っ直ぐで、真面目とは違った単純さを持っていた。一生懸命な彼女が面白くなって、僕は笑ってしまった。
姉の笑顔。彼女とは全く違うはずなのに、網膜から離れなかった。
「素直に言いなよ。スカッとしたって」
僕は意味を込めて、彼女の不安を砕くために言った。彼女は無邪気な笑顔を覗かせる。
「スカッと……スカッとしました!」
教室に着くと、僕らは無人のそこに問題集を積み上げる。気まずい残り香のするのを気にせず、僕はまた笑いかけた。
「僕でよければ、また何か力になるよ。腕っぷしの力と多少の人脈だけは頼りにしてくれて構わないから」
彼女にスマートフォンを取り出させ、連絡先を交換した。
「友達の証」
僕は身の丈を知った。イジメを完璧に解決できるなんて、もう思っていない。上っ面の正義を続けるつもりもない。
ただ僕は、悪魔の敵であろうと、そう思い思い直した。
掃除当番である僕は、柚子の待つ図書室に向かうはずだった。柚子と友達になってから、ほとんど毎日の習慣である。
なんとなく足が重く、憂鬱な気分。僕は靴を履き替え、玄関を出た。
「裕太くん!」
柚子は僕の袖を掴んでいた。振り向かずに言葉を待つ。
「なんで最近、図書室来てくれないの……?」
僕は都合のいい言い訳を探していた。柚子が嫌いになったわけではない。図書室での勉強が嫌になったわけでもない。
「ごめん。明日は行くよ」
情けないことだと分かっている。でも僕は、もう少し時間が欲しかった。過去の自分、過去の犠牲。悩んで苦しむフリをして、言い訳をしているのかもしれない。僕はそれらを忘れていません、と。
柚子は手を離した。冷たい風が僕らの間を吹き抜ける。
やだよ、柚子は強く、弱々しく言った。
「ひどいよ……友達なんて、忘れようとしてたのに。ひとりぼっちにやっと耐えられるようになったのに!」
ひとりぼっちに、耐えられる。僕は身体が強張るのを感じた。戸惑ったのに追い打ちをかけるように聞こえてきた異常な柚子の呼吸音に、僕は急いで振り返った。柚子は胸を押さえ、苦しそうにしている。
倒れそうになるのを抱き抱えて支えると、ドクドクと流れ出る鼻血が肩にかかった。僕は混乱してとにかく彼女を側のベンチに座らせる。
「ちょっとあんた、なにその血!」
僕は震える手でスマートフォンを取り出しながら、
「明里、頼む! 俺は救急車を呼ぶ。保健室の先生を連れてきてくれ!」
たまたま通りかかった彼女は、そのまま校内に駆けていった。すぐに来てくれた先生は、専門家にしてはやけに驚きながらも応急処置をしてくれた。そして数分後に到着した救急車に、僕は呆然ととり残されていたのだった。
風はやけに暴れまわり、生ぬるい空気が全身に吹き付けた。湿気が多い今日は気持ちが悪い。僕は柵のサビを爪で削りながら、遠いところの晴れた空を眺めていた。
高校生最後の夏、夏休み初日。受験生の勉強漬けの夏休みによく似合うように、雨雲が空低くにっこりと微笑んでいた。
ここから撮った夕焼けの写真を眺め、柚子と初めて会った時のことを思い出す。その時に交わした言葉を、今でも覚えている。話題を作るためかなんなのか、僕はこの写真を彼女に見せたのだ。
ポケットティッシュを取り出し爪のサビを払うと、小さく掲げて手を離す。小さな羽根をもぎ取られそれは、一直線に校舎に叩きつけられていた。
「なにやってんの」
中山明里は僕の隣に立った。僕はまた柵に寄りかかる。
彼女は大袈裟にため息をつくと、
「あんた、サボる時はいつも屋上に来てたよね」
「……補習なんだから、いいだろ」
「ダメとは言ってないって」
彼女は持っていたペットボトルのリンゴジュースにストローをさすと、僕に差し出してきた。
「飲む? 口つけてもいいよ」
「……いや、いいよ」
「そう。で、浅野さんはどうだったの」
昨日、夜に連絡があった。僕はそのメッセージを復唱する。
「大したことない、一週間もすれば退院できるよって、本人曰く。検査入院だから大袈裟だって」
そう、彼女はやはり優しい。ほっとしたような表情を覗かせ、きつめに僕を見返した。
「ちゃんとお見舞い行ってあげてよ。浅野さんと仲良いの、クラスにあんただけなんだから」
「分かってるよ」
お前は母親みたいだな、そう言いかけて飲み込んだ。それがとてつもない皮肉だと、いろんな意味を考慮して危ういところで気づいたのだ。
「浅野さんに聞いといてね、明日のホームルームのこと」
「なんかあったっけ」
「しっかりしなよ。文化祭の野外劇のこと。役割分担決めるの明日だよ」
そんなことあったな、と他人事のように思い出していた。この学校では奇妙なことに、受験で忙しい夏休みに三年生はオリジナル劇をクラスで作らなければいけないのだ。長くの伝統を持つ行事だそうで、学校側もそこそこ力を入れている。
「……あんたと見る空は、いつも曇ってるよね」
彼女は目を細めながら笑った。僕は視線を上げる。
「ん」
手をつけていないリンゴジュースを僕の手に押し付けた。
「あげるから、頑張ろうよ」
彼女はドアに手をかけ、背を向けて手を振った。錆びたドアは嫌々開かれ、僕はただ彼女を見送っていた。
ジュースは少し酸味が強く、そんな懐かしい味がした。
教室に戻ってみると、午前で補習が終わって皆帰ってしまったせいで人気がなく、しかし僕の教室の前に人影を見つけた。
「ああ、南さん。何か用?」
こんにちは、彼女はそう頭をペコッと下げた。
「どこに行ってたんですか?」
「ちょっと用事でね」
僕は自分のリュックを背負い、また彼女の前に戻ってきた。
「聞きました。柚月ちゃ……浅野さんが入院してるって」
「僕の前で気張らなくていいのに。なに、そんなに仲良くなったの?」
彼女は顔を赤くすると、
「柚月ちゃんがそう呼んでいいって言ってくれたんです。私のことも、ぽーちゃんって……」
僕と柚子があまり会っていなかった間、柚子は南さんと連絡を取っていたのだろう。そういえばあの朝も二人で一緒だった。僕は少し意外に思う。南さんにではなく、柚子にだ。
「ははは、かわいいあだ名だね」
「ばかにしてません?」
「してないって」
僕は彼女を促し、玄関へと歩き出した。
彼女は本当に強い子だ。周りに抑圧され続けながらも、豊かな感情を持ち続けている。彼女の笑顔は、ささいな楽しさを何倍にも増やしていた。
「お見舞い、行くんですよね?」
「まあ、うん。今から行くよ」
「私も行きます」
彼女は前に会った時よりも固くならず自然体でいてくれている、と思う。僕は面白くなって問いかける。
「ところで、僕のことはなんて呼んでくれるの?」
彼女は少し考えると、
「……裕太ちゃん?」
アホか、そう僕は拳をコツンと彼女の頭にぶつけた。
病室の扉をノックすると、気だるい返事が返ってきた。贅沢な一人部屋で柚子は、退屈そうな顔をしてテレビを眺めていた。僕と目が合った途端、心なしか身体を浮かせる。
「裕太くん、来てくれたんだ」
「うん、南さんも一緒だよ」
弱々しく見える病衣をヒラヒラと揺らしながら手を振った。南さんは柚子に駆け寄ると、すっかり懐いた笑顔を見せていた。
「どうしたの? 裕太くん」
僕は壁に手をつくと、柚子に笑いかけた。
「なんだか安心しちゃってさ。思ったよりも大丈夫そうだね」
柚子はいつも通りに柔らかく笑う。
「念のための検査だよ。ごめんね、心配かけちゃったかな」
「……そりゃそうだよ」
南さんは律儀にも椅子を二つベッドの近くに用意し、僕は遠慮なく座った。
詳しくは聞いていないが、柚子は何か持病を持っているらしい。彼女が運動を避けているのはそのためだ。
「柚月ちゃん、これ差し入れです!」
「わ、スイカだ。ありがとぉ」
「食べ物に制限とかないの?」
柚子は首を傾げると、
「分かんない」
「ですよね」
少しぬるくなってしまったそれを冷蔵庫にしまうと、僕は財布を持って立ち上がった。
「喉乾いたからジュース買ってくるよ。飲みたいものある?」
「私紅茶がいいな」
「カルピスお願いします」
「おいこら後輩」
なんて会計に対してほどではないにせよ大袈裟につっこみ、二人を残して部屋を出た。二人の仲のいい笑い声は、何より僕を安心させてくれたのだった。
「おーい前田」
三本のペットボトルを自動販売機から掴み取り、その声に僕は振り返った。無駄に間延びする声は、新井先生だった。
「奇遇ですね。浅野さんのお見舞いですか?」
「浅野はここに入院してたのか」
おい担任。
「うるせえよサボリ魔」
「僕は何も言ってませんよ」
「聞こえるんだよ、心の声が」
教師っぽくない人だと、中々に失礼なことを考えながら首を傾げた。
「じゃあなんでここに?」
「なんでもいいだろ。ただの親父の見舞いだ」
新井先生は缶コーヒーを買って一気飲みすると、げっぷをしながらゴミ箱に放り込んだ。僕はそれを半笑いで見守る。
もう行くわ、そう言って新井先生はヒラヒラと背を向けて手を振った。
「期待してるぞ、野外劇」
一体何を僕に期待しているのか、この時は他人事のようで分からなかった。
「何の話してるの?」
病室に戻って彼女らにジュースを手渡し、やけに楽しそうに話していたのを遮らないよう、丁度節目に話しかけた。柚子はスマートフォンの画面を見せる。
「ロガシーのことだよ。ぽーちゃん、知らないんだって」
南さんは控えめに笑うと、
「私、アニメってあんまり見ないので」
僕は白々しくそうなんだと相槌を打つ。
「で、布教してたってことか」
「裕太くんも好きでしょ?」
否定はしないが、オタクだと思われたくはない。南さんは柚子のスマートフォンを覗きながら、
「主人公の名前……」
ユータ。誰にも負けない力を持った、しかし気の弱い少年。計り知れない量の過去のトラウマを抱え、正気を失って仲間と対峙することもある。
物語の鍵となるのは、『蘇生魔法』。魔術師としては出来損ないで、魔法に頼ることなく自分を鍛えたユータに後天的に備わった特殊能力だ。ヒロインのアカネは物語の中で何度も殺され、そしてユータは魔法の対価として自分の記憶と正気を失いながら、ヒーローに祭り上げられ悪と戦う。
「裕太ちゃんと一緒ですね」
「呼び方それで決定なのか」
僕は画面に目を戻した。彼の目は、どこかそことは遠くにある気がした。
「僕と一緒だけど、僕には似てないな」
そんな話をしながら三十分ほど経った後、僕はやっと訊くべきことを思い出した。文化祭のことである。
「明日、野外劇の係決めがあるんだよ。衣装とか大道具、小道具、背景、音響。柚子は何か希望あるかな」
柚子は首を傾げると、
「裕太ちゃんは決めてるんですか?」
訊いている僕も、何かこれをしようといった希望はない。
「裕太くんは脚本係でしょ?」
考えるのを避けてきた案件を、柚子は直球で指してきた。んーまあなんて言葉を濁し、僕は頬をかく。
「他に誰か、いるんじゃないかな」
僕は布団の上に手を置き、浮き沈みする感覚で何とか気を紛らせていた。南さんはそんな僕を見てクスクスと笑った。
「私は何でもいいけど……」
けど。僕は彼女に笑いかける。
「じゃあ僕と同じところに入れておくけど、いいかな」
僕は傲慢だ。あの日、柚子が倒れた昨日を思い出す。僕はとにかく、彼女の傍にいようと思った。これは彼女の意志ではなく、僕の傲慢だ。どうしたらいいのか分からないから、僕はした方がよくて、したいと思っていたことをする。
「……うんっ」
柚子と目が合うと、彼女は幼い表情で楽しそうに笑った。
◎
僕を覆う海のような空の下、丘の上に立ち誇る大木を眺めていた。恐ろしいほど魅力的なその果実を、僕は遠目に見て立ち尽くす。
ふわっと温かい匂いが僕にぶつかり、それが彼女だと認識するには少しの時間がかかった。僕は背の低い彼女の頭を困惑しながら撫でてやると、彼女は声をあげて泣き始める。
「落ち着いて。誰かにいじめられたの?」
彼女が落ち着いて僕の目を見れるようになったのは、日が暮れた頃だった。僕は彼女の手を握り、目線を合わせて話しかける。
「いじめられたの?」
彼女は初めて感情を表した。目を赤く腫らし、彼女は小さく頷く。
「誰に」
「……神さま」
「神様?」
うん、神さまと彼女はしゃっくりをし、俯いた。
「もうすぐ、殺されるの」
「殺……される……」
「お前は変だって。真面目じゃないって、言われたの」
僕は都合のいい言葉が思いつかなくて、取り繕うことができなくて、そして仕方なく腹の中に僕を探した。
「君は死ぬのが怖いのかい?」
君は小声で拗ねたように言う。
「死んだことないから、分かんない」
そっか、そう言って僕は君に笑いかけた。君ならなれるかもしれない。
君となら、なれるかもしれない。
「じゃあなればいいさ。……に」
◎