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天使のパレット  作者: 五月悠助
4/20

ふたりぼっちな黒

 4


「鬱だ」

 夏が近づくこの季節、衣替えが行われた。受験のせいでさして楽しみでもない夏休みを一ヶ月後に控え、海が更に磯臭くなるように感じた。

「眼福シーズンじゃないですか。なに、冬服フェチ?」

「黙れバカ」

 会計はいつもの調子でニヤニヤ笑うと、角に黒を打って一気に白をひっくり返す。僕は黙々と打開策を考えた。

「で、鬱とは?」

「もうすぐ定期試験だろ。三年だからそんな力入れることないんだけど……」

 会計は意外そうな顔をした。

「前田さん、すごい成績いいじゃないですか。我が校が誇るドン完璧超人。新井先生がどんどんドン引きするレベルだドン」

「お前は太鼓か」

 僕はまたため息をつく。

「だからさ、それが鬱なんだよ。僕もサボる時はサボりたい。模試は総合力だからともかく、定期試験は毎回毎回一生懸命勉強しなきゃ上位なんて取れないんだぞ」

 僕はよく、突発的に授業を聞きたくなくなってしまう病にかかるのでなおさら難しい。特に怠そうに話す新井先生の声は執拗に眠気を誘ってくるのだ。国語が嫌いなことも相まって、いろんな意味でハードルが上がっていく。

「俺とは無縁の悩みですねえ」

 会計はどうでもよさそうに棒読みだった。

「そうだ、前田さんいつもの。『こんな生徒はいやだ』シリーズ、第三弾」

「こんな後輩はいやだ」

「こんな先輩もいやですが。聞いてくださいよ」

 こんな時、会計は一番良い笑顔をする。

「小学生が先生に向かって『先生トイレ!』と言って『先生はトイレじゃありません』と返された時の返し」

「はい、お前なら何ておっしゃるんですか」

「『こんな日本語の省略が分からなくて、先生が務まるんですか?』」

 うわ、ウザすぎて何も言えない。

「無反応はやめて下さい」

 僕は黒をひっくり返す。

「ウザいものをウザいと言うことに意味があるのか?」

「そんなヒドイこと言ったら前田さんの入試会場に落花生とバナナの皮をバラ撒きますよ」

「じゃあお前の年にはゲキオチくんを渡しに行ってやる」

「すごく……落ちそうです」

 パチンパチンと静かな生徒会室にこだまする声。最近会計が近くの百円ショップで買ってきたオセロゲームを生徒会の仕事の後にやるのが、一週間に一二回の日課になっていた。僕の白が、徐々に黒を染めていく。

「浅野さんのこと待たせてるんですよね?」

 僕は声だけで頷き、時計を見た。まだそこまで遅くはなっていない。

「前田さん、いつも浅野さんと一緒にいますよね。どんなイチャコラカップルですか」

 イチャコラってなんだろう。

「なんでって。お前なら分かるだろ」

 もちろんいつでも一緒にいるわけではないが、そのことが多い。

 考えれば分かる話で、一人しか友達がいない彼女は、僕といなければひとりぼっちだ。彼女はいいと言うかもしれないけれど、僕の余計なお世話、もとい良心が放っておけない。

 クラスメイトから注目されないように、前回の席替えで席が離れたこともあり、教室ではたまに話しかけるくらいだ。外で彼女といる時も目立たないようにしている。別に目立つのが嫌なわけではないけれど、女子と二人きりになることをクラスメイトにアピールしているような図になるのは嫌だった。

 僕は最後の一つを強く打って、立ち上がった。

「これが僕とお前の差だ」

「尊敬する先輩との差がオセロ十枚だなんて光栄だなぁ」

 僕はカバンを担ぐ。

「じゃ、残りの資料は任せるよ」

「仰せのままに」

 僕は図書室に急いだ。


 図書室に続く渡り廊下を歩いていると、見慣れた人物が図書室から出てくるのが目に入った。あちらも僕に気づいたようで、軽く会釈をする。

「今日は開いてないよ」

 中山明里は僕に目を合わせないように、扉に向き直るとクローズと書かれた札に変えた。僕が中を覗き込むも誰もいない。

「浅野さんを探してんの?」

「まあ……どこに行ったか知ってる?」

 知るわけないじゃん、そう中山明里は歩き出す。その中学からの同級生を気まずく立ち尽くして見送った。

「浅野さんと仲いいんだね」

「別に……」

「特定の人を作らないんじゃなかったの?」

 僕が何も言わないのを確認し、足早に去って行った。


 それから生徒ホールで数学の参考書を枕にして爆睡する阿呆を見つけたのは、数分後のことだった。いつものように肩を揺らし起こす。

「柚子、何してるんだよ。こんなクーラーついたところで寝てたら風邪引くよ」

 柚子はゆったり僕を視認し、

「だって、図書室閉まってたんだもん」

「今日くらい家でやればいいのに」

 約束だから、そう言ってえへへと笑う。

「裕太くんのこと待ってるの、約束だったから」

 僕らはそんな感じで数言交わした後、そのまま学校を出た。校内での男女のペアというのは周囲から誤解されやすく、居辛いのだ。不便な世の中である。

「ファミレスで勉強なんて、怒られないのかな」

「大丈夫。ここ、満席になってるの見たことないから」

 まだ五時だということもあり、僕らはポテトとドリンクバーだけを頼んで落ち着いた。楽しそうにドリンクを混ぜてオモチャにする姿は流石だと思う。

 柚子は幼い。彼女と出会って一ヶ月と少し、僕はそんな結論に達した。それまでの強がっていた彼女は、僕が、そして誰もが見ていた孤独な姿だった。大人しいが子供っぽい、しかしここ最近は大人しい姿も大人しくなってしまっている。

 「ゆづき」だから「ゆず」、つまり柚子という爽やかなニックネームも、本人に似合っているかは少し首を傾げる。名前で呼び捨てにするのは恥ずかしいと、僕が付けたのだけれど。

「ほら、今日は物理進めるよ。ネツリキの……気体分子運動論からだっけ」

 僕は柚子に向けて授業のノートを開くと、教科書を使いながら解説を始めた。授業中に寝てばかりいる彼女への補習だ。

 僕ももう手慣れたもので、多少は合理的に教えられる。

「ごめんね、いつもいつも」

「謝るくらいなら授業起きてればいいのに。でも僕にも得はあるよ。人に教えると、理解がかなり深まるから」

 悔しいが、柚子は頭がいい。教えたことをすぐに身につけて結果を出してしまう。伊達にこの学校に入学したというわけではないのだろう。

「柚子って、勉強好きなの?」

 七時になり腹が減ってきた頃、僕らはスパゲティとピザを頼んで休憩していた。柚子はちゅうちゅうとジュースを飲みながら少し頭を傾げる。

「嫌いじゃ、ないよ。知らないことを知るのは、ちょっとだけ楽しい」

「へえ、意外だな」

「ばかにしないでよー」

 してないって、そう言いながら僕は彼女が羨ましくなった。

「将来の夢とかあるの?」

 柚子はぽかんという顔をすると、

「ないよ。裕太くんは?」

「僕も正直分かんないや。大学の志望校も決めてないしね」

 僕らは九時くらいまで勉強した後、柚子を家まで送った。

 将来のことはよく分からないけれど、僕はそれでいい。僕が何になろうと僕の知ったことではないなんて、そんな訳のわからないことを僕は思っていた。


 定期試験は特にドラマもなく過ぎていき、僕は一安心する間もなく机に向かった。細かい字で書き込んだプロットと睨めっこし、展開を書き足していく。

 本当はこんなことをする間に勉強しなければいけないのだろうけれど、柚月先生に渡す原稿の締め切りが明日なのだ。

 二時間ほど経っただろうか、不気味なくらい静かな部屋に嫌気がさして、窓を開け放った。面白いものでも見つけたように外から僕を見ていた空気が吸い付けられ、部屋中を動き回る。

 ため息をついてスマートフォンを手に取ると、クラスの友達のグループチャットにうまく相槌を打つ。それから柚子とのチャットを開いた。

『今何してるの?』

 突然変かな、とどう誤魔化すか考えているとすぐに既読が付いた。

「アニメ見てた」

 僕は苦笑いした。

『勉強しろよ(笑)』『僕もだけど』

「休憩も必要(顔文字)」

 あらかじめ剥いておいたリンゴを冷蔵庫から出してきた。

『訊くの忘れてたけど、定期試験どうだったの?』

「クラス五位だった!」「新井先生もすっごくびっくりしてたよ」

 五位。僕は笑顔のまま固まった。そして胸を撫で下ろす。これで成績がむしろ落ちてたなんて結果になったら威厳が消失してしまう。

『やればできるんだね』『この調子で受験勉強も頑張りましょう』

「そんなことより! 原稿できた?」

そんなことて。

『もうちょっとだよ。明日学校に持ってく』

「りょうかいです。楽しみだなあ」


 学校が午前で終わり、時間を弄んだ午後。僕の家で漫画の作業を進めようということになり、柚子と黙々と仕上げていった。

 しばらくした後、僕は柚子が絨毯の上でだらしなく横になって、眠ってしまっているのに気がついた。連続の作業に疲れたんだろう、 僕は小さな毛布をお腹にかける。

 そのとき、廊下で足音がした。

「おじゃましまーす。裕太、帰ってたのか」

「……なんでいんの」

 そこに立っていたのは、一年ぶりに会う姉だった。たしなめるように僕を見下ろし、楽しそうに笑った。

「いいじゃん、私の家なんだし。今日は荷物取りに来たんだよ」

 姉は冷蔵庫から断りもなしにジュースを取り出した。僕は困惑しながらそれを眺める。

「今、どこに住んでるの?」

「大学の先輩の家。同棲してんの」

 姉はにやにやしながら柚子を指差す。

「その子、彼女? かわいいじゃん。家に連れ込むなんてやるね」

「違うよ、うるせえな。用事済んだら早く帰れよ」

「ああ怖い怖い」

 僕はどこかイライラしていた。僕は姉に裏切られた。突然出て行ったこの人に、僕はもう姉面してほしくなかった。

 唯一の家族だった、この人に。

「ま、もう会うことはないだろうさ。お互い幸せになろうね」

 姉はリビングのドアを閉めた。僕の知らない香水の香りが、鬱陶しく部屋に残っていった。


 僕が柚子に目をやると、柚子はうっすらと目を開けていた。

「裕太くん、意外と口悪いんだね」

 僕はやってしまったと、ただ苦笑いするしかなかったのだった。


 次の朝、陸上競技大会当日。多少の気怠さをため息と一緒に吐き捨て、いつもより早く登校し生徒会メンバーと合流した。僕以上に気怠そうな副会長たちを笑って宥め、会計はそんな僕に失笑していた。

「前田さんは何に出るんです?」

 男女で作業を分けるという口実を作って副会長たちを追い払った僕に、会計はやっといつものように口を開いた。

「クラス対抗リレーだよ」

「へえ、足速かったんですね」

 僕らは飲み物の出店用の施設を組み立てていた。明らかに二人でやる作業でないのはいつものことだが。

「別に特別速いわけじゃないよ。ほら、リレーはお祭りだから」

「さり気なく人望アピールするところは流石ですね。忌々しい」

 会計に人望はないだろうなと、そんな残酷なことを考えていた。

 リレーメンバーの男二人女二人のうち僕以外の三人は所謂ガチ勢だ。僕はおまけというか飾りみたいなものである。ガチ勢が一人足りなかっただけ。

「で、お前は?」

「砲丸投げですよ。隅っこで重い石投げていつの間にか終わります」

「お前、そんな暗いやつだったっけ」

「暗いというか、俺は運動全般が苦手なんですよ」

「得意なことなんてあったのか」

「辛辣だなあ、涙出そう」

 どことなく自虐的というか、なぜか楽しそうなやつである。

「前田さんも歳なんですから無理しないで下さいね」

「うるさいバカか」

「バカって言った方が脳筋なんですよ」

「僕が筋肉ならお前は脳まで贅肉だろうな」

「せめて筋肉と言っていただきたい」

「お前のどこに筋肉があるんだよ。清々しいまでのガリマッチョだ」

「凄まじい矛盾ですね」

 鬱陶しいほどの晴天。僕らは生徒会権限で日陰に居られるが、それもどうかと思う。副会長たちは間違いなく来るだろうし、気まずい空気になることは間違いない。

 そんな心配をしながら作業を続け、落ち着いた頃には生徒も大分集まってきていた。新井先生の手違いで開会の挨拶を急遽、アドリブでしなければならなくなったのは、それから少し後のお話。


 リレーの第一走者。僕は一二年生に勝ち、三年生といい勝負をして陸上部の人たちに負けながらバトンを繋ぐという、ちょうど合格点な走りを見せた。帰宅部のホープの僕が無難に繋ぎ、陸上部の奈良坂さん、野球部の高梨が上位へ上り、アンカーの同じく陸上部の中山明里が怒涛の追い上げを見せ、予選を一位通過。決勝に進出することとなった。なってしまった。

「正直ね、限界だよ」

 僕は日陰で身体をほぐす。帰宅部に持久戦は辛い。この日のために走ってきたが、一度走ったらもう動けないのだ。

「裕太くん頑張って! 優勝したらまたお菓子買ってきてあげるよ」

 柚子は楽しそうに笑いながら僕の足をマッサージする。意外と力がこもっていて、僕は頑張って強がった。

「どうしたの?」

 僕は柚子の左手を取ると、

「テスト、って何のこと? 何かあったっけ」

「あー!」

 柚子は青ざめ、自分の手を見つめた。

「新井先生から、明日に漢字テストを振り替えするってクラスの黒板に書いておいてって頼まれてたの忘れてた……どうしよう……」

 助けてと言わんばかりの目を向けられ、僕は吹き出して笑った。

「手に書いてたのに忘れたの? 本当に抜けてるとこあるよな」

「うう……」

「あーあ、新井先生がせっかく信用して頼んでくれたのに。クラスのみんなも、柚子のせいだって知ったらどう思うか」

 本気で困っている柚子を見てからかいたくなったけれど、彼女はすぐに涙目になってしまった。

 柚子は周りの人間を怖がっている、僕はそう感じていた。僕ら凡俗とは違う空気を吸っているように見えた彼女は、彼女が精一杯頑張って作った仮面の上の絵の具だった。

 僕はそれを深刻にではなく、面白く捉える。周りの人間を怖がるなんて、とても僕ららしい。彼女の世界を垣間見たようで、より近く見えて嬉しかった。

「……心配しなくてもチャットで連絡すればいいんだよ。僕がやっとく」

 とても彼女らしい笑顔で、

「ありがとう!」

 僕は笑いながら目をそらした。

 しばらくそう風に当たっていると、汗が冷えて寒くなってきた。思い出してシャツを替えると、正面から人影が見える。

「こんなところにいたの」

 中山明里は呆れたようにして、そして隣の柚子をちらりと見た。

「やあ、調子はどう?」

「あんたよりはいいよ」

 リンゴのゼリーが差し出される。受け取ると冷たく、いろんな意味で驚いてお礼の言葉を忘れるところだった。

「ありがとう」

「いいのよ。浅野さんもどう?」

 柚子は視線を泳がせながら首を振るも、中山明里は余ってるしとそれを持たせ、柚子を困らせていた。柚子はお礼の言葉を絞り出す。

「ちゃんと繋いでよ、決勝」

 中山明里は僕にきついストレッチを施し、驚くほど身体が軽くなったと感じた頃にふらっと去っていった。僕は柚子に笑いかける。

「ごめんね、気まずかった?」

 柚子は首をぶんぶん振ると、

「かっこいい人だね」

 遠目に見える彼女の方を眺めていた。付き合いが長い僕にはたまに厳しいが、皆から評判のいい陸上部副部長でクラス会長だ。友達からは僕と並べられて語られる彼女であるが、僕より彼女の方がよっぽどすごい人である。

「……ねえ、裕太くん」

 柚子は少しよそよそしい面持ちだった。

「今日終わったら、あの人と帰ってあげてくれないかな」

 どういう意味か、僕はこの時察することは出来なかった。僕が柚子と二人であることを知らないで、彼女が一つでも三つでもなく、二つのゼリーを持ってきたということを、その意味を考えた。


「浅野さん一人で帰ってましたけど、今日は一緒ではないんでしたっけ」

 夕方。後片付けの雑務をこなす中、会計が凄い量の段ボールを抱えて通りかかった。僕はこぼれ落ちた破片を山の中に戻してやる。

「リレーの打ち上げみたいなもんだから。二人でだけど」

「チッ、また女の話か」

「蹴っ飛ばすぞ」

「ふらっふらしながら言われても」

 会計はまたへらっへらしながら歩いていく。

「後はやっときます。俺は有能ですから。もう帰っていいですよ」

 都合のいいところまで折りたたみを済ませ、僕は会計の言葉に甘えることにした。気の利くあいつに、今度ジュースでも奢ってやろうと決めて玄関に向かったのだった。


「ほんと、あんた期待以上だったよ! まさか準優勝できるなんて思わなかった!」

中山明里は夕日に負けないくらい赤く笑い、僕も楽しくなる。

「あんな走り、二度と出来ないよ。足ガックガクだから」

「はははっ、もう人生で全力で走る場面なんて最後だって!」

 起伏の激しい彼女は普段の僕に対する態度を崩壊させて喋り続けた。眺める僕も満更でもなく、彼女に合った相槌を打つ。

 気持ちのいい夕焼けの中、焼肉でも行こうかなんて案も出たけれど、お財布と相談してお好み焼きで手を打った。店に着くとスムーズに席に通され、すぐにでも立ち上がろうとする食欲を抑えて冷静を装い、メニューを達観した。そんな僕を置いていき、彼女はよく分からないメニューを次々と注文する。

「こんなに注文したら焼肉とそんなに値段変わらないんじゃないか?」

「いいのいいの! 前からこの店来たいと思ってたんだ」

 二人分か疑わしい量が運ばれてきて、しかし僕らはよだれを垂らして焼き始めた。この際体裁なんてどうでもいい。

「あんた下手くそ。貸してみ?」

 くるっときれいにひっくり返して見せ、楽しそうに笑った。僕はむっとして本場っぽくマヨネーズをかけて見せる。

「手先が器用なのは羨ましいよ」

「慣れてるだけだって」

「僕も料理はする方なんだけどね」

「あんた、いつも自分で弁当作ってるんだよね」

 僕は切り分け彼女の皿に乗せてやり、控えめに笑った。

「まあ、その方がお金も節約できるからね。面倒だけど」

 運動した後はむしろ食欲がなくなるなんてことはなくて、イカ玉豚玉キムチ玉……と普段の二倍くらいは食べた。彼女も満足そうにお腹を押さえる。

「いい食いっぷり」

「君も相当だよ」

 丁度半分に割り勘し、落ち着いてから店を出た。彼女の提案で公園に寄る。辺りは既に暗く閑散としていた。曇っていて月は見えないが、薄いそれは月を浮かばせる。ぼんやりとした月を、僕は彼女の隣に座って眺めていた。

「こうしてるとさ」

「……なに?」

 少し陰った表情で彼女は言った。

「あの頃に、戻ったみたいだなって」

 あの頃。中学時代を、僕も思い出していた。数多い友達の中、唯一僕の込み入った事情にまで踏み込んできた彼女。彼女の笑顔は、その思い出を温かく掘起こさせた。

「満月」

 彼女はあれを指差した。

「今日は、満月なんだよ」

 遠い何かに手を伸ばすように、彼女は少し寂しそうな笑顔をしていた。

「雲がなければ、月はきれいだよ」

「……そうかも、しれないね」

 僕は目をそらす。

「あんた、浅野さんと付き合ってるの?」

訊かれるかなと予想していた質問に、僕は落ち着いて答えた。

「違うよ、友達かな」

「じゃあ、私のこと嫌い?」

 僕は彼女を見た。恥ずかしそうにではなく気まずそうにそっぽを向いている。

「嫌いなやつを夕食に誘ったりしないよ」

 特別な人を作らない。僕が誓ったその原則を、昔僕は彼女に突きつけた。そんな原則を思い出すたびに思い出すのは、柚子のことだった。

 『彼』が、嘲笑うように僕を見据える。

「それならさ、私がまたあんたと付き合う可能性は、ゼロじゃないわけだ」

 じゃあねと手を振り、彼女は走って去っていった。


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