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天使のパレット  作者: 五月悠助
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二色パレット(最終話)

20


 シャリ、とリンゴでも齧ったような音が聞こえてきた。温かな空気の中、やっと身体が僕になる。

 真っ白な天井。少し硬いベッド。ここは多分、病院だった。

 誰だろう。

「ああ、裕太。起きたの」

 イアホンを外すと、僕に歩み寄った。首を傾げ、僕の眼の前で手を振る。

「大丈夫? なんか変なところある?」

「……姉ちゃん」

「どうした?」

 なんだか大人っぽかった。薄く化粧をしているのだろうか。

「そうだ、柚月はっ」

 彼女は起き上がろうとする僕を抑えた。

「大丈夫! 手術は成功した!」

「成功……」

「三時間前に終わって、多分まだ寝てる。途中で停電のトラブルでかなりヤバかったらしいんだけど、何とかなったって。すごい人でよかったね」

「そっか……」

 彼女は僕から手を離すと、ふふっと笑った。

「変わらないね、あんたも」

 窓の外は真っ暗だった。窓に僕が映る。

 変わらない。変わらないのだろうか。

「ごめんね、野外劇行けなくて」

 僕の隣の椅子に座る。やはりいなかったのか。彼女は自分のスマートフォンを見せた。

「でもほら、お父さんが撮ってくれてた。もう二回観たよ。あの人、こういうことしてくれるんだ」

 意外そうにしているが、彼女は知らない。今度落ち着いて教えてあげよう。お父さんはすごく頼りになって、実は世話焼きなんだってことを。

「姉ちゃん」

「なに?」

 言いたいことが山ほどあって、何を言えばいいのか分からなくなった。

「……あとどれくらいこっちにいるの?」

 彼女は指折り数えると、

「あと三日。まだ時間はあるよ」

 時間があるなら、焦ることはない。昔のように、勉強しながらでもラジオを聴きながらでもお菓子を食べながらでもいい、たくさんの話をしよう。

「裕太」

 彼女が笑っているのは僕のせいだな、と僕は思った。眼に映る僕は、情けない子供のようだった。

 彼は、僕に似ていた。

 何年か前に切り離した僕に。

 僕はもう情けなさを知っている。

「……なんて言うか」

 僕の姉は何もかも見透かしたようでいて、わりかし何も見えていなかった。そんな矛盾を知っていた僕だから、なんとなく、いらない仮面を作ってしまっていた。

「今日の夜ご飯、僕が作るよ」

 姉はあの頃のように、強がらず笑った。

「楽しみにしてるね」

 意地だったり強がりだったりとは少し違う、若さ故のよく分からなかった感情が作っていたぐずぐずの溝は、もうすっかり乾いていた。不安定だった頃に山に積もった僕らの雪が、春に急かされ解け始める。ゆったりと温かい水が流れ直し、僕らは少しだけ素直になった。

 今年の秋には僕らにだけ、そんな穏やかな春風が吹いていた。



 平日の夕方、僕は生徒会室のドアを開ける。会計はいつものように、だらしなく挨拶を投げた。

 僕が生徒会長なのは、今日限り。明日からは次の世代に引き継ぎだ。寂しい気持ちはないが、感慨に耽りたくはなる。

 私物が多い棚からいろいろカバンに詰め込んでいた。

「今日、他の子たちは?」

「どいてもらってます。俺が前田さんに大事な話があるって言って」

 会計はニヤッと笑った。

「換気扇どこだ? この部屋腐卵臭がするんだが」

「硫黄の燃焼実験なんかやってないですって。でも俺は前田さんのこと好きですよ? 化学の勉強の次くらいに」

「だからお前は化学ができないんだよ」

「亀仙人とかけまして、鉄やニッケルととく」

「その心は?」

「どちらもチカンが生きがいです」

「文系と常人には伝わらんな、いろんな意味で」

 それにしてもこの会計、ドヤ顔である。

「いつだったかお前、タイムマシンの話をしてたな」

「してましたねー。一応今でも考えは変わってないですよ」

 こいつは確か、物理に関しては学年一位を取り続けているのだっけ。あれは嘘ではないらしい。将来の夢を、こいつは紛れもなく持っていた。僕とは違って。

「お前はタイムマシンを見たことがあるか」

 何気なく言う僕へ、会計は何か思い出したように、

「分かりません。あるかもしれないけれど、今の俺はそんな良い目を持っていない」

「そうなのか? 僕はあるぞ」

 会計は普通にハシゴを外されたような顔をしていた。しかしこいつにカマかけは通じないか。

「本気にするな。冗談だ」

「驚きましたよ。まさか前田さんが未来人だっていう唐突な意味不明エンドが来るかと思いました」

「意味不明か? 僕が柚月を助けるためにやってきたタイムトラベラーだったら面白いと思うけど」

「だとしたら前田さんの本職は俳優ですね」

「違いないな」

 僕らは笑い合った。この会話の意味するところが他人に通じるかは分からないが、僕らの本職がコメディアンでないことは確かだ。

「前田さんも見つけたんでしょう、自分のやりたいことを」

 どうだろうな。

 僕は言ったつもりで、声になってはいなかった。自分でつけたお口のチャックを痛くないように剥がす。

「見つけたよ」

 僕は少し照れくさくなってそっぽを向く。

「前田さん、これ」

 オセロだった。僕は手をひらひらとさせる。

「お前にやるよ。次のやつらと遊んで友達作れ」

「俺の方の友達問題については超雑ですね。デリケートな問題なのに」

「最低限はしてやったろ。強く生きろよ」

 生返事して、会計はそれを棚に戻した。

「あそうだ、最後に一局どうです?」

「遠慮しとくよ。時間がないんでね」

「ちぇっ、つれないなあ」

 僕は部屋を見回した。ここではいろいろあった気がする。やけに馴れ馴れしいこの後輩と初めて出会ったのも、ここだった。

「迷惑かけたな、いろいろと」

 会計は顔を上げた。目を逸らすと、いつも通りに続けた。

「今更ですね。俺が無能なら即死でしたよ」

 あながち間違ってはいない。認めないけれど。

「俺がいなければ南さんと初対面したシーンで退学になってました」

「やっぱりあれお前だったのか」

 薄々そんな気がしていたが。定期試験ならともかく、あの問題が新井先生の独断だけでなんとかできるとは到底思えない。会計が被害者たちに何か言ったんだろう。

「これから上手くやるコツを教えて欲しいものですね。俺は前田さんみたいになりたい」

「それは面白い冗談だな」

「ええ、九割皮肉です」

「なるほど一割は本音なんだな」

「ポジティブだなあ」

 僕がカバンを持って振り返ると、

「前田さん」

「どうした会計」

 彼は僕にとって、とても不思議な存在だった。なぜ僕が名前で呼ばないか、それは怖かったからだろう。僕はこいつとなら、仲良くなってしまうような気がしたのだ。

 こいつは僕に似ていた。だから僕は、何を言いかけているのかが分かる。

 そういえばこいつは、もう『会計』ではないのだったっけ。

「これからもよろしくな。後期生徒会長、夏目裕太クン」

 精一杯の照れ隠しを込めて、そう呼んでいた。



 様々な色の世界が僕を包み、自分がそこに飲み込まれていくように感じた。見る目のない、また凄みを見慣れていない僕は、言葉を出せず、ただ立ち尽くしていた。

 隣に立つ君の横顔を恐る恐る覗いた。君は僕の知る、物憂げで、達成感と不安が溢れる表情をしていた。翼をぱたぱたとさせる君の手を握る。

「本当に君が描いたの?」

 特別な存在にと、そう言って君はこの形を選んだ。全てが好きな僕への、特別が好きな彼女の、彼女だけの愛の証。

 青も。黄も。緑も。白も。

 君の色は、君の赤は、君だけの色だった。

 僕は少し困って笑った。僕の顔を見て、ぷふっと笑みをこぼし、照れたように笑ってから自慢気に頷く天使の君に、目を合わせ笑いかける。

 しばらくの後、林檎を差し出した。

「僕、君のことが好きになったよ」

 振り絞った言葉を、全てを愛する天使のような僕は



 数日前から、地球の質量が小さくなった。羽を伸ばし、背伸びする。生徒会室から出て、僕は廊下を歩き出した。

「……柚月」

 彼女は僕に気づくと、また柔らかく笑った。彼女の前にしゃがみ、おんぶする。彼女は楽しそうにしていた。

 明後日は柚月の退院予定日。今日は特別に許可をもらって、こうして放課後の学校に連れてきていた。

「重くない?」

 柄にもなく気にした様子で訊いてきた。

「僕はこう見えて力持ちなんだ。例えどれだけ重くても平気だよ」

 そんな風に、僕は強がった。

 柚月は大きなコートで入院服を隠し、冬場のような毛糸のニット帽とフードを被っていた。なんだか子供の魔法使いのようだ。

 手術によって、腫瘍は完全に取り除かれた。しかし失われた感覚は戻らない。嗅覚は無くなったままだし、聴覚も弱いままだ。

「リハビリ、やってるの?」

「うん。あと一ヶ月くらい頑張れば、少しの距離なら自力で歩けるようになるって。さすがに走ったりできないんだけど……」

 あの停電で、柚月は足に障害を負った。でもそれでブラウンさんを責める気は全くない。聞いた話だけれど、あの状況で柚月が生き残れたこと自体が奇跡だったそうだ。奇跡というか、ブラウンさんからしてみれば奇跡が起きてしまってバランスを崩したのだろうが。

 報酬のお金は柚月の両親がきちんと支払い、お父さんもすぐに執筆してくれ、しかもブラウンさんに直接会ったそうだ。その時の話を、お父さんはしてくれた。

「僕は柚月に頼られたいんだ」

病院のにおいがする。無機質な、機械な感じ。そんなのは柚月に似合わなかった。

「聞こえなくても、見えなくても、歩けなくても。僕はいつまでも側にいる。こうして背負うし、なんでもするよ。そのために、僕は強くなるから」

 空っぽでない、本物の強さ。泥臭くても無機質でも関係のない、芯のある強さ。人から見た完璧超人らしかった僕は、自分から見た完璧超人になる。僕はどんな重みにも耐えられるような、すごい人間になる。

 階段を一段一段、ゆっくりと踏みしめる。最上階にたどり着くと、ポケットから鍵を取り出した。錆び付いたドアをこじ開ける。

「目を瞑ってくれるかな。風が強くて」

 僕の宝物。彼女との出会いを思い出した。住む世界が違うような彼女に、僕は思わず目を引かれた。何も知らず、何も無かったあの時の僕が、同じ位置で感じられる。

「僕が生徒会長なのは今日までなんだけどね。前田裕太って知ってるかな。僕の名前だよ」

「……懐かしいセリフだね」

「覚えてたんだ」

 柵の近くに彼女を下ろし、やっと柚月は目を開けた。僕らは二人して、言葉を失う。

 何も無かった僕の、特別な夕焼け。自慢する相手もいなかった僕が、スマートフォンにあるこの夕焼けの写真を見せたのは柚月が最初で最後だった。

 赤く、明るい。

 放射状に広がる光は所々瞬き、そこかしこで生きていた。目に映る像が、僕らに熱を届ける。

 柚月は口を開けて眺めていた。彼女の目に映る白黒の世界で、どんな世界を見ているのだろうか。

「色彩感覚は、戻らないんだっけ」

「……うん」

 でもね、そう柚月は眺めたまま続けた。

「裕太くんは、いろんなことを教えてくれたよ。裕太くんと話してるとあったかくなるし、ドキドキするんだ。おんぶしてくれる時も、今この景色も。これは多分ね、」

 それは赤。心地よく温かい、

「恋っていうと思うんだ」

 夕焼けのせいで頬はやけに赤く染まっていた。恥ずかしそうに夕日の方を眺めていた柚月は、ゆっくり僕の方を見る。

「生きたい」

 高揚した彼女は純粋な笑みを浮かべて続ける。

「生きたい生きたい生きたいっ。私ね、なんで死ぬのがあんまり怖くなかったのか分かったよ。私は大人になる前に死んじゃうから、子供で終わるってずっと思ってた。仕方ないことだって思い込んでた。そうすれば自分はかわいそうだけど、他の人はずるいけど、それが当たり前なら受け入れられるって思ってた。私は大人になれないから、もう悩んだり苦しんだりして頑張る必要はないって」

 柚月の感情は、ごちゃごちゃだった。それはもちろんいい意味で、今まで封印してきた気持ちが溢れてくる。必死に自分の思ったことを言葉にしようとする彼女は、知らない世界を目にした時の、目をきらきらさせた子供のようだった。

 幼くて繊細で精巧。

 そんな彼女の世界は、取り巻いていた環境が形成した。成長への諦め。それが彼女が特別な理由だった。

「私、ずっと裕太くんと生きたい。辛くても苦しくても、私は頑張れる。目を逸らさない。未来のこととか今まで考えてこなかったから、どんな大人になりたいかとかって分からないんだけど、だから、裕太くんから教えてもらいたい」

 彼女にとって僕は友達で小説書きで生徒会長で勉強の先生で、時には人生の先生だったのかもしれない。僕なんて全然大人じゃないし、すごい子供でもなかったけれど、彼女はいつも僕の捻くれて意味ありげな話を聞いてくれた。

「青も、黄も、緑も、白も、黒も、赤も。私は裕太くんに教えてもらったよ。私の色は私だけで、私の世界はカラフルだって」

 彼女だけの、特別な色彩。

 僕は彼女から、この世には特別な色彩があることを教えてもらったのだ。この世界は僕が思うより広くて、でも手を伸ばせばどこにでも届く。どんな名言も正論も僕には関係なくて、そんなの諦める理由でしかない。僕は本物の僕で、彼女と向かい合う。

 君が死ぬのなら、僕はまた君を助ける。例えばそう、今度はタイムマシンでも使って。

見つめる君は少し照れたように笑った。

「……ラストシーン、考えたよ」

 僕の中で燻っていたぼんやりとした言葉が、今なら精一杯の形になった。僕は力一杯、それを物語る。

『神様に見つかる前に、一緒に人間になろう』

 「君」の見せてくれた絵は「二色パレット」。君は僕と君だけで、どんな世界も描けるんだと言った。

『君は死なない。僕は君のためなら、全部ひっくり返して助けてみせる。僕にはできないことなんて何もない、君がそう、思わせてくれる』

 僕はそういって、林檎を差し出した。

『僕は君が、ずっと好きだったよ』

 どんな言葉も僕の気持ちに代わる前に、気持ちよく霧散していった。分からない何かが溢れ出る。包み込む。

 美しいだけでない世界。大人という世界。色とりどりの異世界。単二色の僕ら。

 どんな世界にも光があった。僕の見る夢も君の見る世界も、その中心には僕らが在って、あの日から僕らはずっと同じ光を見てきた。僕らはちっぽけで僕は平凡だけれど、僕が平凡だから、特別な君を圧倒的な光の中に夢見た。夢のように特別な、天使のような君。

 僕らには羽根があった。どんな夢にも絵画にも、どんな物語にも温かい風が吹き、僕らは月にも手が届く。唯一で特別な、僕らだけの物語。

「ありがとう、僕と出会ってくれて」

 柚月はふっと顔を上げた。

「僕の特別になってくれて、ありがとう」

 僕の人生は揺れ動き、心も揺れ動いた。

 十八年分の空気が、思い出したように吹き付ける。

「風が強いな。目瞑ってくれるか」

 君は小さく首を傾げる。僕はいつものように笑いかけた。

 赤い屋上は僕ら以外、秋風さえもいなくなって、ここはとても静かだった。

 夕暮れの太陽が揺れ動く。

 そしてたまたまかな。

 僕らの影が、揺れ動き重なった。


fin

全20話お付き合いいただきありがとうございました。ここまで読んでくださった方がいたら感激です。

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