慣れない勇気
2
いつもより明るい朝、僕はバスのつり革にだらしなく掴まってスマートフォンを眺めていた。学生がひしめき合う箱の中はがやがやと元気よく、運転手は煩わしそうに荒々しくハンドルを切った。
「あ、前田さん」
顔を上げると、見慣れた後輩がちゃっかり座席に座っている。
「会計か、おはよう」
「だから会計ってやめて下さいって。あ、席は譲りませんよ」
僕は体操服まで強引に詰め込んだリュックを下ろし会計の膝に押し付け、多少の開放感を味わった。変な体勢を強いられていたので、運動をしていないと多少の負担でも肩が凝るのだ。
会計の隣に立ってみるものの、これといって話すことはない。僕らはただ生徒会でたまに仕事をする程度の仲だ。
「そういや、忘れてました。昨日文化祭の書類山盛りで追加されたんですよ。文句なら新井先生にお願いします」
またか、そう顰めながらあの人のやる気のない顔を思い出していた。頭はいいがしっかりしていないあの人にはよく助けられているが、代償としての雑務はオマケにしては文句を言いたくもなる。
「なあ、会計」
「断ります」
「断るか、残念だ」
「放課後、生徒会室。オーケー?」
学校前のバス停がコールされ、僕らはもみくちゃにされながらバスを降りる。会計は何が楽しいのか、笑みを浮かべながら適当に手を振って人混みに消えていった。
僕は教室に辿り着いても人々に捕まり数言交わし、粗方回ってから自分の席に着いた。上着を椅子にかけると、隣の彼女に笑いかけた。
「おはよう、浅野さん」
彼女はなぜか開いていた現代文のノートにバッと手を被せる。
「あはは、何それ落書き? すごい、絵上手いんだね」
浅野さんはぎこちなく頰をかくと、小さい声でおはようと返してくれた。
「これ、アカネだよね」
彼女は少し驚いたように顔を上げる。
「知ってるの?」
「うん、ロガシーでしょ? 漫画もアニメもみたよ。僕こそ驚いた。やっぱり女子にも人気なのかな……って、何が可笑しいんだよ」
僕がアニメを見てるとおかしいだろうか。それからすぐに一時間目が、一日が始まった。
体育から帰った昼休み、僕は弁当を持って、いつものように十人くらいの男子の輪の中に向かう。
「あの、前田くん」
僕は振り返ると、彼女の言葉を数秒待った。彼女はぎこちなく口を動かす。
「財布、忘れちゃって……お金、貸してくれないかな」
「いいよ、じゃ行こっか」
僕は男たちに適当な言い訳と自分の席に弁当を置いて、代わりに財布を掴み教室を出た。浅野さんも小走りでついてくる。隣に並んで気がかりそうにする彼女に笑いかける。
「弁当なんて後で食べればいいんだよ。どうせ美味しくないし。いつもはお昼ご飯、どうしてるの?」
「いつもは、玄関で売ってるパンだよ」
「じゃあ今日は折角だし食堂に行ってみよう。僕も実は数回しか行ったことないんだよね」
食堂は去年に大幅リニューアルが行われたらしく、そのおかげで人気が急落し人がまばらにしかいない。なんでも値段が上がって定食が美味しくなくなったとか。元々入っていた会社が倒産してしまったらしい。
僕はうどんを、彼女はそばを注文してすぐに受け取り、やっと体育でくたくただった足を落ち着かせた。
「男は持久走で大変だよ。この時期は本当にきつい。女子は何やってるの?」
浅野さんは箸を止めて、
「私たちは、バレーボールだよ」
「バレーか。浅野さん上手いの?」
「ぜんっぜん」
「そんな食い気味に否定しなくても」
浅野さんはまた仮面を落とし、視線を落として控えめに笑う。僕はちゅるちゅると面白いそばの食べ方をする彼女を、笑いをこらえながら眺めていた。
「完璧超人って」
食べ始めてから食欲が少し落ち着いてペースが落ち着いた頃、浅野さんは突然そう言った。
「なに?」
僕が苦笑いしながら訊き返すと、確度が高くないんだろう、自信なさげに、
「クラスの人たちが言ってた。前田くんは勉強もスポーツもできて生徒会長だから、すごい人なんだって。だから私、三年生になる前から前田くんの名前知ってたよ」
顔は知らなかったんだろう。僕はなんて言えばいいか困ったけれど、その事実は嬉しかった。その噂には魚のような尾ひれと狐のような口が付いているけれど、僕みたいな凡人のハリボテの評判が、そんなところで実を落とすとは思わなかった。
「その噂と実際の僕、一緒だった?」
困った質問だろうか。
僕には大体合っているようにも思えるし、全然違うようにも思える。僕みたいな変な人間に、最低限の興味があった。
「分かんない」
でも、そう彼女は頑張って言葉を繋いだ。
「他の人とは違うって……思った」
前田くんって、そう言って彼女はしばらくしてから顔を上げると、
「前田くんは、すっごく友達多いよね」
「……友達、ね」
友達は多く、友達は好きだ。しかし僕には親友はいない。
そんな細かい事情を話すのもおかしいと思うので、これはいい機会だ、彼女に訊いてみることにした。
「浅野さんはなんで友達作らないの?」
人を、避けるわけでもなく見ない。興味がないのとも違った、孤独と孤立の中間のような的を得ない気持ち。
「悲しくなるから」
ここに吹いたのは、白みがかった春の風だった。その桜はやけに白々しく、氷が僕らに降り積もる。
「私、もうすぐ転校するんだ」
その言葉を反芻し、その日が経ち終わった。終礼の起立に軽く腰を浮かし、そのままカバンを背負う。
僕は廊下で教室の中を眺めていた。桜舞い散る高校三年の四月。高校最後の春、教室は変な活気に満ち始める。
掃除が終わって出てきた当番のクラスメイトに会釈し、代わって入った。
「……待っててくれたの?」
浅野さんは意外そうに僕を見返す。
「うん、頼みごとがあってさ。生徒会の仕事で援軍が必要で。申し訳ないんだけど、これから時間があったら手伝ってもらえないかな……」
どう見ても僕と会計の二人では一日で終わりそうもなく、かといって副会長や書記やもう一人の会計は名前だけの女子で手伝いにも来ない。副会長なんて図らずも僕と同じクラスなのに、図太い人である。昼にお金を貸してあげたお返しという大義名分の下、僕は自分の体育で疲れた足を彼女の前に運んだ。あっさり承諾をもらい、僕らは歩き出す。
暖かい放課後。温かい放課後。
渡り廊下に設置されている大きな鏡を、そこに映る彼を通り過ぎつつも睨めつけた。
生徒会室には既に会計が到着しており、やる気も敬意も無さそうに僕らへ挨拶を投げた。
「お疲れさんです。あちょっと、生徒会室に女連れ込まないでくださいよ」
「おい表出ろバカ」
ついうっかり毒づいたことに苦笑いし、浅野さんにその二つを誤魔化した。
会計は顔を上げると、驚いたように彼女を見る。
「浅野さん、ですよね」
「なに、もしかして知り合いなのか」
知り合いというか、と会計はらしくなく言葉を濁すと、
「中学が一緒なだけですよ」
彼女に僕の向かい側の席を勧め、席に積んであった紙束を三割ほど摘んで渡した。
「文化祭での部活のあれこれでイザコザがあったみたいでさ。申請書と実際とが合ってるかの確認をしてほしいんだ」
浅野さんは頷くと、少しだけ物珍しそうに紙をぺらぺらめくっていた。
一時間くらい経っただろうか。会計が居てくれるおかげで気まずかったんだろう、浅野さんはいつも以上に黙ってしまった。早く帰りたいという目的も一致しているので無駄な雑談も挟まない。
この学校には文化祭実行委員会にあたる組織が存在せず、大方の仕事は僕らに回される。それがかなりの仕事量で、二人でやるとなるとあまり手を抜いてはいられない。労力がかかるのは別に構わないけれど。
会計は僕の方にひらひらと最終報告書を見せびらかすと、手を伸ばす僕に渡した。
「遅かったな」
「石橋叩いてたら長引きました。几帳面だと困りますね」
「正確性では石橋を壊してまわるって感じだけど」
そこまで拘ることはない。
「……ま、大丈夫かな」
「当然です、有能ですから。……残りの資料も問題ないでしょうし、あったとしたら後から訂正すればいいですよね。資料の方は結構残ってますけど、とりあえず新井先生が職員室にいる間に渡してきましょ」
そうだな、僕は立ち上がり浅野さんに笑いかけた。
「ありがとね。僕らは職員室行ってくるよ。疲れたら休憩しても大丈夫だから、申し訳ないけどもうちょっとだけ付き合ってくれるかな」
彼女は顔を上げ頷いた。さっさと出て行った会計に駆け足で追いつく。
「で、話の続きは?」
ひー、とため息ともなんとも取れない声を発し、会計は困ったように腕を組んだ。いつも半笑いの彼は彼らしく、彼らしくなくどう誤魔化したものか考えているようだった。
「別に、仲が良かったとかではないですよ。部活が一緒だった、ってだけで」
「部活ねえ、何部だったんだ?」
「……美術部です」
僕は思わず訊き返した。会計はプイッとそっぽを向いた。
「俺自身、自分に美術部なんて似合わないなんて分かってますから。それはいいでしょ今は」
このまま元文化系男子といじり倒すのも良かったが。
「浅野さん、美術部だったのか。でもそれはさして意外でもないかもな」
「それがですね、浅野さんすごい絵上手いんですよ。別格です、正直。敵う気がしませんでした」
朝覗き込んだ漫画の絵に納得がいって、そして興味も湧いた。儚げな彼女の目に映る世界というのは、どれほど僕とは違うのだろうか。
で、と会計は改まった。
「浅野さんのどこがタイプなんですか? やっぱり顔ですかね」
「おい。そんなんじゃないし」
「はあ? もしかして前田さん、好きでもない女子を連れ込んだんですか。とんだタラシじゃないですか」
僕は会計の頭に拳を下ろした。
「いたっ! 拳固すぎでしょ……まあ話戻しますけど」
「戻さんでいいわ」
遠くに見える職員室をこんなに恋しく思ったことはない。変えれる話題も見つからなくて、僕も困って腕を組む。
「ただの友達だよ。それに僕は、あの子の顔をまだ知らない」
顔は知らない。僕は殆ど何も、彼女について知らない。彼女を覆っている仮面は、あまりにも上手くできすぎていて完成していたのだ。
僕らはこの後、職員室でぐだくだした新井先生の愚痴話を長々と聞かされるハメになったのだった。
生徒会室に戻った頃には陽は傾き始めていた。僕らは机にうつ伏せになって熟睡している浅野さんを見つける。僕は彼女の片付けていた資料に目を通した。
「浅野さんって要領いいんだな。もう全部終わってるよ。これは急ぎじゃないし、明日渡しに行こう」
「それはありがたいですね。じゃ、俺はお邪魔しないように帰りますわ」
さっさと出て行った会計を放っておいて、僕は彼女の元に歩み寄る。寝顔が見えなかった惜しさを秘めて、彼女の肩を揺すった。完全に寝ぼけたような彼女を代わりに見て、
「浅野さんおはよう、ありがとね。こんなに早く終わるとは思わなかった」
彼女は微かに照れたように笑った。
「じゃ、帰ろっか。アイスかジュースでも奢るよ」
「わ、悪いよ。お金貸してくれてるんだし……」
「気にしない! 手伝ってくれてありがとね」
浅野さんと数言交わす。貴重な、そう飾りたくなるのは何故だろう。僕は会計の言葉を思い出した。
浅野さんの表情を見て、その目に写る僕を見て、次に彼女に会った時までに、僕は楽しい話題を作っておくんだろうなと思った。
なんとなく楽しくて、なんとなく幸せで。今までの人生、僕はずっと笑っていたけれど、自分が本当に楽しがっているのかが分からなくなっていた。自分と向き合っていたくなくて、自分を忘れられるように架空の仮面を作り出した。みんなに好かれるようなキャラを作った。
そんな僕の仮面の作り方は、誰しも持っている普通のものだ。彼女は違う。正反対だ。
違う浅野さんに。他とは違う彼女に、僕とは違う彼女に、僕は人間として大切な『彼』を思い出させられた。僕が捨てた『彼』は、すぐ側ににじり寄る。
ただいま、そう空の家に呟くと、僕は荷物を放り出してシャワーを浴びようと洗面所に入った。
「随分楽しそうだったね」
僕は鏡を睨みつける。
「なんだよ、悪魔みたいな顔して」
目を合わせないよう、彼に背を向けた。