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天使のパレット  作者: 五月悠助
19/20

特別な想い出

19


 人の入らぬ森の奥に、僕たちはおぼつかなく歩み入った。生命の鳴り止まないそれはしかし迫力と共に、僕の心に内側から拡がっていく。そんな圧力に耐えられなくなって、彼女を呼び止めた。

「もう少し。もう少し」

 引力でもあるように、僕の身体は木や石に擦りながら前に進む。彼女の立ち止まるのを見て、恐る恐る視界を広げた。

「これをあなたに見せたくて」

 何もない、何もかもがある。

 夕暮れに彩られ、様々な赤に描かれた村並み。まるで一つの絵画のような、しかし作り物には見えない微細な色使い。そこに在ったのは夢のような、非日常の異世界だった。

 目の前の美しい怪物は、僕がずっと憎み続けてきた怪物は、寂しそうに笑った。

「僕は君に喰われたいな」

 苦い思い出も、苦しい経験も。幸せな思い出も、夢のような想いも。全部彼女になら、殺されてもいいと思った。

 僕は、『僕』は過去の本音を口にした。

「僕はせめて、君のために居なくなりたい」


 全て忘れるのは、やはり人間だから。月日が経てば、どんな美しい思い出も色あせていった。記憶の破片に、彼女を見つけた。

「何を見ているの?」

 隣に座る君に、僕は笑って見せた。

「何もないよ」

 僕はまだ、モノを知らない。だからこれが何なのかは分からない。

「記憶を」

 君は首を傾げた。

「記憶を、見ていた」

 人はモノを忘れると、君は言った。僕はその矛盾に戸惑っていた。

「大切な記憶は、失っても忘れない」

 君はいつも、変なことを言う。とても人間な君に、僕は相変わらず憧れていた。

 大切な記憶。僕はこれをいつか忘れるのだろうか。そう恐れていた。色褪せて思い出になる彼女。楽しくてたくさんのことがあり、変わった高校生活。将来が何も見えないからこそ、高校生活がなおさら愛おしくなった。忘れることが怖く、懐かしく思い出す自分が嫌だった。

 背景画の近くに明里が見える。僕は柚月と立ち上がった。

 僕は君と僕は君と忘れながら、大切にして憶えていく。



 見ている人がどんな反応をしたか、辺りを見回す余裕なんてなかった。三十分はあっという間に過ぎてしまい、惜しむ気持ちと共に道具とはけていくと、裏に着いてやっと、クラスメイトは興奮を表した。

「裕太くん!」

 後ろから手を引かれた。柚月はスマートフォンを手に持っている。

「写真撮ろうよ!」

 柚月の背中を押す奈良坂さんはにこにこと僕らを眺めていた。

「ほらほら私撮るよ。柚月ちゃんスマホ貸して? ほら、肩組む!」

 気恥ずかしかったが、幸いクラスメイトは大方他のことに夢中だ。僕は変なテンションになっている柚月に合わせてピースした。

「恥じらう男女、いやあ眼福眼福」

「奈良坂さんもいい性格してるよ」

「ふふふ、私の妄想力をなめないでね」

「なめてないよ、すごく怖い」

 奈良坂さんは柚月にスマートフォンを返すと、ナイスファイトと頭を撫でた。僕は苦笑いする。

「いいよね、前田くんは」

 奈良坂さんは僕にだけ聞こえるように言った。

「奈良坂さんも心が読めるの?」

「どゆこと?」

「なんでもないよ」

「前田! 写真撮ろうぜ!」

 高梨が佐々木や他の男を引き連れてきた。僕は手を挙げて応じる。

「私撮ろうか?」

「ありがとう」

 興奮の余韻は夕方まで漂い、やっと努力が報われたような、そんな気がしていた。


「君、九組の主役の子か?」

「脚本もあんたが書いたんやろ。すげえやつもおるんやなあ」

「ホントのドラマ見てるみたいで面白かったよ」

 僕はぺこぺことお辞儀して、誰の保護者とも知らない人たちの帰りを見送っていた。薄暗い中、正門前で生徒たちの椅子の足の砂落としに協力している内に、いろんな人に話しかけられてそれどころではなくなってしまった。

「賞は獲れたんか?」

「優秀賞でした。上から二番目です」

「そうかあ、俺は一番だと思ったけどなあ」

 夫婦だろうか、年配の二人は僕の肩を叩くと、ニカッと笑った。

「自信持てや。あんたみたいな高校生がおるなんておもろいわ。勉強も頑張りな」

「……ありがとうございます」

 手を振ってきたので、僕も手を振って見送った。角を折れて見えなくなり、僕は振り返る。

「今の人たちで最後だよ」

 明里が柱の陰から歩いてきた。

「なんて顔してんの」

「いや、なんか胸がいっぱいで」

 明里はクスッと笑った。

「で、あの人は見つかったの?」

「……それはまあ、別にいいんだよ」

 正門前には誰もいなくて、今頃は片付けが進んでいる頃だろうか。生徒会だからと手伝いに来たが、なんだか合法的にサボっているような気がする。

「教室、戻ろうか」

 歩き出した僕の袖を掴まれた。僕は少し驚いて振り返ると、明里は視線を落として唇を小さく開け閉めしている。

 僕は何も言えなかった。互いの顔が見えにくくなってきて、やがて淡く黄色いあかりが灯った。

「楽しかったよ。なんだか中学時代に戻ったみたいだっ「私ね、」

 明里は力弱く、僕の言葉を遮った。

「裕太と初めて会った日のこと、覚えてるよ」

 初めて会った日。中学一年の丁度この季節。僕も覚えている。

「私が部の先輩にいじめられてたのを、助けてくれたんだよね……。驚いたよ! だってあんた、先輩を、しかも女子の先輩をグーで殴るんだもん」

 そんなこともあった。明里は下を向きながら、小さく吹き出した。

 それから、いろいろあった。

「最初はヒーローに見えた。それからあんたを知ってく内に、あんたも大して強くないことを知った。だから私、ずっと憧れてたんだ。あんたといれば、大っ嫌いな私のことも、好きになれるかもしれないと思えた」

 だから、そう明里は続ける。

「あんたが私のことを好きだって言ってくれた時、死んじゃうくらい嬉しかったの。ずっと強がってたけど、だから、ごめん」

 明里に好きだと言ったのも、そして別れようと言ったのも僕だった。弱い故に、空っぽな故に、僕は彼女を傷つけた。最低で弱っちい僕は、ただ唇を噛み締めることしか出来なかった。

「柚月のこと、私より好き?」

 明里は僕を見た。心臓が無理やりに縮こまる。僕はやっとそれを振り切り、強く一度だけ頷いた。

 彼女はまた下を向き、手で顔を覆う。

「へへへっ……あの子は、幸せ者だなあ」

 彼女はごそごそとポケットを探ると、スマートフォンを取り出した。操作しながら僕の隣に来る。

「写真撮ろ」

 僕が何か言う前に、彼女は手を伸ばしてシャッターを押した。

「……変な顔。もう一回」

 パシャ、ともう一度彼女は写真を確認し、よし、と僕に送信した。

 真っ直ぐにレンズに向かう彼女と、少し目をそらす僕。強がって笑う彼女と、振り回されるように笑う僕。なんだかいつも通りだ。

「いつも勝手だな」

「ごめんって。私、こうじゃないと生きていけないの」

「知ってるよ」

 僕らは笑い合った。共に支え、共に笑った。僕は彼女に救われた。

「……写真、大事にするね」

 彼女の瞳に灯りが煌めき、それは頬を伝った。

 笑顔で、最後に明里は言った。

「ずっと好きだった」

 特別な、想い。

「素敵な思い出をくれてありがとう。昔の夢でもなんでもいい。私を好きになってくれて、本当にありがとう」

 その写真はちっぽけな僕らの、美しく儚い思い出だった。



 その夜、僕は柚月に全てを話した。僕は柚月から病気のことを話されてから、秘密で情報収集していたこと。東京に行ったのは東京大学の准教授に会うためだということ。アメリカに行ったのはその医師に会うためだということ。

「私……生きれるの?」

 僕は強く頷いた。何度も、強く。

「そんな……私、そんな……」

 柚月は僕を見て、おそらく信じてくれたのだろう、彼女は僕に飛びついた。脇目も振らずに涙を落とす彼女の頭を撫でる。

「嘘みたい……幸せすぎて、死んじゃいそう……」

「……ものっすごい本末転倒だな」

 えへへっと柚月は笑った。

「夢じゃないよね?」

「夢じゃないよ。だってこんなにも関節が絞まってキツイ」

 あ、と柚月は慌てて手を緩めた。僕は少し跼み、目線を合わせる。

「僕はもう逃げない。後悔も失敗もしない。だからもう一度だけ、戦おう」

 笑いながら泣きながら、柚月は頷いた。


 その後、柚月の両親にも手術の件を説明した。もちろん最初は信じられない様子だったけれど、具体的な書類や契約書を持ち出すと、やっと現実だと認識してくれた。事が事だけに一時間ほど時間がかかって、やがて契約が成立した。

「前田君!」

 柚月の家を出て少し歩くと、お父さんに呼び止められた。

「改めて、初めまして。娘のいない所で話がしたいと思ってね」

 今になって東京外泊のことや先日の学校寝過ごし事件のことで殴られるのかと思ったが、

「あの子から、よく君の話は聞いてたよ。高校に入って初めて友達が出来たって、複雑そうにしながらも嬉しそうに話してくれた。あの子はそれから、すごく変わったよ」

 心を閉ざし、閉じこもっていた。そんな春の柚月を思い出した。

「今日、私は確信したよ、いろいろとね。君に笑いかけるあの子を見て、私は胸につかえていたしこりが取れた気がする」

 これもまた複雑だけどと、お父さんは手を差し出した。

「柚月のこと、よろしく頼む」

 僕が驚いていると、お父さんが面白そうに笑った。僕も笑って、手を握る。

「僕のお父さんも、これくらい優しく笑ってくれたらいいんですけれど」

「ははっ、彼も若いんだろう。会ったことはないが私から見れば、多分二人は兄弟に見えるよ」

 兄弟。なんだかそれはとてつもない冗談のようだった。

「これ、見てください」

 僕はスマートフォンの写真フォルダを開くと、お父さんに見せた。

 そこに写っていたのは、柚月を囲んでポーズをとる女子のクラスメイトたちだ。グループチャットに載っていたものを、勢いで保存したのだ。

「柚月さんの絵には、クラスメイト全員が助けられました。それに劇でも重要役をやって、友達も大分増えました」

 お父さんは鼻を抑えると、心の底から嬉しそうに画面の柚月を眺めていた。この人はやはり柚月の父親なんだな、と改めて思った。

「柚月さんは強いです。だからきっと、手術も乗り越えてくれますよ」

「……私は何回君にお礼を言えば気がすむのかな」

 お父さんは僕の目を見て言った。

「本当に、ありがとう」



 カチリ、カチリと時計の音が大きく響く。活字が縮んだり折れ曲がったり、僕は急いでシャープペンシルを走らせた。外では雷が鳴り、雨が降る。

 二学期中間試験、国語。終了のチャイムが鳴っても、僕の答案用紙は半分も埋まっていなかった。

 定期試験の時、座席は出席番号順に並べ変わる。だから僕の隣の席は、空席だった。

「今日だよな、手術」

 高梨は僕の顔を見て、慎重に言った。

「そう、だけど」

 また僕は、柚月がいるはずの席を見やった。

「もう僕に出来ることは、何もないから」

 だから僕は、こうしているしかない。

「行ってやるべきじゃないのか」

 僕は高梨に視線を戻した。

「お前が側で応援してやるべきじゃないのか?」

「おい、高梨……」

 大きな声だったので、クラス全員がこちらを向く。高梨はその高い身長で僕を威圧した。

「ここに来てなに引いてるんだよ。こんな無様な答案用紙書いてるぐらいならすっぽかしちまえよ」

「だから、僕が行こうといくまいと……」

「浅野の手術が終わった時、一番に声をかけるのがお前でなくていいのかっ? こんな何もせず震えてるお前見てると、思わずガッカリしそうだ」

 クラスメイトも同調するように、僕に声を投げかける。

 そうだ、僕は覚悟したのではなかったのか。僕はその決定的瞬間から、目をそらしてはいけない。

 僕は次のテストの準備をする新井先生に向かった。

「新井先生」

 僕の方に目をやると、また手元に戻す。

「……行っちまえよ、こんなテストくらいなんとか出来るわ。性格と性癖と教師に対する態度が悪いので早退したってことにしといてやる」

「教師の発言じゃないですねそれ」

「俺を教師っぽくないって言ったのはお前だろ」

「言ったことないですよ」

「俺は心が読めるんだよ」

 いつも通りの新井先生で、いつも通りの会話だった。無気力で頭の良い、結構おせっかいな先生。どこか父親に似ている。

 そして見回した。皆僕に頷いてくれる。

 ありがとう。

「行ってきます」

 僕は教室から駆け出した。


 外は雨が降っていた。傘をさすもビショビショに濡れながら病院まで走る。

 僕は無心だった。ひたすら前だけを向いて、多分車に轢かれても気づかない。そんな僕に気を遣ったのか、車の方から避けてくれた。

 今まで実感に欠けていた。今日で全ての運命が決まる。仮に失敗すれば、全てを失うことになる。

 これがやっと理解出来て、僕は怯えていたのだろう。

 病院の敷地内に入ったその時。物凄い地響きとともに、すぐ近くに雷が落ちた。

「電気が……?」

 病院はすぐに非常電源に切り替わる。僕は胸騒ぎがして傘を放り出して走った。

「裕太ちゃん!」

 手術室の前には柚月のお父さんとお母さん、それに今日が土曜日だからか南がいた。僕は二人に小さく頭を下げると、

「南、何かあったのか?」

「雷が落ちて一瞬停電しました。大丈夫だと思うんだけど……」

 心なしか、人の声が騒がしい。心拍が上がっていった。

 また光る。視界が白く染まる。空気が割れるような音がする。

 光る。白。爆音。

 光る。白。爆音。停電。

 光る。白。爆音。

 光る。白。爆音。停電。

「裕太ちゃん……!」

 音の連発で、鼓膜が破れそうだった。雲の上で、彼がニヤニヤ笑っている。

 また光る。最後の一発が、僕に命中した。



「神様は約束を破らないよ」

 僕はそんな言葉を、上の空で聞いていた。こういうのを人間は現実逃避と呼ぶのだろう 、僕はもう逃げたかった。

 逃げたかった。忘れたかった。

 神様に殺されてしまった君を、僕は忘れることが出来ない。

 まただ。また僕は失う。

 僕に何が足りないんだ。

 これ以上どうしろというんだ。

「君に必要なのは素敵な魔法さ。心を真っさらにするような。本物でなければ使えない、素敵な魔法」

 そんなもの知らない。もう聞きたくない。

 僕は唇を噛みしめた。

 僕が特別扱いしたかった君を、僕が愛した君を。涙の流し方も知らないくせに、僕は手で顔を塞ぐ。

「あの子に会わせてあげよう」

 彼が霧を取り払うと、彼女が横たわっていた。僕はすぐに抱き上げるが、やはり冷たくなっている。前髪をどかし顔を覗くと、僕は彼女の手を強く握った。

「君、ずいぶん変わったね」

「うるさい黙れ」

 何故だか分からなかった。僕は彼を見つめる。彼の目には、涙があった。

「僕は君だから」

 それを見て、僕は身体が少し軽くなった。服が濡れて重かったのに何故か、浮かぶように軽かった。

「君のいいところは、不死身なところだ。何遍殴られても、君はその分立ち上がれる。君はいくらでも強くなれる」

 ははっと彼は笑った。

「君は僕の憧れだよ」

 鏡は対称な自分を写す。対照な自分を写す。鏡は、自分を写す。

「僕はお前が怖かった」

「僕も君が怖かった」

『一緒にいると変になりそうだった』

 僕は正義で、彼は悪。彼は僕の悪者だった。自分が正義でいるための、正義の敵。都合のいい観測点だ。

 そうか。

 そうだ。

 僕は変になりたかった。

 お前たちのように。

「……僕は変になれたかな」

「知らないよ君のことなんか」

「お前は僕なんだろ」

「都合のいい時だけそれってずるいな」

 彼は笑った。多分僕も笑っている。

『僕は君だ』

「お前は悪魔だ」

「君は天使だ」

 僕たちは、人間だ。

 僕たちは揃って人間になる。

「僕は長い間、天使に取り憑かれていたんだな」

 いろんな人間に会って、変えられてきた。全ての変化のおかげで柚月に出会い、自分を裕太であらせた。

 僕は自分が大切で、同じくらい柚月が大切だ。全ては僕を構成し、だから僕は「自分(全て)」が大切だ。

 天使でもあり、悪魔でもある。

 僕は彼で、僕は悪魔で、僕は人間だった。

「代償は記憶喪失」

 諦め。悲しい思い出。

「本当にいいのかい?」

「構わないさ」

 特別な想い。……『再会』。

「大切な記憶は、失っても忘れない」

 彼は僕は、君に向かい笑った。ポケットからコインを取り出す。一度は使い方を間違えて、君を見失ってしまった。僕のが君のと重なり合い、紅く特別に輝き合う。僕たち、僕らの永遠の証。

 これは僕らの奇跡。一度だけ神様に許された、僕が知ってる復活の魔法。

 特別な君に、もう一度その矛盾した花を握り僕は唱えた。

「『リコリス』。もう何度でも、君に会いたい」


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