あの最高の世界で
17
……。
ねえ神様
ぼく利口にやってたよ
いうこと いい子にやったよね
おいしそうなあなた
嘘だらけで砂だらけ
雪は水滴のよう
真っ赤なホワイトクリスマス!
さんたさんにもきらわれたよ
なんで食べるの?
ぼくの願いは そんなにおいしくないんだよ……
僕が扉を開けると、会計はへらへらと手を振った。適当に会釈すると、書類仕事をする彼の向かいに座った。
「楽しかったですか?」
「なにが」
僕は何をするでもなく、窓の外を眺めた。朝とも昼とも夜ともとれない景色の中で、窓に映る僕が見えた。
僕は、どこか笑って見えた。
「最高だったよ」
「それはなにより」
会計は不意に立ち上がると、後ろの棚に向かった。
「オセロしませんか?」
「芯がなく中心がなく本心がない、でしたっけ」
パチンと打ちひっくり返すと、会計はそう呟いた。
「もういいだろ。勘弁してくれよ」
彼は笑いを堪える。
「前田さんがボコボコに言われるのが珍しくて珍しくて」
「ぶん殴るぞ」
僕も吹き出して小さく笑った。
会計は視線を下ろし、また石を打つ。
「俺はそう思いませんけどね」
僕は一瞬手を止め、そのまま白にひっくり返した。口をつぐめるように、盤面に近く頬杖をつく。
「なあ、お前死後の世界って信じるか」
「信じませんよ。実際そんなものないですし」
なんだか白々しかった。深入りしたら危なそうなので口をつぐむ。
「ちなみにちなみに。あの後、一番大変だったのは誰だと思います?」
雑談ですよと会計は笑う。
「明里か?」
「残念二位です。トップはダントツで南さん」
僕は素直に驚いた。
「中山さんは弱くて、南さんは強い。これが前田さんの評価らしいですけど、二人の強さはベクトルが違いますから。中山さんは割と、立ち直るのは早いですよ」
会計は石をくるくると回す。
「南さんは、二度自殺未遂を経験しました。二度目はひどかったらしいです。ここでは省略しますが」
僕は南の顔を思い出した。思い出す表情は、笑顔ばかり。しかしたまに見せる何かを恐れるような表情に、僕は思い当たった。
「……生きてるなら、それでいいさ」
「それあなたが言います?」
「僕が言うからこそだろ」
「ゼロ理ある」
強いのと強く在るのは違う。そういうことだろう。
彼はごそごそと僕のカバンを勝手に探ると、何か投げた。ちょうどそれが通話状態になる。
『もしもし、裕太ちゃん?』
「南……」
チャットでやり取りしていたけれど、しばらく声を聞いてなかった。何を話していいのか、突然で分からなくなる。
『どうかしたんですか?』
「いやなんでも。なんか突然声聞きたくなって。今大丈夫?」
『うん。バイト終わったとこです』
バイト。そういえば南はファーストフード店でアルバイトを始めたと言っていた。なんでもまた東京に行くために貯金するのだとか。
「お疲れ様。働くんだったらお前、その『半敬語』は直したほうがいいぞ。違和感すごいからな」
『失礼な。私も本気を出せば普通に喋れます』
「そんなことに本気出すなよ」
『そんなことより、文化祭の準備、ちゃんと出来てますか? 私も見に行きますからね』
聞いてたらしい会計も苦笑いする。僕は適当に誤魔化した。
南は僕にとって、柚月にとって、妹のような存在だった。でも今は変わりつつある。一人でもやっていけるような彼女に、高校でも友達を作れる彼女になってしまうのだろう。
「南、」
『誰のことですかー』
「……優希」
『はい』
僕は空気を吸いなおした。
「もしも僕と柚月がいなくなったら、お前はどうする」
南が立ち止まるのが聞こえた。僕にとってつらい空白が流れる。
『嫌です』
彼女は強く言った。
『絶対嫌です』
彼女の声に、僕は絶句した。彼女はさらに何か言おうとしたが、電話は強制的に切られる。
「すみません、タイムアップ」
会計が腹立たしいはずが、どこか助かったような気分でいる自分がいた。
「やっぱり、嫌だな……」
彼は笑うと、
「前田さんのことを大切に思ってる人って、案外いるんですよ。中山さんだって高梨さんだって、佐々木さんだって奈良坂さんだって。お姉さんもお父さんも、そして多分俺だって」
「そう、か……」
「もちろん、BL的な意味ではなく」
「そんな疑い持っとらんわ」
会計はへらへらと笑い、僕の手番を勧める。また白にひっくり返した。
「……前田さんを縛ってるのは、自分の言葉ですよ」
僕は首を傾げる。
「言葉というか、定義。前田さん、別に人間は矛盾してもいいんです。時に人間は間違う。間違わない人間がいるなら、世界はその人の手によってもっと平等に作られるでしょう。前田さんは、完璧を追いすぎです」
まあでも、そう会計は続ける。
「矛盾するのはいいけど、嘘をつくのはよくない。自分を騙すのはよくない」
嘘をつく。自分を騙す。僕がやったことだ。
「あなたにとって、浅野さんは全てですか?」
全て。言葉で言うのは簡単だ。しかしそれは本心なのか。黙って考えると、だからこそ分からなくなる。
「前田さんの気持ちは本物だと思いますよ、差し出がましいですが。浅野さんに対する行動は、まぎれもない本心でした。俺には分かります」
「……はは、差し出がましいな。お前になにが」
本心。僕にはないらしい、本当の心。僕の内側には何もなく、言葉が気持ちを伴わない。
『僕は君だ』
「でしたっけ?」
僕の全てを思い出す。柚月と出会い、話し、友達になり、外に出かけ、約束をして、笑いあって、大切になった。それは偽れない僕であり、彼女が好きだと言ってくれた僕は、まぎれもない本物だった。彼女は僕の全てを知って、彼女の見る僕は本物になった。彼女の中心に、多分だけど、僕がいた。
「僕も、彼女の全てを知っている」
毎日夢を見たりはしないけれど、知らないことなど何もない。僕の見る彼女も、まぎれもない本物だった。僕はずっと彼女を見てきたから。
「僕の中心に、彼女がいたんだ」
空っぽで空白。僕には何もないけれど、僕には彼女がいてくれた。僕の中心は僕の中心になかった。自分のことが大嫌いだけれど、そう思えば嫌悪も薄れていった。
柚月が全てかどうかは分からない。南の顔を思い出す。多分全てでは、ない。
少し前の僕なら、全てだと格好良く断言しただろう。僕は君に出会うために生まれてきたとか運命の赤い糸で結ばれていたとか、これは大げさにしても、気持ちのない定型表現。空っぽとはそういうことだ。本心を顧みず、発言は重みを持たない。
綺麗であって、鋭利でない。
だけど僕は、彼女の全てを知っている。
「曖昧で、結論を出せない。一言で言えないのが人の心です。そうやってごちゃごちゃ考えれるようになっただけ、前田さんは変わりましたよ」
「お前はどんな立場から発言してんだ」
彼は下を向いて笑う。
でも。
僕は角を取る。
「僕の中心には、柚月がいる。僕は空っぽかもしれない。でも僕は、僕の気持ちはまぎれもなく本物だ」
僕は角を取る。
「僕は納得できない」
逃げ。諦め。死を神聖視し、終わりに憧れるフリをした。本物でも何でもない、これはただの後悔だ。
柚月だけが大切だ。そんな格好いい言葉に酔って、僕は考えなかった。柚月が全てだと思いたくて、諦める言い訳にした。必要以上に自分に失望したくなくて、僕にも柚月にも恥じない最期にしようとした。口先だけで、覚悟のこもらない幻。言葉だけの薄っぺらい、空っぽな銃弾。
僕はまだ知りたかった。知りたいことがたくさんある。目を背けていたこと、強がっていたこと、盲信していたこと。僕は本心に目を向ける。
ちゃんと向き合おう。犠牲にしてきた僕の気持ちに。その本心の知りたくなかった理想論の、被せていた埃を払う。
「前田さんに大ヒントを差し上げましょう」
これだ。僕が一番会計について羨む才能。会計は不敵に、無敵に笑った。
この事案は、解決可能だ。
お前を見るとそう思える。思わせてくれる。敵なのか味方なのかよく分からないこいつは、僕にまた語りかけた。
「じゃあどうするんです?」
僕は本当に考えていたか。生き残るために必要な情報は、もう持っていたのかもしれない。奇跡でも何でもない確率に、本当に縋ったのだろうか。
毎年ちょうどお盆休みに合わせた日本訪問。二年前からの九月十日から三日間の休暇。正月も休まないのに何をするのか。それに代えるものは。僕は何も持っていないのか。
強く。強く。強く。強く。強く。強く。
言葉だけでなく、本物の強さで。僕の全部の熱を使って、僕の全てを思い出す。
そしてやがて、一本の矢が薄暗く鋭く貫いた。
僕は角を取る。盤面を真っ白にする。
僕も彼らも間違っている。間違っていた。死後の世界なんてない、生まれ変わりなんてない人間の世界で、こんなエンディングは絶対に認めない。
月はきれいだけれど、僕も死にたくなかった。
「柚月と生きに行くんだよ」
『あの最高の世界で』柚月と生きたい。
僕はドアを開け放った。
苦しい闇の中、必死に浮き上がった。無意識に引きずり込まれ、手の中のそれを必死に掴む。
息をした僕は、次第に身体が戻っていった。明るい闇の中で、僕は目を開ける。何も見えないけれど、なんとなく温かい。しばらく目を瞑っていた。
なんとなくではない。とても柔らかくて温かい。
「ゆづ……」
驚いて仰け反ると、パイプ椅子に頭をぶつけた。痛みなんかどうでもいいくらいに、僕は目を見開く。
生徒会室で、毛布を敷いた床で、薄い暗闇の中で。柚月が僕の方を向いて眠っていた。小さな寝息と、無防備な寝顔。僕は思わず目を逸らしてしまった。
手の温かさは彼女のもので、僕は自分の手汗に葛藤する。
そんなことをしているうちに、彼女はうっすらと目を開けた。何度か薄く瞬きして、驚いて仰け反る。
「裕太くいでっ」
同じようにパイプ椅子に頭をぶつけた。
「これはあの、えっと、明里ちゃんが……て、裕太くん?」
柚月はゆっくりと肩を下ろしていく。ぺたんとまた布団に座り、その目で僕を見つめる。
「なんで泣いてるの……?」
「……っ」
僕は頬を触ると、手が微かに濡れた。それが身体に入り込む。それは僕を叩き起こし、立ち上がらせた。
「悪い夢でも、見てたのかな」
「そっか……体調は?」
「大分楽になったよ」
よかった、と柚月は落ち着いて、きょろきょろと周りを見渡すと、時計の方を指差した。
「十時っ?」
下校時刻とかいう話ではない。
「わあ電話いっぱい……」
柚月は笑いながらスマートフォンを見せてくる。「お母さん」や「お父さん」から二十件ほどの電話やメールが来ていた。
「笑い事じゃないよ?」
「どうしよう」
「とりあえず電話しなさい」
柚月が電話している間に、僕は記憶を探った。教室から外に出た記憶がない。今は大分楽になったが、あの時は非常に身体が怠かった。倒れでもしたのだろうか。
クラスメイトは帰り、明里も柚月に僕を任せて帰ったのだろう。僕らが下校時刻を過ぎても放置されていたのは、それで説明がつく。僕らが眠っていたのはちょうど入り口から死角になっている位置で、見回りの警備員にも見つからなかったようだ。警備員もまさか空の生徒会室で人が寝ているとは思うまい。
「電気つける?」
「あほ。そんなことしたら見つかるぞ」
何が楽しいのか、柚月はえへへと笑った。月の光が彼女をぼんやりと照らす。そんな顔を見ていると、僕もつられてしまう。
「…………?」
僕は柚月に手を伸ばす。首筋に触れた手は少し冷たかったようで、彼女はぴくっと肩をあげた。僕の手先の冷たさが、すぐに吸い取られる。
彼女の熱が、生きていた。
僕の大切なもの。僕を変えた、全てのもの。
柚月は僕の中心で、最高の世界が僕の全て。
僕は全てのものが大好きで、柚月だけが特別だった。
僕はスマートフォンを取り出した。
「もしもし、明里か」
『うん、何か用?』
「背景の紙のことなんだけど」
彼女は数秒黙ると、くすくす笑った。
『やっと決めたの』
やっと。それは遅すぎるくらいだった。
『もう発注してある。神田くんが全国をネットで調べ回ってくれてね、明日の昼に届くようにしてくれた。輸送費特注費特急費込み込みでかなり割高だけど、夏目くんに生徒会に残ってる予算を使ってもいいって言われたし、残りはクラス四十人で割ればそんなもん。追加の絵の具やらなんやらは高梨と私でなんとかする』
「さすがだな」
『当たり前でしょ。あんたの代役くらい務められるわ。何年の付き合いだと思ってんの』
電話口で明里の息の擦れるような音が、思い出とともに頼もしく思われた。
「準備、全部任せるよ」
『りょーかい。あんたも頑張りなさい』
電話を切ると、僕はドアに手をかけた。
「どこ行くの? トイレ?」
「ちょっとアメリカまで」
ぽかんとする柚月に、僕は笑いかける。
「僕は柚月を一人にしない。だから待っててくれ。僕はもう、何も諦めない」
心地良い言い訳も、綺麗にまとまった終わり方も、言葉だけの美しさも投げ捨てる。僕は自分を、人間にする。
辛かっただろう。友達のいなくて、モノクロな日常。だんだん感覚がなくなっていき、柚月は全てを忘れたくなった。どんな温度も感じずに、失わなくて済むように、固い仮面を付けて何も持とうとしなかった。僕はそんな世界を、無遠慮にぶち壊したのだ。そして柚月の最後の仮面に手をかける。
「視界が白黒なら教えてあげるよ、時間をかけて。世界は、柚月の世界は何よりもカラフルなんだって」
僕は彼女の全てを知っている。混ざり合ういろんな感情の中、幼さに似た単純な率直な、壊れやすくも微かな違いをそれぞれが持つ、繊細な世界に彼女はいた。見えなくても聞きにくくても、匂いがなくても、僕はそれを知っている。
希望を持っても後悔しないって。僕を信じれば、失わなくて済むって。そう確信させてやる。
僕が見てきた最高の世界で、君の知る白黒の世界で僕はまた、君に恋をする。
「ずっと君を見てきた。ずっとずっと、君が好きだよ」
彼女の涙に、僕は笑いかけた。
階段を駆け下りる。地球の質量が小さくなったのに身体が重い。その重さがありがたく、今は生きている実感となった。
「前田さん」
背後から声がして、振り返ると階段の上の方に会計が立っていた。いつものようにへらへらとしている。
「奇遇ですね」
「奇遇だな。アルフレッド・ブラウンの連絡先と務め先の住所を教えろ」
「挨拶早々急ぎますね」
スマートフォンに通知があった。会計からのメッセージだ。
「あともう一つ。柚月を家まで送ってくれ」
「頼み事が多いですね。俺は前田さんの犬ですか」
「犬にしては生意気だな、お前はインコって感じだ。頭が高いぞ」
「それは位置取りの問題であって」
けっと会計は変顔すると、
「別にいいですけど。貸しですからね」
「変なことしたら頭吹っ飛ばす」
「死に急ぐつもりはありませんよ」
僕らは笑った。僕は会計に背を向ける。
「ありがとう」
世界は広くて、僕は無力だ。しかしこうも知った。無力は問題ではない。
人はそれぞれ、自分のステージを持っている。簡単に優劣はつけられず、人より優れる必要なんてない。僕は僕だけのステージで、そして足りないものは貸してもらう。
僕は強く在りたい。
「お父さん、一つお願いがあるんですが」




