また君を見つける
16
翌朝、だと思う。僕はベッドに寝たままスマートフォンを覗き込むと、電源を入れるでもなく、それを眺めていた。僕の脳は起き上がり方を忘れたようで、無意識にため息をついていた。
昨日の電話を思い出す。何を喋ったのか、そもそも電話に出たのか、何も思い出せない。履歴を見る限り電話には出たようだが、何も思えないくらいに僕の心は、もうほとんど動いていなかった。
七時、八時、九時。僕の方に、電話があった。
『あんた何やってんの? 今家?』
がやがやとした声。教室だろう、クラスメイトがうごめいている。
僕は言葉を忘れたので、しばらく黙っていた。明里は不審そうに、
『体調悪いの?』
確かに調子は悪い。僕はやっと起き上がると、空気を大きく吸い込んだ。
「今から行くよ」
履歴画面の、柚月の名前が目に入る。僕は必死に目を逸らさなかった。名前のない感情が湧きあがってきて、申し訳なさに似た感情が心を打ち、悔しさに似た感情が心を刺した。
「ごめん、柚月」
僕のせいだ。でもごめん。
今は君に、会いたくない。
予報どおり、今にも降り出しそうな厚い雲が空を覆い、湿気が僕にねっとりと巻きつく。舌打ちしてもその音は響かず、とにかく学校に急いだ。
生徒会室に入ると、未完の書類が積んであった。会計には会わなかった。
「何をやってる?」
会いたくなかったが仕方なく、僕は職員室に出向いた。最初はいつものように目を上げなかった新井先生だが、
「待て」
振り返った僕の手を捕まえる。
目が合った。新井先生は僕の網膜を見つめ、そしてため息をついた。
「大事な場面で逃げていいのは、それを乗り越えられないと分かった人間だけだ」
乗り越えられないと分かった人間。僕のことを言っているのだろうか。
「辛いから逃げるというのは、自分を洗脳する言い訳を見つけない限り、必ず後悔を生む。不幸に浸かるな。不遇は不可能じゃない。後悔は積もり積もって、強さを殺すぞ」
分かったような口を。
「後悔しない人間なんていません」
「だからといって後悔に無抵抗になっていいことにはならない。後悔は人をダメにする。後悔しても、大抵はその選択を避けるようになるだけだ。失敗は相対化して客観視し、一般化できなければそれはただの損失かトラウマになる。後悔は失敗のもとで、失敗は後悔のもとだ。人間は失敗の数ではなく、逃げた数で決まる」
「やらずに後悔よりも、やって後悔ですか」
「違う。やって後悔よりも、後悔しない風にやるんだ」
「そんなの理想論です」
「俺は現実の話をしている」
新井先生の声も、僕の心には届かない。僕は人間らしい耳を持っていない。聞く耳を持てない。その熱心なお節介は丸みを帯びるように空転する。
「逃げずに立っていればいいさ。どうせ人間は必ず、転ばないように歩き出したくなる」
僕は愚かなくせに人間らしくなく、苛立ちは増すばかり。誰に対する苛立ちなのか、それは僕の空っぽな内面に反射し続け、弱まってはくれなかった。
僕はそのまま会議に出席し、新井先生の連絡を適当にメモしながら座っていた。特に何もないそれの後、僕は新井先生の後ろについて体育館練習に向かう。僕が何かしなくても練習は滞りなく進み、どうやら柚月のセリフもなんとかなりそうだった。
大道具、小道具の出し入れ。音響のタイミング。背景の交換。一応主役である僕はちょこまかと動き回り、明里的には十分な練習になったようだった。
僕はすぐに生徒会室に引き返すと、道中で腕を掴まれた。
「裕太!」
一瞥して、また目を逸らした。
「何があったの。主役にそんな顔されると迷惑なんだよ。助けて欲しいなら助けて欲しいで、ちゃんと言ってよ」
明里はキツく言うけれど、やはり優しかった。しかしなぜだろう、その心地よさも鬱陶しい。
面倒くさい。話したくない。感情が動くのが不快だ。もう何もしたくない。
「裕太……?」
黄色臭い雨が降る。彼は壁を伝い、僕を溶かした。
鬱陶しい。死ね。鬱陶しい。死ね。
みんな、死ね。
「僕は死にたい」
その時の明里の表情は、この腐った網膜まで届かなかった。
天井を眺めていると、頭の上にタオルが乗せられる。冷たく温度を取られる中、僕は重たい瞼を開けた。
「熱あるよ、こんな夏の終わりに……。悪い虫でも憑いたんじゃない? 早く治しなさい」
明里は目を合わせずに、どかっと椅子に座った。大きく息を吐く音が聞こえてくる。
大粒の雨の音、クーラーの駆動音。暗い生徒会室の中に、それだけが在った。
闇の中で思った。僕の気持ちは本物なのか。僕はどこに在るのか。
僕は柚月に、どうなって欲しいのか。
分からない。面倒くさい。分からない。面倒くさい。面倒くさい。
明里は僕を横目で見て、僕が目を向けても逸らさずに、しかし少し開けていた口を閉じて、最後に目を逸らした。僕はもう、彼女から見ても多分、人間ではなかった。
「明里、前田くん!」
ドアが開かれた。奈良坂さんだろうか、ずいぶん息を切らせている。
「どうかしたの……柚月?」
奈良坂さんに隠れて、柚月が泣いていた。明里はすぐに駆け寄ると、頭を撫でてかがみ、小声で何か訊く。僕もいつの間にか起き上がっていた。
「大変なの。背景画が全部雨に打たれて、ダメになった」
「はあっ? なんで!」
奈良坂さんはびくっと驚きながらも、明里に向かった。
「さっきの体育館練習の時、教室の窓が開けっ放しになってたんだ。雨が降ってたでしょ? それで柚月ちゃんが犯人にされて……」
「犯人? 意味がわからない」
「最後まで聞いて。教室に最後まで残っていたのが柚月ちゃん一人だったの。それで窓を閉め忘れて出ちゃったって、さっきクラスメイトで言い争って、そう決めつけられた」
勢いだけの議論。目に浮かぶ。
「でも柚月ちゃん、窓も確認してたの。それに背景画を窓際に置いたりしてないって。そうでしょ?」
柚月は嗚咽の中でこくこくと頷く。僕は立ち上がり、歩み寄った。
「議論の中心にいたのは誰だ」
「中川さん」
「私と裕太のいない間にやられたか……」
僕は天井を見上げた。自分をここに止める。肺いっぱいに空気を吸い治して、柚月の前に立った。
「お前は悪くないんだな?」
驚いたように、彼女は僕を見上げた。数秒間見つめ合い、柚月は強く頷く。
僕に黒が纏わり付いた。鬱陶しい。彼が僕に、うざったく笑いかける。
「どうするのっ」
左腕を掴まれた。強く、しかし控えめに。左腕の震えをぴくっと抑え、右腕で慎重に彼女の手を外した。
人間ではない僕。そんな僕にできることなんか、限られている。
鬱陶しい。鬱陶しい。鬱陶しい。鬱陶しい。
「頭の足りない馬鹿を、殺しに行くんだよ」
教室はがやがやと、大半の人間が集まっていた。やはりというか、中川の姿はない。しかしこの大雨の中、そしてこの時間に帰るなんて下手に目立つことはしないだろう。
僕が教室のドアを開けると、そこはシーンと静まった。明里たち三人も、少し遅れて到着する。
「誰か、中川知らないか」
「多分、バレー部の部室。呼んでくる」
名前は忘れたが、女子生徒が走って行った。こんな馬鹿げた茶番は早く終わらせたくて、空白の中で数分を待つ。
「なに、何の用?」
舌打ちでもした気な中川の表情を教卓から見下ろし、
「待ってたよ背景リーダー。生徒会の仕事も手伝えないくらい忙しいところ申し訳ない。今日はどんな絵を描いたの?」
中川の筋肉が強張る音が聞こえてきた。ありったけの皮肉に、心地のいい表情を返してくれる。
「謝罪の言葉は今しか聞かないぞ」
「何の謝罪よ。馬鹿じゃないの」
「じゃあそこで僕の話を聞いてろ」
こんなに分かりやすいやり方、僕には、多分明里にも、又聞きでやり口なんか分かる。
「まず浅野さんは最後まで教室に残り、絵の修復をしていた。本人は否定してるけど、仮に窓を閉め忘れたとしても、絵を黒板の下に置いたという記憶に間違いは起こらない」
「嘘じゃない証拠でもあるの?」
「あるよ」
僕は続ける。
「僕と新井先生は、大会議室から事務室を通って体育館までやってきた。渡り廊下を通る時、この教室だけでなく全ての教室の窓は閉まっていたのを見た。その時すでに雨が降り始めてたから、開いてるクラスがあればすぐに分かる。新井先生に確認してもらってもいい」
僕はあえて、中川の方を見なかった。
「つまり一度閉まったドアを開けた人間がいる。それは確実で、だからこれは事件だ。この中に窓を開けた奴がいる。浅野さんよりも、それか同じくらい練習に出遅れて参加した人間が」
二人が視線を泳がせた。やはり一部のクラスメイトが無理やり口裏を合わさせられたのだ。僕はその中で神田と目を合わせた。
「この中に窓を開けた奴がいる」という罠と「お前を疑っている」という疑似餌に、中川は引っかかった。
「そもそも、そんなのは成り立たないわ。全ての教室の窓が閉まってたなんて分かるわけないじゃない。見間違いよ。だって、廊下の突き当たりのお化け屋敷の受付の人は、この教室に出入りした人はいなかったって言ってたから。確認してくれてもいいよ」
「もう確認した。一年八組の大野だろ。『誰かまでは言えないけどそう言えと脅迫された』らしいな」
僕は笑った。
「そもそもなぜお前はそれを確認する必要があった? 浅野さんの見落としだと率先して決めつけた割に気の利く行動だな。顔真っ赤にしてムキになってるがそもそも動機のある人間なんてこのクラスにお前しかいないんだよ。他のクラスに犯人がいる可能性を一番に主張しない時点でお前自身が犯人じゃないことを偽証しようとしてることは明らかだ。浅野さんに対するくだらないプライドか何かのためにお前は台無しにした。まだ認めないなら遅れてきたことを隠せと迫られた奴から聞き出してやろうか。誰でもいいが神田は知ってるんだろ」
言い終わる前に、中川は訳のわからないことを言って教室を飛び出した。それを追う者はおらず、目で追うこともしなかった。
大切なのは、矛盾していても無理筋でも、自信満々に言って相手が理解できないならば、こちらにとって有力な武器になるということだ。相手に説き伏せられている感を与え、反論し難くする。戦意を削ぐ。理解を遅らせ、ついてこれないようにする。反論したくても圧倒されればもどかしさで更に冷静さを失う。
これは推理小説じゃない。奇抜なトリックも、完璧な推理も、完全勝利も必要ない。大切なのは多数派にならせること、場を制すること。そのためには全ての証拠を取り揃える必要もないし、気づかれないなら嘘を混ぜてもいい。
そうやってしっかり勝つ。放っておいてボヤけさせて逃げられて、時効にしてはいけない。
僕は、中川を陥れたい訳ではない。達成感なんてものは何もなくて、ただ気まずい雰囲気だけが残っていた。
息苦しくて、ため息とは思われないように大きく息をした。湿度の高い、温度の高い教室はしばらく、下を向いて黙る。
「前田……」
高梨は僕に歩み寄る。
「体調悪いのか? 辛そうだぞ」
「大丈夫」
「これからどうする。お前のことだから、ここに来て諦めたりしないよな」
高梨の思う僕は、相当メンタルが強いようだ。僕は口だけで笑った。
みんなは、高梨を見つめていた。違うか、僕から目を逸らしていた。
「背景以外はどうなってる」
「あとは音響のタイミング調節だけだ。それと演者の練習」
僕は息をついて皆が囲む背景画まで歩み寄った。紙質が変わり、ところどころ変色していた。
「紙の予備は」
「ない。もう新井先生に確認したけど、特注のサイズだから発注から届くまでに三日はかかるそうだ。今日が四日前だから……」
「で、でも多少サイズが違ってもいいんじゃないかな。それに他のクラスに余分がある可能性も低いけどゼロじゃ……」
「くっそ……」
僕は噛み締め、そして力を抜いた。
「みんな」
僕は繕って笑う。
「今日は帰ろう」
「もしもし、前田裕太です。アルフレッド・ブラウンさんでしょうか?」
僕は簡素な英語でそう言った。聞き逃さないように耳を立てていると、相手側から肯定と取れるような声が聞こえた。
『ははは、聞いてた通り日本人は発音が下手だね。他のアジアンはもっと上手く喋るよ……日本語で結構』
ブラウンさんは自然な日本語を話した。僕は苦笑する。
「すみません。英語は得意ではなく」
『まあまあ、そんなことは気にしないさ。君が前田くんか、聞いていた通り真面目ないい子だ』
僕は静かに口角を下げた。
『早速本題に入ろう。君の要求を聞かせてくれ』
僕は全てを話した。彼女という個人、僕から見た彼女、そしてブラウンさんを知った経緯。それを五分ほどでまとめた。
この時の僕は饒舌だった。緊張感が後押しし、そして悪魔が囁く。いつしか僕の視界は崩れ始め、悪魔の黒が濃くなっていく。
『前田くん?』
「あいえ、なんでもないです」
僕は唾を飲み込んだ。
『話は大体分かった。とりあえずは本人に代わってもらえるかな。患者の声は大切でね』
心臓が鳴る。
「……申し訳ありません。今は側にいなくて」
『なぜ?』
「日本は今深夜ですの『はあ?』
『ごめん分からない。君と彼女にとって、これは最初で最後の機会ではないのか? そんな時になぜ、本人がいない』
僕は甘くて、甘えてた。何も言えない僕に、ブラウンさんは息継ぎもせず言う。
『君は彼女の何だ。手足か。声か。君は助けたいと言ったな。その気持ちは本人と通じているのか。意味はあるのか。本物なのか』
この声が、彼と重なる。
『声を聞けば人となりくらい分かる。君は嘘をついていない。つこうとはしていない。しかし君の言葉は乾いて薄い。綺麗でいて、刺さっても痛くない。実感が何もない。君は何だ。君は怖い。必死でいて勇気があるのに、情熱があり熱心であり言葉は全て嘘でないなのに、その言葉に芯はない。本心がない。中心がなく信念がない』
スマートフォンの画面に、反射した僕が映る。ブラウンさんの声と合わせて口が動き、彼はニヤリと笑っていた。
僕はベッドに引きずり込まれる。弾性力の強すぎるそれは、僕を丸ごと飲み込んだ。狭すぎる闇の中、僕は意識を落とされる。
『君はそれでも、人間なのか』
苦しい闇の中、必死に浮き上がった。無意識に引きずり込まれ、手の中のそれを必死に掴む。
息をした僕は、次第に身体が戻っていった。明るい闇の中で、僕は目を開ける。何も見えないけれど、なんとなく温かい。しばらく目を瞑っていた。
なんとなくではない。とても柔らかくて温かい。
「ゆづ……」
驚いて仰け反ると、パイプ椅子に頭をぶつけた。痛みなんかどうでもいいくらいに、僕は目を見開く。
生徒会室で、毛布を敷いた床で、薄い暗闇の中で。柚月が僕の方を向いて眠っていた。小さな寝息と、無防備な寝顔。僕は思わず目を逸らしてしまった。
手の温かさは彼女のもので、僕は自分の手汗に葛藤する。
そんなことをしているうちに、彼女はうっすらと目を開けた。何度か薄く瞬きして、驚いて仰け反る。
「裕太くいでっ」
同じようにパイプ椅子に頭をぶつけた。
「これはあの、えっと、明里ちゃんがね……!」
「……柚月?」
柚月は固まると、ゆっくりと肩を下ろしていく。ぺたんとまた布団に座り、その目で僕を見つめる。
「なんで泣いてるんだ……?」
「……っ」
あれ、あれと柚月は思い出したように僕の手を離し、涙を拭う。
「悪い夢でも、見てたのかな」
「はは……僕と同じだ」
「裕太くん、体調は?」
「大分楽になったよ」
よかった、と柚月は落ち着いて、きょろきょろと周りを見渡すと、時計の方を指差した。
「十時っ?」
下校時刻とかいう話ではない。
「わあ電話いっぱい……」
柚月は笑いながらスマートフォンを見せてくる。「お母さん」や「お父さん」から二十件ほどの電話やメールが来ていた。
「笑い事じゃないよ?」
「どうしよう」
「とりあえず電話しなさい」
柚月が電話している間に、僕は記憶を探った。教室から外に出た記憶がない。今は大分楽になったが、あの時は非常に身体が怠かった。倒れでもしたのだろうか。
クラスメイトは帰り、明里も柚月に僕を任せて帰ったのだろう。僕らが下校時刻を過ぎても放置されていたのは、それで説明がつく。僕らが眠っていたのはちょうど入り口から死角になっている位置で、見回りの警備員にも見つからなかったようだ。警備員もまさか空の生徒会室で人が寝ているとは思うまい。
「電気つける?」
「あほ。そんなことしたら見つかるぞ」
何が楽しいのか、柚月はえへへと笑った。月の光が彼女をぼんやりと照らす。そんな顔を見ていると、僕もつられてしまう。
「さ、警備員に見つかる前に帰ろ」
「裕太くん」
僕は振り返ると、少し言いにくそうにする彼女を見た。僕はまた笑う。
気を遣う。僕は得意で、最期の思いやりだ。
「その前にごめん、トイレ行ってくるよ。水飲みすぎたかな」
そうやってから、僕も死のう。
夜の学校は初めてで、そこには不思議な高揚感があった。世間では怪談なんかの舞台になるけれど、不気味さなんてものは感じない。小学校から十二年見続けていた学校の姿とは全く違う日常の非日常を目の当たりにして、その迫力と差異に見惚れていた。
圧倒的な黒と、薄明るい白。これだけ暗いのに、暗いからこそ、白は美しく見えた。そんな美しい、単二色の異世界。
僕らは自分たちの教室の前で立ち止まった。なぜか鍵は開いていて、僕らは背景画に歩み寄る。
何も言わなかった。何も言えなかった。僕は柚月の手を握ると、彼女は力弱く握り返す。
僕は彼女を助けられなくて、野外劇も台無しにした。漫画もまだ完成してない。
まだ何も終わっていない。諦めなければ、逃げなければ可能性は残っていることは分かっているが、多分僕には不可能だった。
芯がなく、本心がなく、中心がない。
僕が何を考えているか、何か考えているか、到底分からなかった。
と、右腕に感触があった。
「どうした?」
柚月は僕に寄りかかると、少し強く手を握った。
「裕太くんが、どこかに行っちゃう気がしたから」
僕は何も言わず、教室から見える景色を眺めていた。幻想的で、絶望的。あんなにも明るい街の中を、僕は月だけの光を浴びて、見つめる。
「明里ちゃんが言ってたの。私に関することで、何か悪いことがあったんじゃないかって。だから裕太くんをお願いって。裕太くん、だって今、とっても悲しそうな顔をしてる」
僕は唇を瞑った。
「私、裕太くんが生きてほしいって言ってくれたの、すっごく嬉しかったんだ。みんな私に気を遣って……じゃないかな、分からないけど、そんなことを言う人なんていなかった。だからやっと私はね、死んでもいいやって思えたの」
死んでもいいや。言葉は、文字は無能だ。多分これは僕にしか分からない。そんな彼女だけの、深い気持ちが込もった本物の言葉。
「人を避けたら、楽になった。楽しくなかったけど、苦しくはなくなったの。誰も私を見なかったら、私も誰も見なくて済むから。誰にも何も思われず、そしたら私も、死んでもいいって思えるって、本当に、思ってた」
肩が濡れて、彼女は無理に笑った。
「私、とっても苦しい。でもね、それ以上に楽しかった。生まれてきて良かったって、本当に思えたもん。裕太くんと生きたいって、本当に思えたから……だから」
「僕は」
その先を聞くのが怖かった。
「失敗した。柚月を、助けられない」
柚月はえへへと笑った。
「私もう、たくさん助けてもらったよ。ずっと裕太くんと居たいっていうのは、でもやっぱり贅沢なのかな……。お別れ、しなきゃいけないよね」
嫌だ。僕には心がないけれど、偽物かもしれないけれど、本当にそう思った。離したくない。離れたくない。独りにしたくない。違う。これは偽物だ。
独りになりたくない。僕は彼女だけのことを考えられるほど、人間でないわけではない。
周りが思うほど超人なんかでなくて、すごくもなくて、聖人でもない。怒ったら怖い、ただの人間だ。
「怖くないのか」
「なにが?」
「僕が」
あの時、僕が柚月の前で初めて人に暴力をふるった時は怯えていたのに、今は何ともない風だ。柚月は首を傾げ、また笑った。
「私、裕太くんがたまにすごく怖いの、知ってるから」
僕は一瞬呼吸を止めた。
「裕太くんのことならなんでも知ってるよ。だって毎日、裕太くんの夢を見るもん。毎朝同じ朝ごはんを食べてるとか、一人でいるときは食べながらスマホ触ってるくらいお行儀悪かったり、でも支度するのはすごく速いんだよね。どんなお菓子が好きか、どんな女の子が好きか。どんなパンツが好きかも知ってるの。私以上に裕太くんのこと知ってる人なんていないんだよ」
「……それはちょっと怖いな」
すごく怖くて、怖い。僕らは笑い合った。僕は柚月のいたずらっぽい笑顔に、いやそれだけではない。特別な彼女の、全ての姿に癒されてきた。こんなこと言うのは、考えるのも照れくさいけれど。
柚月は、きれいだった。
「何も言わないで、私の気持ちを聞いて。私ね」
温かい風が吹く。夏のせいでも熱のせいでもなく、それは僕の心に届いた。辛くて苦しくて、乾いた心に。
「ずっと、裕太くんのことが好きだったよ。長い間ってわけでもないし、一目惚れってわけでもないけど、好きになってからずっと、ずっとずっと、私は裕太くんが好きだったよ」
身体が熱かった。恥ずかしそうにする彼女は、僕に喋らすまいと続ける。
「初めて、人を好きになったの。今まで特別扱いしかされてこなくて、嫌だった。裕太くんでさえ私を特別だって言った。でも教えてくれたの。特別でいることは、悪いことじゃないって。満月より私は、誰も見てくれない、でも誰か一人だけが見てくれるような、新月になりたい」
僕は何も言わなかった。僕の結論が、言葉になると全てを終わらせてしまうと思ったから。言葉は無能だから、僕の言葉は分からないから。
「バッドエンドなんかじゃないよ。だって私、こんなに幸せなんだもん。生きてて良かったって、本当に思えるもん」
彼女は生を欲してはいなかった。彼女が欲していたのは誰もが持っている『幸せ』というより、誰もが持つわけではない『幸せな終わり方』だった。
彼女が生きたいと言ったことがあるか。僕は勝手に決めつけていた。彼女はとうに諦めていた。期待などしていなかった。僕にというよりは、生に。
彼女は幼かった。
それは生への諦め。成長への諦め。
僕は彼女を抱きしめた。これは何だろう。視界が揺らぐ。また暗転する?
違う、これは涙だ。
身体に力をいれるけれど、喉のもっと奥が揺れ動いて止まらなかった。声が出せなくて、声を出したくない。そんなことを気にして、彼女には僕の情けなさが伝わってしまった。
彼女が知っているように、僕は涙の堪え方を知らなかった。
情けなくて情けなくて、僕は何で泣いているんだ。温かい君に触れて、幸せなこんな時に、僕は本心が溢れてきた。
「僕は必ず、君を見つけるから」
あの時のように。
「君がどこにいても何をしていても、生まれ変わって必ず、また君を見つけるから」
君を見つけた、あの春のように。
僕の持っているこの言葉を、強くなって、必ず君に伝えに行くから。
「だからそれまで……待っててほしい」
君に触れる。伝わる心臓の鼓動が、半周期ずれてしかし強め合った。何億年離れていても、何億光年遠くにいても、僕は必ず君を見つける。
美しくて、唯一で。君は特別で、君は君だった。
明里と南と、父親と姉と、僕はさよならした。
忘れる記憶に、お別れした。
もう何も怖くない。
僕は君と、ずっと一緒なのだから。
「月がきれいだね」
柚月は身体の力を抜いた。僕らは幻想的な世界に酔い、感情が全て煌めく感じがした。
彼女の唇は何よりも温かく、愛しかった。
「……私、死んでもいいよ」
僕は柚月の首筋に手を当てる。僕の手には、二本の彼岸花があった。柚月にもらった友達の証。ストラップはいつもすぐ側にあった。それは徐々に僕らを包み、ゆっくりと心臓を止める。
芽を出し
葉をつけ花をつけ
綺麗に育ったそれは誰にも見つからず
しかし目に見えて分かる
煌やかな紅
華びらを君の肩に落とし
四月
君に出会う
僕に気づく
君に気づくと精一杯声をあげて
始まりを叫ぼう
移る
写る
映る
君の絵に
僕は
小さな僕は
永遠に一瞬
一瞬にして永遠
僕は
僕は何度も
僕は今度こそ
君を幸せにする。
これは世界一、世界に一つの僕らだけの、恋の物語。何もなく、望むものは何でもあった。僕は君を、絶対に忘れない。
バッドエンドなんて知らない。
柚月と死ねて、僕はとても幸せだった。




