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天使のパレット  作者: 五月悠助
15/20

無色透明な決意

15


 文化祭五日前。まったりしていたクラスもそろそろ急ぎ足で、僕のような立場の人間からすると何もないのに焦り始める時間だったりする。

 僕は音が入らないようにシャツで汗を拭う。こんな暑苦しいところにいたら全員熱中症になるのではないか。

 しばらくして最後のセリフを読みきった時、この放送室のドアが開いた。

「あごめん! 音入っちゃった?」

 神田はすぐにイアホンを付けると何やら佐々木と会話し、

「大丈夫だよ」

「ならよかった。明里、さっき野外練習が終わったんだけどさ、明日雨らしいから大道具と背景は教室まで運んでおいたけど、不便ある?」

「ないよ、ありがとう。様子はどうだった?」

 奈良坂さんは歯を見せて笑い、親指を立てた。

「バッチリ! 明里の一喝のお陰で」

 僕は佐々木と目を合わせ、苦笑いした。僕らはちょうど席を外していたが、昨日教室で一悶着あったそうだ。明里の性格が炸裂しただけに、死者が出なかったことを良しとしよう。

 なんだかネタっぽくまとめてしまったが、僕としてはやはり怯えながらの苦笑いである。割と洒落にならない。

 中川、つまり背景係リーダーは柚月に役をさらわれて……という、その関連の揉め事である。元々生徒会副会長の肩書きを名前のためだけに得たくらい目立ちたがりであり、そんなに絵が上手くないのに立候補した。僕としては知ったことではない話であるが、クラス全体を巻き込むのはやめてほしい。柚月が下書きを担当する前に描いた彼女のものが全てボツになってしまったというのは、確かに同情を誘うような事実であるが。

「中川ってさ、今年の春あんたに告ったんでしょ?」

 僕は飲んでいた炭酸ジュースを吹き出すところだった。

「不躾に何を訊いてるんだよ。ていうかなんで知ってるの?」

「君の親しい後輩に聞いた」

 会計は後で殴る。というかちゃっかり明里と知り合いになっているのも腹がたつ。

「交換であげた情報はなんだ?」

 彼女はにししと笑うと、

「ひーみつ。それにしても二人は似てるね。ほとんどが同じか真逆だ」

「どういうこと?」

 明里は意味深に笑った。彼女が何か言う前に、柚月は僕のシャツをつまんだ。

「ねえ、裕太くんはどう答えたの?」

「なんで柚月が興味津々なんだよ」

 コツンと柚月に拳を下ろして、僕はあの頃を思い出す。

「角が立たないように断ったよ。その頃はあんなイイ性格してるとは知らなかったから、悪い気はしなかったけど」

 思えば中川が生徒会に来なくなったのは、そのことが原因かもしれない。原因というかキッカケ。心の中で呆れてきた僕だけれど、考え直す必要がないこともないような可能性がなくもない。

 僕らはデータ整理で忙しい佐々木や神田と別れ、少し遅い昼食に、近くのラーメン屋に向かっていた。最近ラーメンばかり食べている気がする。

「会計とはどこで知り合ったんだ?」

 割と気になるので訊き直した。基本人見知りのあいつが自分から話しかけたとは思えない。

「ほら、二週間くらい前に私ら一年八組のミステリーの出し物の試金石になったじゃん。あの時から面識はあったんだよ」

 そういえばそんなこともあった。明里の紹介で、脚本係で集まっていた高梨と柚月と、偶然居合わせた会計も含めた五人で謎解きを体験したのだ。なかなか良く出来たシナリオだった。

「結局あんたと彼の二人で瞬殺しちゃうし、頼む相手間違えた感もあったけど。そもそもそんなエピソードの積み重ねで、あんたと彼って校内では名コンビって有名なの。一年生でも知ってる人は知ってると思う」

 六割は会計の手柄だが。僕と違ってSFやミステリーなど読書家なあいつは、僕よりも場慣れしていた。仕方のないことだ。負けは認めない。

「柚月も知ってるでしょ? 『ご意見番事件』とか」

「うん。えっと、六月だよね」

 ご意見番事件。ご意見番とは生徒会に宛てた要望なんか聞き入れる窓口だった。六月、高坂といういつも鬼のように怒る体育科の生徒指導の新任の教師がいるのだが、その人に対する誹謗中傷を書いた紙が鬼のように投稿された。無視すればよかったのだが会計が面白がり、僕らで筆跡と内容と投稿時刻とカマかけで学内の六人の犯人を特定した。ただ吊るし上げるのはもったいないと思った僕はわざとそのことを大ごとにし、六人を高坂の前に突き出したわけだが、僕がその場を使って高坂に誹謗中傷の中身を恐縮ながら伝えてみたのだ。

「あれはなんだか説教に近かったわ」

「そんな傲慢なことはしてないって」

「じゃあ何をしたの」

「……教師と生徒って立場を侵さない意思表示で安心させつつ底知れなさを演出して不安がらせて感情をこまめに起伏させること。いつもの攻撃方法を徹底的に使えなくしてもどかしさで足踏みさせ軽いパニックに陥らせる」

「よく分かんない」

 前に会計にも言ったけれど、それは交渉だ。相手を怒らせるような皮肉なんて言ったら終わりだし、妥当な正論を論理的に、偉くなさそうに説いたのだ。頭の固い教師は徹底的に理を詰め込んで反論要素を無くした上で、お願いする形を取るのが有効な手の一つではあると思う。

 高坂の教育指導が間違っているとは思わないし、高校生の分際で大人をナメるつもりはないけれど、部分的に勝つことは可能だ。

「あんたそういうことする時すごい楽しそうだよね」

「まあ、数少ない得意科目だし」

 教師に意見しても普通は通用しない。悪口ではないにせよ、どうしても反抗的だと思われるからだ。その点から言って、その事件は都合のいい口実だった。別に高坂に因縁があったわけではないけれど。

 そのことが全校に知れ渡り、また高坂が少し大人しくなったということで、言い過ぎだけれど英雄だと一時期持ち上げられた。

「あんたら結構タイプは被ってるけどね。確か……分析力と発想力と記憶力と情報量は彼、観察力と展開の構成力と会話術と即興的な行動力はあんたが勝ってるって彼は言ってたわ。どっちがワトソン?」

 彼彼と呼ぶけれど、もしかしなくても明里は会計の名前を知らないのではないか。

 要するに僕が外向タイプで会計が内向タイプなんだろう。それがなんだという話ではあるが。

「僕があいつの助手って嫌だな」

「どちらにしてもいいミステリーが書けそう」

 まあでも、僕は呟いた。

「あいつといると、謎が謎にならない。解決までの見通しが……うまく言えないけど視界がクリアになる」

 それは会計のまぎれもない才能であるが、例えるならどこかメタ構造的な視点を持っているように見えた。どういうことかというと、分かりやすいものでテスト問題。これは回答者と問題作成者の間で当たり前の共通認識がある。その一つが、提示された問題には解決できる手段が必ずあるいうことだ。これは結構重要で、なぜなら現実には解決不能な問題も多いからだ。これはミステリー小説でも同じだ。回答者が取り組むべき問題は必ず解けることが保証されている。この事実は第三者的に見ていると変わらないように思えるが、当人としては大きな謎が一つ消えることで思考がもう一二段階奥へと進める。会計と取り組む時には、何かそういう見通しが立つ。多分僕から見てそう見えることが、会計の飛び抜けた才能なのだろう。問題を明確化し要点を掴むような、そんな才能。

 明里はぼーっと口を開ける柚月の口を閉じさせた。

 店に入ると四人席に僕、そして明里と柚月で向かい合って座った。みんな一番安い中華麺を頼むと、やっと腰を落ち着けた。

「今日さ、本当にいいの? 柚月の家」

「うん、お父さんもお母さんも仕事だから大丈夫だよ」

 いつだったか外食しようと柚月と約束した日、僕の提案で、スーパーで買い物をして柚月の家で僕が調理したことがあった。ありがたいことに高く評価してくれた柚月は明里に話した。また家で一人になるのをいい機会にと、今度は二人に料理することとなったのだ。

 注釈しておくけれど、僕は期待されるほど特別料理が上手いわけではない。下手したら明里の方が上手いだろうし、つまり料理できる男というその存在自体が珍しいのだろう。職業病ならぬ家事病だ。意味はよくわからないけれど。

「まあ、これは柚月のセリフ棒読み対策でもあるんだけどね」

「うん、確かにアレは酷かった」

「うう……」

 セリフ自体は録音で、本番では口パクして音響係の作った音声に合わせる。先ほどまでその録音をしていた訳だが、柚月の棒読みが露呈したのが昨日の話。日を変えて明日に撮り直すので、それまでになんとかしなければならない。

「そもそも、私には合わない仕事だよ……」

「覚悟決めろよセリフは少ないんだし。どっかの総責任者がやらかしたのがね」

「あ? なんか文句あるのかな」

 笑顔が怖い。

「明里ちゃんのせいだもんー」

「柚月、言うようになったじゃん」

 一二週間ほど前だろうか、ホームルームでこんなことがあった。


「立候補がいないなら、やはりクラスの出し物なので、やってもいいって人の中で投票で決めたいと思います。どうしてもやりたくないって人は手を挙げてください」

 そんな言い方をして手を挙げられる訳がない。手を挙げるということは、自分に当選の可能性があると思っていることを示すことでもある。人目を気にする僕ら日本人には厳しいやり方だ。

 そこで、斜め前に座る奈良坂さんと目が合った。彼女はニコッと笑うと、僕は戸惑いながらも苦笑いする。

 誰も手を挙げないことを確認すると、明里は無記名投票を敢行した。そしてメインの主人公に僕が、怪物の女性役に明里が、サブメインの恋人役に柚月が選ばれたのだった。


 悪質なキャスティングである。悪気のない純粋な奈良坂さんの笑顔はまるで投票になることが分かっていて、クラス全体の意見を操作したとでも言うかのようだった。おそらく高梨と奈良坂さんの共謀だろう。嵌められたのは、誘導されたのは言うまでもなく明里だ。

 嫌な訳ではないけれど、やはり気恥ずかしいというのが大きい。

 ちなみにこの学校の野外劇にはクラスの全員が出演しなくてはならないという暗黙のルールがあって、全員ではないにせよ何人かにはセリフもある。今日でメインである僕のと明里のが撮り終わり、後はサブメインの柚月のだけだ。撮るだけではなく、実際に道具を出し入れして音声のタイミングを合わせなければいけないので、多少忙しくなる。

「裕太くん、お風呂いいの?」

 夕方、学校近くのスーパーで買い物を済ませて柚月の家にお邪魔した。独りトンカツを揚げていた頃、お風呂上がり姿の明里と柚月がリビングに戻ってきた。僕が明里に強引に着けさせられたピンクのエプロンを、柚月はちらっと見るとぴくっと口角を一瞬上がらせる。

「遠慮しとくよ。良からぬトラブルが起こったら大変だ」

「なに、あんた女子の入った後、そしていつも入ってるお風呂に興味ないの? それでも男?」

「うるさいだまれ。僕は紳士なんだ」

 柚月に借りたのだろうか、明里には似合わない可愛らしい黄色のTシャツに身を包み、どかっとソファーに座り込んだ。

「うさぎのエプロン着けてカッコつけられても、さ……」

「これは僕の趣味じゃない」

「裕太くん大丈夫。似合ってるよ!」

「似合ってるなら大丈夫じゃないな……」

 僕はいったい何をしているのだろう。

「柚月、気をつけなよ。下着がなくなってたらこいつが犯人だから」

「裕太くん、パンツ好きなの?」

「そうだなあ、ブリーフよりもトランクスかな」

「うわ、BLは勘弁して」

「そういう意味じゃない」

 我ながらヒドイ会話だ。学校なんかじゃ絶対にできない。柚月はぽかんとしているが、明里は声を抑えながら爆笑していた。

 お酒でも飲んだのではないかというハイテンションな明里を柚月に任せ、しばらくすると二人はテレビゲームを始めた。明里の苦しげな声ばかりが聞こえてくる。

「そういや、明日は雨なんだっけ」

「うん。ちょうどウチらの野外練習の日だったのに」

「こんなことばっかだよな」

 前は水漏れ工事で放送室が立ち入り禁止になったのだ。文句を言っても仕方がないが。

「そうだ、忘れてた。新井先生がね、明日の三時から三十分、第二体育館が取れたって言ってたよ」

 柚月さん、それ結構重要事項ですよ。

「あんた、二時半から会議だよね。間に合わなかったら罰金」

「僕がいなくても困らないでしょ?」

「そうかそうだった、ならいいわ」

「素粒子レベルで傷つくよ」

 仮にも主役だというのに、この扱いである。柚月も明里も、そして多分僕も面白くて笑っていた。


 夜十時。完全にお泊まりのつもりでいる明里に対し、僕は帰り支度を始めていた。柚月は明里に随分慣れたようで、また最近は奈良坂さんと二人でいるところもよく見る。正直彼女らが僕のいない時にどんな話をしているのか想像もつかないけれど。

 そんな余興を楽しんだ最中、若干だらだらしすぎた感もあるが、それは突然にやってきた。

「裕太くん、電話きてるよ」

 会話というのは、ある種の信頼から出来ている。投げたボールを相手がいいタイミングで、都合のいいタイミングでキャッチし、上手く投げ返すことが出来ると知った時、キャッチボールは次第に無意識となる。自分にとって相手がちょうどいいから、会話は成立する。

 喋るべきタイミングで、喋らない。それは会話の、そして場の静止を意味する。僕が黙ったのは、何か予感がしたからだ。

『裕太君、今は大丈夫かい?』

 廊下に出て、僕は通話ボタンを押した。

「はい。垣谷さん、何かあったんですか?」

『ブラウン氏と連絡が取れた』

 心臓が一度鳴った。

『君と、電話でだが直接話がしたいそうだ。今日の日本時間夜十二時ごろ、君のその番号に電話が行くことになっている。おそらくだがこれが、最初で最後のチャンスとなるだろう』

「二時間後、ですか……」

『足りないかい?』

 僕は震える心臓を掴んで、

「足ります」

 そうか、そう言って垣谷さんは続けた。

『決定的な交渉材料は何も見つからなかったが、二点だけ。彼は熱い心や強い真っ直ぐな主張が好きなんだそうだ。意外と心に語りかけるのもいいかもしれない』

 僕は黙っていた。

『もう一点、彼には確固とした理論や、正義がある。そして考えや主張や法則は絶対に曲げない。甘さや甘えが通じない相手だ。そのつもりで挑んでくれ』

僕は丁寧に通話を切ると、喜びよりも先に緊張感が襲ってきた。一発勝負の賭けに、いや賭けではない、一発勝負の勝負に、不安で押しつぶされそうだった。



 気がつくと鏡の前に立っていて、僕はもう一人の僕と、広すぎるこの世界で黙り尽くしていた。僕の目は彼に届かず、なんでもない、なにもない地面に吸い込まれる。

「ここじゃ居辛いかい?」

 彼の届く声に、僕は耳を向ける。

「身体が重いな」

「そりゃ仕方ないさ。万有引力は二物体の質量の積に比例し、距離の二乗に反比例するから、ここの重力加速度は普段よりも少し大きい。ざっと千分の千一倍」

次第に視界が形作られ、色が生まれた。

 黄の大樹、青の草原、緑の太陽、紫の雲、真っ白な空。

 そして、赤の林檎。

「美しい」

 素直に、そう思った。


「少し歩こうよ」

 彼は僕を置いて、世界の端を歩き出した。しばらくの後に彼が僕を振り返るのを見て、重たい足を動かせ出す。

 時は何をしているのだろう、時計のネジを回し忘れて僕らに漂う。時は空気のような匂いがした。

「綺麗な花だよ」

 僕は見覚えがあり、それを摘んでみた。鮮やかに紅く、天に広がるような形をしたそれは、僕にニヤリと笑いかける。

「別名で狐の松明、天蓋花……毒があるんだけど栄養価があって、昔の飢餓の時には毒を抜いて食べられていたそうだよ。他にも死人花、地獄花、幽霊花……かな、物騒な別名。なんでも、摘むと死人が出るとか。持ち帰ると火事になるとか」

 僕はそれを落とすと、見ないで踏みつけた。

「怖い迷信だね」

「怖いし、意味深だよ。彼岸に咲く葉のない花、曰く彼岸花」

 楽しそうに彼は口だけで笑った。僕は赤い風を振り切るように、大股で彼に近づく。

「君には似合わないね、それ」

 彼はもう一度振り返ると、心外だとでも言うように肩をすくめた。

「君はそう言うと思ってたよ」

 まるで白いかのようだ。彼には似つかわしくない。

「僕はそうは思わない」

 彼はまた歩き出す。

「僕は君だから。君は僕だから」

 違う。

 僕は考えなかった。見えないはずの表情を決めつけ、勝手に彼は笑う。

「君はそれだから、あの子を助けられない。意気地なし」

 違う。

 黒い彼は、目の前に現れた。

「聞きたくない」

「君は弱くて弱くて弱くてバーカだ。君は必ず失敗する。なぜなら、君の気持ちは硬くて脆いから」

「君は何も知らないから」

「君は何も考えないから」

「君の気持ちには、中身が無いから」

 無知で、無能で、空っぽ。外面だけパーフェクトな僕は、まるで超人だった。僕という人間は、皮肉的に特別だった。

 やめろ。

「見たくない。知りたくない」

「君はすごい人間だ。立派だよ。生徒会長? 頭もいいしスポーツもできる、気遣いもできる。少女漫画の男みたいだ。マジ羨ましいと思うよ」

 でもね、

「君は錯覚しちゃった、それも仕方ないさ。君はすごい人間だ。君の肌に貼ってあるそんなレッテルは、君を蝕んだんだね。君は完璧で聖人である必要があった。周りの人間が、君自身もそう君を名付けたんだから。人間のくせに大罪を知らないような人間に、君はなろうとしたんだ。僕は君以外にはこんなこと言わない。人間ってみんなつまらないし弱っちいから。君みたいな、表面だけの強さを自覚したように知ったかぶって、弱いけど身の丈にあったことをしようなんていう、他人から、僕みたいな君の中の脳内設定の観測点から、その在り方を容認してもらおうっていう考え方が一番嫌いなんだ」

 僕の正義感は、僕を強くした。手を伸ばせば届くと知り、世界を知った。僕は非力を知り、無知を知り、無能を知っていた。だからこそ、その気持ちは空っぽだった。

 僕の気持ちは弱かった。柚月や南、明里、会計と接するうちに気持ちを見直し、僕の気持ちは硬くなった。しかし空っぽなそれは、硬くて脆い。

「人の目ばかり気にして、表面を取り繕って、揉め事を揉み消して、先生の味方で、全員の味方で、敵なんか薙ぎ倒して、視界が無駄に広くて、いつも丁度九十パーセントの合格点で、言葉だけが綺麗で、存在だけが綺麗で、脳の言葉が心臓まで届かない、何にも感動しない、人間的ではない、人間ではない、本心がない、中心がない、動くタンパク質。それが君だ」

 僕の心臓は、マントルにあった。外核も内核も、僕には存在しない。ハリボテで、顔立ちだけが立派で、鎧だけが地球で一番優秀な、そんな面白くない淡白な勇者。かっこいいヒーロー。

「君はイジメを許さないと言ったな。違うよ。君が向き合ってきたのはイジメではなく『イジメっ子』だ。イラっとして殴ってたまたま力があっただけの、陰気な小学生が紙に書くヒーローさ。力のせいで近道をして、君は本質を何も見ていない」

 正義の味方になるために、僕が存在するために、僕は僕の悪を拒絶した。僕は僕が大嫌いで、中学時代、気持ちだけは真っ白な正義になった。真っ白で空白。悪魔というレッテルを貼られ、しかし僕には悪がない。悪がなく、何もない。死にたいほどにそれを自覚して、僕は僕がどうでもよくなっていた。自分を好きになれと発した僕の言葉は、マントルから見えた星空だ。

 そんな僕は中学時代、ある子を好きになり、それは僕の嫌悪を埋めてくれた。僕の目を逸らさせてくれた。死にたい気持ちを地面に埋めて、見えないようにしてくれた。僕は空っぽだけれど、その子のおかげで、僕はここにいる。

 僕は柚月を助けたい。僕は柚月のためなら、なんだってできる。

 そんな言葉はただの言葉で、言葉だけの音声だ。その中に、僕の願いの中に、本物の僕はいないらしい。言葉にさえ酔う、未熟な子供だ。

「仕方ないよ」

 僕は僕が、大嫌いになった。その嫌いを思い出す。まるでヒーローのような僕が崩壊し、継接ぎで作ってきた唯一の綱が、嫌な音を立て始める。

 ずっと目を背けてきた。春に彼女と出会い、気づく頃には彼女に惹かれ、引きたくなくなってしまっていた。それからひたすら悪魔から、自分から目を逸らし、そう居続けた。

「君に魔法をかけてあげよう。とっても素敵なやつ」

 何が楽しいのか、彼は笑っていた。

「心を真っさらにする魔法。人間とか世界とかってさ、ゼロが一番綺麗だと思わない?」

そんなこと、知らない。

 僕が殺したあの二人と、殺しかけた明里。空っぽな僕の、矛盾した特別扱い。傲慢でそして、アイデンティティの矛盾。まるで天使のように、皆を愛するはずだった僕は、また人を殺す。

 何が得意分野だ。交渉の結果なんて目に見えていた。甘さや甘えが通用しない相手。僕の幼さで、傲慢で、口先だけで、自分勝手で、無知で無能で、空っぽで柚月を殺す。

 悪魔の鎌が、彼の鎌が、僕の鎌が、彼女の首筋にかかった。彼岸花が彼女を包む。

やめろ。

「やめろ」

 やめろ。

 もう、終われ。

「もう死にたい」

 彼は立ち止まり、悪魔は言った。

「それならさ」

 彼の嘲笑が、空っぽな僕の中に響き渡る。


「バッドエンドって、どうかな」


『特別に教えてあげる』

 そう彼は言った。

『明日の夜、彼女は死ぬ』

 冷酷な宣言。無慈悲な結末。

 僕はなぜか、それが事実だと確信していた。


 夜十二時を十三秒通り過ぎた辺りで、僕のスマートフォンは振動した。

 振動したらしい。受信履歴に、そう書いてあった。


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