表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天使のパレット  作者: 五月悠助
11/20

1%の奇跡

 11


「うわあ人いっぱいですね……」

 思っていたより快適だった夜行バスの旅を終え、荷物を受け取っていた。南はきょろきょろと辺りを見回す。

「柚子も東京初めてなんだっけ」

「うん。すっごくドキドキだよ」

 新宿駅前。僕は予習していた地図を頑張って思い出す。僕も初めてなのだ。

 安心して任せきってしまっている二人は、先導する僕の後ろではしゃいでいた。ここは 思っていたほどに人は多くなく、それほど空気も悪くなく、僕としては田舎者の神話にヒビが入ったような気になっていた。

「裕太ちゃんすごい。道わかるんですか?」

「調べてきたからな」

  特に不自由なく電車に乗り込むと、やけにスカートの短い女学生に居心地の悪さを感じながら、都会の景色を眺める。鬼のような広告の量に東京を感じた。

「そういえば柚月ちゃん、この旅のこと、親にはなんて説明したの?」

柚子は首を傾げる。

「普通に言ったよ。私とぽーちゃんと裕太くんの三人だって」

「よく許してくれたな……」

 お母さんはともかく、お父さんとは会ったことがない。もしかして今度柚子の家を訪れた時に殺されるなんてことはないだろうか。

「お父さんもお母さんも裕太くんのこと知ってるから、大丈夫だよ」

「親公認のカンケイってことですね」

「お前なんか勘違いしてないか」

 南は唇を瞑って楽しそうに笑った。

「前から思ってたけどさ。二人、姉妹みたいだよな」

 柚子は姉っぽくはないが。南は妹っぽい。双子の姉妹といった感じだ。

「それを言うなら、私だって裕太くんとぽーちゃんは兄妹みたいだって思ってたよ」

それなら柚子とも兄妹になる。僕は敢えて口にしなかった。

 思い出してみると確かに、新井さんに南が妹かと訊かれたことがあった。

「南、そんなに可笑しいか?」

「……うんん。ただ嬉しくて」

 兄妹。姉妹。……姉弟。

 南が持たない家族の温かさを、僕は知っていた。苦い思い出のはずなのに、どこか温かい。もう一生会うことはないだろうあの人を、僕は外の景色に紛らわせていた。


 モノレールに乗り換えた僕らは、駐車場に三角コーンで作られたミッキーマウスの巨大アートに迎えられ、夢の国にたどり着いた。開園時間には間に合わなかったようで、入り口はわりかし空いていた。

「すごーい! 夢の中みたい」

 まるで外国のような建物群を抜け、大きな湖の辺りを歩いていた。柚子は南の手を引き、僕の前できょろきょろしながら今にも走り出しそうな勢いでいた。

 僕らはネットで調べた通りにファストパスを取ってから、アトラクションの列に並ぶ。

「ホットドッグおいしいよ! 裕太くんも食べる?」

「ありがとう。僕もお腹すいたよ」

 受け取るのはいいものの、どうしたものか。反対側を千切るなんてことはできない。

「口つけてもいいよ?」

 むしろ気にしたら逆に変な空気になるだろうか。南も特にからかってこないので、僕は遠慮なくいただいた。

「裕太ちゃん、ポップコーン食べたいです」

「わかったわかった。もうちょっと我慢しような」

 からかわれて不満そうな南を、僕は楽しく眺めていた。


 散々はしゃいで歩き回って、天気予報通りに小雨が降り出した昼すぎ、僕らはレストランで疲れた足を休めていた。ディズニー価格に慄きながらも、三人分の食事を持って運ぶ。

「夏休みなのに人で満パンじゃないのは、雨だからなんですね」

「そう。小雨だからむしろ好都合だよ」

 柚子のことも考えると、一日中歩き回るのも辛い。しばらくだらだらとそこで過ごしていた。

「あそうだ。まだブラックペッパーのポップコーン食べてません」

 カレー味のポップコーンを食べながら、南は言った。

「ほんと好きだな。喉乾くだろ?」

「背に腹はかえられません」

「お腹にポップコーンが付いてるんだな」

 どこどこ? なんて下を向く南には会計とのノリが通じなかった。これは僕の方が悪いけれど。

「ぽーちゃんはさっきから食べてばっかりだよー」

「柚月ちゃんも人のこと言えないですー」

 てへ、なんて言って二人は笑い合う。

それから程なく雨は止み、夏の日差しに困らされることなく過ごしていた。二人の飾りのない笑顔を見ることができて、僕は控えめに言ってとても幸せだった。

 こんな夢みたいな時間が、現実の日々でもずっと続けばいいと思った。

 僕はトイレから帰って来ると、先に待っていた南を見つけた。しおらしい顔をする彼女に、何気なく話しかける。

「転校してもさ、また柚子みたいな友達作れよ。きっと今のお前ならできる」

 南の方に目をやった。僕はそっと口角を下ろす。浮ついた気持ちが、高ぶらされた気分が、表面から順番に形を崩していった。

「それは裕太ちゃんの特技です」

 夢みたいな時間。夢みたいな、夢。

「南?」

 僕は突っ立っていた。全身が砂になって、さらさらと乾く。

「私の特技は」

 南は僕に歩み寄る。後ずさるための足が僕には欠けていた。

 彼女のみずみずしい透明な嵐は、ぶつかって簡単に僕はなくなる。

 南の特技は。

「犬の真似です」

 僕は。…………僕は?

「見たいですか? 私の四つん這い」

「……みた」

 そう僕は言う。

 見たくない。


 花火。とは少し違う華やかな光に囲まれて、楽しげな音楽が見えてきた。凄まじい量の光の槍が空に次々に描かれて、暗い辺りが不規則に照った。

「すごーい! 花火ー?」

 二人は崖の柵近くまで手を繋いで走っていくと、空を指差して笑った。僕はぼーっと二人を眺める。

「裕太ちゃん早くー!」

 南は僕の手を引っ張るために戻ってくると、駆け足で柚子の元に戻った。

「パレード、だな」

  遠くの湖でキャラクターたちが大きな船に乗って踊っている。まるで嫌な夢から醒めた直後のように視界がはっきりしないうちに、僕は光るモニュメントを目に焼き付けた。

 南が握りっぱなしだった手に僕が小さく力を入れる。

「夢……か」

 南が、柚子が、僕に笑いかける。

「夢みたい、ですね」

 僕はそんな世界を見つめ、頷いた。


 棒になった足でなんとかホテルにたどり着いたのは、夜十一時を回った頃だった。僕は二人と分かれた一人部屋で、しばらくベッドに突っ伏してからシャワーを浴び、ふらふらと一階に降りてきた。

 地元とは違って外人が多く、高級感のあるフロントに贅沢感を感じていたところ、見慣れたコンビニを見つける。しっかりした夕食を食べていなかった僕は、カップ麺を二個、ポテトチップス等々の菓子を買って部屋に戻った。

「……南?」

 僕の部屋の前でぼーっとする南を見つける。無防備な湯上り姿の彼女は、僕を見つけてぶんぶんと手を振った。

「なにかあったのか?」

「柚月ちゃんと大浴場行ってきたんだけど、柚月ちゃん、帰ってきてすぐ寝ちゃったの。です。だから裕太ちゃんはどうしてるのかなと思いまして」

 確かに柚子は眠そうにしていた。僕はとりあえず南を部屋にあげると、南はベッドに勢いよく倒れこんだ。

「おいおい、ここで寝るなよ?」

「分かってるー……」

 お湯を沸かし、お茶を淹れた。彼女のそばのテーブルに置き、

「そうだ。お腹減ってないか?」

「愚問ですね。私のお腹の音が聞こえないんですか」

「聞こえんよ」

 僕が健気に二人分のカップ麺を作ってやると、南は飛び起きて横までやってきた。

「もしかして私の分ですか?」

「二つ作ってどっちも僕の分なんて、お前の先輩はそんな意地悪じゃないよ。ほらその椅子に座っていいから」

「裕太ちゃん大好き!」

 ドキッとすることを言うな。

 僕は買っておいたペットボトルのお茶を二本、冷蔵庫に移した。

 テンションのおかしい彼女の方を見ると、そっぽを向いてしまった。僕は椅子がないのでベッドに座る。

「トンコツと塩、どっちがいい」

「太りたくないので塩がいいです」

「変わらないと思うけど」

 お前はもう少し太ってもいいと、僕は言いかけてやめた。

 窓から見える東京の夜はとても明るくて、それだけで非日常だった。言葉なく、僕らは外を眺める。

 落ち着いていられるこの独特の距離感は、僕にとってとても心地よかった。変に気を遣わず、背伸びせず自然体でいられた。

「……なんで泣いてるんだ?」

 彼女の方を見なかった。僕は食べ終わったカップを置き、冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し窓際まで歩く。

「……幸せだなあって。まるでーー」

 まるで。彼女は唇をかみしめる。

「まるで、普通の子みたい」

 親に捨てられ、施設で育った女の子。

変わった名前をつけられ、いじめられ続けていた女の子。

 家族のいない女の子。

 友達のいない女の子。

「私ね」

 背中に小さな感触があった。僕が振り返ると、彼女は僕に寄りかかる。

 穏やかな静寂。温かな感触。

「私、裕太ちゃんのことが大好きだよ」


 僕はこんな記憶を持っていた。これが現実なのか、それとも僕の夢なのか妄想なのかは分からないけれど、語っておこうと思う。多分大切なことだ。

 かつて少女は言った。先輩と同級生は違う。先輩は自分より後輩が優れない限りにおいては、優劣なんか気にしない。同級生は自分たちの中で無意識に優劣をつけたがり、そしてそれ故に集団内で無謀なことはしない。一つの失敗が、自分の身分を貶めることがあるからだ。一つの強い勢力や風潮があればそれに同調する。同級生同士は同じステージにいて、同じ噂話やイメージを共有して人に優劣をつけてしまう。いろんなこじつけをして、自分より下の人を作って安心しようとする。時には結託して。それがイジメ。

 だから少女は先輩とは仲良くなれても、同級生とは相容れない。少女にとって、同級生とは貶めてくる存在でしかなかった。自分は格好の的だったと、少女は言った。

 大勢の人間が行き交う歩道の端で見つめ合う僕らには、たまに視線が飛んでくる。少女はじっと僕の目を見つめ、僕に近づき手を取った。

 僕は呆気に取られていた。少女は僕の手を引き、自分の陰部に当てた。スカートを掠め、すんでのところで僕は手を止める。

「私はここを、何度も触られました」

 周りの人が足を止める。僕らを怪訝そうに見つめる。ひそひそとした話し声が聞こえてくる。

 僕の手が動かなかった。皮膚の内側で痙攣していた。過剰なまでの自制心が湧き上がり、内側から拒絶反応をも引き起こした。それは彼女を傷つけることにも繋がると気づいた僕は、手を引くことも力を抜くこともできなかった。

 彼女の目を見る。すると僕は周りの目を気にすることもできなくなって、しばらく押し黙っていた。僕は歯をくいしばる。

「気持ち悪くて気持ち悪くて仕方ないんです。触られた感触が。忘れられない。性欲が気持ち悪い。怖くて嫌で。夜が怖い。男も女も怖い。見られるだけで吐き気がするくらいに」

 僕が襲われた感情は真っ赤より黒に近く、下から押し上げられてドロドロに沸騰し口まで迫った。必死に堪えようとして、僕はなんとか止まる。

 彼女のことは、南のことは、僕が美化して語っていた。変わった名前で、イジメられていて、でも内心にはちゃんと自分の魅力を持っていて、人懐っこくて、可愛くて一緒にいて楽しい。友達で、後輩で。強くて自立できる。

 名前の問題がなくなればすぐに同級生にとけ込んでしまうような、魅力的な少女。僕が、無神経にそう語る。

 彼女が同世代の人間を見る時、一瞬で心を黒く染めることを僕は自分の思いすぎだと考えていた。いや違う。深く考えていなかった。『僕はイジメ問題をナメていた』。

「私が出会った中で、二人だけでした。私が普通でいられたのは。考えられないくらいの怒りと力で、なんの他意もなく私に取り憑いた気持ち悪さをぶち壊してくれた男の人。正義感でも偽善でもなく、本当に私を見てくれて、気も遣わずに私をそのまま抱きしめて受け止めてくれた女の人」

 彼女の心は複雑で、とても単純だった。他人に対する嫌悪感。トラウマや怖さ。彼女の心は二本だけ光を放ち、彼女はそれに縋っていた。黒は嫌いで、白は希望だった。

 なぜ彼女が改名を決意したのか。転校を決意したのか。それは僕が数日前に説得したからだ。白い希望に、彼女は裏切られそうになった。

 彼女はどこか安心したように、僕の手を離した。気づけばとっくに手の痙攣は収まっており、僕はそのまま強引に彼女を抱き寄せた。彼女は全身に力が入っていたけれど、それもすぐになくなる。僕はどうしたらいいのか。何を言えばいいのか。

 分からなくて、でも彼女を離しておけなかった。僕は絶対に彼女の味方だった。でも彼女に成長してほしかった。僕ら以外にも、信じられる人を見つけてほしかった。誰でもなく、彼女のために。

「……相手が裕太ちゃんならよかったのに」

 僕のエゴはとても余計なお節介かもしれないけれど、偽善かもしれないけれど、彼女を助けたい。苦しんでほしくない。トラウマを、消してあげたい。

「三年間」

 南は苦しんできた。夜は睡眠薬を飲んで、一人でいた。

「私の初めては、中学二年の頃でした」

 彼女の心から出る苦しみが、僕の心を染めていった。僕の正義は弱くて脆く、中和もせずに染まってしまう。

 それはどんなに鎧が硬くても関係のない、即死の魔法。

 醜く舞い踊る『死神のワルツ』。

「私とセックスしてくれませんか?」


 ユータは、何度も何度も苦しみもがき、その辛さを誰にも分かってもらえなかった。人とは違う人生の中、彼は一人の大切な人と出会う。

 生きる理由。戦う理由を見つける。

強い力は人を守り、強い心は人を力づける。大衆的なヒーローとなった彼は、しかし大切な人を守れなかった。

 彼は、

「裕太ちゃんは、ヒーローだった。誰も助けてくれなくて、その頃は私に友達ができるなんて、考えもしなかった」

 彼は、僕に似ていた。

「私のこの気持ちは、ラブじゃない。ライクだよ。ヒーローだから、私は好きになれたの」

僕はヒーローじゃない。

 僕はただ『レベル』が高いだけの、強がりだ。

「転校しても、裕太ちゃんに好きな人がいても……友達でいてくれますか?」

 僕は人間だ。偉い人間でもない。僕は彼女の好きな、ヒーローにはなれない。

「裕太ちゃんと柚月ちゃんさえいれば、友達なんていらないよ……」

 彼女はどこか、自分のことでも他人事だった。アイデンディティが薄く、他人のことが好きになる。

 自分の名前が好きになれない、前に彼女は言った。彼女はだから、自分にも愛着を持っていない。

 僕は落ち着いて、自分を心に固める。何を言ってやるべきか、僕はまた正解を探している。責任感は大切だ。けれどいつも合格点。相手へ体裁を気にしていた。

 逃げてはいけない。彼女の味方でありたいけれど、苦しめたくはないけれど。良い具合の、僕に都合のいい着地点で満足してはいけない。自分の過保護なエゴに踊らされてはいけない。

 だから彼女と、セックスはできない。

僕はお茶のペットボトルを彼女の首筋に当てる。

「つめたっ」

 何か言おうとする彼女の口を手で制し、僕は彼女の目を見て言った。

「……僕なんかでいいんなら、ずっと友達でいよう」

 でも、そう続ける。

「お前はもっと、自分を好きになれ。新しい学校で新しい友達を作りなさいとはもう言わない。でも、自分のことを好きじゃない人間は、いつか同級生でも先輩でも後輩でも、友達になりたいと思えた時に、その人に好かれる努力なんてできない」

 僕は彼女の言葉を遮った。恥ずかしいけれどちゃんと言おう。

「そうしたら今までの嫌なことを忘れられるぞなんて言わない。忘れられないかもしれない。それでも同級生が怖いかもしれない。でもお前は内心にはちゃんと自分の魅力を持っていて、人懐っこくて、可愛くて一緒にいて楽しい。友達で、後輩で。強くて自立できる。僕も柚子もそう思ってるし、そんなお前が大好きだ。お前は、自分で自分を好きになれるだけの魅力を持ってる。僕が保証する。今まで出会ってきたクズにトラウマに、心の中で、お前は打ち勝てる」

 それだけは保証できる。僕は自信満々に言った。

「……私は、ただ怖いんです」

 僕は彼女の手を握る。

「僕と柚子は、何があってもお前の味方だ。お前の持ってるトラウマは、一人じゃ抱えきれないかもしれないけど乗り越えなくちゃいけないんだ。許す必要も正当化する必要もない。お前が望むことなら僕は『なんでも』してやる。僕は、柚子も、そうしてやることしかできない。でもお前は、あくまで自分の力でそのトラウマを乗り越えなくちゃいけないんだ」

 彼女は僕にしがみついた。僕は彼女の頭を撫でる。サラサラの髪。きっとショートにすれば似合うだろう。柚子と同じような髪型にするといいかもしれない。呑気だけれど、そんなことを落ち着いて思った。

 しばらくそうしていると、南は顔を上げた。目が合い、僕は笑いかける。

「……裕太ちゃんは、あったかいです」

「本当は人間って、これくらい温かいもんなんだよ」

 彼女はまた顔を埋める。

「……本当に私にできますか?」

 お前ならできる。

 僕は心から思った。何度でも言う。

「お前ならできる」

 彼女は、一度だけ小さく頷いた。

 ああそうだと思った。彼女のことで、一つ思い出した。

「……名前」

 彼女は首を傾げる。

「新しい名前、候補を考えてきたんだ」

 僕が考えだすと彼女は寄りかかるのをやめ、興味深そうにこっちを見つめた。

 僕は彼女を変えられただろうか。多分あまり変わっていない。彼女は元々、希望を胸に持っていた。僕があげたのは、誰もが持っている勇気だけだ。

 キッカケ。彼女が自分を好きになれる勇気を、彼女は受け取ってくれた。

 僕は先輩として、ライクと言ってくれた友達として、

「僕と柚子の頭文字、それと勇気を掛けて……」

優しい、希望。

 嫌だと言われたらどうしようかなんて笑いながら、僕は彼女の頭に手を乗せた。

「『優希』。僕も、お前が好きだよ」



 予定の時間よりも一時間ほど早く起きた僕は、らしくもなく朝の散歩をしていた。特に変わったこともなく、面白くもない旅路だった。

 僕が部屋に戻った時には二人の準備も終わっていて、ホテルで軽く朝食を摂り、すぐに電車に乗る。昨日あれだけ力尽きたような顔をしていた柚子も、一回寝ると疲れなんか吹き飛ばしていた。

 最近なんだか柚子と南、二人の仲が良すぎるような気がする。いやもちろん良いことなのだが、三人でいるときに心なしか蚊帳の外になる感じがした。

「そういうわけで、柚月ちゃんは私がもらいます」

「どういうわけだよ」

 さっきからなにやら、本人に聞こえないくらいの声で柚月ちゃんの寝顔がどうだとか抱き心地がどうだとか言っていたが、朝から変なテンションになっている南を僕はやんわりとスルーしていた。

 前から思っていたことだが、南の僕と柚子に対する態度は、違うようでかなり似ている。普通人間は相手によって態度を豹変させるけれど、例えば僕が柚子に対するとき、南に対するとき、高梨に、会計に対するときそれぞれで違う。南のそれは、しかし同じでありながら、未だ僕に対するより柚子に対する方が、なにか壁を残しているように見えた。会話だけ聞いていれば仲が良すぎるという考えになるが。この違いはなんだろう。

「ところで、今日は何するんですか?」

 僕は柚子と目を合わせ笑い合う。

「ふふふ、優希ちゃんの改造計画だよ」

 南はもう名前を柚子に教えたのかと他人事のように驚いていた。

「改造……?」

「まずは美容院な。もう予約はいれてあるから。次に洋服でも見に行こう」

「優希ちゃんはショートの方がかわいいと思うんだよね。イメチェンしよう!」

 先ほど柚子と話し合ったときに一致した意見だ。

「で、でも! 私そんなにお金持ってないよ……?」

「金のことなんか気にするな。転校祝いだよ」

 借金まみれだった中学時代とは違い、今の父親に引き取られてから金のことには全く困らなくなっていた。父親が何をしている人なのか、聞いたことがないので謎に包まれているが。

 僕らはなんとか南を丸め込み、渋谷に到着したのだった。


 二人を予約した美容院に送り届けてから、僕は独り、何をするでもなくフラフラとしていた。僕は人の少ないエリアの建物の壁に寄りかかり、田舎者としては世にも奇妙な大型の「壁テレビ」を眺めていた。

 そのうち流れてきたアイドルグループの映像に、僕はハッとする。僕は思いつきで電話をかけた。

『もしもし。前田さん?』

「ああ会計。今ヒマだよな? 聞いておきたいことがあるんだが」

『無論ヒマですが、何です? また恋人の過去を探るんですかー』

「そんなんじゃないけど。お前、なんとかってアイドルが好きだって言ってたろ。具体的に誰が好きなんだ?」

 なにか本を閉じるような音がした。勉強でもしていたのだろうか。

『いやいや、別にアイドルが好きってわけじゃないですよ。俺は可愛い女の子が好きなだけです』

「清々しいなお前」

 僕は手汗を拭くためスマートフォンを持つ手を入れ替える。

「僕が今どこにいると思う?」

『ん? ちょっと待ってください。今逆探知かけますから』

「なんでそんな準備があるんだよ」

 こいつだとむしろ冗談にしか聞こえない。

『東京圏か名古屋ですね』

「カマかけなら効かないぞ」

『知ってますぜ旦那。東京ですね?』

 本当に逆探知をかけたんだろうか。

『いや単純な推測ですよ。その地区では先ほど雨が降りました。さっきから人が水たまりを踏む音が聞こえるのに雨音はしませんからね。加えてさっきスマホを持ち替えたでしょう。傘を持っていたらもう少し手間取るはずです。直前まで降水があり、さらに前田さんの訪れる価値のある場所と言えば、シンプルに東京圏か、お母様の実家のある名古屋、ですかね。この時間に人の気配の多いことを鑑みると新宿とか渋谷とかにいる可能性が高めかと思われます』

「気持ち悪いなお前」

『あ、えと。それは普通に傷つく』

気持ち悪いというより普通に怖かった。

「いやな、明日秋葉原に寄る予定だから、折角ならなんか買っていってやろうと思ったんだが」

『そんなこと言ってー。僕に理由付けしないで下さいよ。本当は自分が行きたいだけのくせに』

「その通りだけどうるせえよ」

『これが本当のヲタめごかし、ということですね』

「地味に上手いけど黙れ」

『前田さんが真面目な顔してレジに通すのを想像したら爆笑を禁じ得ない……』

「おうだから黙れよ」

 会計はいつものように面白そうに笑う。

『前田さんのセンスに任せますよ』

「結局要るんかい」

 ため息をつくフリをして、僕は笑いを抑える。僕はまたスマートフォンを持ち替える。

『そういや、なんで東京に?』

「推理してみろよ」

『分かるわけないじゃないですか』

 会計はしばらく黙り込むと、

『前田さんは一応受験生ですからね、無意味な旅行はしないでしょう。それにこんな時間の電話。大した用もないのにかけてきたところを見ると、思わずヒマな時間が出来てしまったんでしょうね。連れがいるのか待ち時間なのか……前田さんは一人旅なんてするタイプじゃないですから、連れと一時的に離れた。連れが誰かは……秋葉原に行くような人は、浅野さんが可能性が高いですね。前田さんはチキンだから共通の友達……南さんしかいないか、を誘ったりする可能性もあります。その場合旅の目的は、秋葉原を明日に回すことも含めてオタク的活動でないとする。浅野さんの個人的な用事であれば、前田さんを誘うよりも親に頼るように思える。つまり南さんか前田さんの個人的な用事、前田さんの場合時期的に考えると浅野さんの病気について、旅行とか漫画の取材とかを名目に有識者とでも会おうと考えてるとか。確率だけなので断定は出来ませんが』

 僕はスマートフォンを離し、辺りを確認する。会計らしき人影は見えなかった。

『もしかして、当たってます?』

「お前は怖いな」

『有能ですから』

「さすがは僕の部下だ」

『なかなか褒めてくれないなあ』

 今更思い直すことでもないが、会計が学校で一人でいることが多いのは、やはり周りが会計のトーク力についていけないからだ。ツッコミを前提にしたボケに対し、正解を返すのは案外難しい。

『さっきまで暇すぎて子供のとき読んでた諺の本読んでたんですけど』

 どれだけ暇ならそんなことをするのだろうか。というか勉強してたわけじゃなかったらしい。

『あれって結構テキトーなこと言ってたりしますよね。それっぽさ重視というか。三人寄れば文殊の知恵とか』

「まあ確かに、三人寄ったから良かったって経験は少ないわな」

『諺とは違いますけど、やらずに後悔よりもやって後悔とか、米には何人の神様がいるとか。俺はみんな知ってるただそれっぽい言葉が嫌いなんですよね。一円を笑ってますけど一円に泣いたことないですよ』

「神様に怒られるぞ」

『会ったことないやつに怒られる義理はないですよ……おっと誰か来たようだ』

「扉を叩いたのが、久しぶりに親しげに会話する息子を温かく見守るお母さんであることを、心から願おう」

『ああ窓に、窓に!』

「元気だなお前」

 会計は柄にもなく爆笑した。混沌が這い寄ればいいのに。

 立っているのも疲れたので、すぐそばのカフェに入った。おひとり様仲間がちらほらいて安心する傍ら、抹茶のタピオカを注文して受け取り、屋外の席に着いた。東京は物が高いと聞いていたけれど、意外と地元と変わらない。

 がやがやしていて逆に、僕としてはかなり落ち着けた。

『前田さんって、勉強が将来の役に立つと思います?』

「なんだよ藪から棒に」

『ただ勉強めんどくさいなあと思って。やってますけども。別に勉強出来なくても生きていけるし、高校数学が出来なくても医者になれるんじゃないですか。っていうよく聞く疑問』

「知らんよ。役に立つとは思いたいけどな、折角してるんだから」

 正直なところ、役に立つと思う。勉強した内容なんて卒業して数年すればさっぱり忘れてしまうらしいけれど、勉強すること自体で得られるものがあるのではないか。頭のいい、所謂使えるやつになるためにはだけれど。最低限生きていくぶんには必要ないのだろうが、人の上に立つ人や人の責任を持つ人は、そういった考えることの能力を磨くべきだと思う。勉強することがイコールで頭がよくなることだとは思わないけれど、勉強以外でそうなる手段はあまりないように見える。

 それに例えば因数分解もできない医者に診てもらうのは、なんか嫌だ。

『勉強は無意味だとか言って勉強しないやつとか結構いるんでしょうけど、無意味だとか言っていいのは勉強出来るやつですよね。何も知らないやつに何が分かるのかと。学ぶことによって得たことで見えるものなしに語るって何様じゃと』

 これは前田さんの考え方ですか、と会計は笑った。実際会計はどう思っているのだろうか。

「本気で言ってる人はあんまりいないんじゃないか」

『まあ確かに。それはともかく頭空っぽな連中が学歴社会は終わったとか言って騒いでるのを見ると腹立つんですよね。負け犬の近吠えみたいな』

「んー、まあそうだな」

『あれですよ。少子高齢化と未婚率がヤバイからって、イケメンが一夫多妻制を導入しようって騒ぐようなもの』

 多分こいつは、このオチを言いたかっただけだと思う。

「でもお前がそう言うのは学歴社会が無くなったら困るからだろ? だから無くなって欲しくないわけで。お前に基づいて言えば勝ち犬の遠吠えみたいな」

『百里ある。学歴社会が無くなったら俺みたいなやつは何も残りませんからね』

「何も……まあな」

『ツッコミ忘れてますよ。納得しないでください』

 こういう話題はあまり好きじゃない。というのも、僕らより勉強のできる人間なんて大勢いるし、その人たちにとってそんな話を賢ぶってする僕らは嘲笑の的だからだ。

 そんなことを他人に話せるところが、会計が僕と違うところだろう。良い悪いは抜きにして。

 隣のテーブルについた三十代くらいの男性がパソコンで仕事だろうか、難しい顔をしていたのに気づき、あちらもそんな僕と目を合わせるも、気にせずに目を戻した。僕は小さく頭を下げると、タピオカを半分くらいにまで減らす。

 なんだか電話というのは苦手で、少し話しにくい。そろそろ切りたくなった。

 しばらくして落ち着き、ところでお前さ、僕はそう言って声のトーンを落とした。前から触れておきたかった話題。電話の今なら訊きやすかった。

「僕の周りのこと、一体どれくらい知ってるんだ?」

 会計は自称情報通だ。どんなネットワークがあるのか想像もつかない。

『だから情報通は冗談で言ったんですよ。俺の知ってることが、たまたま前田さんの知りたいことに重なってるだけで。……せいぜい、前田さんの「お父さん」が東大卒らしいってことくらいですね。目新しいのは』

 僕は適当に誤魔化して電話を切った。会計がどこまで知っているのか、分かっているのかは分からなかった。


 僕はしばらくして美容院に戻り、魅力の増した二人を迎えた。それから僕らは洋服屋を見て回り、ちょっぴり贅沢な買い物をする。

 スカイツリーに登った頃には夕方になっていた。僕は二人を温泉に送り届けると、用事があるからと電車に乗って上野に向かう。身なりを整えて、東京大学の門をくぐった。

「前田くん、待ってたよ」

 驚くことに、垣谷さんは建物の入り口で僕を出迎えてくれた。

「こんばんは。今日はお忙しい中会ってくださりありがとうございます」

 僕が差し出した地元のお土産を垣谷さんは受け取りフランクに笑うと、お辞儀する僕の肩を叩いた。

「ほれほれ、そんな堅苦しいのはいいから。とりあえず僕の部屋に行こう。若山の息子に頭下げさせたくないよ」

「若山さんとは……」

「ああ知らないのかい? 君の父親の旧姓だよ。今は君と同じ前田だね」

 通されたのは研究室のような部屋で、一流の大学っぽい設備に囲まれた。僕らはテーブルに向かい合って座る。

「君の父親とは大学時代の付き合いでね。僕が六つ上の先輩だった。僕は医学部で彼は理学部。不思議な縁だったな」

 ということは、垣谷さんは三十一歳前後ということになる。この歳で准教授というのはすごいことなのではないだろうか。

 僕は一つ、気になっていたことを訊いた。

「僕の父親は、どんな人なんでしょうか」

「天才で努力家さ。信念を曲げない真面目なやつだよ。君は彼とあまり上手くやっていないんだったね」

「……はい」

 垣谷さんは楽しそうに僕を見つめた。なんだか全てを見透かされているようだった。

「訊いてみるといいさ。彼は決して悪い人間ではないよ」

 垣谷さんは棚に歩いて分厚いファイルを取り出すと、ドスンと僕の前に置いた。

「……名無し病だったね。詳しい話をしようか」

 ファイルをパラパラとめくると、三人の男性の顔写真のあるページで手を止めた。

「結論から言おう。名無し病は不治の病で、治すことはできない」

 しかし。垣谷さんは言う。

「助かる方法ならば、ある」


 夜八時ごろ、僕は柚子と南を迎えてホテルに戻った。僕が風呂に入り、三人でホテルで夕食を摂った後、動き回るのもしんどいので二人の部屋に落ち着いた。

「暴露大会をしましょう」

 南は突然そう切り出した。僕は南にココアを、柚子と自分にコーヒーを淹れ、椅子に腰を下ろす。

「暴露って、何を?」

「なんでも。ちょっと恥ずかしくて言いにくいくらいの秘密です」

「はい言い出しっぺ。例題をどうぞ」

 南はにやっと笑うと、柚子に向かった。

「柚月ちゃんは毎晩毎晩、私に裕太ちゃんと今日何をしたか何を話したかを、嬉しそうにチャットで報告してきます。それに一週間前なんて電話で」

「ちょっ……!」

 柚子は毛布なんかに引っかかりながら南に飛びつくと、顔を真っ赤にして口を塞いだ。しばらくし、苦笑いする僕に向かう。

「柚月さん」

「黙秘します」

「こんな感じの暴露です」

「恥ずかしいっていうか、この場合ダメージを受けたのが南じゃなくて柚子だったみたいだけど」

 僕にもダメージが来たような気がするのは気のせいだ。勘違いしないように頑張って自分の脳を洗った。

 暴露とはいったものの、大したネタは持っていない。南の弱みでも握っておくんだった。

 そのまま寝転がってベッドにうずくまっていた柚子は、ゆっくり顔を上げた。

「……そうだ。私と裕太くんが初めて喋った次の日、お昼ご飯のお金借りたよね」

「ああ、そんなこともあったな」

「お金を忘れたというのは嘘です」

 おおう。それは本当に気付かなかった。話しかけるための口実かな。そう解釈すると僕にとって嬉しい。

「くはっ、柚月ちゃんがかわいすぎて生きるのがつらいです」

「柚子が力尽きそうなんだけど」

 顔を真っ赤にして僕を見上げる彼女を見て、不覚にもドキッとしてしまった。

「僕は……なにかあるかな」

「じゃあ質問。裕太ちゃん、彼女いたことありますか?」

 僕と柚子がピクッと反応した。僕は彼女に過去を語るとき、自分と中山明里が恋人関係にあったことまで全て話している。が、南はそれを知らない。上手い具合に双方から退路を断たれていた。

「……あるよ」

「おお! どんな人?」

 南は興味津々に詰め寄ってくる。

「ええ……、気が強くて真面目で」

 柚子が変な呻き声を上げた。

「……いつも何も言わなくても協力してくれた……頼りになる人だよ」

 その後の南の詮索をなんとか躱し、その人が今同じクラスにいるということは隠し通した。いろんな意味で、シリアスな意味でも僕の傷口が広がったような気がしていた。


 まったりと過ごして夜十時ごろ。僕は柚子を部屋に呼んだ。

「話って、なに?」

 彼女はベッドに座り、僕は椅子に座った。僕は真っ直ぐ彼女を見つめ、単刀直入に切り出した。

「僕と一緒に、病気と戦ってくれないか?」


 名無し病とは先天的な脳の変異細胞が腫瘍化していくことによる感覚障害だ。『天才障害』とも言われるこれは、実は名無し病が発見される前までは祝福されるべきものだった。変異細胞は通常の細胞より非常に高いパフォーマンスを発揮する。歴史的天才たちも、この病気にかかっていた可能性があるという。

 しかしながら、変異細胞は、後天的に一定量以上の放射線を浴びるとがん化する。放射性物質の少なかった過去にはほとんど見られなかったが、

「広島長崎の原爆、福島原発やチェルノブイリ原発の事故、ゴイアニア被曝事故」

 がん化した腫瘍は感覚弱化を促進し、遂には全ての感覚を消失させる。がん化し増殖する細胞を止める術はなく、遅延化する術もない。なぜなら、通常がんは薬でがん細胞を殺すことで治療してきたが、この病気の場合、がん化しているのは人間の中枢を司る脳の細胞だ。摘出すれば食い止められる可能性はあるが、海馬を巻き込めば記憶が出来なくなったり、さまざまな中枢を破壊してしまったりする恐れがある。

 その世界中の科学者がさじを投げた現代の病。治せる人が居ない病。言われたそれは『名無し』病。

 ここまでは、柚子も知っている話だ。

「名無し病を治す方法はない。けれど、進行を完全に止める方法がある」

 原因の腫瘍を手術で、必要な細胞を傷付けることなく取り除いてしまえばいい。

 もちろんそれが出来れば苦労はしない。垣谷さんが言うには、その難易度は史上最高難易度クラス。少なくとも日本にはそれが可能な人間はいないという。

「でも世界にはいるんだ。アメリカとドイツ、フランスに一人づつ。三人ともまだ実例がないけど、名無し病と同等の難易度の手術を成功させてる」

 三人とも本物の天才だった。

 三人は毎日休みなく手術を行っているようで、また手術のための予約は短くても二年以上かかるそうだ。普通に待っていれば、タイムリミットが来てしまう。

 その中で、僕はアメリカの医師を指差す。

「アルフレッド・ブラウン。この人にだけ、唯一チャンスはある」

 垣谷さんが知人を通じて知ったそうだ。

「この人は二年前から今年も含め、九月十日から三日間、休みを取るんだ。なんとかしてアポイントを取れれば、柚子の病気を治せる」

アテはない。勝機もない。でも可能性なら、なくはない。そんな1%の可能性に、僕は全てを賭けてみたい。

 僕という人間は、おそらく何も変わっていない。我儘で強情で、思い込みの激しく変な責任感を背負おうとする変な僕。誰にでも優しくしようとした僕は、変な君を見つけた。変で特別な君だから、僕とは、そして僕の世界とは違う君に、僕たちの世界の異端者の君に、天使の彼女のような君に、僕は変わらず、相変わらず特別に憧れていた。

 君は驚いたような、戸惑うような表情をしていた。薄明るく差し込む月光は、柔らかく周囲を輝かせる。

 彼女と出会って四ヶ月の、四月の続きの日々は、僕にとって散らない桜のようだった。移りゆく美しさを全否定し、壊れやすい枝に、今になって力一杯しがみつく。

 彼女の仮面は、あの日にほとんど崩れ去っていた。あの日、つまり僕らが過去を明かしあった日だ。僕はそして、彼女の素顔を、彼女に素顔を見せ合ったような気がしていた。ある意味で、本当の意味でその日初めて、僕は彼女の容姿が可愛く、僕が素顔だと思うその姿を本物だと思いたくなったのだ。

 口を開ける君に、僕は笑いかけた。君は俯いて、布団をぎゅっと握る。クーラーの風がさらさらと君の髪を揺らし、涼しい風は僕にも届く。月夜の今日は、清々しかった。

 僕は彼女の固く握る右手を取り、両手で解いた。少し冷たい手も、僕が触れるうちに等温になる。僕が下がったのか彼女が上がったのか、彼女の表情を見ているうちに分からなくなった。

 視界が揺らぐ。めまいが起こってふらついて、それのせいにして、調子に乗って、近づいた。クーラーのせいで少し身体が冷えていたけれど、身体が勝手に熱を取り戻す。

 君を寄せて、気づいたことがある。君は僕が思うより臆病なんかではなく、そして君の熱は僕をおかしくする。そう、南の言う通りだ。触れただけで、気づかないようにしていた、気づいてしまうと怖かった僕の心を、氷ほど頑なではないが僕の心を容赦無く解かしてしまう。

 君はどう思っているか、今は表情が見えないから分からないけれど、君は嫌なのかもしれないけれど、僕はずっとこうしていたかった。

 これは、受け入れられない僕の、我儘で唯一の願いだった。

「僕は……柚子に、柚月に生きていてほしいんだ」

 月は放ち、旅し、目指し、見えて、届き、伝う。

 君の光は、きれいだった。

 君の月は、きれいだった。

「……ひとりぼっちに、しないでね」

 僕は君に、笑いかける。

「君が死んだら、僕も死ぬよ」

 口の動くまま、『本心』でそう言った。

 ここまで来て言うまでもないことだが、敢えて頭の中で言葉にしよう。

 僕は柚月が好きだった。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

面白かったらコメントやレビュー、評価などしていただけると非常に嬉しいです。

今回から後半です、よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ