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天使のパレット  作者: 五月悠助
10/20

モノトーンな世界

 10


 僕らは飲み物以外何も口にすることなく、そのレストランを後にした。僕の提案で、そこから遠くない僕の家に帰ってきた。途中のコンビニで買ったそうめんを簡単に調理する。

「ごめんね、安物で」

「……うんん、ありがと」

 柚子は下を向いてちゅるちゅると啜ると、僕らはしばらく黙っていた。僕は遠く外を眺め、彼女の言葉を待つ。

「……どう思った?」

 予想の範囲内の質問が来て、僕は深呼吸した。決心して躊躇なく、肺から強引に空気を押し出す。

「エロいと思ったよ」

 震えだす口角を抑えに抑え、驚いて顔を上げた彼女を見る。

「僕の趣味とはちょっと違うけどね。リアルすぎてキツめだったかな、少しぼかせばいい味出すと思う」

 死にそうだ。

「表情がいいってさ、そこが一番よかった。 視点もなかなか奇抜で驚」

「もももういいよっ」

 顔を真っ赤にする柚子に負けず劣らず、僕は全身が恥ずかしくて逆立っていた。強がる僕を見て、柚子はだんだん落ち着いて肩の力を下ろしてきた。

「裕太くんのいじわる」

「どう思ったって訊くから」

 僕らはなんか小さなことが気にならなくなって、笑い合った。


 僕は柚子から逃げなかった。背負いこむと、自分勝手に決めた。

 だから柚子が余命宣告をされていると聞いても、そこまで動揺を表に出すことはなかったのだ。

 彼女は、生まれつき脳に障害を持っていたそうだ。人よりも反射速度が遅く、また嗅覚や聴覚が弱かった。疲労に弱くすぐ寝てしまうし、激しい運動も危険らしい。

 二億人に一人。七十年前に初めて発見され、過去に例が非常に少ない、故に研究が遅れている現代の病。

 これは治せる人がいない病。通称『名無し病』だった。

「昔から、不思議だったの。私はみんなが出来ることが出来なくて、みんなが出来ないことが出来た。人より弱い分、私の視覚だけは人より優れてたんだって」

 だから柚子は、絵を描いた。微妙すぎる色の違いを明確に見分け、彼女は自分の思い通りにパレットを操っていた。

 ある日、彼女は自分の嗅覚が完全になくなったことに気づいたという。

「お母さんに訊いたの。私は何かの病気なのかって……教えてくれなかったけど、中学二年の秋、たまたま知っちゃったんだ」

 自分の嗅覚は、必然的になくなったということ。そしてそれは、これだけ留まらないということを。

 そして彼女は医者を問いただした。

「感覚がなくなっていくほど、他の残ったものは強くなるんだって。目を瞑ると音を聞きやすくなるのと同じ原理。でもいずれ、強くなったものもなくなっていく。私の五感は、それに意識も。歩くことも、喋ることも、考えることも、当然見ることも……」

 今から一年後、柚子が十九歳になる頃には全て出来なくなると、そう告げられたのだった。

 彼女はそれを知った時、絶望した。人生に意味を、自分に意味を見いだせなくなった。人を避け、考えることを避けた。

 彼女には世界が遠のいて見え、自分がそこにいなくなったかのように見えたのだという。

日常が異世界になった。研ぎ澄まされていた彼女のカラフルは、消失した。

 単二色の異世界。白黒の世界。

 彼女は中学二年の秋、色彩感覚を失った。

だから彼女は、絵を描くことをやめたのだ。



「柚子って反抗期とか、あった?」

 彼女は首を傾げ、横に振った。

「ないと思う」

「珍しいね。まあ柚子はないか」

 時期的な問題もあるだろうが。その頃反抗なんて発想を持てなかったのだろう。

「僕は他の人たちと違った反抗期だったんだろうなって、最近思うんだ」

「どういうこと?」

「ほら、僕って親がいないでしょ? だからさ、反抗の行き場が家庭じゃなかったんだよ。僕がムキになって走り回ってたのは、そういう反抗期のせいでもあるのかなって」

 夕方になって僕の家を出た。僕は柚子を送り届けるため、自転車を押して歩いている。

「僕も含め反抗期の子供って、大人、というか例えば学校の先生とかに対して何かにつけて反抗するんだよ。こうすればいいのに、とかって思ったり。例えば挨拶なんか意味ないだろとか、シャツの裾を中に入れるなんてどうでもいいなんてさ」

 もちろん僕は生徒会長という立場の時期もあったので、そんな規則に対する疑問は持たないようにしていた。でもそういう疑問に、同意したくはなる。

「学校の先生は馬鹿だって言ってる子供は聞くかな。これは半分くらいは正しいと思う。先生っていうのはそれだけで正義のポジションだから、良くない人はそこで止まって正義の意味を考えないんだ」

 僕は大人を馬鹿にしているわけではない。基本的に僕は、子供は大人より劣ってると思っている。経験は、年齢は文字で見るより大きなものだと思う。僕が言っているのはそういった総合的な経験ではなく、部分的な考えだ。

 直球な僕の本音を、柚子は頭の中で反芻しながら考えていた。

「愚か者は、先生という自分を信じて疑わない。自分が正しく、子供が間違いだというのがまず前提になってる。都合が悪くなると押し付ければ勝てると思って、無意識に立場のおかげで自分を正当化して、自分が間違ってるなんて意識下で考えない。でもこれは、子供も同じだと思うんだ。大人、先生は不合理だって反抗心から思い込む」

 こうすればいいのに、は相手の当然なことに対する疑問だ。子供が大人に対する場合のその疑問は、大抵不毛なものに終わる。なぜなら大人は、頭のいい人間の考え出したルールに従って、多くの場合盲目的に動いているからだ。

「だから僕は、自分にとっての当然を、相手の立場を見ながら考え直すのが大事だと思うんだ。子供は子供にとっての当然、大人は大人にとっての当然をね。自分にとっての当然は、相手にとっての当然とは限らないんだから」

 自分の立場は、相手がいるから確立される。相手から見た欠点は、何から何まで話し合う価値のあるものだ。

 それに子供は、すぐに大人になってしまう。大人になると、子供の気持ちなんて分からない。子供のうちに、反抗期の時期に考えるべきことはたくさんある。

「相手を悪だと決めつけない。自分の正義を信用しない。これが僕に、欠けてたんだと思う」

 これだから僕は、正義の味方になりきれない。これだから僕は、これだから僕は。

 僕はこれだから、強くなりたい。

 そんな拙い雑談を理解してしまう柚子に、僕はいつも感心していた。いつか言っていたように、彼女は知らないものが好きなのだ。頭のいい彼女は、すぐに理解してしまう。

 太陽が沈みきった頃、僕は柚子が家に入っていくのを見届け、それから自転車に乗って帰路に着いた。今日の電灯はやけにチカチカとする。

 やはり僕は弱々しい。信号で止まり地に足をつけた時、大きなため息をついた。それから忙しく行き交う車を眺める。

 何が正解なのか、何が正義なのか。柚子に対してどう接するのがいいのか。僕は分からなかった。僕は幼いから、僕は愚かだから。

 靴の底を地面に蹴り擦りつけながら歩いているけれど、僕には何も聞こえなくなった。何よりもリアリティのある夢が僕に覆いかぶさる。

 余命宣告。不治の病。

 あと、一年間。

 僕に、あと一年で何ができる。あと一年で何が起こる。

 僕に見えたのは、ベッドに横たわり心音の停止した彼女の姿だけだった。

 彼の嘲笑を思い出す。僕の特別扱いを殺すと言った、その顔を。それは僕の心を喰い荒らし、肺を埋め尽くした。呼吸ができないほどに、僕は自分が崩れてしまうような気がしていた。

 僕が殺すのか。明里の時と同じように、

「僕はもう」

 言いかけて、踏みとどまった。それより進むと、悪魔のようなトラックにでも轢かれそうな気がしたからだ。


 図書館がこの時間になると閉まっているので、僕は駅近くの本屋に立ち寄った。県内有数の蔵書量を誇るここには今まで漫画くらいしか買いに来なかったので、僕は一階でしばらく立ち尽くしていた。

「あ」

 袋を提げた彼女と出会ったのは、すぐ後のことだった。中山明里は大人しい私服で、僕に気がつくと小さく手を挙げた。

「何買ったの?」

 彼女の袋はやけに分厚い。

「赤本とか。冬になったら売り切れるらしいからね。あんたも早めに買っといたほうがいいよ」

 早めもなにも、僕は志望校自体決めていないけれど。いつか行きたい大学ができるだろうから、勉強はしているが。

「うわ、志望高いな。模試とかどうなの?」

「そりゃE判定の嵐だよ。現役生なんて大体そんなもんだけどね。あんたもここ狙えばいいのに」

 僕は苦笑いして顔を逸らす。

「で、あんたは何しにしたの?」

 何しにと言われると調べ物だが、あまり事情を話すわけにもいかないだろう。僕はそう思い、いつものように笑いながら視線を戻した。

 僕はぐっと掴まれる。気持ち的に彼女の目が、僕の心を捉えた。

「私、あんたの力になりたいんだ。何かあったんなら、話聞くよ」

 懐かしい風が吹く。中学時代と変わらない彼女に、僕はどこか助かったような気でいた。

 ありがとう。そんな風に口を動かし、歩き出した。


 先天的感覚障害の一つであるとされる『名無し病』。正式名称は二十文字くらいのわけのわからない漢字が羅列していた。僕は読んでいた本を置き、ため息をつく。

 特集している本も、詳しく解説している本もない。周知度が徹底的に低く、前例も少なかった。

 ふと隣に目をやると、彼女と目が合った。

「何かわかった?」

「いいや特に。分かったからなんだって話でもあるんだけど」

 調べて解決する問題ならば、医者も苦労しないだろう。熱くなった顔を、やけに冷たい手で触って冷やした。

「この前の入院って……そういうことだったの?」

 彼女はまた本に目を戻した。

「まあ、ね。よく体調を崩すらしいんだ。夏場なんかは立ちくらみがよく起こったり」

 授業中によく眠っていたり、体育にはあまり参加できなかったり、たまに普通に歩いていてキツそうにしていることはあった。

 転校という嘘。あれは多分、僕の中ではすぐに嘘だと分かっていた。何か嫌な予感が、していた。目を背けていたかった。

「その話が全部本当なら、私……」

 彼女は僕の方を見た。らしくなく目を泳がせ、何もないところに落ち着かせた。

「何も言わずに、聞いてくれるか」

これは飾りだ。弱く、薄く、平凡。そんな僕は、そんな僕らは、こんな結論しか出せない。

身の程を知ったというか、情けない体裁だった。

「僕は、柚子に笑っていて欲しいんだ。これからも、苦しいかもしれない。でもそれ以上に楽しいことを経験して欲しい」

 僕はどうしたいのか、彼女に何をして欲しいのか全く分からなかった。でも僕はとりあえず、立ち上がる。

「柚子が笑ってくれるように、僕は頑張る。僕は自分にできることを逃げずにしようと思ったよ」

 隣に座る彼女の表情は見えなかったけれど、きっと彼女も、僕と同じような顔をしていた。



 僕が家に着いた頃には、リビングの電気が点いていた。そこで父親と出くわす。

「……こんばんは」

  平日は帰ってこない、リビングには食事の時しか顔を出さない父親が、ソファに腰を沈めてテレビを見ていた。スーツのまま、鞄も側に置いたままだ。

「ああ、おかえり」

僕は後ろ姿を見つめながら冷蔵庫まで歩くと、夜ご飯の食材を確認した。そんな僕に、声が投げかけられる。

「夕食、済ませたのか?」

「……いえ、まだです」

 父親はゆっくりと立ち上がると、鞄の側の紙袋を拾った。

「駅前で炒飯を買ってきた。温めて食べるか」

 無表情のままキッチンに入っていった父親を、僕は何も言えずに見送っていた。


  いつものように、二人向き合って夜ご飯を食べる。父親はニュース番組に目を向けていた。

いつもと違うのは行動だけだ。父親がこうして何かを買ってきたのは初めてで、裏があるのかとさえ思った。僕はやっと父親を気にせずにいることができた。

「なにかあったのか」

 しばらくの後、父親は口を開いた。

「なにかって……」

 僕は下を向き、どう言うべきか分からずにいた。

「そんな暗い顔をされては、迷惑だ」

 迷惑。そういう割には、そんなに迷惑そうにはしていなかった。顔を上げると目が合い、初めてのことに戸惑う。

 僕の「父親」。他人のこの人になら、話していい気がした。

「……聞き役になってもらえますか?」

 父親は箸を止め、僕を見据えた。僕はそれをオーケーと受け取り、重い口を開き始める。

「友達が、病気……『名無し病』という病気で余命宣告を受けているんです。僕は今日、それを知りました。背負いこむと決めたはずなんですが……どう接するのがいいのか分からなくなって」

  父親は止めていた箸を置いた。

「友達というのは、前に来た子か」

「……ええ、覚えていたんですね」

皮肉のように聞こえただろうか、僕は咳払いをした。

「僕が病気をどうこうできるわけがないことは分かってます。だから僕にできることをしたいと思っているんですが」

 僕は僕のできることをしたい。

 柚子が心から笑っていられる日常に、したい。

「気に食わんな」

 父親は僕の言葉を遮った。

「お前は子供だ。なにを達観してる。お前には病気をどうこうできないのか? 言っておくが、名無し病は不治の病ではない」

 僕は口を開けたまま父親を見る。

「お前はどうしたいんだ。その子の最期を看取りたいのか?」

「……いえ」

 僕は柚子に、笑っていてほしい。笑顔が見たいからというだけではない。でも僕は、出来るならずっとずっと、彼女には笑っていてほしい。

「木に登ってしまって降りれない猫を助けるというのは、自分が木に登ることだけではない。自分が登れないなら、登れる人を呼んでくることでもあるんだ」

 これは、僕がさっき、柚子に向かって自分自身で言っていたことではないのか。子供は子供のうちに、やることがある。出来ることがある。

「身の程を知るな。責任もなにもない子供のうちに、やりたいことをやればいい。その子が『いい』ことなんか求めてるのか、もう一度考えろ」

 あれこれ考える僕を置いて、父親は残りをかき込み席を立つ。メモ帳に何か書き込み、僕の前に置く。

「東京大学医学部准教授、垣谷の連絡先だ」

その強い背中を、僕と七年しか離れていない   父親を、僕は羨望して眺めていた。



 僕は学校に近い柚子の家まで迎えに行くと、インターホンを鳴らしてからすぐに彼女は現れた。

「おはよう」

「うん、おはよ」

 眠たい朝とは思えない明るい笑顔を迎え、僕らは学校へ歩き出した。

「補習って明日までなんだっけ」

「そうそう。二日しか来れなかったね」

 やけに強い日差しも、輝く木々も、柚子にはモノクロに見えている。僕は唇を瞑った。

「そういえばさ、南の件、聞いてる?」

柚子は首を傾げた。

「夏休み明けには、転校するんだって」

「え!」

 昨日の夜、本人から連絡があったのだ。

「南には、名前のことがあるだろ。やっと改名することに決めたんだってさ」

 未成年の改名手続きの場合、十五歳になるまでは親の同意が必要だ。南の場合、改名の条件は十分満たしているだろうから、決断するだけだった。

 その申し出がすぐに役所に受理されるわけではなく、多少はラグがある。しかし高校側も誰のおかげかいじめの存在を認め、偏差値的に一つ下の隣の公立高校にすぐ転校出来るように斡旋してくれた。受理されるまで、改名する予定の名前で受け入れてくれるそうだ。

「あいつは柚子と別れるのは寂しいって言ってたけどさ。住む場所が変わるわけじゃないしすぐに会えるよ」

 柚子はしばらく考え込んだあと、

「新しい高校で、名前も普通だったらさ……きっと友達たくさんできるよね!」

「そうだな」

 まともな人たちさえいれば、彼女は普通の明るい子なのだ。僕と柚子が、それを保証してあげられる。

 ほんのちょっとヘンタイだけれど。

「新しい名前って何にするの?」

「未定だってさ。柚子が考えてあげればいいんじゃないか?」

 むむむ、と柚子は難しい顔をする。

「それでなんだけど、転校祝い……祝いってのもおかしかな。旅行なんてどうかなと思って」

「旅行。どこに?」

「東京。僕と柚子と南との三人でさ。僕がちょうど東京に用事ができたから、どうせならと思って。お金は僕の父親が出してくれるらしいから気にしなくていいよ」

 僕と柚子、二人の心の中には秋葉原の文字があっただろうが、それは仕舞っておく。

「スカイツリー登りたいなっ」

「よーし、決定」

 こうして四日後、二泊三日の東京旅行が決まったのだった。


 教室に入ると、クラス会長の彼女が女子の輪の中から駆け寄ってきた。

「おはよ。浅野さん、もう大丈夫なの?」

 いつものように僕の陰に隠れようとした柚子は、不意に声をかけられ大きく戸惑っていた。

僕が黙っていると、柚子は首を二回縦に振った。

「そっか、よかった。脚本係でもこれから一緒だからよろしくね」

 彼女が手を差し出すと、柚子はゆっくり握手に応じた。

「柚月、名前で呼ぶね。私のことも明里って呼んでくれていいから」

「じゃ、あ……明里ちゃん」

 彼女は僕のことなんか気にせず満足そうに笑うと、後でねと去っていった。ぽかんとしている柚子に、僕はよかったなと笑いかけた。


 僕は脚本係の集まりのために会議室に呼ばれ、聞きたくもない話を耳に素通りさせた、そんな補習後の昼下がり。僕は教室で待つ三人の元に帰った。柚子を二人の元に置き去りにして大丈夫かと心配していたが、高梨が苦笑いして僕を迎える。

「中山のやつ、浅野に喋り通しだったぞ。なんかあったの?」

 僕も苦笑いを返すと、

「ああおかえり。資料貸して」

 彼女は流し読みをして、すぐに僕に押し付ける。彼女は柚子を手招きすると、僕と反対側の席に腰を下ろした。

「じゃ、話し合いはじめよっか。あんた、まだ案は出来てないんだよね?」

「まあ、お恥ずかしながら」

いろいろ考えてはいたが、イマイチぱっとしない。話し合いなんて名目で、知恵とアイデアを借りようというのが僕の算段だ。

「他のクラスはもう大方決まってるらしいぜ。普通は春頃から話し合い始めるからな。このクラスはあんまりやる気なくてそんな雰囲気じゃなかったけど」

「まあ、やる気があるのは一部だけだよな」

 むっとした彼女に、僕は先に起こりそうなトラブルを憂う。ここは現実だ。熱血青春物語のように全員が仲良く全力で協力するなんていうのは難しい。

「とにかーく。高梨はなんかアイデアないの?」

 彼女は四人だけしかいないからか、普段のクラス会長的外行きの姿とはかけ離れたダラシない姿勢でいた。高梨とは僕も彼女も中学時代からの付き合いなので、それは尚更だ。頬杖をついて足をぶらぶらさせる姿は、その頃を思い出させる。

「アイデアね……俺はどうせなら、人の目に止まるようなものだったらいいと思う。シリアスメインのストーリーっていうのか」

「私もギャグは反対だわ。面白くないと地獄だしね」

 一二年生の頃に見た劇を見る限り、そういったシリアスメインのストーリーというのはかなり少ない。僕らも普通の高校生だ。クラスの中にまともなストーリーを書ける人がいるという状況は当たり前ではない。僕がまともなストーリーを書けるかどうかは別として。

 内輪ネタが痛々しいと自覚して封印するならば、地力で人を笑わせるのは結構難しい。僕としてはギャグセンスがないので、お笑いにはご遠慮いただきたいところだ。

「柚月、なにか案ある?」

 柚子は視界をきょろきょろさせながら考え込むと、しばらくして、

「……バッドエンドって、どうかな」

「バッドエンド……」

 印象を残すためにはいい手かもしれない。ただ難易度は恐ろしく上がる。普通こういった劇はハッピーエンドが普通だからだ。

 そういえばロガシー人気の決定打になったのは、バッドエンドだっけ。

 そういった憂いは、彼女の一言で一蹴された。

「面白いね」


 ◎


 闇のない黒い光の中、僕は彼女の手を引いた。洞窟の中、ここは彼女の心の中だった。感性豊かな彼女は初めて、強大すぎる絶望に飲み込まれ、そして飲み込んでしまった。制御を知らない、逃避を知らない彼女は何もできずに鬱ぎ込む。

 つまづき、手をつき、やがて外に着いた。 空一面の曇り空、僕たちは空っぽな心でその灰色を見つめる。

 眼の色を失った彼女は、僕の手を握り返したりはしない。半歩下がって、彼女は空の方に目を向けていた。

 君が嫌いだ。そう言った僕に、彼女は羽根をぱたぱたさせながら満面の笑顔を見せてくれた。僕は君に、大嫌いな君に、僕だけの君に、いつしか君だけの僕を見せていた。

 僕は逃げ方を知っている。制御することも知っている。僕が平凡な存在であることを知っている。僕が今まで、特別を否定してきたことも知っている。知らされている。

 君は僕以外の全ての存在が嫌いだと言った。そして僕が好きだと言った。

 僕は彼女に振り返り、何も言わさず唇を重ねた。冷たいはずの彼女はしかしながらとても温かく、そして次第に彼女の身体に緊張が走る。抵抗するでもなく、僕から見える彼女の目は不規則に速く瞬きしていた。

心理的な息が続かなくて、僕は彼女を離した。僕たちはしばらく激しく呼吸し、そして顔を合わせる。

 彼女は真っ赤な顔をして指で自分の唇に触れ、またいつもとは違う感情を、僕が見たことのない感情を抱いていた。僕たちは異常に心臓が脈打ち、謎の高揚感に見舞われる。

「ななななななななななっ」

「な?」

 冷静になったのだろうか、むしろ熱くて忙しいようだ。翼まで真っ赤にする勢いで、

「なにー!」

 変なことを叫んだ。

 わけが分からないといった様子で、あわあわとしていた。僕はもう一度、彼女を抱き寄せ影を重ねる。しばらくすると彼女は力の抜けた様子で、しかし心臓の鼓動は早まり続け、僕まで頭がくらくらしてくるくらいだった。

「女の子みたいな顔してるよ」

「……女の子だもん」

 彼女はぐっと顔を上げた。

「女の子だもん!」

 僕は笑う。空回りした彼女は強がるように、打って変わって僕の目を真っ直ぐ見つめた。

  彼女は握っていた僕の手を離すと、一歩、二歩と翼で小さく跳んだ。彼女はなにか珍しいことが起こったように、自分の唇をぺたぺた触っていた。

「人間は、これをキスと呼ぶんだ」

「きす……?」

 うん、と僕は頷く。

「君の本に書いてあったよ」

 人は人を好み、嫌い、憎み、愛する。そうして誰かを特別視する。

天使が禁じられた行為。好意を持って、人間は特別な一人を選ぶ。

「愛し合う人間の男女が、そうするんだよ」

 まだ顔を赤くしたままに、彼女は言う。

「私のこと好きなの?」

「分からない」

 考え直し、考え直した。彼女のことだけを考え直した。彼女以外の存在はどうでもいいけれど、僕は考え直したからこそ、しかし分からなくなってしまった。

 僕が歩き出すと、彼女は急ぎ足でついてきた。あの一本の木の前で立ち止まる。

『神話の林檎』

 悪魔的ならぬ天使的なその林檎は、僕たちの象徴だった。しかしその神話の中で、林檎を食べることは禁忌とされている。食べると僕たちは、天使でいられなくなる。僕はそんな果実を眺め、言う。

「君の絵が好きだ。君の声が好きだ。君との会話が好きだ。君の寝顔が好きだ。君の手が好きだ」

 僕は彼女の手を握る。

「君の笑顔が好きだ」

 恥ずかしがっているのか、彼女はそっぽを向いていた。

 少なくとも、これだけは言える。

「君は僕にとっての、特別な一人だ」

 僕には何も分からなかったから、彼女が笑いながら泣いていたことを、よく理解できなかった。


 ◎


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