空っぽで特別
様々な色の世界が僕を包み、自分がそこに飲み込まれていくように感じた。見る目のない、また凄みを見慣れていない僕は、言葉を出せず、ただ立ち尽くしていた。
隣に立つ君の横顔を恐る恐る覗いた。君は僕の知る、物憂げで、達成感と不安が溢れる表情をしていた。翼をぱたぱたとさせる君の手を握る。
「本当に君が描いたの?」
特別な存在にと、そう言って君はこの形を選んだ。全てが好きな僕への、特別が好きな彼女の、彼女だけの愛の証。
青も。黄も。緑も。白も。
君の色は、君の赤は、君だけの色だった。
僕は少し困って笑った。僕の顔を見て、ぷふっと笑みをこぼし、照れたように笑ってから自慢気に頷く天使の君に、目を合わせ笑いかける。
しばらくの後、林檎を差し出した。
「僕、君のことが好きになったよ」
振り絞った言葉を、全てを愛する天使のような僕は、終わりゆく彼女へ贈る。
1
ほんのり温かい春の昼下がり、僕は窓際でシャープペンシルを走らせた。気だるそうに授業する先生の声は、窓から緩やかに吹き込む風と共に教室から抜け出していく。カチカチと芯を伸ばし、ついでに少しだけ背筋を伸ばす。僕が授業を無視することへの先生からの視線を感じたからだ。
最後列の僕は、前の大柄とは言えない男の影に心持ち隠れ、またノートの文字に向き合う。
僕は想像する。勢いを失いつつある桜の並木を横に見て、狭い二車線道路を車が行き交う。歩く歩道はそんな桜の花びらと車の風が優先されて、僕は邪魔をしないように、急ぎ足で校門をくぐった。
今は授業中だ、生徒はいない。玄関に靴を置いて、と、僕のスリッパは僕が使っている。僕は来客用のものが近くに見つからないので仕方なく、汚いと思うが靴下のまま歩き出した。床は硬くて少し滑りやすい。
遠くから近くから、授業する教師たちの声はここに届くまでに絡まり合い、それも面白い風景になった。この心地良さはなんだろう。多分、この些細な非日常感だ。
一階、二階、三階。見回りの教師には会わなかった。こんな春の日の昼過ぎ、居眠りでもしていたらいい。よくはないか。
十組、そして九組。ドアは開いていた。先生の気だるそうな声が僕の横を通り過ぎていく。後ろから僕らを見てみるとよく分かるどこか緩い雰囲気が僕らを包み、居眠りの気配が教室に漂っていた。僕の意識は僕の席に着き、やっと顔を上げてみた。先生は何も気にせず授業を進める。
そんなくだらないことを考えていた。
それから少し後。隣から小さく苦しげな息の音が聞こえてきた。目を向けると、普段から授業中に眠っていることがよくある彼女だが、今は唇をかんで耐えるようにしている。
僕は口を開きかけた。しばらく意味もなく口を開け閉め、もう一度彼女を見る。
「……お腹、痛いの?」
彼女は僕を見た。初めて、僕を見た。
彼女は驚いたように視線を泳がし、そして目を離しコクリと頷く。僕は先生に見えるように手を挙げた。
「すみません、熱っぽいので保健室行っていいですか?」
運のいいことに、僕はあの人の頭がいいことを知っている。目配せすると、先生はまた気だるそうに、納得したように頷いた。
「じゃ、保健委員の……浅野か。浅野、一応ついて行ってくれるか」
僕は立ち上がり、彼女に笑いかけた。あっけに取られたような彼女を促し、僕らは教室から抜け出した。
男子トイレで数分スマートフォンをいじって時間を潰し、隣から手を洗う音が聞こえてきてから少し後、僕も手を洗い廊下に出た。小柄な彼女、浅野さんは不思議そうな顔をして僕の方を見る。
「ごめんごめん、待たせちゃったかな」
浅野さんはすぐに目線を外すと、
「うんん、ありがとう」
そういつものように下を向いた。僕が見つめても、少し居辛そうに視線を泳がせるだけだ。
「どうしよっか。あんな言い方して出てきたから僕は教室戻れないけど、浅野さんは」
「……あなたは、どこに行くの?」
「屋上。鍵持ってるから」
ポケットから取り出し見せびらかした。僕は笑って元来た道と反対側に歩き出す。
正直彼女に興味があった。内気そうな、誰も見ていない彼女の目は何を代わりに見ているのか。友達を作れないというよりは作らない彼女と、少しだけ話がしたかった。
「私も行く」
浅野さんは小走りで僕についてきてくれた。
錆びついた扉を力を込めて開け放つと、これを待っていたように風が吹き込む。僕は人一人分の隙間を開けて、屋上に入り込んだ。
この校舎は小さな丘になっていて、風が強い代わりに景色は最高だ。長年の経験から風の弱い場所を選び座った。
浅野さんは少し迷ったようにして、それから僕の向かい側の柵の段差に腰を下ろす。
「どうかした?」
僕の方をちらちらと観察する彼女に笑いかける。
初めて見る彼女の表情。どこか違う世界に住んでいたような彼女が、今は僕と同じ空気を吸っていた。
「……なんで屋上の鍵、持ってるの?」
「一応僕ね、生徒会長なんだ。前田裕太って知ってるかな。僕の名前だよ」
多分彼女は知らない。困ったようにする彼女を遮るように、
「ここ、僕の秘密基地なんだ。普通の生徒は立ち入り禁止だから誰も来ないし、眠たくなったらよくここで寛いでる」
壁に寄りかかり、ぐたっとしていた。
「それにしても意外だったな、浅野さんが付いてきてくれるなんて」
「……国語、きらいだから」
「あ、なるほど……」
とても人らしい理由で、僕は思い直して面白がった。大人らしくも子供っぽくもない彼女は、そんな僕を見て不思議そうにしている。
僕に笑われたことが気になったのか、彼女は困惑と恥ずかしさを混ぜて薄めたような表情をしていた。
「あんまり頭出しちゃダメだよ。体育の先生に見つかるから」
浅野さんは少し驚いたように振り返ると、心持ちかがんだ。僕はその地形的にグラウンドから見つかることが相当運が悪くないとないのを知ってて言っているから、からかっているような気分になる。
僕はスマートフォンを操作し、浅野さんに画面を見せた。
「これ、あそこから見た夕日。すごいでしょ」
地平線に重なる太陽。紅い光がここを別世界にしていた。僕はこれを、誰かに自慢したいと思っていたのかもしれない。
浅野さんはぽかんと口を開けて今の屋上とを見比べる。
「……すごい」
「そう、すごいんだよ。僕の宝物」
少し恥ずかしくなって笑った。
「不思議だね」
「不思議かな」
うん、不思議と浅野さんは顔を隠すように手で覆う。今度は僕が首を傾げる番だった。
初対面で少し噛み合わず、気を遣い合うようなこの空気は、僕にとって嫌なものではなかった。彼女にとってはどうだろう。彼女の表情を見ると、僕は絶対に落ちない自信のある綱渡りをちょっとだけ怖がりながらしているような、不思議な感覚だった。
「前田くんはなんだか、楽しいね」
大人しいその子供っぽい声は、心持ち熱を持っていた。僕はまた笑い直す。
彼女の笑顔が僕に溢れてきた。顔を覆う彼女の手を退けたくて、僕は彼女に手を伸ばす。
「僕と、友達になってよ」
何もない空白。一秒は控えめに足を止め、興味深そうに僕らを眺めた。
彼女は硬い仮面を一枚だけ外し、僕の握手に応じてくれたのだった。