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溺れる者は  作者: SS
3/3

後編

初投稿 三部作

 何かが震える音に目を覚ました伊里髪が見たのは、ばっと跳ね起きた江塚琴奈があたふたと携帯電話をいじっている姿であった。

 どうやら会話内容から相手は父親のようであり、既に迎えが到着しているようであった。

  

 「い、いこっかっ」

 「ああ」


 立ち上がり身体を軽く身体をほぐした伊里髪は、駆けていく彼女の背中を追う。

 どうやら放課後になった直後のようで、かなりの生徒が残っていたが伊里髪と江塚琴奈を見るなり皆一様に道を開けてくれる。

 それは歩きやすくてよかったのだが江塚琴奈はすっかり恐縮してしまい、校門から脱するころには伊里髪の服の袖にしがみつき陰に隠れて移動するようになっていた。

 お陰で伊里髪は先を行く形となり自らの目で迎えの車を探す羽目になったが、あっさりとそれらしいものを見つけることができた。

 

 「あれか?」

 「う……うん」


 黒塗りで細長い、どうやったら角を曲がれるのかと問いたくなるほど日本の狭い土地に似合わない外車であった。

 伊里髪ですら高級車だとわかるそれから、運転手らしい人が下りてくると後部座席のドアを開きすぐに運転席へと戻った。

 

 ――あれに乗るのかぁ


 周囲の目が痛い、どうしようもなく皆から今までとは違う意味でも注目されていることを自覚して伊里髪はため息をもらした。

 とはいえどうしようもなく、伊里髪は江塚琴奈をつれて中へ乗り込むのであった。

 何故か浦島太郎のごとき、現実味を感じられないふわふわとした心境に陥った伊里外は……それこそ普段の自分の生活とかけ離れすぎた環境に戸惑うばかりであった。

 移動中誰も口を開かないことも災いして空気もまた重い、最も彼女の呪いを思いやれば関わり合いを最小限度に抑えようとするのは当然であった。

 目的地に着くまでの十数分が伊里髪にはとても長く感じられた。


 「……っ」


 家にたどり着くなり彼女は伊里髪の服を引っ張り合図すると、ドアを開けて先に外へと出て行った。

 伊里髪もまた後に続こうと運転手に頭を下げてドア枠に手をかける。

 

 「琴奈様をよろしくお願いします……」

 「あ、ああ」


 どうみても自分よりはるかに年上の運転手の言葉には、懇願めいた響きが籠っていたのは伊里髪の勘違いではないだろう。

 何か気の利いたことを言えるはずもなく、伊里髪は再度頭を下げると車を後にした。

 さて来る途中に伊里髪がイメージした彼女の家はいわゆる豪邸であり、広大な敷地にデンと経つ神殿めいた住居であった。

 しかし専用の駐車場から少し歩いて今、目の前にあるのは高層マンションであった、しかしどちらにしても彼女が裕福な暮らしをしていることは確実である。

 

 ――こいつ実は幸せなのでは?


 無論本気ではない、伊里髪は金の多寡で幸せが決まるものではないと身をもって知っている。

 まああるには越したことはないが、しかしとにかく他の者が見れば羨むであろう暮らしをしている彼女の後ろを貧乏人の伊里髪はついて回るのだった。

 自動ドアの開錠法が差し込む鍵でないことに驚き、エレベーターが二十を超える階層を移動することに驚き、高層階から下を見下ろす光景……は見慣れている。

 

 ――俺もその気になればこれぐらい跳べる、はず


 何故か張りあいたい気持ちになった伊里髪を差し置き、彼女は先を行き一つの扉を開いた。


 「ただいま」

 「お、お邪魔します」


 ――で、あってるよな?


 一歩踏み入って、伊里髪はそういえば他人の家を訪ねるのはこれが初めてだと気が付いた。


 「お帰り、そして初めまして」


 彼女の父親らしい人が玄関に立ち二人を出迎える、伊里髪は頭を下げた。


 「お父さん、この人がそうなの、伊里髪隼人さんっていうの」

 「そうかい、伊里髪君わざわざすいません」

 「あ、いや……」


 外見から四十代ほどにも見える年上の男性もまた伊里髪のような少年に、深々と頭を下げる。


 「私は彼女の父親の直人と言います。さて玄関での立ち話も何ですのでどうか中へ」

 「どうぞどうぞ、入って入って」

 「あっはい」


 進められるまま二人の後を追って住居の廊下を歩く。

 通された部屋は伊里髪の住居より二回りほども大きい空間であり、壁際には彼が見たこともない飾りや家具がいくつもおかれていた。

 

 「どうぞ座ってください」

 「あっはい」


 父親に言われた通りソファーに腰を下ろすと、ふんわりという音が聞こえてきそうなほどの柔らかい感触が出迎えてくれる。


 ――これは、良いな


 余りの心地よさに少し欠伸が漏れてしまうほどだった。


 「何か飲み物でも出しましょう、珈琲でいいですか?」

 「あっはい」


 珈琲など飲んだこともないが伊里髪は借りてきた猫のように素直に頷くことしかできない、何せ他人の家での作法など何も知らないのだ。


 ――ま、まあ飲めるよな


 「琴奈、すまないけど彼が飲む分を入れてきてくれ」

 「えっあ、い、いいけど……」

 「あとついでに着替えておいで、そんな涎で汚れた服だと失礼だよ」

 「えっええっ!?」


 父親が指摘した通りよく見れば彼女の服はところどころ濡れて崩れて皺になりかけている、とはいえ涎というより涙と鼻水でぬれているところも多そうだが。

 とにかく彼女は恥ずかしそうにバタバタと廊下の向こうへと走り去ってしまう、初めて出会う大人と二人きりにされて伊里髪は……物凄く居心地が悪い。


 「たった一日であんなに元気になるなんて……君のおかげだ、本当にありがとう」

 「あっはい……」

 「それこそ昨日まであの子は私にも殆ど話しかけなくなっていて、部屋にこもって泣いてばかりで……本当に……」

 「あ、いやその……すいません」

 

 目の前で大の大人が目頭を押さえ嗚咽をこらえる様を見せつけられ、伊里髪はいたたまれなくなって謝ってしまう。


 「いやこちらこそ謝るべきなんだ。琴音にも、私が謝らなけばいけないんだ……」

 

 ――全て私のせいなのだから


 「っ!?」


 伊里髪の耳に僅かに聞こえた彼女の父の言葉、いったいどういうことなのか。


 「……あの子が来る前に話そう、あれはまだあの子の母親が居たときの話だ」

 

 そして江塚直人は伊里髪に己の過去を話し始めた。



*******



 あれはそう、あの子が小学生に上がる前の出来事だ。

 私はとある中小企業の社長をしていた、海外で貿易した品を自国用に改良して販売するような会社だ。

 今でこそ私は大成しているが、当時は取引先がつぶれたことと為替相場の変動でとても追い詰められていた。

 借金で首が回らないほどにね、多分子供だったあの子でも少しは覚えているだろう、それぐらい酷く貧しかったんだ。

 私は追い詰められていたんだ、どうしようもなく……だからあんなことをしてしまった。

 とはいっても大したことじゃない、ただの神頼みだ……もはや私個人の力ではどうしようもなくて祈ることしかできなかった。

 朝から晩まで必死になって駆けずり回り、夜は家にも帰らず神社を巡っての参拝……家庭を顧みる余裕なんかなくてね、妻には愛想をつかされてしまった。

 そしてあいつは琴音を連れて実家に帰ってしまった……ちなみに彼女の実家はお茶の産地で有名なところでね、君のいうしっぺい太郎の昔話が伝わる土地でもある。

 何となくわかっただろ、そう私はたぶん物語の中にある神社……そこで祈ってしまった。

 妻と娘を迎えに行って、借金と家族サービスの不足を理由に離婚を言い渡されて……もう帰る気力もなくて自殺するぐらいの気持ちで近くの山へと向かったんだ。

 途中で車も故障したこともあって私は山の中を当てもなくさ迷い歩いたよ、そして古ぼけた神社を見つけた。

 寂れてボロボロで、だけど見て神社だとわかる程度に形を保っているそれに自暴自棄になりながら祈ったんだ。

 

 ――どうか全てがうまくいきますように、今は一銭も持ち合わせておりませんが成功した暁には何でも差し出します


 実際財布の中身も空っぽでね、ろくに寝ても食べてもいない身だ。

 車も壊れた以上下山も出来ず死んでしまっても不思議じゃなくて、だからそんなめちゃくちゃなことを祈ったんだ。

 そしてその日はそこで寝た、寝たはずだけど……気が付いたら私は車の中で目を覚ましていた。

 エンジンもすんなりかかって故障なんかどこにもなかった、夢を見ていたとその時は思ったよ。

 けどその日から、何もかもがうまくいくようになった。

 どんどん新しい取引先ができた、逆に相手を気遣いたくなるぐらい都合のいい条件で契約できるようになった、為替相場の変動に合わせて私が得になる商談が飛び込んできた。

 それだけじゃない、離婚はされてしまったが見ての通り娘の親権は私の方に来た……君の年だとわからないかもしれないが普通親権は母親のほうへ行くものなんだ。

 まして私には不利になる条件ばかり揃ってて、彼女も娘の親権を望んでいた……それなのに、まるで私の望んだとおりになった。

 けれど代わりというように娘は……娘の周りには不幸が蔓延するようになった。

 私は私なりに調べ考えていた、そしてとある有名な筋の占い師によって犬と刀が鍵となるという情報を手に入れた。

 ずっと訳が分からなかったけれども君がしっぺい太郎の物語こそがあの子の呪いの元凶だと教えてくれて、ようやくわかった気がした。

 あの物語にはいくつも解釈があるのだけれど、中には話に出てくる狒々とは山の神の化身だというものもある。

 野ざらしにされて悪神に落ち果てた狒々が、実りを与える代わりに娘を頂く……きっとそういうことなんだろう。

 あの日私はなんでも差し出すと言ってしまった、そして私のもとに娘がいる……あいつらは私から娘をとっていくつもりなんだ。

 それが単純に生贄という意味なのか、あるいは山の神の嫁取りという意味なのかもしれない……ともかく奴らは娘の価値を貶めないために近づくもの全てを蹴散らしているんだ。

 だから契約者であり保護者である私だけは一切呪いの影響を受けないんだ、そして私は今後も成功し続けるのだろう。


 ――娘の犠牲と引き換えにだ、ああ全て私の愚かさが招いた事態だ


 伊里髪君といったね、本当に君には申し訳ないと思うし君からすれば馬鹿らしいことだと思ってしまうかもしれないが……私が招いた事態なのに私ではどうしようもないんだ。

 お願いだどうか娘を助けてやって欲しい、そのためなら私は……懲りないと言われても同じことを約束する。

 何でもする、何でも差し出す私の命でもだ……だからどうか娘を、琴音を助けてください……



 *******



 ――苦いな


 泣き伏せる父親を心配して背中を撫でる江塚琴奈を見つめながら、伊里髪は彼女が差し出した珈琲を飲みつつそう思う。

 結局呪いなどというものの正体は大人の都合で歪めた条理の代償が子供へと返ってきているだけであった。

 伊里髪とまるで変わらない、だからこそ伊里髪は自らの先祖に感じる憎しみを江塚直人へと抱いていしまう。


  ――なんでお前ら大人の欲に俺たちが振り回されなきゃいけないんだっ!!


 叫びたい、罵倒したい、絶叫したい、問い詰めたい、謝罪させたい、八つ当たりしたい、何より……


 ――泣きたいのはこっちだ


 天井を仰ぐ、娘の不幸と引き換えに手に入れたという人が住むには立派過ぎる住居。

 伊里髪は思う、自分たちの不幸と引き換えに手に入れたであろう幸福は自分の代には何一つ残ってはいない。

 どうしてこんなもののために自分たちが不幸にならなければいけなかったのか、伊里髪にはその理不尽が今はどうしようもなく悲しかった。

 けれども、だからこそ……より一層自分と重なる彼女だけは、まだ取り返しがつく彼女だけは助けたいと思った。


 ――帰るか


 これ以上ここに居ても仕方がない、いやむしろ精神が乱れるだけで不利益になる。

 伊里髪は帰ろうとして、外が暗くなってきていることに気がついた。

 

 「伊里髪君、ど、どうしたの?」


 窓に向かって歩く彼に不審なものを感じたのか、江塚琴奈が不安そうに尋ねてくるが伊里髪はすぐには口を開くことができない。

 開けば……父親が娘に聞かせまいとしたことをぶちまけてしまいそうだったから。

 だけどそんなことはできない、父親が何故当事者の娘に伝えないのか伊里髪にもわかっていたから。

 彼女にとってただ一人接することのできる父親はそれこそ最後の支えであろう、事実を知ってしまえば今度こそ彼女は絶望してしまうかもしれない。

 それだけは避けたいのだ、その一点だけは江塚直人と伊里髪が共通する思いであった。

 精神を落ち着かせようと深呼吸を数回して、ようやく伊里髪は言葉を発した。


 「そろそろ夜だ、呪いが来る」

 「っ!!」

 「大丈夫だ、今度こそ何とかしてやる……有意義な話も聞けたしな」

 

 嘘だった、けれど江塚琴奈に心配かけまいと思うと自然と口からこぼれた。


 「い、伊里髪君……私に何かできることはないかい?」

 「無い」


 父親の問いかけを切って捨てる、そうだ不幸の元凶がこれ以上関わってくるな。

 

 ――あんたなんかに頼らなくても、俺が全部片づけてやるよ


 窓を開けベランダに降り、手すりの上によじ登ると高層ゆえか妙に風が強く感じられた。


 「い、伊里髪君危ないよぉっ!!」

 「き、君っ!!」

 「江塚琴奈」

 

 二人の慌てた声を無視して振り返り、彼女の顔を正面から見つめて伊里髪は言う。


 「また明日な」

 「っ!!!」


 そして伊里髪は手すりを蹴って夜空へ飛び込むと、既に太陽が落ちきった夜の闇に妖気を広げ飛び立った。


 「と……とんだ……っ!?」


 背後から江塚直人の驚く声が聞こえたが、どうでもいいことだった。



 *******



 妖気の翼で空を飛ぶ、本来ならそんな勿体ないことはできないが今は少しでも爽快感を感じたかった。

 けれどもあそこで得た不快感は、僅かにも振り切ることができないでいた。

 結局話を聞いても何も進展はしなかった、最も気になる点はだいぶ減ったが。

 それでも伊里髪は頭を冷やす意味で聞いた話と合わせて件の妖魔について考察してみることにした。

 

 ?あれの化け物の正体、これはしっぺい太郎の物語に出てくる狒々で確定といってよいだろう。

 ?向こうからやってきている点について、契約の形式が違うためかもしくは彼女の年齢的にまだ本格的に祟っている状態ではないため

 ?年頃の娘が狙われる点について、未熟と判断されているために近づこうとする者に対して所有権を誇示しているのでは?

 ?と?を鑑みるに、年頃になれば差し出さないといけない状況に持っていかれるのではないか、伊里髪はそう判断する。

 ?呪いを生み出す親玉の存在について、これについては全くわからない、ただの亜種もしくは進化形とでも思えばよいのか。


 どれもこれも戦闘に役立つ情報とは思えない、唯一弱点だと思われるしっぺい太郎すらもはやこの世には存在しないだろう。

 とはいえ犬神の呪いを見て怯えて逃げ去ったことを考えれば、ただの犬でも多少は役立つかもしれないが……伊里髪にペットを買う余裕も飼う余裕もない。

 何より犬を見て立ちすくむだけならともかく逃げられては困るのだ、あくまでも退治することが目的なのだから


 ――やはり正面突破しかないか


 鞄にしまわれた妖刀へ視線を向ける、そして昨夜の完全に妖刀に支配された自分思い出す。


 ――今度こそ使いこなさないとな


 あの時斬魔から人へと戻れたのは偶然だ、次はないと思っておいたほうが良い。

 今度からはあのような大技を使わず地味に削っていかねば、けれども果たしてそれで伊里髪は妖魔の親玉が増やす速度に追い付けるのか。

 だからこそ伊里髪は覚悟を決める、いや一度負けた相手に挑むのに悩みがなかったのは既に覚悟が決まっていたからか。


 ――いざとなれば斬魔と成り果ててでも相打ちに持ち込むまで


 そう伊里髪に敗北はありえない、人のままの勝利か斬魔に落ち果てての引き分けかの二択だ。

 伊里髪はふと彼女に出会う前に考えていた悩みを思い出す、己の行く末についての悩みだ。


 ――化け物に化するか化け物に食い殺されるか、答えは出たな


 自分の事だけ必死に考えていたときは解けなかった悩みが、誰かのためだけに動いていたらあっさりと解決した。

 なんという皮肉か、けれども伊里髪の人生は皮肉なことばかりであった気がした。


 ――でも俺にはお似合いだな


 何となくそう思えて、伊里髪は少しだけ可笑しかった。



 *******



 一度自宅に余計な荷物を置いてから昨夜戦場にした河川敷へと向かったところ、伊里髪も妖魔も後始末をしなかったために人が集まり面倒なことになっていた。

 仕方なく少し場所を移すことにして、おおよそ数十kmほど下流に同じような開けた空間があったのでそこに決めた。


 ――食事してくればよかったかな?


 やることもなくなって一息ついたところでふとそんなことを思う、そういえば今日は昼も晩も何も食べてない。

 少しでも体調を整えようとしておいて何故こんな基本的なことを見落としていたのか。

 空腹を感じなかったためだと彼は今更ながらに気が付いた、ただいつから感じなくなっていたのかはわからなかった。


 ――どうやら本格的に化け物になりつつあるみたいだな


 もはや残っている欲は睡眠欲ぐらいだ、それもいつしか消えてしまうのだろうか。


 ――やっぱり俺は手遅れか


 最近戻りつつある感情、久しぶりにした会話、伊里髪は少しずつ人間の側へと戻ってきているような気がしていたが……どうやら錯覚だったようだ。


 ――まあ、いいか


 諦めが心中に広がる、自分はどうしようもないのだと改めて自覚するがどうにか改善しようという気力はわいてこない。

 夢も希望も潰えて後は終わるときを待つだけ、それが伊里髪なのだから当然のはずだった。


 ――来たかっ!!


 物思いにふけっていた伊里髪だが油断はしておらず、広げていた妖気のアンテナが敵を察知するとすぐに現実に立ち返った。

 果たして遠方より跳んで、いや飛んでくる妖魔の群れに伊里髪は……先ほどまで感じていた冷めた感情など吹き飛んでしまい、思わず絶叫しそうになった。


 ――ふざけんなっ!!


 狒々という猿が妖怪化したという妖魔、なるほど確かに形状は猿にとてもよく似ていると言えるだろう……背中に生えた蝙蝠のような翼がなければ。

 百を超えるという記述もまあ多い分には間違っているとは言えない……けれども夜空を覆いつくすほどともなれば別ではないだろうか。


 「――ふざけんなっ!!」


 ついに伊里髪はこらえきれず感情のまま怒声を上げた、無理もないことであるが現実は変わることはなく非常にも押し寄せてくる。

 先日の戦いがよほど堪えたのか、伊里髪への対策を練ってきたつもりなのだろう。

 冷静に……中々難しかったが深呼吸を繰り返して何度か頭を働かせれる程度には冷静さを取り戻した伊里髪は妖魔が言葉を話したことを思い出した。

 それは知性の証明、それは人並みの理性の証明、ならば問題が発生すれば対策を講じるのは当然ではないか。

 

 ――ああ、そういうことかよ


 改めて伊里髪は妖魔の親玉、というよりあの一回り大きい妖魔に備わった特殊能力について察する。

 やはりあれは物語の中に登場した個体なのだろう、何かしらで復活したのか生き延びたのか……とにかく奴は次に備えて対策を講じた。

 結果として生まれたのがあのような能力なのだろう、常世の住人であることを生かした分身増殖、物量で押し切るというシンプルな策。

 その割りに犬神の呪いをみてさっさと逃げ出したのはあきれるばかりだが、逆に言えば逃げ切ることには成功している以上成果はあったともいえる。

 最も全ては伊里髪にとってどうでもいいことであった、彼にとって大事なのはこれとどう戦うかだけだ。

 頭を振って思考を切り替えると伊里髪は妖刀を構える、やることは何も変わらないただ切って倒すまでだ。

 妖気のアンテナを強化して迫る妖魔をさらに細かく調べていくが、しかしどこにも親玉の姿は見当たらない。

 昨夜もそうであった、恐らくある程度個体数が減るまでは……それこそ緊急で増やす必要があるぐらい減らさなければ陰に隠れているつもりなのだろう。

 しかも朝日が昇るまでという制限時間付きである、それまでにじわじわ補給される数も併せてほぼ全滅まで持ち込む必要があるのだ。


 ――できるか?


 流石に不安になるがやるしかない、空から迫る一団を伊里髪は大地にて待ち構える。

 前のように空中戦は挑む気はなかった、向こうも自在に動けるのなら地上での戦闘に専念したほうが妖気を節約できていいからだ。

 その考えが甘かったと思い知るのは、妖魔が伊里髪の頭上で止まり手を丸め息を吹き込むことで吹き矢のように何かを飛ばしてきたからだった


 「っっ!?」

 

 ――速殺モードっ!!


 自分で考えた必殺技の名前を間違えるほど焦りながらも、時を割り世界を緩やかにさせる事に成功した伊里髪が急いでその場を離れる。

 しかし重力加速度に加え妖魔が加えたベクトル、両者が合わさって凄まじい勢いで飛来するそれを完全にかわしきることはできなかった。


 ――ぐぅ!! さ、刺さった!?


 走り出した際に最後に移動する足の裏側、そこに避けそこなった黒塗りの針のようなものが数本突き刺さっていた。

 まるでドリルのように回転しながら傷口を広げ、奥へ奥へと入っていこうとするソレを内側から妖気を籠めることで強引にはじき出す。

 同時に傷口を修復しながら、抜け落ちた内の一本を拾って正体を確認する。


 ――体毛かっ!!


 猿の体表に無数に生えている黒い体毛、それを体質変化の要領で形状を整え硬質化させ自動回転するように仕向けたうえで飛ばしたのだと伊里髪は目星をつける。

 先日の戦いで遠距離攻撃が有効だと学習したためだろうか、初めて見る妖魔の進歩というものに伊里髪はさすがに驚愕せざるを得ない。


 ――時間をかけるとまずいっ!!


 これでは戦えば戦うほど向こうは強くなっていく、伊里髪は今回で確実に倒しきることを決意する。

 だから伊里髪は未だ抜き放ったままの妖刀へ視線を移し、そのまま……鞘へと納めた。


 ――まだ早い、切り札はギリギリまで取っておかないと


 斬魔に落ち果てることに抵抗があるわけではない、だが親玉を確実に仕留めるためにも奴が登場してからのほうがいい。

 何せ一度斬魔になれば切ることしか考えられないのだ、親玉に一直線に向かうかどうかわからない。

 だから伊里髪はとりあえずは今まで通り戦うために鞘へと納めた妖刀を構え、空に居座ったまま再度体毛を飛ばそうとする妖魔の群れに向かって跳んだ。

 あっという間に妖魔との距離が狭まり、ようやく妖刀が届く距離にたどり着いた時点で即座に抜刀しての一撃を放つ。

 さすがに速度までは劇的に向上することは難しかったようで、それでも地上で移動する程度の速さで蠢く妖魔。

 攻撃された一匹は下がろうとしたが伊里髪の進む速度のほうが早く、あっさりと右肩の下から左肩の腕までを切り裂かれ消滅した。

 

 ――っっ!!?


 しかしその間に他の妖魔は戦闘態勢を整えていたようで、切り終え納刀しようとした伊里髪に360℃全周囲から体毛針が飛んでくる。

 仕方なく伊里髪は体質変化を用いて周囲に広がる妖気を硬質化させることで全てを受け止める。

 壁の内側に身を潜めたように、妖気の壁に当たり刺さることもなくはじけ飛ぶ妖魔の体毛。

 それを確認するなり即座に妖気を翼へと体質変化、空を動けるようになった彼は次いで近くに居た二匹目を狩る。

 抜いたままの刃を正眼に構えての面打ち、移動しながら放たれた一撃はやはり逃げようとした妖魔を苦も無くとらえ顔面を真っ二つにした。


  ――あ……あ……くそっ!!


 そこで妖刀の意志が流れ込み始めた伊里髪は納刀せざるを得なくて、そのために反応がほんのわずかに遅れる。

 先ほどと同様に仲間がやられている間に伊里髪を囲い、針を飛ばす妖魔の攻撃を同じように遮る。

 何とかギリギリ間に合い負傷せずにすんだ伊里髪だが、それが単なる偶然だと痛いほど理解できてしまう。


 ――どうするっ!!


 こんな調子では全滅させるなど不可能だ、しかもこんな激しい妖気の使い方をしていたら今夜だけでも相当量を消費してしまう。

 流石に一日二日でどうにかなるほど妖刀に込められた妖気は少なくはないが、逆に言えば何日も続けば何れは尽きてしまう。

 かといって他にどうしようもないではないか、一つを除いて。


 ――やるしかないのか?


 鞘に収まった妖刀を見遣る、斬魔になれば使える妖気は爆発的に増える。

 そうすればこんな消耗戦をせずとも一網打尽にできるのではないか、そしてそれ以外にもはや打つ手などないのではないか。

 考えている間にも妖魔は攻撃の手を緩めず、三度体毛針を飛ばしてくる。

 硬質化したままの妖気の壁に弾かれるそれを見ながら、伊里髪は決断を迫られていた。


 ――でもほかにどうしようもないしな


 伊里髪は妖刀に身をゆだねようと刃を抜こうとして、唐突に始まった妖魔の咆哮で動きが止まった。

 声にならぬ声を繰り返していると、いつの間に現れたのか親玉が遠くで無数の妖魔を従え声を上げた。


 『しっぺい太郎は来るまいな? 今夜ここへは来るまいな?』

 『しっぺい太郎は来てはおりません 今宵今夜も来てません』

 

 昨夜と同じことを繰り返す妖魔の群れ、ただ昨夜と違いまだ妖魔は追い詰めてはいない。

 不思議ではあったが、伊里髪にはむしろ好都合であった。

 

 ――あれだ、あれを倒せば終わりだ


 『時が来れり 時が来れり』

 『あのことこのこと聞かせんな しっぺい太郎に聞かせんな』

 『近江の国の長浜の しっぺい太郎に聞かせんな』


 全力で狒々の親玉に向けて移動する伊里髪、しかし無数の妖魔が壁となり行く手を阻害する。


 ――邪魔だっ!!


 もう納刀する気もない、妖刀を抜き去ると手に持ったまま滅多矢鱈に切り付け強引に道を切り開く。

 そのまま進もうとして、あれほどいた妖魔がさぁっと去っていく後ろ姿が遠くに見えた。

 

 ――何故逃げるっ!?


 訳が分からなかったがとにかく伊里髪は追いかけようとして、再度妖魔の群れに邪魔される。

 妖刀の悪意に押しつぶされそうになりながらまたしてもめちゃくちゃに切り付けて全滅させた伊里髪だが、その一群を退治し終えるころには他の妖魔は影も形も見えなくなっていた。

 意味もなく斬魔になるわけにもいかず、慌てて納刀して……浮いていても仕方がないので地上に降りて一息つくことにした。


 ――どういうことだ?


 昨日とはまるで違う動きに伊里髪は混乱してしまう、いっそ罠なのではとすら思えてしばらくの間そこで立ち止まり周囲を警戒してみたが結局何が起こることもなかった。

 一体何がどうなっているのか、大体今回狒々が口にした言葉には何故物語にはなかった一節が含まれていたのか。

 無論あれは知性ある妖魔のようだから意味のある言葉を口にしてもおかしくないが……時が来たれりとは?

 伊里髪はやることもなくなり、仕方なく帰路につきながらももう一度妖魔についての考察をしてみることにした。

 

 ?妖魔の正体は狒々、?向こうからやってくるのは臨機応変を理解しているから??年頃の娘、まだ未熟と判断され……まさかっ!?


 何故このタイミングなのか、まさか今日は誕生日だとか、いやそもそもその想像は正しいのか。

 判らなかったが無視するにはあまりに恐ろしい可能性で、伊里髪は急いで江塚琴奈の下へと向かわなければいけなかった。


 ――だというのに、何故今現れるっ!!


 異臭、悪臭、腐敗臭、伊里髪が嗅ぎなれているもの、すなわち犬神の呪い。

 段々と色ごくなるその香りに伊里髪は……あえて無視して先を急ぐことにした。

 結果は明白であった、顕現した犬神の呪いは臓腑をまき散らしながら異様に肥大化し鋭敏化した肋骨を伊里髪の背中に突き立て身体を固定し、牙でもって彼の首へと食らいついた。


 ――殺したきゃ殺せよっ!! だけど付き合ってもらうぞっ!!


 犬神の攻撃で受けるダメージを妖気で回復することで一時的に中和し続けながら、伊里髪は彼女の下へと走った。

 初めて訪ねた他人の家ということもあり強く印象に残っていたために、彼は一度しか行ったことがないにも関わらず彼女の家のおおよその場所は覚えていた。

 そして……妖気の残り香をかぎつけることで正確な位置も判明しえた伊里髪は最上階までマンションの壁を大地のように足場にして登り窓を突き破って室内へと侵入した。

 

 ――マジかよ畜生ッ!!


 果たして室内は妖魔の巣窟と化していた、夕方はあれほど広く見えた部屋は今ではすし詰めになった妖魔のせいで酷く狭苦しく見えた。

 

 ――どけぇっ!!


 怒声を上げようとした伊里髪は、けれども喉に深く食い込む牙のため音になることはなかった。

 だから伊里髪は道を作るために妖刀を抜いて片っ端から妖魔を斬りつけていく。


 『しっぺい太郎だ!なぜ、ここに!!』


 ようやく伊里髪に気付いた妖魔どもは伊里髪の背中にへばりつく犬神の姿に怯え下がっていく。

 好都合とばかりに開いた道を駆け抜け、邪魔になりそうな妖魔を切り捨てながら……しかし今ここで斬魔となれば彼女も切ってしまうためそのたびに納刀しながら広い家の中を彼女の 姿を求めて走る。


 「いやぁああああああああああっ!!」


 悲鳴が聞こえた、伊里髪が聞き間違えるはずもない江塚琴奈の声だ。

 もはや躊躇もなく全力で妖気を行使し、肉体感覚体質全てを強化し悲鳴の出所を探る。


 ――上かっ!!


 重ねて体質変化、あまりの消費量にまたしても体内の妖気が補充量を上回り始めたようで眩暈がしたがそんなことはどうでもよかった。

 壁をも貫通する体質に変化した伊里髪はさらに翼を生やし最短距離で天井を超え彼女の下へ向かった。

 そして屋上へとたどり着いた伊里髪が見たのは、照明が照らす下で妖魔に抑え込まれた父親のまえで服を破かれ親玉の餌食とならんとしている江塚琴奈の姿であった。


 ――彼女から離れろっ!!


 やはり声は出せなかったが、すぐに近くに居た一匹の妖魔がこちらに気付き悲鳴を上げる。


 『しっぺい太郎だ!なぜ、ここに!!』

 『しっぺい太郎だ!なぜ、ここに!!』

 『しっぺい太郎だ!なぜ、ここに!!』

 『しっぺい太郎だ!なぜ、ここに!!』


 悲鳴は連鎖しあっという間に伊里髪の下へ視線が集中する。

 

 「あ、あああぁああぁ来てくれたの来てくれたんだっ!! 助けてっ!! 身体が動かないのっ!!」

 「伊里髪君、私はいいから娘をっ!!」

 『しっぺい太郎、今夜ここに誰が連れてきた?』


 親玉が恐怖に顔をゆがめ伊里髪を見る、その手に持った妖刀を見る。

 

 『あの日の坊主かっ!! あの日の坊主だっ!!』


 犬神の呪いと妖刀、しかしそれは狒々の目にはかつて己を退治した犬と聖刀に映ったようだ。

 そのまま威圧するように足を踏み込むと、親玉は僅かに後ずさりする。

 雑魚の妖魔に至っては既に遠巻きに逃げ出しており、お陰で自由を取り戻した父親は伊里髪と娘の顔を激しく交互に見やる。

 恐らく二人には妖魔の姿も声も、そして伊里髪が犬神に食いつかれている様子も見えていないのだろう。

 しかし伊里髪には気遣う余裕はない、犬神の呪いから受けるダメージを治癒し続けるのに今も妖気をどんどん消費しているのだ。

 こんな無茶は長く持つはずはない、けれども斬魔と成れぬ今無数の妖魔を相手にするには犬神の呪いを利用する以外に戦いようがなかった。


 『またしても またまたしても 邪魔をする 憎い憎いお前らを 今宵今夜この場所で この俺自ら殺してやろうぞっ!!』


 唐突に妖魔の表情が変貌する、耐えがたき屈辱を晴らすべくと言わんばかりの憤怒の表情にだ。

 そして親玉は大きく咆哮を上げるとそれに合わせて他の妖魔が咆哮をあげ、黒い霧へと変じていく。


 ――なんだっ!?

 

 黒い霧は親玉の下へと集まっていき身体へと吸い込まれていく、体外に放出した妖気を再吸収しているのだ。

 怯えて役に立たない雑魚をいっそのこと自身の強化にあてようというのだろう。


 ――今のうちに……っ!?


 今のうちに攻撃しようとした伊里髪だったが、巨大化する妖魔の拘束から抜け落ちた彼女を見た途端理性も何も吹き飛んで気が付けば救出していた。


 「琴奈っ!!」

 「あっ……うぅぅぅっこ、怖かったよぉおっ!!」


 ――早く逃げろっ!!


 やはり声は出すことができない、だからせっかくの伊里髪の忠告も伝わることはなく、自由を取り戻したことで助かったと思い込み感動の抱擁をしている親子の前でついに狒々は強化を終えてしまう。

 デカい、何をおいても思い浮かぶ印象はそれである。

 もはや伊里髪の十倍近い大きさになったそれは、マンションの屋上スペースの四分の一ほどを占拠していた。

 また全身から放たれる妖気も伊里髪とはくらべものにならないほどの質と量、正面からぶつかれば一瞬でつぶされてしまうだろう。

 伊里髪には対抗する手段は斬魔と化することしか……いやそれでも妖気においては上回るかもしれないが肉体の脆さで劣る彼は果たして勝てるかどうか。

 だというのにそれは許されない、何故ならそこに彼女がいるから。


 「っっ!!」

 「あぁっ!!」


 異常なまでに膨れ上がった妖気は妖魔の存在感をさらに増し、ついには常人の目にまで捉えられるまでになったようだ。

 ようやく目の当たりにした己の呪いと業の凄まじさと、何よりこの空間に満ち溢れる妖気に身も心も縛られ二人は金縛りに陥っている。

 せめて巻き添えにしないように伊里髪のほうが離れたところで、ついに狒々は動き出す。


 『クタバレ坊主っ!!』

 

 パワーアップを果たし一匹の強大な妖魔と化した親玉は、雄叫びを上げながら伊里髪に向かい飛びかかってくる。


 ――速殺之太刀……くそっ早いっ!!


 体内に残る僅かな妖気を使って何とか時の流れを緩やかにせしめるが、それでも妖魔の動きは獣のそれである。

 動く速さは虎のごとく、至近距離で振り下ろされた腕は残像を残し、放たれる拳の威力は鉄筋コンクリートを紙のように貫く。

 何とか伊里髪が避けれたのは多分に運のおかげであっただろう、また攻撃後に生まれる隙をつける位置取りができていたのも運だ。

 つまりこの一撃が伊里髪にとって偶然に生まれた、おそらくは唯一のチャンスだろう。

 逃すわけにはいかない、伊里髪は右手で抜刀すると手首を捻り狒々へと刃を突き立てるように向け柄頭に左手を置き押し込むように狒々の脇下へと刺突を放った。

 

 ――遅いっ!?


 空気が重かった、まるでタールのように粘り強く伊里髪の身体へへばりついて動きを遅くせしめるのだ。

 ついに伊里髪の妖気はもはや傷を癒すことと速殺之太刀モードを維持するので精一杯なまでに枯渇し、肉体強化に回す分がなくなってしまったためだ。

 例え緩やかな世界に認識が追い付いていようと怪力をもって行動しなければ、伊里髪自身も緩やかに沿って動くことしかできない。

 そして妖刀にどれだけの切れ味があろうとも振れた部分を切り裂くことしかできないのは当然で、相手に届いた一撃はゆっくりとしか埋もれていかず傷はなかなか広がってくれない。

 だから素早い狒々は致命傷になる前に反撃が間に合ってしまう、無造作に身体をよじりながら曲げた肘に速度と体重を乗せ伊里髪の身体へ叩き付ける。


 ――がぁあああああっ!!!


 咄嗟に横に飛んだことでコンクリートの床に押し付けられて潰れることだけは避けられた伊里髪だが、あまりの威力に攻撃を受けた部分の皮膚は破れ骨は折れ身体は宙を舞う。


 「い、伊里髪君っ!?」

 「伊里髪君っ!!」

 

 親子そろって同じ言葉を口にしてしまうほど酷い光景だった、癇癪を起した童に投げ捨てられた人形のような勢いで飛んだ伊里髪の身体は床に接地してなお体中を削りながら数メートル移動し屋上の柵にぶつかりゆがめることでようやく止まった。

 

 ――駄目だ、勝てない

 

 ぶわっと鮮やかに鮮血が立ち上る、もう治療に回せるだけの妖気も失せた。

 それでも何とか保持した妖刀は僅かな後に伊里髪を斬魔と変貌させこの場を収めるだろう、皆殺しという形で。

 それはもう避けられない、そしてそうなれば伊里髪は……人を殺してしまえば仮に納刀したとしてももはや人として生きていることはできないだろう。

 だけれども他に道はない、どうしようもない。


 ――その前にいっそのこと切腹でもして派手に死んでやろうか


 自暴自棄にそんなことすら考えるが、それをすることはできなかった。

 まず妖刀がそれを許してはくれないだろう、きっと死に切る前に身体を乗っ取った妖刀は傷を修復し斬魔として活動を始めるだろう。

 そして何よりもあの妖魔が生き延びれば彼女は決して助からないだろうが、もし斬魔と化した伊里髪が残ったのならば万が一ぐらいの確率で、父親を斬っている間に彼女だけは生き延びれる可能性がある。

 勿論そんなことは殆ど在り得ないことだとわかっているが、伊里髪にはもうそれを信じるしかない。


 ――助けたい、どんなことをしてでも助けたいのに


 何故なら伊里髪の身体にはもう妖気が残っていない、手のひらから伝わる妖気では到底賄えない。

 それこそ直接妖気を引き込まないと、へその下にある丹田にだ。

 

 ――あぁ、そうだ


 だから伊里髪はのろのろと起き上がると、今にも飛びかかろうとしている化け物の前で、絶望的な表情で伊里髪を見つめる江塚親子の前で、笑った。

 

 ――じゃあ、やってみるか


 そして伊里髪は手に持った妖刀を自らの腹へと突き立てた。

 正確には丹田にだ、手のひらから吸収する量で賄えないのならば直接刃から丹田に流し込めばいい。

 無論こんなこと成功するとは思っていない、無駄なことだと頭の冷静な部分がささやいている

 けれども伊里髪は足掻いた、抵抗した……幸せになるために。

 彼女を救いたいという明確な意思が死に際になってはっきりと思われて、だからこそきっとそれを成せれば伊里髪は死んだとしても幸せになれるはずだ。

 心の底からしたいことをするのだ、例え歪に見えてもそれ以上の幸せがあるはずがない。

 だから伊里髪はずっと昔に諦めていた運命に抗うことを選んだ、ずっと従ってきた己の運命に抵抗することを選んだ。


 ――ああそうだ、諦めてなんかやるかよっ!!

 ――だってほら、目の前に、俺が、助けを求める俺がいるんだから

 ――自分で自分を助けることを諦めるわけにはいかないだろ


 当たり前の理屈にようやくたどり着いた伊里髪は、幸せになるというはっきりとした意志の下に『幸成』という名前の妖刀を腹部に突き刺したのだ。

 だからこそ妖刀は、子孫が『幸せ』に『成る』ようにと先祖が念を込めて作られた刀は、犬神の恩恵により願いが必ず叶う先祖が作った刀であるがためにこれを受け入れる。

 化け物が飛びかかる、そして移動速度を乗せた拳を怪力を込めて伊里髪に向けて振り下ろした。


 「伊里髪君っ!!」

 

 江塚琴奈の悲痛な絶叫が響きわたる、その視線の先で拳に押しつぶされた伊里髪はぺしゃんこになって……いない。


 ――痛い……ああ、本当に痛いなぁ


 丹田に差し込まれた妖刀の莫大な妖気を用いて己が両手に怪力を発生させ、何とか妖魔の攻撃を抑え込んでいた。


 ――ほんと人間がすることじゃないよなぁ、こんな痛いこと

 

 伊里髪は自嘲しながら体質変化によって強引に改変した犬神の呪いを操作し、妖魔へと襲い掛からせた。


 『ひぃぃぃぃっ!! しっぺい太郎だぁあああっ!!』


 身体が触れているところから妖気を流し込んでの体質変化、前に大地に流して妖魔の群れを鉄の穂先がある落とし穴に落として一網打尽にした技と同様のものである。

 最も自然物と違い向こうも妖気で抵抗できるため改変には莫大な妖気が必要で、それこそ伊里髪の本来の許容量では到底かなわないことだ。

 けれども今の伊里髪なら、長年にわたり妖気を蓄えてきた妖刀から直接引き出すことのできる今の伊里髪ならば他愛もないことであった。

 流石に長時間は続かないだろうが一時的にでも仲間になった犬神の呪いはとても頼りになる、現に今も果敢に妖魔を責め立て食らいつき傷をつけている。


 ――ああもう、これっきりだ 妖魔退治なんてこれっきりだ


 だからもう終わらせよう、伊里髪は己に突き刺した妖刀を引き抜く。

 腹部の傷口は即座に完治させる、それだけの妖気が伊里髪には戻っていた。

 妖刀を抜いたまま犬神と狒々の争いを観察し、静かに静かに死角を探し移動する。


 ――隙を探せ


 幾ら莫大な妖気を使えようとも身体能力ではやはり向こうが上回る、先ほど攻撃を受けた際も両腕ともに骨折してしまい治す必要があった。

 もしも重要な部位を治癒が間に合わない勢いで破壊されたら、それこそ伊里髪は死んでしまう。

 そうならないために伊里髪は慎重に、慎重に立ち回る。

 狒々の膨大な妖気と身体能力の高さは頑丈さにもつながるだろう、それを反撃を受けないためにも一撃で断ち切る必要がある。

 剣術の心得がある者なら別かもしれないが素人の伊里髪には片手での抜刀ついでの一撃でやれる自信はない。

 故に伊里髪は両手を妖刀の柄にあてがい、力を込めて振り下ろせるよう上段に構え、化け物の隙を見逃すまいと目を凝らす。

 長らく妖刀を抜いて柄に触り続けている伊里髪の心中には徐々に妖刀の悪意が……流れ込まない。

 単純な話だ、これも体質変化の一言で片付く話だ。

 一時的に妖刀を自在に振るうために莫大な妖気を消費して刀の性質を改変するなど凄まじく無駄なことであり、今まで伊里髪は勿体ないとそうすることはなかった。


 ――でもさ、俺が幸せになるためなんだからいいだろ?


 刀の名は『幸成』幸せになるための力、ならば数世代にわたり中に込めれた妖気も同様ではないか。

 先祖から子孫への唯一の贈り物、子孫が幸せになるために使ってもらうために貯めこんだもの。

 だから伊里髪は先祖に感謝しながら、遠慮なく振るうことに決める。

 はっきりと目的を定め心が晴れた今の伊里髪は、もはや絶望し枯れ果ててなどいない。

 目的を定めるとはすなわち先を見据るということ、それは夢や希望を持つということと違いはない、伊里髪の心は甦った。


 『おのれぇえええええええええっ!!』


 正面から飛びかかった犬神の呪いを、狒々は両手で挟み込むようにして捕まえるとそのまま全力で押しつぶそうとする。


 ――今だっ!!

 

 そして犬神の呪いが力づくで押しつぶされ、妖気が霧散する瞬間に伊里髪は駆け抜け翼をはやし飛び上がった。

 砕け散った犬神の妖気が僅かな間周囲に飛び散り、伊里髪の妖気を包み隠す。

 妖気を纏ったものの姿は基本人には見えない、妖気を纏ったものは妖気を纏ったものを見ることができる、妖気を纏ったものの向こう側に居る妖気を纏ったものは隠れて見えない。

 当たり前の理屈により伊里髪の姿を見落とした狒々の頭に、飛び上がる際の速度と落下する勢いと己の体重と妖気で強化された怪力とを妖刀の恐るべき切れ味に乗せて頭上から思い切り振り下ろした。

 抵抗は一瞬、そしてずぶりという確かな手ごたえを返しながら妖刀は鍔まで埋まった。


 『―――――――――――――――っ!!』


 声なき絶叫を上げた狒々は、頭を割られたためにかそれまでの暴威と比べて信じられないほどあっさりと消滅した。

 他の狒々を切ったときとは違い、どくどくと脈打つような勢いで冷たい妖気が大量に流れ込んでくるのが分かった。


 ――倒したっ!!


 伊里髪がそう確信するのと、反射的に納刀した妖刀が鍔鳴りの澄んだ音を響き渡るのは同時だった。

 同時に身体を巡っていた妖気だとか熱くなっていた頭だとか、何もかもがきれいさっぱり消え失せて……なんだか妙にすっきりした伊里髪は自然に力が抜けてその場に倒れ込んだ。

 色々と無茶をし過ぎて、とっくに精神的にも体力的にも限界を超えていたのだ。

 

 ――ああ、疲れた


 「………っ!!!」

 

 誰かが何かを言ってる気がする、けれどもよく聞き取れない。


 ――ちょっと寝かせてくれよ、いいだろ?


 今度は誰かが身体を持ち上げる感触、慌てているのか激しく揺すられるがそれもまた心地よい。


 ――俺頑張ったんだからさ、少しだけ、少しだけ休ませて


 伊里髪はゆっくりと目を閉じた、睡魔はすぐに訪れた。



 *******


 

 夢を見た、いつぶりか伊里髪にはわからないぐらい久しぶりにみた夢だった。

 父が居た、母が居た、ただ顔はどちらも影が差しはっきり見ることができなかった。

 最も単純に思い出せなかったためだろうし、夢故か別に気にもならなかった。

 両親が揃って家に居て、呪いなんか存在しなくって、普通に幸せに暮らす夢。


 ――小さいころは毎日のように見ていた夢。


 その頃の伊里髪は目が覚めるたびに泣いて喚いていたことをおぼろげながらも思えている。

 一体いつから見なくなったのか、それは伊里髪は将来への夢を諦めたときではなかっただろうか。

 ならば何故今更こんな夢を見るのだろうか?

 伊里髪にはわからなかった、けれどもせっかくだから堪能していこうと思う。

 父に頼り母に甘え、学校に行けば友達がいて、どこへ行っても口を開いて笑っている。

 当たり前のようにその辺に転がっている光景、普通という伊里髪にだけは許されなかった光景。

 いつしか伊里髪は今の姿になっていて、視線の先で幸せに暮らす子供の自分を見つめていた。

 ふと向こうの自分に気付かれた伊里髪は、どうしていいのかわからずじっと見つめ返してしまう。


 『あ・り・が・と・う』


 子供の自分は今の自分にそういうと笑顔で走り去っていった。

 その笑顔は自分でも見たことがない、そんないい笑顔だった。


 ――あんな風に笑えたのか俺は

 ――あんな風に笑えるようになれるのか俺は

 ――あんな風に笑いたいな俺も

 

 笑ってみる、自分でも歪な笑顔だと思えるほど違和感がある。

 けど笑う、ちゃんと笑えるようになろうとそう思った。



********



 伊里髪がふかふかの寝具で眠っていたことに気付いたのは、あまりの寝心地の良さに二度寝してしまってからだった。

 流石に寝すぎてしまって軽く頭痛すら感じながら上半身を起こそうとした伊里髪は、自分の手を握る江塚琴奈に気付いた。


 「ぅ……ぅぅ……」


 目を閉じて眠っているのだろう、苦しそうにうなされている様子を見て伊里髪は……少し躊躇ったあと頭を軽く撫でてあげた。

 夢の中でこうして撫でられたのが心地よかったからだ、少しでも助けになればと思っての行為であった。


 ――サラサラだな


 しかし指の間を水のようにさらさらと流れる髪質のよさに、逆に伊里髪のほうが気持ちよくなりついつい堪能してしまう。


 「んんぅ……ふぁ……あっ!!」

 「お、おはよう」


 どうやらやり過ぎたようで目を覚まして呆けたように伊里髪を見つめる彼女に気付かれぬよう咄嗟に手を戻した伊里髪は取ってつけたような挨拶を返した。


 「い、伊里髪君っ!! 伊里髪君っ!! いりがみくぅぅうううんっ!!」

 「うぉっ!?」


 一瞬で覚醒したらしい彼女は、わっと目を見開くと涙と鼻水を流しながら伊里髪に飛びついた。

 ふかふかのベッドに横になっていたせいで抵抗することもかなわず彼女に押し倒され、上から抱き着かれる形になる。


 「ごめ゛ん゛な゛さ゛い゛わ゛た゛し゛の゛せ゛い゛で゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛」

 「わかったから止めろ離れろ擦り付けるなっ!!」


 伊里髪の二着しかない制服に彼女のせいで皺ができていく、これは臨時の出費は免れそうにない。


 「だっでだっでわ゛だし゛し゛ん゛じゃった゛がどお゛も゛っでっ!!」

 「死なない、また明日って言っただろ」

 「でも゛ふ゛づがも゛お゛ぎな゛がっだがら゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!!」

 「……二日?」

 「う゛ん゛っ!!」


 涙声で聞き取りにくい江塚琴奈の言葉が正しければ、伊里髪は二日も眠り続けて……途中実は一度起きているのだがまあ寝続けたことになる。


 ――あぁ、まあそれは……心配するよな


 「そのなんだ、すまん、寝すぎた」

 「そ゛ん゛な゛の゛どう゛でも゛い゛い゛よ゛ぉ゛っ!!」


 ――どうでもいいのかよ、てかじゃあ泣くなよ


 などという突っ込みが無粋だろうとはさすがの伊里髪でもわかる、おそらく混乱しているのだろう。

 そしてこの状態の相手に伊里髪ごときの対人能力では対処しようもないとわかり、彼は諦めて落ち着くまで成すがままになろうと覚悟を決めた。


 「伊里髪君、起きたんだねっ!!」

 「ええ」


 果たしていつ終わるのかもわからず泣き続ける彼女を止めるきっかけは外からやってきた。

 余り伊里髪は好きな相手ではなかったが、このときばかりは乱入者である彼女の父親に感謝した。


 「そうかよかった……言いたいことはたくさんあるけれど取り敢えず食事を用意するよ、それと琴奈そんな縋り付いたら伊里髪君の制服がべとべとになってしまうよ」

 「あ゛ぅ゛ぅ゛っ!!」

 「着替えて顔を洗っておいで、じゃないと失礼だよ……じゃあ伊里髪君すぐに食事を持ってくるから」

 「ぐすっ……わ、わたしもすぐもどるからっ!!」


 そして二人とも部屋を後にして、伊里髪はやっと落ち着きを取り戻せた。

 静かになったところで情報を咀嚼したが二日たったということは、そしてその間に彼女が狒々に襲われていない様子からもう完全に呪いは解けたとみて良いだろう。


 ――よかったぁ


 安堵の吐息を漏らした伊里髪は、今度は自分がいる場所がどこなのかと室内を見回す。

 恐らく江塚琴奈の家の一室だろう、そういえば彼女を探している際にこんな部屋があった気がした。


 ――俺の妖刀はどこだ?

 

 ふと気になって探すと枕元に、それも抜きやすい角度でちゃんとおかれていた。。

 しかし当然だった、昨日もまた犬神の呪いは律儀に襲ってきて返り討ちにしたのを何となく覚えているからだ。

 ただお互いに疲れ切っていたのか向こうの動きも鈍かったようだし、伊里髪もまた一刀で切り伏せるとすぐに眠りについてしまった。


 ――ありがとう、相棒


 妖刀を持ち上げ眼前で半分刃を抜き、光を反射しない怪しい魅力を放つ刀身を見つめて一礼した。


 ――これからもよろしくな

 

 納刀するとチンと鍔鳴りの心地よい音が響く、丁度そのタイミングで江塚直人が食事を持って入ってきた。


 「簡単なものでわるいけど何せ私の手作りなもので……娘は君の傍を離れようとしなかったからね」

 「別に」

 「ああそこでそのまま食べてくれていいよ、布団にこぼしても洗えばいいし……娘の命の恩人には少しでも休んでもらいたいからね」

 「そうですか」


 言われた通り父親が持ってきたサンドイッチを貪る、久しぶりに食べた食事はとても……美味しかった。

 食べながら自分のお腹が鳴るのを、とても空腹であったことを思い出したように感じていた。

 

 ――なんだ、まだ食欲もしっかり残ってるじゃないか


 どうやらお腹が空き過ぎていて空腹を感じる段階を超えていただけのようだ、そんな単純なことにすら気付けないほど前の伊里髪は追い詰められていたのだろう。

 残してもいいように多めに作ってあったらしい食事を全て平らげ、同時に持ってきてくれた珈琲を啜り……余りの苦さに顔をしかめそうになる。

 けれどもどうしても好意的に思えない彼女の父親に弱みを見せたくなくて、伊里髪は我慢して何度かに分けて飲み干すことにした。


 「君にはもうなんといっていいかわからないけれど、ひょっとしたら私に言われたら腹が立つだけかもしれないけれど……ありがとう、本当にありがとう」

 

 食事の後始末をし終えた江塚直人は深々と、それこそ土下座せんばかりの勢いで伊里髪に頭を下げる。


 「昨日のことだ、色々あったんだが私は会社を首になったよ。絶対にうまくいくはずの私が……つまり例の契約は解除されたんだ。もうあの子は呪いに怯えなくていい、普通に暮らしていけるんだ……全部君のおかげだ、ありがとう本当にありがとう」


 ――いやそんな会社を首になったことを嬉しそうに言われても


 他人事ながら、あんまり好きじゃない人だけれど流石に大丈夫なのかと言いたくなる。


 「ああそうだ、もしも私にしてほしいことがあれば何でも遠慮なく言ってほしい。酷い話かもしれないがお金なら今日までに十分すぎるほど蓄えてある。大概の事なら叶えられると思う」

 「いや別に……あっ」


 どうやら江塚琴奈が路頭に迷う必要はなさそうでそれ以上何を望む必要もないかと思ったが、少し身体を動かしたところでほんの少し欲がわいた。

 これも伊里髪が人間らしさを取り戻しつつある証左であるが、とうの本人は気付くこともなくもののついでのように告げるのだった。


 「じゃあこれ貰っていいか?」

 「ベッドかい? もちろん構わないけれど、何ならもっと良いものを新品で買ってもいいのだけれど?」

 「面倒だ、これでいい」


 とても寝心地がよく気持ちよい、何より電気も何もない伊里髪の部屋でも使えそうな家具であるのが良い。


 「なら早速手配しよう、後これからも何かあれば何でも言ってくれ。出来るだけ要望には応えるよ」

 「どうも」

 「お、お待たせっ!!」


 江塚琴奈が戻ってきた、瞳こそ充血しているが顔はきれいに洗われて血色も良く……何より悲惨さなどもはやどこにも見受けられない。


 ――よかった


 「さて私はやることがあるから部屋に戻るけど何かあったら呼んでくれ……これからも娘をよろしく頼みます伊里髪さん」

 「?」

 「も、もうお父さん変なこと言わなくていいからっ!!」


 娘に押しやられるようにして部屋を後にした江塚直人、彼が居なくなると江塚琴奈は少し遠慮がちに伊里髪の枕元へとやってきた。


 「あ、あのね……伊里髪君、ありがとう」

 「別に大したことはしてない」

 「し、してるよぉっ!! 伊里髪君もうボロボロですごかったんだからねっ!! 私のせいだけど……」

 「違う自分のためだ」


 そう伊里髪はあくまでも自分を救おうとして頑張ってきただけなのだ、彼女にはかつての自分を重ね見て代わりにしていただけだ。

 だから実のところお礼を言われるとどうにも申し訳なくて……恥ずかしい。


 「そんなことないよ、伊里髪君は私のために頑張ってくれたんだよぉ……本当に私なんかのために……うぅ……」

 「いや、本人が違うと言ってるんだが」

 「……伊里髪君は謙虚だね、不良だけど」

 「関係なくないか、というより不良じゃない」

 「不良だよぉ、授業中ずっと寝てるし移動教室でも動かないし髪の毛揃ってないし」

 「……髪は関係なくないか?」

 「その髪型結構怖いよ」


 ――そうだったのかっ!?


 お金が無いことと人との交流の仕方が分からなかった伊里髪は自分で鏡を見ながら髪を処理していた。

 だから雑なのは仕方がないことだった……実は結構いいのではと自信があったのだが。


 「まあ私も人の事言えないけどね……お父さんに切ってもらうしかなかったから」


 彼女の髪の毛を見るとちゃんと整っているようには見える……が言われてみれば確かに市松人形のように横一列に整いすぎな気もした。


 「でもこれからは美容院にも行けるし、買い物しておつりを受け取ったりもできるし、冬でもないのに手袋をつけなくてもいいし、身軽な服装もできる……全部全部伊里髪君のお陰」

 「良かったな」

 「うん……だから、ありがとうって言いたいの」

 「そうか……そうだな」


 予想以上に彼女の制約は厳しくて、どれだけ窮屈な思いをしていたのか伊里髪には計り知れなかった。


 「そのだから、ね……伊里髪君、私お礼がしたいの、でも私何ももってないから……」

 「ああ安心しろ、もう貰ったから」

 「えぇっ!?」

 「このベッドを頼んだ、だから気にするな」

 「そ、それはお父さんにでしょっ!! 私がお礼したいのっ!!」


 ――同じことではないのか? というかそれでは二重取りでは?


 「だから、その……だから伊里髪君がしたいこと、してくれて……いいよ?」

 

 そういって彼女は異様に整った魅力的な顔を伊里髪に向ける、その瞳が潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。


 「したいこと……?」

 「そうしたいこと……なんでも、伊里髪君なら……いいの……」


 言って彼女はさらに身体をずいっと迫らせてきて、伊里髪は……ただただ困惑する。


 「したいことではなくてしてほしいことではないのか?」

 「あっい、伊里髪君は……そ、そのええと……わ、私経験ないからその……ど、どうすればいいのかわからないし……」

 「えっと、何の話だ?」


 伊里髪は本格的に混乱する、何を言われているのか全く理解できないためだ。


 「だ、だからぁ……伊里髪君も男だから、わ、わたし自分で言うのもなんだけど結構魅力的みたいで……で、でも伊里髪君が初めての相手ならその、だから……」

 「……す、すまん本当に何の話だ?」

 「ぅぅぅぅっ!! い、伊里髪君わ、私にえ、えっちなことしたくないのっ!?」


 顔を真っ赤に火照らせて、心の底から恥ずかしそうに叫ぶ彼女に伊里髪は……それでも首をひねって見せた。


 「えっちなことってなんだ?」

 「はぅぅぅぅぅっ!! あ、赤ちゃんができちゃうことだよぉ……」

 「赤ちゃん……作れるのか?」

 「も、もうっ!! ふ、二日前にきたよっ!! だから昨日は赤飯だったよっ!! お父さんデリカシーないんだもんっ!!」


 江塚琴奈の言葉を……それでも伊里髪は理解できない。


 「来たって何が? えっと赤飯と何の関係があるんだ? そして俺はどこに関わるんだ?」


 未だに納得が行かないと頭を悩ませる伊里髪の様子に、ようやく何か盛大な勘違いがあるのだと悟った江塚琴奈はおずおずと尋ねた。


 「伊里髪君……人間の三大欲求って知ってる?」

 「なんだそれは? 食欲と睡眠欲と……優越感?」

 「最後だけ変だよっ!? だ、第二次成長とか知らない? というか保健体育の授業うけ、てないよね伊里髪君だもんね……はぁ……」

 「?」


 そこに居たってようやく江塚琴奈は、伊里髪隼人が性的な知識を何一つ持ち合わせていない人間だと理解する。

 無理もない話である、幼少の性欲の欠片もない時期より世俗より切り離されている。

 書物もインターネットもなく、悪友もいなければ時間があれば妖魔退治につぎ込む毎日。

 そして授業中は常に居眠り、ともなればそんな知識が入ってくる余地などは存在し得なかった。


 ――なんなんだ一体?


 初めて聞く単語に伊里髪は訊ね返すことしかできず、その様子を目の当たりにした江塚琴奈はがくりと落ち込むのであった。


 「せ、せっかく覚悟したのに……伊里髪君の馬鹿ぁ」

 「す、すまん」


 お礼を言われるはずが何故謝る羽目になっているのか、伊里髪は己に訪れた可愛らしい理不尽が……何故だか可笑しかった。


 「ははっ」

 「笑わないでよぉ!!」


 伊里髪はムキになって起こる彼女の姿が……年相応の表情をさらす彼女の姿が可笑しくて可笑しくて衝動のまま心の底から笑った。


 「あはは、ははははっ!!」

 「伊里髪君の意地悪ぅ……もう、バカみたい……ふふっ」


 その様子を最初は怒ったように見ていた彼女もまた馬鹿らしくなったのかつられるようにして笑う。

 呪われた二人、不幸に陥り絶望していた二人、もうその姿は何処にも見られなかった。



 *********



 伊里髪を渦巻く状況は何も変わっていない、犬神の呪いは依然として襲ってくるし妖刀の悪意は心を蝕む。

 生活費が少ないのも同じなら、今までに広がっている悪評により学校で孤立するのも変わらないだろう。

 それでも伊里髪は、己の将来が明るくなったような気がした。


 ――だから、頑張ろう

 

 諦めずに、絶望に屈せず、希望を抱いて生きてこうと、決意する。

 伊里髪は『幸成』と名付けられた妖刀へ視線を移し、全ての元凶となった先祖に向けて心中でつぶやくのであった。


 ――ちゃんと幸せになってやるよ、あんたとは違う方法で


 そして伊里髪は前を向いて歩き出した――



 『溺れる者は』 終幕

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