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溺れる者は  作者: SS
2/3

中編

初投稿 三部作

 伊里髪の座席が窓際最後尾にあるのは、丁度このクラスが奇数人であるがために一人分はじき出すことができるからだ。

 所謂問題児として扱われていた伊里髪が、周囲と強調し得ない彼が押し出されるように配置されたのは当然と言えた。

 だからこそ奇数を偶数に直すためにも転校生が来たのならば彼のクラスに配属されることは必然で、そうなれば仲間はずれを作らないためにも伊里髪の隣に配置されるのが正しい。

 けれども江塚琴奈の席は丁度反対側、廊下側の最後尾に用意されていた。

 これは学校側が伊里髪との隣席を危険との配慮した結果だろうと思われたが、それが自分にとっても良いことか悪いことか伊里髪には判断できなかった。

 本来の伊里髪ならば、他社との交流の仕方がわからない彼は事情を知らない人間にちょっかい出されることを嫌うがためにこの采配を喜んだことだろう。

 しかし今回はどうだろう、彼女は生まれて初めて出会った同類だ、同じ悩みを抱えているであろう人間に伊里髪は興味があった。

 だが同時に何をどう話せばいいのか、そもそも自分は関わり合いになりたいと思っているのか、伊里髪にはわからない。

 

 ――大体話して何になるというのだろうか?


 同情されたいのか? 同情したいのか? 共感したいのか? 共感されたいのか?

 

 ――大体彼女は本当に呪われているのか?


 あの目は伊里髪にとても良く似ている、けれどもそこに居たるプロセスは果たして同一であろうか?

 

 ――大体本当だとして、俺は何を言いたい? 何を言われたい?


 考えても答えは出ない、いや本当は何もないのが答えなのかもしれない。

 何故なら伊里髪はとうに絶望している、今更未来に夢も希望も持ち合わせてはいない。

 或いは家族を失った直後であれば、呪いと立ち向かい始めた当初であれば、歪んだ優越感を抱く前であれば、何か違ったかもしれない。

 きっと遅すぎたのだ、伊里髪にとってこの出会いは遅すぎた。

 既に他者に何かを期待できる時期は過ぎていた、既に他者に何かをしてあげようと思える感情は擦切れていた。

 だから伊里髪は彼女に興味こそ抱いたが、結局進んで関わろうとは思えなかった。

 だけど伊里髪は関わり合いになろうと思えないのに、彼女への興味が失われることはなかった。

 無論彼女の方もまた近づいてくることはなかった、それどころか彼女は彼に対してだけではなく学校中のあらゆる人間に対して拒絶を露わにしていた。

 それは徹底しており、手袋から長い靴下に長袖にロングスカートと、肌は顔を覗き一切露出していない。

 また触れ合いにも過敏に反応しており前から回ってくるプリント類は一方的に机の上に置かせるなど決して手を差し出すことはなかった。

 さらには会話に至ってはまさしく論外とでも言うべきか、決して言葉を交わすことはなく必要なときは筆談で、それもぶつ切りの単語を書き記す程度で済ませるほどに徹底していた。

 お陰で誰一人として転校以来彼女の声を聞いたものはおらず、結果としてこの学校へやってきて数週間もたたずに彼女は伊里髪と双璧を成す問題児として扱われるようになった。

 ただ伊里髪と違う点はその圧倒的な美貌故に、男子も女子も複雑な感情を抱くようでいい意味でも悪い意味でも関わり合いになってやろうとする者は後を絶たなかった。

 そしてもう一つ違う点、それは彼女は対人関係以外は優等生であるということだった。

 授業はしっかりと受ける、テストではちゃんと結果を出す、返事こそしないが教師の指示にはきちんと従う……真逆の何しに来ているかわからない伊里髪を不安そうに見つめるなどだ。

 だから問題児ではあるが伊里髪と違い恐れられたり嫌われたりはしていないのも違いであり……でもだからこそ皮肉にもその事件は起きてしまった。

 


 *******


 

 学校で寝損ねた伊里髪は憂さ晴らしを兼ねて、妖魔退治を行おうと外を出歩いていた。

 

 ――あんな騒ぎ久しぶりだしなぁ


 いつぞやの彼自身が引き起こした集団気絶事件に匹敵するほどの大騒ぎ、それによって伊里髪は寝続けることができなかったのだ。

 事の次第は眠っていた伊里髪には詳しくはわからないが、どうにも音楽の授業中に件の彼女のことで教師と生徒の間で諍いが起こったらしい。

 その混乱の最中に彼女の手袋が外れた状態でもみくちゃになってしまい……江塚琴奈は喉が枯れ果てるまで絶叫と謝罪を繰り返した。

 余りの凄まじさに授業は中断し他の教師も入り混じり、救急車まで来たとかどうとかいう騒ぎにまで発展した……というのが騒然とした教室内に入り混じった情報を咀嚼した結果である。

 お陰で始終やかましくなった室内で寝続けられるほど伊里髪は鈍感ではないようで、結局十分な睡眠を取り損ねてしまったのだ。

 かといって家で寝ようにも夜間には必ず呪いが襲い来て確実に寝不足になるか、永遠の眠りにつくかのどちらかだ。

 ならば食事を節約したときのように妖気を用いて睡眠不足の解消に割り当てるしかない、そして疲労から判断力の低下は戦闘において危機を招く故に出来る限り早急にすべきだ。

 だからこそ伊里髪は睡眠の時間を削って睡眠不足を解消しに行くという、素晴らしく矛盾に満ちた行動をとっているわけである。

 

 ――さて、今日はどこへ行こう?


 既に新たな生活費が振り込まれたために食事自体は普通にとった伊里髪は、結果として家を出る時間が普段より少し遅くなり日が完全に落ちていた。

 妖気は既に練り上げられ、伊里髪の周囲は陽炎のように朧になっている。

 夜の空気と彼が発する妖気が溶け合い混じり合い、伊里髪の姿を覆い隠しているのだ。

 常世の領域に片足を踏み込んでいる今の彼はそれこそ幽霊の仲間のようなものであり、同族か霊能力者でなければ見通すことはかなわないだろう。

 でなければいくら夜間とはいえ電柱やら家屋の上を飛び回るような目立つ行為はできはしないのだ、下手に目立ち通報でもされれば銃刀法が待っている。

 

 ――やはり遠くへ行こう


 だがそれでも伊里髪は万が一姿を見られた時のことも考えて、自分のことを知る者がいなさそうな場所で狩りを行うようにしているのだ。

 取り敢えずいつもやるように重力の枷を振り切り電柱の上に着地し、覇者になったかのように世界を見下ろし……それを見た。

 

 ――さ、猿っ!?


 伊里髪の体躯より一回りも二回りも大きそうな猿……によく似た生き物が十数匹程も集まり屋根から屋根へと飛び交い遠方のとある家屋へ殺到している。

 まさかの光景に呆気にとられる伊里髪は目を離せずに観察を続けていると、奴らは家屋の壁へと飛びかかり……ぶつからずにすり抜けた。

 

 ――はっ!?

 

 予想外の事態に目を疑う伊里髪は、数刻かけてようやくあれが現世のものではないのだと気が付いた。

 距離があったことと存在感がはっきりしすぎていたこと、何より猿の化生などという見たことのない妖魔の形状故に見間違えていたのだ。

 そこまでの理解にたどり着いた伊里髪だが、だからといって何ができるわけでもなくただ眺め続けることしかできなかった。

 妖気を用い肉体強化と感覚強化を同時に行い、視神経の機能を向上させ双眼鏡ほどに上がった視力でのぞき込む。

 そこまでしても窓との角度の問題で室内の様子は殆ど見られない、仕方なく……何故ここまでするのか彼自身判らなかったがとにかく体質変化を用いて壁の向こうを透視する。

 ようやく何が起きているのかを確認できた伊里髪だったが、中で起きている惨劇に思わず目を背けたくなってしまう。

 妖魔どもはそのあるべき性質に従って……悪逆なる本質に沿うままに住人であろう伊里髪と同年代ぐらいの男性をいたぶっていた。

 向こうが抵抗できないのを良いことに腕を捻じ曲げ曲がらぬ方向に折り曲げ関節をいくつも増やす一匹、周りで囃し立てる数匹。

 向こうが気付けないのを良いことに目や舌へ自らの爪を突き立てて遊ぶ一匹、髪をむしって遊ぶ一匹、生爪を剥がして遊ぶ一匹。

 向こうが暴れようとするのを力づくで押し止める一匹、悲鳴を上げさせまいと口を押え首をひねる一匹、下半身にある男子の急所を今まさに踏みつぶさんとする一匹。

 

 ――っ!!

 

 咄嗟に目をそらす、流石に見届けることができなかったのだ。

 呼吸を整え心を落ち着かせ改めて顔を上げると、奴らは襤褸切れよりも凄惨に成り果てた男をまるで壊れたおもちゃを投げ捨てるように放置すると屋根の上に集合した。

 そしてある方向を向いたかと思うと夜空へ獣じみた咆哮を繰り返した後、猿のごとき動きで来た時と同じように屋根から屋根へと飛び移りながらどこぞへと消えていった。

 

 ――な、んだあれはっ!?


 何だかんだでここに住んでから十年以上経つが、あのような妖魔を見たのは初めてだった。

 確かにこの辺りで狩りをしたことはないが一応何度かは、それこそ今のようにこの街中で妖気すなわち探索能力を広げたことはある。

 だというのにあれほどの数と質の妖魔に今まで気付けなかった、そんなことあり得るだろうか。

 

 ――そんな馬鹿なっ!?

 

 そもそもあれほど派手に人に被害を出す魔物が昔から住んでいるというのなら、もっと騒ぎになっていなければおかしいではないか。

 まさか己の所業を隠匿する能力を持ち合わせるというのだろうか、しかし後始末に気を使っているようには到底見えない。

 ならばやはりあれは最近になって他所からやってきた妖魔ということだろうか、そう思ったとき件の彼女が脳裏に浮かんだのは必然であった。

 

 ――あれが江塚琴奈の呪いかっ!?


 伊里髪を襲う犬神の呪いと比べ、量も質も桁違いに見える妖魔。

 一体どのような業があればあんなものに祟られるというのか、伊里髪には想像もつかない。

 久しぶりに受ける衝撃に色々と考えていた彼だが、ふいに現実に立ち返ると頭を振って思考を切り替える。

 

 ――俺には関係ないことだ

 

 伊里髪がいくら考察を続けようと、他者に関わる気などない以上は無駄なことだ。

 もしあれが我が身に襲い来るというのならば話は別だが、彼女の言が正しいのならば縁のないこちらへ来ることはなさそうだ。

 あくまで彼女には呪い仲間として興味があるだけ、何をどうしてやろうという気もない。

 ならば伊里髪にはもはやどうでもいいことであった、自分の事で精一杯の彼にとってそれは当然の結論である。

 そして伊里髪は当初の目的を果たすべく、簡単に狩れそうな妖魔を求めて移動を始めるのであった。


 ――そう俺には関係ない、関係ないことなんだ



 *******



 妖魔の質は存在感で凡そ判別することができる。

 最も伊里髪や彼を祟る犬神のようにカモフラージュを得意とするものや妖刀のように物品との境目にあるため一般人にも見えるものもあるので一概には言い切れないが。

 とにかく妖気のアンテナを広げた後の伊里髪が、一度は単なる動物かと見間違えるほど明白に存在感を醸していた先の妖怪は強力な妖魔だと推察された。

 しかし逆に言うのならば妖魔の類であることは間違いがなく、故に伊里髪の持つ妖刀ならば確実に対抗できるはずであった。

 だというのに目の前で人が襲われているのに観察だけで済ませた伊里髪は、我が身に何もできることはないと言い聞かせていた。

 勿論本当ならば強引に飛び込むという選択肢があった、そうする意義を感じずとも男を助けるという選択肢は確かにあるはずだった。

 そして妖気を用いた行為に優越感を抱いている彼は、本来ならその選択肢を思い浮かべることで悦に入ることができるのだから。

 だが彼にはそうすることができない、理由がないからしないのではなく理由があってできないのだ。

 

 ――伊里髪には自信があった、自分は恐ろしく強いのだと

 ――伊里髪には自慢があった、自分はその気になれば大抵の相手には打ち勝てるであろうと


 そして……伊里髪は自覚があった、自分は亡き父に比べればはるかに劣る能力しか持ち合わせていない事を。

 そう彼は決して最強などではない、あくまで妖気の力で底上げしているだけで彼自身の身体が持ち合わせる才能は凡人のそれでしかない。

 そう彼は決して勇者などではない、あくまで諦めの感情が心を支配しているから妖魔と相対しても怯えないだけで勇気は凡人のそれでしかない。

 

 ――件の妖魔は強敵である、伊里髪をして勝てるかどうかはわからないほど


 だから飛び込むことはできなかった、助けることはできなかった、何もできることはなかったと仕方がなかったと自分に言い聞かせることしかできない。

 けれども伊里髪は考えれば考えるほど心中に苦い思いが沸くのを止められない、見て見ぬふりをした事実が痛いぐらいに心に突き刺さる。

 もしも彼がもう少し年を取っていれば割り切ることも出来ただろう、もしも彼がもう少し幼ければもっと単純に行動できたはずだ。

 しかし今の伊里髪は中学生という最も精神が繊細な時期であった、だからこそ己の無力感を受け入れることに抵抗があった。

 そこにほんの僅かに残っていた良心に、自分しか止められなかったという責務感、さらに今日までに歪んだ性根から負の感情が発生する。

 幸福であったものの不幸を目の当たりにした喜び、自分と同じ妖魔による不幸を分け与えられた悦び、自分以下の存在を見つけた歓び。

 時間が経てば経つほど様々な感情が入り混じって伊里髪は複雑な心境に陥る。

 

 ――関係ない、俺には関係ないっ!!


 必死に自分に言い聞かせるように、つい先ほどは冷静に心中でつぶやいた言葉を今度は強く強く念じる。

 だけれども感情は収まることを知らず、気をそらそうと別の事を考えようとしても……伊里髪には妖魔の他に考えることなどは存在しない。

 故に伊里髪は思考を変えることも許されず、どんどん己の感情に掻き回され混乱していくのであった。

 だから気付けなかった、諦めと絶望で乾ききっていた己の心が色を取り戻し始めていることに。

 


 *******



 伊里髪は頭も心もどうにも整理がつかないまま、けれども昨夜もまた妖魔を討伐したことによる強化によって体調だけは万全なまま教室へ向かった。

 昨日の今日ということもあって教室はなおも騒がしかったが、HRが始まる時間になるころにはさらに喧騒は勢いを増していた。

 やはり昨晩妖魔に襲われていたのは我がクラスの生徒であったようで、どこから漏れたのか惨状もかなり正確に噂されていた。

 

 『強引に捻じられた五体は複雑骨折、剥かれた頭皮は顔にまで及び、両目は失明舌は皮一枚はがされ、生死の境をさまようばかり』


 ただ伊里髪をして驚かせたのが、同様の事件が4件ほどそれも同時刻に発生していたという事実であった。

 

 ――紛れもない、彼女の呪いだ


 伊里髪の感想はすなわち学校中の全員に共通する認識であった、何故なら被害者の全てが音楽の授業において彼女に接した者なのだから。

 当然我がクラスから3人もの重傷者を出したがために……残る一人は音楽教師らしいがともかく、HRにおいては緊急の会議が行われることとなる。

 

 「何か知ってるものはいないか?」


 担任教師の白々しい声に、教室中の視線が江塚琴奈の元へ集中する。

 そこに例外はなく伊里髪も、担任教師自身もまた同じである。

 とうの彼女は完全に血の気が引いた青ざめた顔を俯かせ、全身を細かく震わせながら涙を机の上に垂らしていた。

 それでも弁明も弁解も、謝罪すらないのは恐らく初日に述べた通り会話もまた呪いの伝播の元となり得るからだろう。

 

 ――あるいは心の底では、認めたくないのかもしれない


 伊里髪は自分が呪いと立ち向かったときのことを思い出す、現実逃避気味になり呪われてるのは勘違いなのだと誤魔化そうとした日々。

 とはいえ彼の場合は自分自身に直接害のある呪いだったが故に、否が応でも向き合う必要があったが。

 

 ――そういえば、彼女自身には害はないのか?


 不意の思いつきに従い彼女の身体を軽く観察するが、ほとんどが布の内側に納まっていることもありはっきりとはわからない。

 ただ目立った、それこそ骨折だとかそんな大怪我はしていないことぐらいはわかった。

 つまり江塚琴奈の呪いは本人にではなく、近づいてくる相手だけを大きく傷つける呪いということなのだろうか。

 果たしてそれは本当に呪いなのだろうか、いやどちらかといえばそれは……とそこまで考えたところで伊里髪は自分が関係ないはずの事に首を突っ込みかけていることに気付く。

 

 ――俺は変だ、昨日から変だ


 いつもの伊里髪ならば、既に未来に絶望し周囲の人間に苛立ちながらも淡々と今を生きるだけの存在でしかなく、こんな事件にここまで思考を割くことなど在り得なかった。

 それはまさしく昨日から続く混乱の果てに少しずつ正常な感情が甦りつつあるがためなのだが、彼はまだ自覚することができないでいた。

 結局誰も発言することなくHRは終わりを告げて、本来ならば彼にとって睡眠時間になるはずの授業が始まった。

 しかし今日も彼は眠ろうとはしなかった、教室中が騒がしかったことも理由の一つだが……考えたいことがあったからだ。


 ――俺は、どうしたいんだ?



 *******



 伊里髪は初めて刀を握ったときのことを思い出す、無邪気に刀という響きに喜んでいた気がする。

 伊里髪は初めて刀を振るったときのことを思い出す、一面に広がる赤と母の絶叫のなかで何を考えていたのか今でもわからない。

 伊里髪は初めて刀と夜を超えたときのことを思い出す、ただただ恐ろしく誰かに助けてほしかったのを覚えている。

 伊里髪は初めて刀の意志に飲み込まれそうになったことを思い出す、交互に訪れる嗤えるほどの絶望と狂おしいまでの理不尽さを耐えるために絶叫し続けていた。

 伊里髪は妖魔と共に過ごしてきた日々を思い返す、ずっとずっと泣いて泣いて泣き続けていたはずがいつの間に涙は枯れ果てたのか。

 

 ――ああ、いつから俺は助けを求めることを止めてしまったのだろうか

 ――ああ、いつから俺は何もかもを諦めてしまったのだろうか


 どちらも同時ではなかっただろうか、そしてそれは近い将来必ず訪れる死のプレッシャーに押しつぶされた日ではなかっただろうか。

 何故今更そんなことを考えるのか、何故今更になってこんなことを思い返すのか。 

 彼女へと視線を向ける、恐怖と悲しみをこらえているのが目に見えてわかる。

 周囲の人間から向けられる悪意に怯えているのが分かる……理不尽さに震えているのが分かる。

 わかる、わかりすぎてしまう。

 

 ――俺だって、俺だってそうだったっ!!


 でも誰も助けてなんかくれなかった、自力で何とかするしかなかった。

 だから彼女もそうするべきなんだ、昨日やられた奴らだってそうだ。


 ――俺が何かしてやる必要なんかないっ!! 俺が命をかけて助けるなんて馬鹿げてるっ!!


 伊里髪は自分で自分に言い聞かせる、なぜそんなことをする必要があるのかわからないがとにかく言い聞かせる。

 

 ――絶対助けてなんかやるものか、俺には関係ないっ!!


 だけれども伊里髪は彼女から目を放すことができない、けれども伊里髪はどうしても空席となったクラスメイトの机が気になって仕方がない。

 本来の伊里髪はそんなことを気にする人間ではなかったはずだ、もはや絶望しきっていた彼は何もかもがどうでもよかったはずなのに。

 

 ――本来の、俺


 伊里髪は……刀を持つ前の事を思い出すことができなかった。



 **********


 休み時間のたびに江塚琴奈は姿を隠す、どこへいるのか誰も探しに行こうとはしない。

 伊里髪もまた探すつもりなんかなかった……そのはずだ。


 ――あそこだったな


 最上階へつながる階段をさらに登れば、屋上へつながる扉の前のほんのわずかに開けた空間に到着する。

 無論屋上への出入りは禁止されており扉は施錠されている、そのためここまで来ても引き返すしかなく故にわざわざ登る物好きはそうそういない。

 いるとすれば人目に隠れて行動したい輩ぐらいのものだ、それこそ不良であったりボッチであったり……かつて一人で泣いていた頃の伊里髪であったりだ。

 だからそこへ向かったのは昔を思い出したがための要するに何となくであり……決して彼女を探しに来たのではないと伊里髪はやはり心中でつぶやくのだった。

 

 「なんで……どうして……」

 

 鳴き声がする、開けた空間に反射して少女の嗚咽が届く。

 最上階の四階から屋上へ続く階段の中途、いわゆる踊り場の壁に寄りかかりながら伊里髪はただ黙って聞いていた。


 「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 「でも……だって……うぅ……私……」

 

 言葉にならない声、それとも距離がありすぎて聞き取れていないだけだろうか。


 「なんで私ばっかり……私何もしてないのに……うぅぅっ!!」


 嗚咽に悲鳴、謝罪に自問。

 

 ――やめてくれ


 伊里髪は耳をふさぎたくなる、けれどもどうしてかその場を離れることができない。

 彼女の声を聞きたくなかった、彼女の言葉を聞きたくなかった。

 

 ――だって、それは俺がっ!!


 「誰か助けてよぉ……」


 だけれども聞こえてしまった、あの日と同じ言葉が。

 

 ――それは俺が、願って願い続けたっ!!

 

 顔を上げて壇上で跪く少女を見上げる、けれどそこに居たのは……かつての伊里髪であった。

 泣いて怯えて理不尽に震えて耐えて堪えて、そして壊れてしまう前の伊里髪であった。

 思い出してしまう、あの時の感情を。

 思い返してしまう、あの時の渇望を。

 そう伊里髪は助けてほしかった、誰かに手を差し伸べてほしかったのだ。

 

 ――きっと多分、こんな風に


 「おいっ!!」

 「っ!?」


 伊里髪はかつてイメージした通り声をかけるつもりが、思いのほかきつい口調になってしまった。

 よくよく考えてみれば彼が口を開くのは何年ぶりである、むしろちゃんとした声を出せたことを褒めるべきである。

 しかし江塚琴奈にそんな事情は分からない、彼女にわかるのは自分のことだけだ。

 

 「……っ」


 必死で声を抑え伊里髪に害を与えないようにしようと、その場を離れようとする。

 

 「待てっ!!」

 

 伊里髪はそんな彼女の手を右手でとり、左手で唯一露出している顔を抑え強引に目を合わせる。


 「あぁ……ああああああああぁあだめぇええええええええええええっ!!」


 絶叫して弾かれたように暴れ出し身体を放そうとする江塚琴奈、もはやパニックを起こしているようでこのままでは会話は成立しえないだろう。


 ――なら落ち着かせるまでだっ!!

 

 伊里髪は丹田に力を籠め嫌がる妖気を強引に引きずり出す。

 陽気に満ちた世界と触れ合い妖気が消失する、全身に巡らせたが故にまるでマグマに飛び込んだような痛烈な死をも予感させる激痛と恐怖が襲い来る。

 

 「だ・ま・れ・っ・!・!」

 「っ!?」


 その全てを堪えて伊里髪は妖気を上乗せした言の葉を叩き付ける、かつて一クラス全員を気絶せしめた技を弱めたものである。

 当然無防備に妖気の一撃を受けた少女は金縛りと呼ばれる現象に陥り、一切抵抗が行えなくなる。

 即座に妖気を丹田へと押しやり二度三度と深呼吸を繰り返し、何とか喋れる程度にまで症状を改善させる。

 少し時間がかかったが彼女は尚も拘束されたままであり、伊里髪は感情のままに言葉を紡ぐ。

 

 「あの猿みたいなのあれがお前の呪いだろ。安心しろ全部ぶっ倒してやる」

 「えっ?」


 丁度金縛りが終えたのかあるいはとっくに切れていて伊里髪の様子をうかがっていたのか、とにかく彼の言葉を聞き終えた彼女は間抜けな声を漏らした。

 それは転校初日に聞いた乾いたものではなく、先ほど聞いた諦めと絶望が入り混じったものでもなく、年相応のものに思われた。


 「あ、あ、えっ、あ、た、ぶった、えっあ、あの、た、倒すってあのっ」


 続く困惑と混乱した声に、どこか懇願する響きが混じっているように聞こえたのはこれは気のせいだろうか。

 しかし伊里髪は何を言い返すこともなく立ち去ろうとした、それは言い出している本人もまた混乱しているためだ。

 

 ――俺は何を言っているんだ?

 ――あの恐るべき妖魔と戦う、なぜそんな無駄なことを?


 頭の中で理性が悲鳴を上げている、そんな危険は冒すなと警告している。

 ただそれ以上に激情が渦巻いていて、あふれ出す衝動に逆らうことができない。

 

 ――ああ、でも仕方ないだろ俺

 ――だって俺も、助けてほしかったんだからさ

 

 久しぶりに活発化した心が理屈に沿わぬ弁明を繰り返す最中、伊里髪はそういえば別れ際の挨拶をしていない事に気付きもう一度振り返った。

 視線の先で混乱しながらもだんだんと現実に立ち直りつつあるのか、伊里髪を悲痛そうに見つめる少女に向けてお決まりの言葉を口にする。


 「また明日な」

 「っっっ!!!」


 その言葉にどれだけの意図を彼女が感じたのかは伊里髪にはわからない、ただ再度聞こえてきた嗚咽から相当感情を震わせただろうと思われた。

 今度は振り返ることもせず伊里髪は教室に戻り、いつも通り眠って過ごした。

 少しでも体力を温存したかったからだ、だから江塚琴奈が戻ってきても気にせず彼は寝続けた。

 そして一日を終えた彼は、夕焼けに染まる空の下帰路を歩きながら思う。

 

 ――夜が来る、俺の命を削る夜が来るっ!!



******



 抜刀術という技がある、一般的には居合という名前で知られている。

 しかしさらに正確に言えば居合とは座った状態からをも刀を抜き去ることができる技術の事であり、はてに極めし者はどのような態勢からでも文字通り一瞬にて刃を抜き去るという。

 抜刀術において特に有名なのは室町時代末期の林崎甚助なる人物であり、現存する居合術全ての開祖とまで言っても過言ではないほどである。

 果たして彼の人の抜刀はもはや人外の域に達しており、傍から見ていて尚鍔鳴りを聞いたかと思えば既に対象が切られていたとまで言われている。

 無論他にも抜刀術において優れたる人物は幾多数多存在する、けれども伊里髪はこの人の逸話を知ったときから是非ともこうなりたいと思ってきた。

 理由は複数あるが唯一を上げるのならば、目に見えない速度で抜刀し切り付ける神速の一撃……ではなくその後である。

 即ち一瞬にての納刀、これこそが伊里髪の望む技である。

 妖刀は長く抜いているとその影響により心が蝕まれ、ただ斬るのみの妖魔に成り果ててしまう。

 その前に特殊な加工か若しくは術がかかっている鞘に納めさえすれば一挙に心は晴れ渡る。

 だから伊里髪は元来の剣術が目指す抜刀の速度でも抜いた後の立ち合いでもなく、納刀の術にこそ意識を割いていた。

 しかし残念なことに納刀術などという技はこの世に存在しない。

 当然である、刀をしまう時というのは戦闘が終わった時なのだからわざわざ焦って収める必要はない。

 むしろ手を斬らぬよう大概の流派においては、むしろ余裕を持ったゆったりとした納刀が推奨されている。

 無論これらは正しい、何故ならこれらは人間が学ぶ技術であるのだから。

 妖魔としての立ち合いなど想定されているはずもない、だから伊里髪は経験という独学だけで積み上げてきた。

 残念なことに伊里髪に際立った武術の才はない、故に動きもどこか粗忽で繊細さを欠いたとした玄人のものに過ぎない。

 それでも何とか今日までは妖魔に落ち果てずに済んでいたのは、常に一対一であったがためだ。

 これならば何とか抜刀術モドキにて一挙動で終わらせることで妖刀を抜く時間を抑えることが出来るからである。

 だが今回はそうはいかない、少なくとも十匹以上の妖魔を同時に相手にする必要があるのだ。

 ならばどうするのか、伊里髪は既に答えを見出していた。

 少し前それこそ彼女が転校してくる前日、完全に周囲と一体化して襲い来た犬神の呪いと戦ったときのことを思い出す。

 強化を駆使して時の流れを細分化しながらも、常時のごとき動きでもって返り討ちにした時のことだ。

 あの時は妖刀の悪意が心に浸透する前に納刀まで行うことができた、あれこそがまさに答えである。

 

 ――妖魔へと変貌する速度が早いのなら、それ以上の速度で行動を行うのみ


 乱暴にして強引、術理を無視した回答は剣術として見るならば叱責は免れ得ないだろう。

 しかし伊里髪が求めるのは剣術ではなく、戦場で生き延びる術である。

 ならば自分でも行えうるこれ以外に方法はない、あとは実戦でも同様に行えるよう練習あるのみだ。

 自室にて状況を想定し、実際に何度か振るってみる。

 

 ――問題ない、いけるぞっ!!


 予想した通り妖刀から悪意がしみ込むより早く、抜刀、斬撃、納刀の三動作を行うことができた。

 遅れて聞こえる鍔鳴りの音がまた己の速度を証明しているようで、伊里髪は少しだけ嬉しくなった。

 それこそ逸話に出てくる林崎甚助の一撃に、かなり迫っているのではないだろうか。

 だからこそ伊里髪は中二病的精神から……あるいは強敵を前に精神を奮い立たせるためか、件の技に名前を付けることにした。

 

 ――妖剣、速殺之太刀


 彼はセンスがなかった。



 ********



 戦場にかつて水死体の亡霊を狩った河川敷を選んだのは、単純に視界が開けているほうがよいと思われたからだ。

 また夜間にこのような場所にそうそう人が訪れることもないだろうとの判断もある、最も仮に立ち会ったとしても何を見ることもかなわないであろうが巻き添えにはしたくなかったのだ。

 

 ――まだか、まだなのかっ!!


 伊里髪の気持ちは妙に浮ついていた、それこそしっかり勉強したテストを受けに行く受験生のように。

 出来るだろうという確信めいた気持ち、でももしかしたらと不安になる気持ち、自分にできるのかという不信感、自分がやらなければという義務感。

 複雑な心境を抱えながら伊里髪は、まだ自分にこれほどの感情が残っていたのかという驚きも湧き上がる。

 つい数週間前まで鬱屈な感情しか持ち合わせずに居た自分は何だったのだろうか、こんなに単純な性格だったのかと不思議にもなる。

 

 ――ひょっとしたら俺はもう、死んでいるんじゃ?


 不穏な思いすら湧き上がり思わず頬を抓るが、しっかりとした痛覚が帰ってきてほっとしてしまう。


 ――馬鹿か俺は、集中しろ


 段々気が緩んできた気がして改めて伊里髪は自身の状況を確認する。

 既に妖気は周囲に漂いアンテナと化し、伊里髪の感覚を強化せしめている。

 体内を循環させている妖気もまた各部位どころか総身に怪力をもたらしており、軽く跳ねるだけで数メートルほど浮かび上がれるほどだ。

 そして……意識を集中させればいつでも速殺之太刀モードへ移行することができる、まさに万全であった。


 ――だから早く来い、まだなのかっ!!


 己が状況を確認すると今度は最初に感じていた浮ついた感情が戻ってきてしまい、堂々巡りになってしまう。

 果たして何度同じことを繰り返したか、いい加減苛立ちすら覚え始めた頃ついにアンテナはこちらへ大挙する妖魔を捉えた。

 

 ――なっ!?

 

 どうやら犬神の呪いとは違いその場に発生するのではなく遠方からやってきているようだ、しかし伊里髪が驚いたのはその程度の差異にではない。


 ――多すぎるっ!!


 伊里髪が前日に確認した妖魔の数は十数匹であった、けれども今押し寄せてきている数は……四倍以上。

 すぐに伊里髪は己の勘違いに気付く、よく考えるまでもなく昨日襲われた人間の数は4人。

 皆『同時刻に』襲われているのだ、ならば分散して事に当たるのは当然ではないか。


 ――上等だっ!!


 今更逃げるわけにもいかず……無論そんなつもりはさらさらない伊里髪は覚悟を決め、妖魔が到来するのを待った。

 跳躍を繰り返しながら道なき道を進んできた妖魔の群れが伊里髪の待ち受ける高水敷へと降り立つ。

 余りの高さから落下してきたためかズシンと重厚な音と軽度の地震と錯覚せんばかりの振動が続けざまに起こる。


 ――行くぞっ!!


 全員が降り立つまで待ってやる義理はない、伊里髪は颯爽と手近な一匹に向かい走り出す。

 妖魔は……近くで見れば見るほど真っ黒い体毛の猿によく似たそいつらは、伊里髪がこちらを認識していることに気付いたようで困惑気味に首を傾げた。

 恐らく今までそんなことがなかったためだろう、隙だらけで好都合だった。

 妖刀の間合いに達したところで伊里髪は足を止め即座に必殺技を放つ。

 

 ――速殺之太刀っ!!


 世界が緩やかになる中、伊里髪だけが早回しのように舐めらかに動く。

 左手で鞘を支えながら右手で刃を抜き妖魔の右腿の付け根から左わき腹へ抜けるように左切り上げ。

 妖魔とは言え獣じみた筋骨皮は本来なら堅固なる抵抗を見せるはず、まして片手での切り付けなどよほどの達人でなければ刃は途中で止まるか歪んでしまうだろう。

 しかしこれは妖刀、ただ斬るためだけの妖魔。

 その為だけに存在する妖魔は、数百年の長きに渡り蓄えた妖気をただただ万物を切り裂くためだけに用いる。

 だからこそ伊里髪ごときの腕でも、片手での未熟な一撃でも、一切合切関係なく切り捨てる。

 豆腐を斬るよりも簡単に、しかし確かな手ごたえを感じながら手首を捻り無造作に引き戻すことで今度は左腕の上から右の脇腹にかけて乱暴な袈裟切りを放つ。

 体重も身体の捻りも使わない剣術の術理で言えば意味のない一撃は、やはり妖刀の切れ味と妖気で強化された怪力故に一切の理を無視して一方的に相手を切り捨てる。

 すぐに反撃への備えと様子見のために軽くバックステップ、とはいえ現在の伊里髪の能力は一気に数メートルほど距離をはじき出す。

 同時に振り下ろした妖刀を鞘へと治める、少し手間取ったがそれでもやはり心に妙な衝動が沸き立つことはなかった。

 果たして切り裂いた妖魔の様子を見れば自分に何が起きたかもわからぬという表情のまま、空気に溶けて消失した。

 

 ――まずは一匹


 しかしあまり妖気は吸収できないようであった、最もこれは想定済み、犬神の呪いでも同じなのだから。


 ――だけど補充できない以上、少し節約するか?


 仮に一晩中戦い続けたとしても妖刀に込められた莫大な妖気を使い切ることはないだろう。

 けれども伊里髪もまた自身の呪いと戦っていかねばならないし、生活にも必要なものである。

 何より消費すればするほど伊里髪も妖刀も弱くなっていく、下手をすればじり貧になりかねない。

 だから一度速殺之太刀モードを解除しようとして……そんな余裕などないのだと気づかされる。

 無数にいた妖魔の半数が視界から消え失せていた、残りの半数は憤怒歓喜高揚怒気狂気など様々な表情を浮かべながらこちらへ向けて飛びかかってきている。

 緩やかな世界でありながらも子供の足ほどの速さはあり、もしもこれが常時の伊里髪であれば果たして認識する暇があったかどうか。

 

 ――残りはどこだっ!?


 もう一度背後に飛び距離と時間を稼ぎつつ前後左右を見回すがどこにも姿は見受けられない。


 ――逃げたのか……嫌ありえないっ!!


 犬神の呪いを思う、何代かかろうとも執念深く決して諦めないのが呪いだ。

 ならばどこかに居るはずともう一度前後左右を見回し、はっと気づき上を見上げる。

 そこに奴らはいた、異常なる跳躍力を生かして高度と低空からの二段攻撃を仕掛けてきていたのだ。

 もし気付くのが遅れていれば上から押しつぶされ拘束、逃げることもできないままなぶり殺しにされていただろう。


 ――だが、気付けたならこちらのものだっ!!

 

 両足に力を籠め伊里髪もまた跳んだ。

 上から降りる妖魔軍と下から登る伊里髪、両者の距離が一気に狭まり交差する。

 瞬間妖刀を引き抜いた伊里髪は刀を正面に構え、真っ向にいた一匹の顔面に突き刺した。

 頭を潰したためか一匹目より遥かに早く空気へ溶けて消えていった。

 

 ――二匹目っ!!


 残りの妖魔が空中で身体を捻り伊里髪に向けて手を伸ばし捕まえようと試みる。

 だが無駄なことだ、伊里髪は重力の流れに逆らおうと思えば多少は逆らえるのだ。

 彼はニヤリと嗤うと周囲に漂わせた妖気のアンテナへ意識を集中する。

 伊里髪の意志に沿い外部に放出されていた妖気が翼の形へと変貌する。

 無論航空力学的には人体に羽が生えようと空を飛ぶことなどままならない、しかしこれは常世の翼だ。

 

 ――飛べない天使、いや悪魔か……そんなものいるはずがないだろっ!!


 これにより空中にて自在に動くことを可能にした伊里髪はあっさりと妖魔の手から離れ、一匹一匹死角からつぶしていく。

 背面より頸椎へ一突き。

 

 ――三匹


 股間より腹部まで斬撃。


 ――四匹


 丁度いい高度にある隣の妖魔の首に横一線。


 ――五匹


 段々と駆逐されていく様子に屈辱かあるいは恐怖にか顔をゆがめる妖魔ども、どうやらこのスローモーションの世界に感覚は追い付いているらしい。

 しかし飛び上がったのが運の尽き、こちらほど派手に妖気を使えないやつらは重力に従って落ちるしかないようだ。

 重力加速度のお陰でだんだんと落下速度は早くなっているが今はまだ亀の歩み程度でしかない。

 下に落ちるまでにこの半数は全滅させてやろうとさらに別の妖魔に向かったところで、心臓が跳ね上がる。

 

 ――あ……あ……、……切……り……調子こいたっ!!


 抜きっぱなしだった妖刀からさっと悪意が差し込めてきたのだ、最も時間間隔が伸びているためか衝動も緩やかであったがために納刀が間に合ったが危なかった。

 ふぅと一息ついて改めて周囲を見回せば妖魔はかなり下まで落ちて行ってしまっていた。 

 残念だがこの様子だと全滅は無理だと判断した伊里髪は、せめて数を減らすことに専念しようと翼を広げ一気に急降下した。

 まずは追い付いた一匹を股関節から右肩まで両断。


 ――五匹、じゃなくて六匹っ!!


 さらに妖刀を横に突き立てた状態で独楽のように回転し、妖刀の届く範囲に居る妖魔全てを切り裂く。

 やはり剣術家が見れば激怒するかあきれ果てるかの餓鬼じみた攻撃だが、妖刀の切れ味のために十分すぎる威力を発揮する。

 

 ――七、八、九、十匹っ!!


 とここまで倒したところでついに空中戦を生き延びた妖魔軍は低空を駈けていた妖魔軍と合流を果たした。

 伊里髪も妖刀を鞘に仕舞いつつ着地、翼を元のアンテナ状に戻す。

 

 ――さすがに使いすぎたかな?


 空を飛ぶという物理学に反する行為はさすがに妖気の消失が激しい、最も何代にもわたり受け継がれてきた妖刀はまだまだ余裕がありそうだがそれでも消費は極力抑えるべきだ。

 今のところは問題ないが負傷した際の治療にも莫大な妖気を消費するのだ、何事も経済するに越したことはない。

 さて改めて妖魔の群れと向き合えば奴らは露骨に歯ぎしりをしたり咆哮をあげたりして威嚇をするものの、一向に攻めてくる気配がない。

 どうやら待ち構えての反撃に徹するつもりらしい、確かに空中と違い向こうも自在に動ける地上でならば囲んでさえしまえばこちらを捉える機会は十分あるだろう。

 とはいえこちらは態々不利なところに攻めこむ道理はない、このままにらみ合いが続けばあらゆる常世のものを打ち払う朝日によって撤退せざるを得ないのは向こうだ。

 だからこのまま待ち構えているのが伊里髪にとっては最善である……が、それでは何の意味もない。

 何のためにこんな無意味な、少なくとも伊里髪には何の得もない戦いをしているのか。

 

 『安心しろ全部ぶっ倒してやる』


 伊里髪はそう約束したのだ、彼女と……いや昔の自分にだ。


 ――じゃあ、行くかっ!!

 

 自身に活を入れ、伊里髪は死地へと飛び込んだ。

 まずは横一列に並ぶ妖魔軍の一匹へと迫り抜刀がてら左薙ぎを放ち上半身と下半身を真っ二つにしてやろうとする。

 しかし伊里髪が迫ると目的の妖魔は全力で、それでも子供が全力疾走する程度の速度であるが後方へと飛ぶ。

 さらに他の左右に並んだ妖魔は前へと進み出て伊里髪を取り囲もうとしており、その両隣からも同様に妖魔の壁が作られつつある。

 恐らく端から切って捨てられても逃さないために二重三重に囲い込もうというのだろう。

 

 ――考えたなっ!!


 とはいえ伊里髪のほうが早いため全力で後退すれば逃げられるし、前方へ跳べば妖魔一匹ぶんの隙間から抜けられるだろう。

 だが前方はそれこそ妖魔の群れのど真ん中に飛び込むこととなる、まさに自殺行為だ。

 かといって後方に下がれば元の木阿弥だ、何にもなりはしない。

 いっそのこと飛び上がるのもありだが……ダメだまるで天井を作るかのように無数の妖魔が群れを成して低空を跳ねている。

 これでは先ほどのように空中戦を挑もうにも、高度が低すぎて下から一斉に飛びかかられたら避けきれない。

 

 ――しかし、まだこんなにいたのか?


 壁を成そうとする妖魔の軍勢の数にどうにも計算が合わない気がする伊里髪であったが、囲いが完成しようとする中でそこまで悩んでいる時間はなかった。


 ――どうするっ!?


 現状をどうするかだけを考えた伊里髪は……より多くを倒せるほうを選んだ。

 両足に力を籠め身体を極端に前屈せしめ、まるで大地に腹ばいになるかのように傾ける。

 そして大地を全力で蹴りつけ、発射された矢のように一直線に前進する。

 一瞬で後退する妖魔に追い付いた伊里外はすれ違いざまに抜刀、左から妖魔の首を跳ね飛ばす。

 

 ――十、一だよな?


 正面の妖魔が霧散したことにより視界が開け、予想外とでもいうようにうろめく妖魔どもを見つける。

 さらに勢いを殺さないままもう一度大地を蹴りつけ軽く飛び上がり、正面奥に居た妖魔へ上段から唐竹で真っ二つにしてやる。


 ――十二匹っ!!


 前方へ進む速度が速すぎるため着地しながらも大地を少し滑りながら納刀、止まると同時に再度先ほどど同様に加速し今度は壁を作ってた一団に向けて突っ込む。

 移動中に妖刀を抜きまるで野球のバットを持つように両手でしかと柄を握りしめ、横だめに構えたまま一段とすれ違う。

 連続して妖魔の身体を切り裂くためか、速度を載せての切り付け故か、あるいはさすがに構えとして乱暴すぎるためかかなりの抵抗があった。

 しかし怪力でもって保持された妖刀は手のうちからはじき出されることもなく、妖刀の尋常でない切れ味は見事に一団をすべて両断せしめた。


 ――十三、四、五、六、七、八、九っ!!


 ようやく四分の一以上は倒しただろうか、けれどもやはり伊里髪の目には全然減っているようには見えない。


 ――けど後数回も繰り返せば終わりだろっ!!


 再度着地したところで大地を滑り砂を巻き上げながら納刀し、妖魔へ視線を戻す。


 ――おいおい、進化してんじゃねえよっ!?


 伊里髪が見ている前で妖魔の群れは一様に大地へと手を差し込むと、その手に砲丸程度の大きさの土の塊を握りしめていた。

 そして全員一斉に全力で伊里髪に向けて投合、遠距離攻撃へと切り替えてきた。

 道具の使用という知性ある行動に驚く伊里髪であったが、それ以上に脅威なのが投げ付けられた塊の速度である。

 当たり前だが身体の動きより投げた物のほうが基本的にはるかに速い。

 まして妖魔の人体を紙細工のように捻り壊して見せた妖魔の怪力から放たれたる投石は、今の伊里髪の目をしても捉えるのが困難であった。

 

 ――くそっ!!


 流石に回避する余裕はなく、寸前で見切って避けることも敵わず仕方なく伊里髪は両腕で頭部を隠しさらに妖気でもって身体を硬質化させ、ダメージを軽減させることに専念する。

 初めて一撃を、正確には十数ほどの衝撃を受ける。

 

 ――いってぇええっ!!


 妖気で硬質化して尚芯まで響く苦痛と衝撃に態勢が崩れそうになる。

 それでも何とか膝を折ることなく攻撃をやり過ごした伊里髪は、嬉しそうに手を叩いて嗤う妖魔を見た。

 そして再度同じように遠距離攻撃を続けようと大地へと手を伸ばす。

 

 ――二度も通じるかよっ!!


 たかが猿ごときに馬鹿にされたことで伊里髪は激高し妖刀を引き抜き、その膨大な妖気で負傷を即座に回復させる。

 一瞬で引いた苦痛、しかしそんなこと気にすることなく伊里髪は妖刀を振り上げると思いっきり大地へと差し込んだ。

 何の抵抗もなく地面を切り裂き埋もれる刀身、そこから伊里髪は妖魔どもの足元まで妖気を流し込み――体質変化っ!!

 果たして妖気が流し込まれた大地の体質は変貌を遂げ、科学的に在り得ない変貌を遂げる。

 ばっと巨大な穴が開き妖魔どもはなすすべも無く落ちていく、そしてその先には無数に生える鉄の穂先。

 大地に入り混じる鉄分を強引にまとめ上げ形質形状を整えただけ、しかしそこには伊里髪が流し込んだ妖気が籠っている。

 状況が理解できないまま落ちていった妖魔どもは纏めて串刺しとなり、一気にその数を減らした。

 それでも何匹か状況を判断できた個体は落ちる途中で別の妖魔を踏み台にしたのか、辛くも脱出を図った。

 

 ――残り、7匹


 ぐらりと身体が傾きかけて、意識が飛びそうになる。

 妖気による変質を行うためには体内で練る必要がある、それはつまり体内の妖気を優先して使用するということである。

 ましてあれだけの範囲に直接妖気を放出しての、しかも最も消費の激しい体質変化を自身ではなく体外の物質に対して行ったのだ。

 流石に消費量は桁違いでありお陰で体内にある妖気を完全に放出しきり、妖刀からの補充が間に合わず体力面での誤魔化しが効かなくなっている。

 元々伊里髪には武の才能はなく、そもそもまだ中学生の未熟な身体である。

 いくら昼に寝たとはいえ夜間眠りもせず戦いなどという激しい運動を繰り返すのには無理がある。

 その無茶を妖気で何とかしていたわけで、それが出来なくなった今しばらくは伊里髪はヘロヘロであった。

 

 ――とはいえ、一気に減っただろ

 

 残りは一桁である、また先ほどの衝撃も冷めやらぬのか妖魔どもは襲い掛かろうとはしない。 

 好都合だった、伊里髪は体調を戻すためにも妖気を補填しようとして、慌てて納刀した。

 気が付けば緩やな世界は元の速度を取り戻していた、先ほどの消費はやはり痛すぎた。

 正直今責めてこられたら危険だ、伊里髪は妖刀を抜いては収めることを繰り返し妖気を溜め込みながら何とか戦闘可能になるまで妖魔が動かないことを祈った。

 

 ――伊里髪は忘れていた、かつて自分が祈ったことが何一つとして叶ったことがないことを


 異質な咆哮、唐突に聞こえてきたそれは伊里髪に絶望を与えるには十分なものであった。

 この期に及んで新手である、しかも他の妖魔とは一線を画す親玉とでも言うべき風体の持ち主であった。

 体躯は他の妖魔よりもさらに一回り大きく、体毛は薄汚いと言いたくなる灰色をしており、その顔には明らかなこちらを見下す意図が見え隠れしていた。

 

 『しっぺい太郎は来るまいな? 今夜ここへは来るまいな?』


 ――喋っただとっ!!


 既に周囲には妖気のアンテナは広がっていない、それでも尚伊里髪に伝わるほどはっきりとした言葉であった。

 生き残った周りの妖魔は親玉を囲み嬉しそうに両手を叩いて囃し立て、こちらを指さして嗤って見せた。

 

 『しっぺい太郎は来てはおりません 今宵今夜も来てません』


 親玉はケケケケケとそれこそ物の怪の嗤い声に相応しい不気味な高嗤いを上げると、息を大きく吸い込んで身体を膨らませた。


 ――そんなのありかっ!!?

 

 膨らんだ体の一部はぬるりと分かれたかと思うと、一匹の黒塗りの妖魔へと変貌を遂げた。

 そして伊里髪の体調が整わないうちに、妖魔は当初以上の勢力へと盛り返す。


 ――減ったように見えなかったのはこうして補充してたからかっ!?


 『あのことこのこと聞かせんな しっぺい太郎に聞かせんな』


 親玉が再び不気味な声を上げて伊里髪を嘲う、伊里髪の妖気は未だ回復しきらない。

 勿論妖魔が彼の体調を気遣うはずもなく、親玉が指さすと同時に無数の妖魔が一気に襲い来る。

 今の伊里髪にはそれこそ獣じみた速度で迫りくる妖魔の群れを捌く力はない、けれども出来なければ死ぬだけ。

 

 ――畜生ッ!!


 毒づきながら妖刀を抜き放ち、突きの構えで正面からぶつかりに来る一匹を刺し倒す。

 けれどそれまで、後ろから襲い来る妖魔の群れに飲み込まれた伊里髪は妖気で防御することもままならず、踏まれ蹴られ殴られ嬲られていく。

 まるでボール遊びでもするかのように弄ばれた伊里髪は、ついには派手に飛ばされて大地にぶつかるとゴムまりのように何度も跳ねてようやく止まった。


 「がはぁっ!!」

 

 態勢を整えようと起き上がろうとするもどこかの骨が折れたのか、折れた骨が内蔵を痛めつけたのか、ただ口から暗褐色の濁った赤が漏れるばかりであった。


 

 ――ああ、死ぬ、俺死ぬのか……い


 もはやどうしようもない、身体が動かなければ抵抗のしようもない、妖気で治療しようにも体内に残る量ではそれもままならない。

 振動がどんどん近づいてくるのが分かる、もうろくに動かない瞼をこじ開ければゆっくりと迫る妖魔の群れが見える。


 ――ああ、遅いなぁ……たい


 再度スローモーションの世界に降り立った伊里髪は、これが死ぬ前に起こる臨死体験なのだとはっきりと自覚した。

 

 ――だめだったか……りたい


 不思議なことに死を前にしても伊里髪に恐怖はなかったし、後悔も感じなかった。

 少し考えれば伊里髪はかなり昔に絶望して、精神的には死を受け入れていた。

 だから今更ということなのだろう、予想外の最後ではあったが伊里髪は予想通り訪れた死を素直に受け入れる気持ちですらあるようだった。

  

 ――ああ、切りたいっ!!

 

 違う全ては間違っている、死ぬとかどうでもいいし後悔とか絶望とか精神的な死とか臨死体験だとかとにかく何でもどうでもいい。


 ――ああ、人を、獣を、生を、切りたいっ!!

 ――ああ、妖を、呪いを、死を、切りたいっ!!

 ――もっと、もっとだ、目に映る全てを切りたいっ!!


 だって伊里髪は、飛ばされて尚離さなかった妖刀は、それはただの斬魔。

 伊里髪だったものの身体が妖魔の波に飲み込まれる、そして一瞬にして切り払われた。

 妖刀と一体化したことで一挙に取り戻した妖気を用いて、先ほど対外に放出した妖気を翼へと変事させたように、周囲を取り囲む妖気を刃円にして回転させ全てを切り裂いた。

 

 「あははははははははははははははははははっ!!」


 倒れ伏せたままの斬魔と化した伊里髪の喉から狂ったような嗤い声があがる、現世の住人が聞けば地獄の底からの呼び声にすら感じられたかもしれない。

 一瞬妖魔の親玉は驚きを見せるが即座に落ち着きを取り戻し、新手を生み出しながら無数の妖魔を飛びかからせる。

 新手の妖魔が伊里髪の身体に触れる寸前、壊れた玩具が唐突に外れたバネによって跳ね上がるかのように、あるいは映像をコマ送りにしたように、不自然極まりない動きで斬魔は起き上がる。

 そしてあえて周囲に満ちた妖気の形状を元に戻すと回転、右足を軸足に回転し右手の人差し指と中指の間で挟み持った刀を振り回す。

 乱雑で安定もなくあちらこちらに揺れ動く刀、しかしどれだけ振れようとも指の間から離れることはない。

 握りともいえぬ保持法によって射程距離だけは異様に伸びた刀は、異様なる動きによって凄まじい勢いで四方八方へと飛び交いそこに居る妖魔を一切合切の容赦なく切り伏せる。

 あらゆるものを抵抗なく切り伏せる切れ味だからこそ許される殺法である、まして今の斬魔は僅かにでも切り付ければそこから一気に妖魔を形成する最低限の妖気を吸い上げ屠る。

 回転だけではおぼつかなくなり背筋までぐにゃりぐにゃりと曲げより一層斬撃の射程を伸ばしながら、時折左足で船をこぐように突き進み斬魔は行く先々に道を作り上げていく。

 もはやこれは人の動きではない、くねくねと不気味に歪み震えながらけれども確実に対象を抹消せしめるその姿は、まさしく魔性の魔物である。

 大挙した妖魔の群れは斬魔に一定以上近づくことができず、その境界線を越えたものは一刻と持たず消失する。

 親玉は己が妖魔を生み出すスピードを斬魔が駆逐する速度が上回ったことに気付き、慌てて妖魔の群れを呼び戻す。

 それは好都合であった、斬魔はニタリと口を三日月状に歪める。

 

 「あはははははははははははははははははははっ!!」


 獲物が固まった所へ飛び込んだ斬魔は己の妖気を放出し周囲を威圧し固めせしめる。

 いつぞや伊里髪が怒声に妖気を籠めることで対象を精神的に金縛りにさせる技、あれとは異なり直接妖気を空気中に流し固めることである意味で物理的に強引に足止めさせる技。

 いやもはや技とは言わない、これは獣が狩るための本能。

 完全に動きを止めた妖魔の群れを斬魔は片っ端から心の赴くまま切って捨てていく。

 唐竹、袈裟切り、逆袈裟、右薙ぎ、左薙ぎ、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突、刺突。

 刃が肉に埋まる感触が好きなのか、刃が内部の何かに触れる感触が好きなのか、刺突ばかりを繰り出す。

 唐突に頭上から殴りつけられて、けれども平然とそちらを見ると新たな妖魔が上から無数に降り注いでくるではないか。

 どうやら親玉は斬魔が夢中になっている間に金縛りを解き距離をとって再度群れを生み出したようだ。

 

 「あはははははははははははははははははははっ!!」


 まだ切れる、まだまだ切れる、斬魔は嗤う、心底うれしいとばかりに嗤い狂う。

 まずは妖気に満ちあふれる斬魔を殴りつけたことで逆に腕を損傷した妖魔を脳天から突き刺して殺す。

 次に降り注ぐ妖魔が一番多く着地しそうなところへいき、傘でもさすように上向きに構えて刺し殺していく。

 何匹かは斬魔を殴ることに成功するがそのどれもが傷一つ与えることができない。

 当たり前だ、数百年間妖魔を狩り吸収して身に着けてきた妖気だ。

 それこそ刀が振るわれた回数を何千回何万回と攻撃を受けなければ削り切ることは不可能。

 まあそんなことはどうでもいい、斬魔には怪我も傷もどうでもいい。

 ただ切れればそれで十分だ、切る相手がいればそれで十分だ。

 胸部へ刺突、臀部へ刺突、喉仏へ刺突、顎へ刺突、肩へと刺突、臍へと刺突、腕へと刺突、脚へと刺突、足へと刺突、脇腹へと刺突、腕へと刺突、手のひらへと刺突、下あごから頭上にかけて刺突、水月へと刺突、こめかみへ刺突、鼻の下へ刺突、腹部から背中へ刺突、背中から背骨にそって刺突、肋骨の隙間を塗って刺突、肋骨ごと貫いて刺突、手から腕までめり込ませるように刺突、腿へと刺突、耳から耳へと刺突、右肩から左胸にかけて刺突、両肩にかけて刺突、腰へと刺突、股関節から臀部に向けて刺突。

 無数にいる敵を今度は刺突だけで殺しきると、今度はどうしたと言わんばかりに親玉へと向き直る斬魔。

 妖魔の親玉もまたこれほどの圧倒的な力差を見せつけられて尚諦めるつもりはないようで、さらに新たな妖魔を生み出そうとしたその時であった。

 腐臭が立ち込める、常世から遡り復讐を遂げるべく現世へと舞い戻る執念の香り。

 即ち犬神の呪い、伊里髪は斬魔に成り果てたがその肉体がまだ残っている以上呪いは終わらない。

 具現化した犬神の呪いは、腐りかけの犬の死骸であることは変わらないが今回は一回り大きいまるで狼のような立派な体格であった。

 

 『しっぺい太郎だ!なぜ、ここに!!』


 斬魔と化した伊里髪は今更何を思うこともなかったが、むしろ妖魔の親玉こそが露骨に反応せしめた。

 はっきりと怯えた様子を見せると親玉は一目散に逃げだした、咄嗟に追いかけようとした斬魔に犬神の呪いが襲い掛かる。

 無論今の斬魔には敵にあらず、犬神の突進に刃を合わせ口から刺突ししっぽの先まで切り裂いて見せる。

 

 ――ああ、人を、獣を、生を、切りた


 チンッと鍔鳴りの澄んだ音が響き渡った。

 伊里髪は今日という今日ほど条件反射という現象に感謝した日はない。

 斬魔と成り果てながらも伊里髪の身体は普段の習慣を忘れてはいなかったのだ。

 いつもの癖で犬神の呪いを切り伏せた後、妖刀を鞘へと納めてしまった斬魔は伊里髪へと立ち直る。

 また抜き続けて戦闘をしていたがために体内にも十分妖気は補填されていた、地味に治りきっていなかった怪我を治癒しながら伊里髪はほっと息を吐いた。

 

 ――勝てなかったな


 妖気のアンテナを広げて周囲を探索するが既に妖魔の親玉は消え失せていた、結局大口をたたきながら伊里髪は呪いを倒しきることができなかったのだ。

 けれどももう一つの約束は何とか果たせそうだ、何とか生き延びた事実に感謝しながら伊里髪は取り敢えず今日はもう帰って休むことにするのだった。

 

 

 ******



 伊里髪は興奮していた、伊里髪は歓喜していた、伊里髪は高揚していた。

 

 ――ああ、勝てなかったなぁ


 心の内でそうつぶやき己を戒めようとするが、どうしても明るい感情が次から次へと溢れてやまない。

 初めて妖気を用いて人助けをしようとした事実が、初めて妖気に関わってきたことが生かせたという現実が、伊里髪を喜ばせていた。

 これは件の歪んだ優越感も関係している、無力な人間を尊大なる力でもって助けるというシチュエーション。

 まさに絶賛中二病期の伊里髪にとってこれほど美味しい話もなかった。

 そして同時にかつての自分を、自分と同じ苦しみを持っていた人を救えるかもしれないということが……自分自身への救済に繋がっているような気もするのだ。

 無論実際には江塚琴奈を助けたところで伊里髪の未来は何一つ変わることはないだろう、物理的に訪れる死は避けがたいものだろう。

 だが心は違う、伊里髪は今まさに生き返ろうとしていた。

 同じく呪いに苦しむ者が助かる実例を目の当たりにすれば、伊里髪もまたひょっとしたらという希望を抱けるようになる。

 自分にも、彼女にとっての伊里髪と同じような救済者が現れるかもと未来に期待できるようになる。

 それは救いだ、それを信じられるようになれるのは伊里髪にとっては十分すぎるほどの救いであった。

 またこれは伊里髪自身は気付いていない事であったが彼は……本質的な彼はどうしようもなく優しい人間であった。

 途中で自分に不幸がありすぎて歪んでしまったけれども、目の前で起きる不幸に手を差し伸べたくなる人間であった。

 だから単純にうれしい、人助けができてうれしい。

 様々な感情が伊里髪の心を心地よく騒がせていて、どうしても高揚が冷め切らなかった。

 だから眠れなかった伊里髪は……寝不足になった。

 


 *******



 登校して江塚琴奈の顔を見るまでの間、実は伊里髪はほんの少し不安を抱きつつあった。

 何せ全滅させると豪語しておいて、実際はコテンパンにやられた挙句に相手には逃げられてしまっている。

 もしも期待させているとするならばそんなことを話せば失望されるのではないか、そんなことを考えてしまっていたのだ。

 その全てが杞憂であったことは、彼女の顔を見た時点ではっきりとわかった。

 

 「よお」

 「あ、ああ……ああぁぁああああああああっ!!」


 伊里髪の五体満足な姿を見た彼女が信じられないとばかりに呆けた表情をさらしたのち、伊里髪に縋り付き泣き出したのだ。


 ――衆目監修さだからぬ教室の中でだ

 

 クラスの問題児同士のやり取りが気にならないはずもなく、周囲から一気に視線が殺到する。

 

 「くっ、こ、来いっ!!」

 「うぅぅううううぅっ!!」


 そんなものに慣れていない伊里髪が耐えられるはずもなく、彼は未だ制服にしがみつき泣くばかりの彼女を引きづるようにして場所を移した。

 抵抗らしい抵抗もされないまま、伊里髪は昨日邂逅した屋上へ続く空間へと移動した。

 途中興味本位か何かで追ってこようとする輩は睨みつけて追い返した、階下で聞き耳を立てている者はいるかもしれないがそこまではどうしようもない。

 

 「少しは落ち着いたか?」

 「……う、うん」


 階段に腰かけるようにして暫し待つとようやく正気を取り戻した江塚琴奈の声は、年相応かあるいはもう少し幼く感じさせる響きであった。


 「そうか、ならいい」


 何がいいのだろうか、伊里髪は自分で言っていて訳がわからなかった。

 しかしどうしようもない、孤独になってから五年以上もの間彼はろくに他人と会話などしていない。

 人との交流の仕方などとうに忘れている、いや知ることができなかったと言ってもいい。

 だから伊里髪は今結構追い詰められていた、自分で連れてきておきながら何を話していいかわからないのだ。

 無論告げるべきことは心中では思い浮かんでいる、妖魔を倒しきれなかったことへの謝罪と、あの妖魔がどのようなものであるかの質問だ。

 けれどそこにどう話をつなげればいいかが分からない、どう話し始めていいかがわからない。

 いっそ粗忽にも直接言いたいことだけぶつけてやろうかとも思うが、先ほど泣き出したそして今も泣きべそをかく少女にそれは酷ではないかとの思いもある。

 

 ――だから、こういうときどうすればいいんだよ?


 考えてもわからない、伊里髪にわかることは妖魔関係だけだ。

 

 「ね、ねぇ……あなたは、霊能力者なの?」


 きっかけは彼女の方からだった、恐る恐るだが期待が見て取れるほどの真剣な表情で伊里髪を見据えていた。


 「いや違う」

 「あっ……そ、そう……」


 会話は終わってしまった、何がいけなかったのだろうか……伊里髪は己が身が情けなくなる。

 折角振ってくれた話題なのだから続けなければいけないのでは、そう思うが何を言えばいいのか?

 

 ――霊能力はないが妖刀がある、妖魔退治はお手の物、お前こそ霊能力でもあるのか


 沈黙が空間を支配する段になってようやくそれらしい返しが思い浮かぶが、今更言っても手遅れだろう。 

 

――どうしようもないな、俺は


 「あ、あのっ!! わ、私はもう普通に生きて平気ですかっ!?」


 今度は勢い付いて、それこそ懇願するように両手を握りしめながら彼女は伊里髪の目をしっかりと見つめて訊ねてきた。

 その期待に応えれないことを申し訳なく思いながら、今度こそちゃんと返事を返すべく伊里髪は口を開いた。


 「すまない倒しきれなかった、奴らの親玉は無限に呪いを生み出せるようだ」

 「む、むげ……あ、ぁあああああっ!!」

 「お、落ち着け、大丈夫だ次は倒してやるっ!!」


 やはり伊里髪に会話を円滑に行うスキルはなさそうである、まあ単純に経験不足であろうが。

 

 「ほ、本当に倒せるんですか!? だ、大体あなたはどうやって呪いを打ち破ったんですか!?」


 彼女の三度目となる問いかけに、混乱さめからぬ様子に彼はこれは自分の言葉足らずでは伝えきれないと判断する。

 だから実物を見せることにした、机に置く暇もなかった通常の生徒よりもはるかに大きいボストンバックなみの大きさの鞄を開き中から白い布でぐるぐる巻きにされた妖刀を取り出す。

 布をほどくまではただの棒か何かだと思っていたらしい少女は、中から出てきた日本刀に少し怯えて距離をとった。

 

 「妖刀だ、だから常世のモノを切り裂ける」

 「えぇぇっ?」


 首をひねる彼女の前で刃を引き抜いて見せ、その光を反射せぬ刀身を彼女に見せつける。

 

 「あ……っ!!」

 

 日の高いときはただの日本刀としての側面が強く出ている妖刀であるが、刀身に満ちる妖の魅惑は失われることはない。

 途端に魅了されたであろう彼女は亡者のように手を伸ばし、伊里髪が納刀したことで発生した鍔鳴りにて正気を取り戻す。


 「妖刀だ」

 「す、すごい……っ!!」

 

 実際に我が身で味わったためか、彼女の顔からは懐疑の色は抜け落ちていた。


 「ね、ねえそれ他にもない? 余ってるなら分けてほしいの……お、お金なら多分欲しいだけ払えると思うし」

 「いやこれはただ一つだ、これだけしかない」

 「じゃあそれを売ってはくれない……かな?」

 「すまない、これを手放したら俺が死ぬ」

 「あっ……そう……ごめんなさい」

 「いやいい」


 折角ある程度盛り上がった会話は……盛り下がったというべきか、とにかくある程度続いた会話もそこで終わってしまう。


 ――つくづく俺は、ダメな奴だなぁ


 予想以上に伊里髪は自分が社会不適合者に成り果てていることを目の当たりにして空しくなる。

 チャイムが鳴る音がした、恐らくHRが始まるのだろう。


 「あっ……まぁいっか……」

 「?」


 立ち上がろうとしたした彼女は、けれどもかぶりを振ると再び腰を下ろした。

 何だかんだ優等生であった彼女にしては意外な反応であるように思われたが、よくよく考えれば伊里髪は彼女のことをろくに知らない。

 そして彼女もまた伊里髪のことは何も知らない、知るはずがないのだ。

 

 「……俺が、生まれる前の事だ」

 「えっ?」

 「犬神憑きという技法がある、それは……」


 何故か伊里髪の口が開いた、訝しむ彼女の前で彼はぽつりぽつりと自らの身上を話し出した。

 何の意味があるのか、なんでこんなことを言っているのか自分でもわからなかった。

 それでも何故か伝えたい、そう思われたのだ。


 「……だから、俺は今も犬神の呪いに蝕まれている」

 「……」


 無言で伊里髪の話を聞き続けた彼女は、けれども真剣な表情で一度も顔をそらすことなく最後まで話を聞いてくれた。


 「すまない、お前には関係ないなこれは」


 言い終えたところで何かとても空しくなり、伊里髪は謝罪する。

 

 ――こんなことを告げて何になるというのか


 「ううん、ありがとう……ねえ、私の話も聞いてくれる」

 

 だというのに彼女は伊里髪に向けて儚い笑みを浮かべお礼を述べると、今度は自らの身の上を話してくれるのだった。


 「私はね伊里髪君と違って生まれた時は普通だったの、別に昔から呪われてるとかそんなことはなくて本当に普通に暮らしてた」

 「だけどあれはいつだったかなぁ、たしか小学校に入ったばっかりのときだと思うけど急にお父さんとお母さんが仲が悪くなって……離婚したの」

 「多分その時からだと思う、私の周りに不幸が起こるようになったのは」

 「お父さんの会社も悪くなって……今は何とか立て直してむしろちょっと裕福なんだけどって関係ないよねごめん。それでええと……とにかく私の周りで不幸が起こるようになったの」

 「最初は気付かなかったけど、あれは……お、おにごっこを、でわ、たしお、わたしがさ、さわっっ、た、うぅ、ひ゛どがみ゛ん゛な゛ぁぁぁぁっっ」

 「うぅぅっ……っく……はぁ……そ、それからみ、みんなお父さん以外のみんなみんなつぎのひにはみんな……」

 「わかった、もういい」


 再び泣き出した江塚琴奈の肩に手をかける、ビクリと震えた彼女はしかし払うことはせずむしろそっと手を近づけてきた。

 

 「……触ってもいい?」

 「ああ」

 「……あったかいね」

 「そうか」

 「うん……」

 

 彼女は手袋を外して伊里髪の手へ恐る恐る触れ、愛おしそうに撫でる。

 さらに首を傾けて軽く頬擦りし、そのまま目を閉じる。

 伊里髪は抵抗せずされるがままになるのだった。

 


 ******



 暫く船をこいでいた江塚琴奈は、いつしか静かに寝息を立てていた。

 恐らくは夜もろくに眠れていないのだろう、充血していた目は泣きはらしたばかりでなく睡眠不足も原因の一つであった。

 伊里髪は自分に寄りかかるようにして眠りについた少女を見る。

 小さいとても小さい両肩、幼さが残る顔立ち身体つき、当然である。

 伊里髪もだが彼女もまたついこの間まで小学生だったのだから。

 そんな小さいうちから一体どれだけの苦悩を背寄ってきたのか、伊里髪には想定できなかった。


 ――俺とどっちが辛いかな?

 

 伊里髪は呪われてはいたがそれはあくまで自分にだけ襲い来るもので、不気味がられることはあれど他人に配慮する必要は殆どなかった。

 彼女は自分には被害はこないが親しくなった人間が襲われていく、だからある意味で人に怯えながら暮らさなければいけない。

 或いは彼女のほうが、いやだが自分も、と伊里髪は意味もない不幸比べをしていた。

 同時に思うのは、自分ばかりではなかったということ。

 同じぐらい不幸な人が居た、同じぐらい理不尽に耐えてる人が居た、つまり仲間がいた。

 不謹慎だとは思いながらも、伊里髪はその事実が少しうれしかった。

 改めて江塚琴奈を見る、自分と同じ人間だとは思えないほど美しい少女、だけれど伊里髪の目には昔の自分が重なって見える。

 

 ――助けてやる

 ――絶対助けてやるから、もう泣くな俺


 かつての自分は幼く孤独に悪意と戦い続けてきた。

 自分の歩んできた苦難の道のりを思うほど、伊里髪の決意は固くなる。

 

 ――そして幸せになってくれ、今の俺の代わりに幸せになってくれ昔の俺よ


 彼女の長い睫毛に伝わる涙をそっと指でぬぐいながら、伊里髪はこの子は守ろうと心に誓うのだった。



 ******


 

 「ご、ごめんなさい……」

 「気にしてない」


 どうやら伊里髪は寝具としては失格品らしく、江塚琴奈は僅かな時間で目を覚ました。

 

 「ところで、お前の呪いについてなんだが……あの猿はなんだ?」


 彼女が寝ている間に考えた言葉を続ける、伊里髪なりにちゃんと会話をしようと努力しているのだ。


 「あ、そ、そのことなんだけど……私の呪いってお猿さんなの?」

 「えっ?」


 予想外の返答に呆気にとられる伊里髪だったが、すぐに理解する。


 「そうか、お前のところには来ないんだったな」

 「う、うん……それに他のひ、ひがい……の人も何も見てないって……」

 「まあそうだろうな」


 一応は妖魔だ、常世の住人は常人にはまともに見ることは叶わない。

 仕方がないことだが、まさか何の情報も入らないのは予想外であった。

 最も何を知りたかったわけではない、ただどのような呪いかわかればあるいは少しは戦いやすくなるかもと思ってただけだ。

 

 ――やはり親玉を潰してみるしかないか


 呪いを生み出す根源であろう親玉を思い出す、あれを潰すことができれば呪いは止まるだろう……きっと。

 確証はない、伊里髪もまた呪いを振り切れてはいないのだから。

 ただあの呪いは何処からか移動してきていて、伊里髪のように何もないところから発生するものではなかった。

 だから親玉さえ潰せれば、あの妙なことばかりいう灰色の――


 「そういえば、しっぺい太郎って知ってるか?」


 ふと親玉が口にした言葉を思い出す、無論返事など期待していたわけではないのだが。


 「えっと昔話だよね? 前にお母さんに聞いたことがあるけど……?」

 「なっ!?」


 まさか肯定の返事が返ってくるとは思わなかった彼は、驚きを隠せない。


 「ど、どんな話だっ!!」

 「えぇっ!? そ、そんなはっきり覚えてないけど……あ、ちょっと待って」

 

 彼女もまた伊里髪の様子に驚きながらも制服のポケットから長方形の妙な輝きを放つ機器を取り出す。

 それが一般に言う携帯電話、スマートフォンであると気づけないのは彼が如何に社会と切り離された存在であるかを証明していると言えた。

 

 「ほら、これでしょ?」

 「おおっ!!」

 

 差し出された画面に映し出されたしっぺい太郎の文字、何がどうなっているかはわからないがとにかく情報である。

 彼女の言った通り物語仕立てになっているそれを読み進め……方が分からず四苦八苦していると見かねた江塚琴奈が操作してくれた。

 顔を並べ二人画面に食い入る。

 

 『ある村では実りの時期になると年頃の娘がいる家に白羽の矢が刺さるのです。その家は娘を柩の箱に入れ山の向こうの神社に生贄に差し出さなければなりません』

 『そうしなければ村は大嵐に襲われ、田畑は潰れ、 木々は倒れ、荒れ果てた土地からは何も取れなくなってしまうからです』

 『そしてその年もある家に白羽の矢が刺さり、家族は皆々泣きながら娘と分かれる準備をしておりました』

 『しかしたまたまその村に訪ねていたかつて武士であったお坊様が、このような理不尽は自分が何とかしてみせようというのでした』

 『お坊様はまずは生贄を求めるものの正体を確かめようと、生贄を差し出す神社へと向かいました』

 『隠れて神社を見守っていると、夜に急に生臭い風が吹いたかと思うとどこからか黒い体毛の化け物が集まりました』

 『化け物は口々にこう言います「あのことこのこと聞かせんな しっぺい太郎に聞かせんな 近江の国の長浜の しっぺい太郎に聞かせんな」』

 『お坊様は朝になると誰もいなくなった神社を後にして、化け物が恐れているしっぺい太郎を探しに長浜へと向かいました』

 『果たしてしっぺい太郎は見つかりました。そこのお寺で飼われている犬がそうでした』

 『お寺の住職に事情を話すと喜んで、しっぺい太郎とお寺に伝わる霊験あらたかな刀を貸してくださいました』

 『お坊様は急いで村へ戻ると、丁度生贄に差し出されようとしていた娘の代わりに柩の箱に入りました』

 『そして箱が神社へ持ち込まれてしばらくすると、またしても生臭い空気が吹いてきたかと思うと化け物の声が聞こえました』

 『「しっぺい太郎は今夜ここへは来るまいな?」そして箱のふたが開かれると、しっぺい太郎は勇敢にも化け物に飛びかかります』

 『お坊様も刀を抜き化け物へと切りかかります、化け物はしっぺい太郎に怯えて逃げまどうばかりです』

 『朝が来る頃にはすっかり化け物は退治されました。朝日の元で見て、お坊様はようやく化け物の正体が狒々という年経た猿の妖怪であることに気が付きました』

 『お坊様の様子を見に来た村人も古びた神社に転がる百を超える狒々の死骸をみて、これでもう生贄を差し出さなくてよいのだと喜びました』

 『そうして村は平和になったのです。めでたしめでたし』

 

 読み終えて一息ついた伊里髪は、新たな情報を咀嚼し始める。


 ――猿の妖怪、狒々、百を超える、しっぺい太郎、犬、犬神の呪い、刀、妖刀


 「ねぇ……これが私の呪いの正体なの?」

 「多分な」


 多分と言いながらも伊里髪は間違いないだろうと思う。

 余りに話がかみ合いすぎている、化け物の言葉と言い実際に犬神の呪いを見て怯える様子といいだ。

 

 「じゃ、じゃあこのしっぺい太郎を探せば倒せるのかなぁ?」

 「もうとっくに寿命だろうが……大体近江の国の長浜ってどこだ?」

 「え、えっとぉ……長野県のどこかみたい」


 ――だからどこかってどこだよ


 前途の寿命発言で目に見えて落ち込んだ彼女を思いやり、心の中で突っ込むだけにする伊里髪。

 無論彼女も自分の発言の頼りなさを理解しているようで、それっきり俯いて黙ってしまう。

 何か励ましたほうがいいのかとも思った伊里髪であったが、結局何も思い浮かばず仕方なく妖魔について考察をすることにした。

 恐らくあの妖魔の正体については狒々で間違いないだろう、そしてこの物語に出てくるそれと同一のものであろう。

 しかしそうだと想定すると今度は細かい点の違いが気にかかってくる。

 まず物語では退治されたはずなのに残っている点、まあこれは残党がいたと思えば自然である。

 むしろ物語の前にも何度か退治されていたとも想定できる、でなければ物語の中でしっぺい太郎に出会う前からその存在へ怯えていたことへの説明がつかない。

 もしも前にもしっぺい太郎によって退治されていて、その残党が改めて悪事をしていると考えれば狒々の言葉も納得できる……まあ物語にそこまでの統一性を求めても仕方ないが。

 次に気になるのは生贄を差し出していたという点、しかしあの妖魔どもは向こうからやってきている。

 この違いについてはどう判断したものか、伊里髪にはわからず保留するしかなかった。

 次は年頃の娘という点だ、江塚琴奈は小学生の頃より狒々に纏わりつかれている。

 これは幼すぎるが故に直接彼女を襲わないのか、年頃であるがために周囲を襲っているのか、それともそれ以外の何かがあるのかやはり判断がつかない。

 また他に気になったのは白羽の矢という点である。

 

 「白羽の矢、立ったのか?」

 「えっ……わ、わからないけど多分なかったと思うよ……子供のときのことだから本当にわからないけど……」

 「そうか……」


 この違いは何なのだろう、また何よりも違うのは……親玉の存在。

 そんなものはこの物語の中に出てこないし、妖魔は数こそ多いが増えるなどとは書かれていないではないか。

 無論些細なことである、別に物語に沿って退治しようとしているわけではない伊里髪にとっては重要だとは思えない。

 彼はただ親玉に妖刀を突き立て、ついで増えなくなった残党を狩ればそれでお仕舞にできるはずである。


  ――本当に、そうなのか?


 それともこの違いはちゃんと突き詰めないと、まずいものなのだろうか?

 下手に調べられたがために、伊里髪は少し方針に悩みを持った。

 

 「あの……じゃあお父さんに聞いてみる?」

 「あっ、そ、そうだな……」

 

 彼女の当然の言葉に、しかし予想できなかった伊里髪は間抜けな声を漏らす。

 自分には両親が居ないがために、親に訪ねるという行為が想像できなかったためだ。

 少しもやっとした気持ちを抱えた伊里髪に気付かず、江塚琴奈は先ほどの機器を操作して耳に当て口を開いた。

 

 「……も、もしもしお父さん?」

 「……あっち、違うのっ!! あのね逆なの、お化け退治できる人見つけたのっ!!」

 

 ――そういえば、なぜ父親は平気なんだ?


 彼女の様子を見るに本当に父親だけは例外なのだろうと思う、けれど一体何故なのか?

 それも合わせて確認してみるかと思いながらも、伊里髪は割って入れるタイミングまで二人の会話を見守ることにした。

 

 「……ううん本物、絶対本物。だって昨日私直接触られたのに今も元気だもん。それに武器も見せてもらったけど本当にすごいのっ!!」

 「……そうそうあんな偽物じゃないよ。別にお金も要求されてないし……伊里髪君お金居る?」

 「いや、別に」

 

 急に振り向いて尋ねられた伊里髪は、首を振って答えた。

 勿論金はないが、これは過去の自分と同じ境遇の人間を救済しようという試みであって別にお金が欲しくてやっているわけではない。

 

 「だって、だから大丈夫だよ……うんでね、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、あのね家に白羽の矢って刺さってたことある?」

 「えっなんでって……なんかね私ねしっぺい太郎って物語に出てくる狒々に呪われてるみたいなの」

 「……うんそうだよ、その人がそう言ってるの……えっじゃあ替わる? あ、そ、そんなこと言われても、ちょ、ちょっと待って……っ!!」


 慌てた様子で機器を放した彼女は伊里髪へ視線を向けると、おずおずと口を開いた。

 

 「あ、あのね……お父さんがあって直接会って話がしたいって言うんだけど……いい?」

 「構わないが……その機械を使えばいいのでは?」

 「機械? あ、ああ携帯電話の事ね、私もそう思うんだけどどうしても直接話したいんだって」


 ――一体なんだというのだろうか?

 

 伊里髪は唐突な話の流れに訝しみながらも肯定する意を込めて首を縦に振る。

 また前後に関係ないがぱっと花が咲くように笑顔になった江塚琴奈を見て、ころころと変わる表情に伊里髪は本来の彼女のあるべき姿を垣間見れた気がした。

 とにかく彼女は電話に戻りもう何度か言葉を交わしたかと思うと機器をポケットへとしまい込んだ。


 「放課後車で迎えに来るみたい、ごめんね強引で……」

 「いやいいが、そうか放課後か」


 てっきり今すぐ迎えに来るのかと思っていた伊里髪であるが、そういえばまだ授業中であった。

 そして学校が終わるまでまだ時間がある、さてどうしたものか?

 丁度チャイムが鳴る音がして一時間目が終わったことを知る。

 クラスに戻るのならば丁度良いところである、そして伊里髪は睡眠不足である。

 今夜もまたあの妖魔と戦わなければならない伊里髪は、少しでも体力を回復させるためにも眠ろうと自分の机に戻ることにした。

 

 「あっ……」

 「どうした?」

 「行っちゃうの?」

 「授業だ、サボるのは良くない」

 「いつも眠ってるよね?」

 「その為の時間だ」

 「えぇ……どうせ眠るならここで寝ない?」

 

 執拗に呼び止められた伊里髪は、やはり不思議に思う。

 何だかんだで彼女は優等生であったはずだ、なのになんでこんなにもサボりたがるのだろうか?

 伊里髪の表情から何かを読み取ったのか、彼女は顔を伏せるとぽつりとつぶやいた。

 

 「みんなに見られるの……嫌」

 

 伊里髪は思い出す、教室中から彼女へと向けられる忌諱と悪意のこもった眼差し。

 居心地が良いはずがないではないか、なぜそんなことにも気づけないのか、伊里髪は自分が情けなくなる。

 かといって一人でここに残るのも……孤独に戻るのも辛いのだろう。

 

 「そうだな、ここで寝るか」

 「うん、それがいいよ、私膝枕してあげるっ!!」

 「必要ない」

 「そ、そう……」

 

 伊里髪は正座しながら壁へと寄りかかり目を閉じる、昔まだ反射的に抜刀できなかった時期はこうして比較的抜きやすい態勢で刀を抱いて眠っていた。

 だから伊里髪はそれほど苦に思うことなく眠ることができた。

 

 ――足に何かがのしかかる感触がしたのは勘違いだろうか、目を閉じた伊里髪にはわからなかった



 ******



 江塚琴奈の呪い、それは彼女に触れるもの全ての生き物に致命傷を与えるというもの。

 厳密なルールは向こうから触れる場合は直接素肌同士で触れ合うこと、これは手袋などによって防御しうる。

 しかし彼女から触れた場合は間に何が挟まれていようと関係なく発動する、老若男女一切例外なくだ。

 これを江塚琴奈がはっきりと認識したのは学校で行われた鬼ごっこ大会のまさに翌日であった。

 自分がタッチした数人が皆そろって原因不明の外傷を受けて病院送りとなった、うち一人は死亡している。

 本来ならば両者を関連付けることなどありえないのだが、皮肉にもまだ幼い子供は突拍子もない想像をしてしまう。


 ――私がタッチしたからだっ!!


 それこそ馬鹿といった相手がドブに落ちたのを目の当たりにして自分のせいだと思い込むような子供の発想。

 通常ならば大人になれば笑い飛ばせるはずの下らない悩みは……しかし彼女の場合は現実となってしまう。

 彼女は周りに相談した、父に、先生に、友達に、叔父、叔母、祖父、祖母、皆一笑した。

 そんなことはないよと笑って触って見せて、安心させようとして……彼女を絶望の淵へ追いやることとなった。

 彼女に直接触った者は父親という例外を除いて皆前途の子供たちと同じ目にあったのだ。

 幾ら科学的に因果関係が証明できずとも、偶然が二桁ほども続けばもはや誰しも無視することはできなかった。

 大人も子供も彼女へ近づく者はなくなり、遠巻きに悪意の込めた視線を送るのみであった。

 江塚琴奈は孤独になった。

 それでも時折事情を知らない者が話しかけてくることがあった、それでも時々彼女の美貌に惹かれて話しかけてくるものがいた。

 子供であり一人が寂しかった彼女は、そういう人達でも交流できることが嬉しかった。

 だからできる限り気を使って、肌の露出を抑える格好をするようになった。

 けれどもそうして話して仲良くなると、皆決まってこう言うのだ。

 

 ――呪いなんかないよ、触ってみて?


 それは江塚琴奈と親しくなったからこそ、呪いなどに縛られる少女を助けたいと思いやっての善意。

 しかし結果としてそれは彼女の心をさらに追い詰めることとなった。

 嫌だと拒絶し続ければ向こうは分からず屋と彼女を罵倒して去っていく、一生懸命説明してその場は納得しても思い返したように繰り返す。

 中には強引に手袋を外そうとする人もいたし、無理やり触らせようとする人もいた。

 そして最後には誰も彼も病院へ行くこととなった、どれだけ注意していても付き合う時間が長ければどうしてもアクシデントが起こってしまうからだ。

 江塚琴奈は、孤独にならなくてはいけなくなった。

 もはや誰にも被害を出さないためにも、仲良くなった人を不幸にしないためにも、彼女は一人にならなければいけなかった。

 父親以外の誰からも慰められず、誰からも愛されず、悪意のこもった視線に囲まれながら生きていかなければいけなくなった。

 彼女は己の身を嘆いた、己の運命を憎んだ、そしてまだ子供の彼女は理不尽な不幸に耐えられず涙を流した。

 けれども自由に泣くことすらも彼女には許されなかった、泣いているところを見られれば事情を知らない人が手を差し伸べてくるからだ。

 彼女は父親の前でしか泣けなくなった、けれども心配する父親が胡散臭い霊能力者を連れてくるようになり被害がさらに広まった。

 彼女はついに一人ですべてに耐えなければいけなくなった。

 そのうち地元では学校へ通うことすらできなくなった、上履きから椅子机に至るまで隠されるようになった。

 代わりに下駄箱には『学校に来るな』という手紙が押し込められるようになった。

 何かの弾みで触れられてしまえば致命傷を負わせられる、そんな危険な生き物を排除しようというのはある意味仕方のないことであった。

 

 ――仕方がないの? 私への仕打ちは仕方がないで済ませられるの?


  どんどんエスカレートした嫌がらせが自宅にまで及ぶようになったことで、ようやく父親は娘の惨状に気が付いた。

 余計な心配をかけないため、余計な被害を増やさないため彼女は父親にも何も告げられなくなっていたのだ。

 しかしそれでも父親は彼女の身を心配し、せめてまともな環境で勉強ができるようにと転校の手続きをした。

 何処へ行っても変わりはしないのに、彼女は乾いた心でそう思っていた。

 事実ことは起こってしまった、ここでも彼女は悪意の視線にさらされるようになった。

 やはり何も変わりはしなかったのだ、江塚琴奈はもう生きていることすら辛くなっていた。

 

 ――なんで、どうして私だけこんな目にあうの?


 苦しくて苦しくて夜も眠れず泣きはらして、それでも涙は枯れ果ててくれなかった。

 

 ――ごめんなさい、私のせいでごめんなさい


 だからせめて他の人に見られないよう、人気のないところへ向かった。


 ――でも私だってこんなの望んでない、うぅぅぅどうしてどうして私だけ

 

 悲鳴と謝罪が交互に口から洩れる、孤独でいなければいけない少女は弱音すら自由に掃くことが許されない。

 そして常に一人でいるしかない彼女は、もはや明るい言葉など一言だって思い浮かぶことすらなかった。


 ――なんで私ばっかり、他の人はどうして良くて私何もしてないのに私ばかりぃぃぅぅうぅぅっ!!

 

 ついには何の恨みもない怨む所以もないはずの他者すら恨めしく、性根が歪んでいきそうだった。

 そんな人間になりたくないのに、それでも何かにぶつけないと耐えられないほどに彼女は限界だった。

 

 ――誰か助けてよぉ

 

 叶わない願いを口にする、誰かに聞かれてはいけないとずっと自戒してきた言葉が零れるほど、彼女は壊れる寸前であった。

 

 「おいっ!!」


 だからその言葉を聞いたとき、彼女は一瞬我を忘れて縋り付きたくなった。

 一番欲しいときに差し出された手に、だけれどもすぐに正気を取り戻した彼女は孤独にならなければいけないことを思い出す。

 

 「待てっ!!」


 だというのに現れた男は粗忽にも強引に彼女の手を取り、直接肌へと触れてきてしまう。

 

 ――あぁ……ああああああああぁあだめぇええええええええええええっ!!


 その様は彼女と親しくして壊されていった人達とそっくりで、彼女の脳裏に被害者たちの惨状がフラッシュバックする。

 もう何もかもわからないほど頭に血が上り、被害が増えないうちにもっと早く死ぬべきだったとすら自分の生を後悔しかけた瞬間であった。


 「だ・ま・れ・っ・!・!」

 

 彼女の思考は一挙に打ち砕かれた、悩みも苦痛も悔恨も一時的に何もかもが吹き飛ばされた。


 「あの猿みたいなのあれがお前の呪いだろ。安心しろ全部ぶっ倒してやる」


 そんな空白状態の彼女の中に、彼の言葉がすぅっと入ってくる。

 それはまさに彼女が望んでいたことであった、だからこそこれは本当に現実なのかと混乱する。


 ――あ、あ、えっ、あ、た、ぶった、えっあ、あの、た、倒すってあのっ


 彼女の問いかけに唐突に現れて江塚琴奈の全てを掻き回していった彼は一切反応することなく背中を向けて去っていこうとする。

 淡々と階段を下りていき踊り場を通り過ぎようとしたところで、少し距離ができたためか少し時間がたったためか彼を観察する余裕ができた。

 自分と大差ない体格の、乱暴に切りそろえた頭が少し怖いけど平凡そうな少年、多少口は悪いけれどもそんな風に粋がって彼女に関わり滅んでいった人を何人も見てきた。

 

 ――そうだ、期待しても裏切られるだけだ

 

 ずっとそうだった、江塚琴奈は思い出す。


 ――自分を落ち着かせようと口先だけは立派な人はたくさんいたじゃないか


 そしてその末路は一様だった、だから今回も同じことだと彼女は自分に言い聞かせるように心中でつぶやいた。

 何故そんなことをしているのか自分でもわからなかった、その一言を聞くまでは。


 「また明日な」


 またしても唐突に振り返り彼が告げた一言は、まさしく今彼女が期待していることを明白にして見せた。

 

 ――ああ私は、こんなに裏切られてきたのにまだ期待したいんだ


 同時にそれがとても恐ろしかった、きっと今回も裏切られたらもう今度こそ彼女は絶望しきってしまうだろう。

 だから期待しないよう期待しないよう自分に言い聞かせるけれども、どうしても諦めきれない。

 ひょっとしたらもしかしたら、そんな言葉ばかり思い浮かんで頭を離れない。

 余りに見事なタイミングだったからだ、一番手を差し伸べてほしいときに差し伸べられたからだ。

 だから江塚琴奈は、次の日登校して彼の……伊里髪という少年の席が空いているのを見て心が張り裂けそうになった。

 

 ――やっぱり駄目なんだ、一生私は一人でっ!!


 「よお」


 聞き覚えのある声、昨夜からずっと考え続けていた声。

 何も考えられず夢中で振り返った先には、五体満足な伊里髪の姿。

 

 ――あ、ああ……ああぁぁああああああああっ!!


 彼女はもう人前だというのに感情を抑えられなかった。

 彼女はもう我慢しなくていいのだ、孤独でいなくていいのだ。

 だってようやく見つけたのだ、伊里髪という仲間を。

 江塚琴奈は、初めて運命というものに感謝した。

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