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溺れる者は  作者: SS
1/3

前編

初投稿 三部作

 犬の頭部を残し生き埋めにし、その口が決して届かぬ所へと食物を置く。

 犬が飢え、餓死する刹那に頸を切り落とし執念をもって食物へと食らいつかせる。

 これを焼きて骨となし、器へ入れ祭り奉る。

 されば今後の人生において、万事大成せり。

 

 ――当代においては



 『溺れる者は』 開幕



 異臭、それも鼻が曲がり反吐が出そうなほどの腐敗臭。

 室内に満ちたるそれを五感が捉え脳髄に伝えうるよりも早く、伊里髪隼人の身体は動き出していた。

 寝そべった態勢から両足を突っ張り背中を反らして浮かせ、即座に両腕と共に床を叩き反動でもって全身を跳ね上げた。

 果たして人外のごとき力が込められた衝撃は、一瞬で彼を宙へと舞い上がらせたかと思うと僅かな力の偏りのために回転運動を引き起こす。

 くるりと仰向けから反転し先まで横になっていた敷布団を見れば、目に映らぬ何かによってズタズタに引き裂かれているのが分かる。

 この段階ですでに意識は覚醒していた伊里髪は、しかし反射運動を阻害せぬよう脱力し、結果なめらかな動きでもって事はなされた。

 横へと回転する勢いを生かし腰だめに構えた刀を抜刀、敷布団の中身が引き裂かれこぼれださんとしている箇所へと向けて一閃。

 何もない空間へと吸い込まれた一撃は、途中で確かに何者かを切り裂いた手ごたえを伝えてくる。

 同時に刀の柄から手のひらを介して、身中へと悪寒が押し寄せる。

 まるで血流のように血管を通し全身へと浸透していく悪寒は、伊里髪の身を内側から凍死させるかと思わせるほどの容赦のない冷たさであった。

 

 ――まずいっ!?

 

 刀を持たぬほうの手で鞘をつかみ床へと伸ばすことで、空中で強引に態勢を変え見事足から着地する。

 そして流れるような動きでもって刀を鞘へと納めようとする最中、身中を悪寒に侵されながら心中に熱を帯びた強烈な衝動が湧き上がる。

 

 ――ああ、人を、獣を、命を、切りた

 

 ちんっと鍔鳴りの済んだ音が耳に届くのと、心に抱いた悪意が晴れるのは同時であった。

 そして全身を蝕んでいた悪寒は波のように引いて行き、しかし既に鞘へと納められ平凡なる器物に成り果てた刀へ帰ることはかなわない。

 結果としてそれは、伊里髪の臍の下にある所謂丹田と称される場所へと留められた。

 

 ――いつまで、こんな綱渡りを繰り返せばいいんだ?

 

 ようやく人心地ついた伊里髪は、心中で誰に向けることもできない愚痴をこぼす。

 誰のせいでもない、いや正確には恨みつらみをいうにふさわしい相手は、もはやこの世にない。

 だからこそ伊里髪にできることは、心の中で己の人生を嘆くことだけであった。


 ――いつまで、俺は生きていられるんだ?

 

 もはや慣れているとはいえ、命のやり取りと身体の変革の直後に眠気が戻るはずもない。


 ――いっそのこと切腹でもして派手に死んでやろうか

 

 折角命が助かった直後だというのにそんな自暴自棄な発想が思い浮かぶ、それほど伊里髪という少年は追い詰められていた。


 ――いったい俺はいつまでこんなことを続けなきゃいけないんだ?


 眠れぬ夜を悶々と過ごしながら、伊里髪は答えの出ない問いかけを繰り返すのであった。



 *******



 呪い、科学の発達した現代では笑い飛ばす者のほうが多いであろう単語。

 しかし伊里髪が襲われているのは、まさしく呪いの一種であった。

 犬神憑き、動物に執念を抱かせそれを怨念と化させることで霊的な効力を得るためのもの。

 術者に恨みをもった怨霊は、しかし一時的に術者に幸福をもたらしあらゆる成功を約束する。

 これは術者をより深い絶望へと貶めるがために、繁栄を築かせた直後に貶めるためである。

 それの意味成すこととは、すなわち生物としての本質、子孫への系譜を断ち切ること。

 栄華をどれだけ極めようとも寿命は一様に訪れる、ならばこそ己の血を受け継ぐ者へと引き継がせたくなるのは当然の摂理。

 その全てが断ち切られたときに感じる喪失感はどれほどのものであろうか、自身が築き上げた功績が大きければ大きいほど反動は強くなるはずだ。

 果たして本当にそのような理由であるかはわからないが、ともかく犬神の呪いというものは子孫こそが代々受けなければならないものであった。

 

 ――正確には子のみである、何故ならその呪いとは例外なく死であるのだから。


 故に子は子を成せず、犬神に呪われし一族は繁栄の後に滅ぶのが常識であり、だからこそその術は忌避され現代では忘れ去られたのであろう。

 ならばどうして伊里髪という現代にまでつながる子孫が存在するのか、無論彼に呪いをもたらした先祖は父親よりもはるかに過去の存在である。

 その矛盾の答えは、やはり矛盾の問いかけにあった。

 

 『魂と引き換えにどんな願いでもかなえる悪魔に、魂を取らないで願いをかなえろと言ったらどうなるのか?』

 

 西洋でも考えられた冗談の一種、これはある意味で古今東西を問わず人類の本質を表しているのではないだろうか?

 

 ――リスクを放棄し恩恵だけを受容できないものか?

 

 これを伊里髪の先祖もまた考え、そして実行に移した。

 そしてその試みは成功した、犬神憑きであり当代においては成功を約束されている以上当然のことではあったが。

 

 『子孫が犬神の呪いを打ち破る力を持てるように』


 この意図を犬神の恩恵の元に作り上げられたものこそが、今伊里髪が持つ先祖代々受け継がれてきた一振りの刀であった。

 刃渡り二尺三寸、鍔は模様もない単純な穴三つ、鞘から柄まで漆か何かで塗りつぶされ黒一色、刃は波紋もなく光を吸収し何も写さぬが目を引き寄せる魔性なる魅力があった。

 これは人工的に作られた妖魔の類を切り裂くことのできる妖刀、刀工ではない先祖の自作であるがためにあるべき銘はなく代わりに付けられた名は『幸成』。

 幸せに成れるようにとの意味を込められた刀は、しかし思いとは裏腹に子孫へと新たな呪いをもたらすことになる。

 結果として二つの呪いに心身をともに苛まれ続けた子孫は皆、己が決して幸せには成れないと悟らざるを得ず、伊里髪もその例外に漏れることはなかった。

 


*******



 朝を迎え通学路を歩みながらも、伊里髪は我ながら似合わないことをしていると思う。

 どの道長生きは望めぬ身である、ならば将来に向けての勉学など何の意味があろうか?

 しかしながら伊里髪は未だ成人に至らぬ中学校へと通う少年である。

 同年代の誰と比類しようとも劣悪なる異端の人生を送っている身であっても、どれほど凄惨な経験を積んでいようとも年齢だけは一律変化するはずもなし。

 故に義務教育は避けられない責務であり故に彼もまた日が昇れば学校へと向かわなければならないのだ。

 影から影へと出来る限り太陽の光を浴びぬようにして進む伊里髪、心身共に妖魔に取り付かれつつある彼は太陽の光を浴びることで痛覚、怖気、吐気、などを感じるからだ。

 それら苦痛の根源となっているのはへその下三寸にある丹田であった。

 本来ならば精気を練り全身へと循環させるはずの機関は、長らく振り回した妖刀から沁み込んだ妖気のたまり場へと変化してしまったからだ。

 その為に本来ならばあらゆる生命に活力を与えるはずの陽の輝きは、逆に伊里髪を責め立てるのだ。

 

 ――憎むべきは陽気か妖気か、はたまた歪み切った我が性根か


 肉体的な変質は確かに妖魔に浸食された結果である、しかし伊里髪は今では心中においてもあらゆる明るく眩いものを忌々しいと思うようになっている。

 例えば前記した光の世界に満ちる陽気、未来やら将来やら夢などという言葉……周りを行く幸せであることを理解せずも青春を謳歌する同中学へ通う学生全て。

 太陽の日を浴びても平然とする者達、友と笑い合う者、異性とはにかみあいあう者、いつ果てもなく命を狙われる危険などとは縁のない者。


 ――腹立たしいっ!!

 

 不幸というものを他者に分け与えれるのならば、伊里髪はそのような思いを抱かずにはいられなかった。

 

 ――理不尽、何故に俺だけがこのような目に合わなければならないのかっ!!

 ――理不尽、何故に俺だけがあのように暮らすことが許されないのかっ!!


 苛立ち、憎しみ、嫉妬、羨望、憎悪、渇望、妬み、怒り、悲しみ……

 今では寝ても覚めても、朝から夜まで、心に沸くのは負の感情ばかり。

 そして行き着く先は……諦めと絶望。

 それら心身に受ける苦痛に常に苛まれながらも、それでも伊里髪は死に逃げ込むことは選べなかった。

 生きていたいわけではないが、やはり死ぬのは恐ろしいのだ。

 故に伊里髪は、全ての理不尽を飲み込み堪えながら今日も意味もない学校へ通うのであった。

 


 ******

 


 満年齢14歳になる伊里髪が初めて刀を握ったのは何と十年以上も前のことである。

 未だろくな自我すら持たず刀と同じ程度の身長しかない幼き時分ではあったが、一刻も早く刀の扱いに慣れておかねば生死に関わるからだ。

 とはいえ当時は父が健在であった、故に全ては父に委ねていれば問題はなかった。

 伊里髪が初めて刀を振るうこととなったのは、それも七年も前の話になる。

 流石に小学校へと入学しはっきりとした自我も芽生えつつある時期であったが、それにしても未熟極まりない幼子である。

 とはいえ身長も刀よりは高くなり、また刀の扱いにしてもある程度スムーズに抜刀、切り付け、納刀の最低限の三動作は行えるようになっていた。

 

 ――出来ていなければ、伊里髪は父と同日同刻に亡くなっていただろう

 

 あれは一体全体どういうことであったのか、伊里髪自身いまだに理解できてはいない。

 何より記憶もあやふやであり、覚えているのはまだ日も高い時間、唐突に目の前で見えない何かに食い散らかされた父の姿と手からこぼれた妖刀。

 必死で拾い上げ両手で引き抜き、おかげで感知できるようになった腐り切った獣の死骸が蠢くごとくの呪いへ向けて刃を振り上げ……気が付けば血だまりの中に立っていたことだけ。

 隣で全てを目撃していたはずの母は発狂し、現在においても伊里髪と縁を切ったきり姿かたちも見せず連絡の取り方すらもわからない。

 時折送金されてくる生活費のみが唯一の繋がりであるが、これも最低限の金額であり貯蓄もできぬ程で旅行や進学等の大金が必要となるイベントは望むべくもない。

 要するに伊里髪は捨てられたのだ、彼女は己の身を守るために呪われた血縁を彼ごと切り捨てたのだろう。

 ただ義務教育の期間のみは公共機関からの干渉を受けないために金銭等の処理をしているようで、伊里髪はそんな彼女にも憎しみを覚えずにはいられなかった。

 結果として伊里髪は親の愛が必要な時点から孤独となり、日々を命がけで過ごすがためのストレスで夜も眠れず心身ともにボロボロに成り果てていた。

 体力もない当時では仕方のないことであったが、おかげで学校において他者と関わる余裕すら持てず、本来ならばその年で学ぶことになる友人の作り方も知ることはできなかった。

 だから伊里髪は友達は愚か話し相手すらいない、そして今では性根から歪みつつある彼には他者との絆は望めないものに成り果てていた。

 それが彼の孤独を深め絶望を色濃くし、さらに彼の精神を病ませていくのであるが、もはやどうしようもないことであった。

 


 ******



 教室へたどり着くと同時に目を閉じて、夜間に成し得なかった睡眠を取り戻すことに専念した伊里髪。

 目を覚ませば既に全ての授業は終えており、誰が開けたのかカーテンからは夕焼けが差し込め窓際最後尾の席に座る彼を赤く染め上げていた。

 

 ――道理で地味に痛いわけだ


 これほどまでに日の勢いが落ちれば受ける苦痛もかなり軽減されるが、それでも嫌悪感は無視できるものではない。

 さっさと荷物をまとめ日陰になっている廊下へと移動すると身体をほぐし、僅かに残る眠気を吹き飛ばす。

 ついでに周囲を見回すが人の気配は殆どない、時折見かける者達も伊里髪を見かけるとさっと顔を背け足早に立ち去ってゆく。

 その姿に苛立ちを覚える伊里髪であったが、こればかりは自業自得であった。

 入学したばかりのころの話である、絶賛反抗期に突入した彼は己の理不尽なる人生も相まって非常に荒れていた。

 具体的には他者からの干渉を一切許さず、下手に関わろうとするものは手こそ出さなかったが全力で悪意を叩き付けて見せた。

 日々全てが死地であり数多の戦闘を繰り返してきた伊里髪が放つ殺意は、またその身に宿る妖気の存在もあり常人の意識では耐えられぬほどである。

 一度などは教室中の全員を一挙に気絶せしめたこともあり、今では全校の生徒はおろか教師陣ですら関りになろうとする者はいない。

 彼自身はその一件にてさすがにやり過ぎたことを理解し、以降は態度を軟化させるよう努めているのだが後の祭りであった。

 そのために今日では彼は露骨に避けて通られてしまうのだ。

 最もお陰で授業中に眠ろうが起こされる事もなくなり、留年させるのが恐ろしいからかテストは壊滅的であったのだが補習すら行われずに無事に進級できていた。

 ちなみに停学等の過酷な処分を受けていないのは手を出さなかったことが大きい、さすがに彼の威圧と集団気絶とは科学的には因果関係を証明することができなかったためだ。

 要するに己の感情を抑制できなかったが故に孤立を深める結果となったわけだが、これもある意味では幼いうちに周囲との折り合いの付け方を学べなかったことが根源にあるだろう。

 

 ――何処までも俺は落ちてゆけるのだろうな

 

 改めて自らの孤独を自覚した彼は、寂しさではなく虚しさを感じていた。

 しかしだからといって彼にはどうしようもない、どうすればよいのかなどわからないからだ。

 だから今日も意味もなく義務故に学校へとやってきた彼は、やはり何を学ぶこともなく意味もない時間を過ごした後にただ帰宅するのみであった。

 人気のない廊下から下駄箱へ向かうためには最上階が教室である彼は階段を三階分降りるのだが……面倒になった彼は周囲と窓の外を見回す。

 そのどちらからも人目がないことを確認した伊里髪は、窓を開けると宙へと身を投げ出した。

 凡そ10m以上の高さがあろう場所から投身した彼だが、何も今更自殺しようというわけではない。

 ただ単純に手早く大地へ降り立とうと思っただけであり、事実重力は彼の身体を無償で引き付けてくれる。

 重力加速度約9.8m/s^2の定理に従い二秒とかからず大地まで迫った彼は、丹田に意識を集中し強引に中に収められている妖気を引きずり出す。

 即座に全身へと巡った妖気は伊里髪を現世の者から逸脱せしめ、総身に異常の力を宿らせる。

 ばんっと着地した両足の裏から軽い爆発音のような激しい音が発生する、時速に換算して50km程度の速度を持つ重量60kg前後の物体がぶつかった衝撃音である。

 発生したエネルギーは約6J程度だが緩衝させることなく受け止めれば、人体など筋骨皮に至るまで粉砕させるには十分すぎる威力である。

 事実としてその衝撃をもろに受けた大地にはひび割れが入り、彼の足はくるぶしが見えなくなるまで埋もれている始末だ。

 その足を無造作に持ち上げ汚れた上履きから土を払う伊里髪、一切痛みを感じた様子のない表情は彼が何の害をも受けていないことを如実に表していた。

 妖気という非常識な力でもって強化せしめた身体は大概の物理的衝撃を意図してカットすることができるのだ。

 当然だ、妖なる存在がもしもそのような影響を受けるのであれば、例えば幽霊などは壁抜けも浮遊もできず直接手で触れれる存在でなければならなくなるだろう。

 常識の物理学が通用しないからこその妖魔である、物理的な排除がままならないからこその脅威である、だからこその対抗する手段が妖刀という解答であるのだから。

 そしてかなり劣悪なる人生を送る伊里髪にとってこのような妖気を介して行える非凡なる行為は、彼にとって数少ない優越感を抱ける事案であった。

 だからこそ彼は妖気を用いてことを成すことにどこか積極的ですらあった、それこそが彼の人生を薄暗くしている元凶なのだと理解していながらもである。

 むしろこのような行為をしている時のみ彼は、ほんの僅かだが喜びを覚える。

 それも又仕方のないことである、彼は中学二年所謂絶賛中二病の時期である。

 漫然と存在する人々とは一線を画す能力にあこがれる年に、実際にその力があるのだから振るわないでいられるはずもなかった。

 とはいえやはりこのような力の使い方は決して割の合う話ではないのだが、とにかく彼はこのような行為を結構頻繁に行っている。

 それは考えようによっては彼なりに不幸な人生に立ち向かおうとしていたのかもしれないが、本人にはそこまでの自覚はなかった。

 

 ――やっぱり替えの靴を常備しておくべきか

 

 一旦下駄箱に戻り汚れた上履きを履き替えながらそんなどうでもいいことを思う。

 そして……どうでもいいことを思える余裕がまだ残っていることに気付き少しうれしくなる。

 最もそんなことは一瞬で頭から消え去り、暗くなりつつある帰路についた彼の感情は現実に立ち返り、暗く深い絶望のそこへと沈み込んでいくのであった。

 

 ――夜が来る、俺の命を削る夜が来る



 *******



 蔦で覆われた魔女の住処と見紛うばかりなアパートの一室、電気もガスも通わずただ蛇口をひねれば水だけは出るのが伊里髪の住居であった。

 当然家電は一切存在せず、唯一ある家具の洋服ダンスには夏の制服が二枚に冬の制服が二枚あるのみ、私服は一切存在しない。

 後は布団が一セットと財布にしまわれた数千円と銀行のカードだけが彼の所有する財産の全てである、ちなみに口座には一か月に一度2万程が振り込まれるきりである。

 お陰で狭苦しいワンルームの住まいであるが、伸び伸びと生活するには十分な空間があった。

 また水道代と学費ぐらいは払われているために最低限には暮らしていけるわけだが……文字通り最底辺の生き方しか許されない。

 とはいえ見捨てられている身としては十分すぎる恩恵だと最近の伊里髪は思うようになった、この生活面における貧困ならば自分を上回る環境の者もいるだろうと思えるからだ。

 だからといって不満がないわけではなく、特にクリーニング代等の臨時の支出が発生した際には強く思う。

 改善する方法も考えないことはなかったが、一学生という身分と何より他者との交流の仕方がわからぬ身ではどうしようもなかった。

 結果として伊里髪はこの環境に甘んじてこそいるが、決して満足しているわけではなく、事実として日々の生活において支障は何かしら常に発生していた。

 本日の問題は食事に関してであった、それこそ少し前に発生した雨漏りの改修のために使用した費用のために食費が足りなくなったためだ。

 勿論財布には金銭は残っており購入自体は可能であったが、既に口座の内部は直接銀行までいかねば引き下ろせぬ小銭しか残ってはいない。

 次の支給日までは後十日ほどもある、もし仮にそれまでに新たな臨時の出費が発生しようものならばどうなることか。

 故に伊里髪は少しでも経済しようと支出を切り詰めようと考えたところ、食費以外に削れるところが存在しなかったのだ。

 既に夢希望などは見失っている、今では食事と睡眠ぐらいしか欲を持たぬ以上は金銭の使い道などどうしても限られてくるためだった。

 要するに定期的なお金の使い道が食事しかないのだから、他を切り詰めようがないというただそれだけの話だ。

 とはいえ元より一月に総額二万の生活費の中から食費を割り出している普段ですらそこにかかる費用は日割りにして500円を下回る。

 そこからさらに切り詰めようとすれば取れる食事量など限られてしまい、成長期ということも併せて考えるのならばもはや絶食しているのと変わらぬ無謀なことであった。

 本来ならば生命維持に支障をきたしかねない行為であった……しかし彼には本来あるべき生き物としての枠を乗り越える方法を持ち合わせている。

 だから選ぶことができる、存在しえないはずの選択肢を。



 *****

 


 家に帰りつくなり荷物の中に隠してあった妖刀を抜き取ると、他の一切合切を投げ捨てすぐに外へと歩み出す。

 目的は腹ごしらえ、目標は特にない、むしろ目的を果たすために適当な目標を探しにあてもなく彷徨うばかりである。

 とはいえ日が完全に落ちきるまでは見つけようもなく、その間は散歩を兼ねて適当に道を行くのみだ。

 歩きながら伊里髪が思うのは……己の胸中に沸く複雑なる感情についてであった。

 具体的にはこれから行うことに対する忌避感と高揚感の二律背反を悩んでいたのである。

 

 ――こんなこと続けていたら俺は本当に化け物に成り果ててしまう

 ――こんなことでも楽しみがあるから俺はまだ人間でいられるんだ

 ――本当にいいのか、これは忌み嫌うべき力であって決して優越感を抱くべきものではないのに

 ――本当にいいのか、この程度の僅かな優越感すら失ったら俺は完全に絶望へ落ちてしまうのに


 一体どちらが正しいのか、あるいはどちらも正しいのかまたは間違っているのか……いくら考えようとも伊里髪には答えを出すことはできなかった。

 こうして悩むのは何度目になるのか、とうに数えるのを止めてしまったほど、しかしやめることができず、結局今日もまた結論が出ないまま終焉の時を迎えた。

 即ち……夜が来たっ!!

 日が完全に落ち失せ世界に満ちていた陽気の一切合切が雲隠れするようにきれいに消え失せれば、闇の住人の時間である。

 伊里髪もまた半分ほどはそちら側のモノと成り果てつつあるがために、途端に全身に活力にも似た不思議な力が湧き上がるのを感じていた。

 それはへその下、丹田に満ち満ちる妖気こそが根源である。

 もはや昼間のように抑えて置かなくても苦痛などは感じ得ない、むしろ夜の闇が心地よく頭を心を澄み渡らせる。

 

 ――さあ、狩りの時間だっ!!

 

 同時に心中に湧き上がる高揚感、昼間に感じていた劣等感から一転してあふれ出す優越感。

 其の全てが入り混じり、鬱屈した感情を爆発させるかのように、伊里髪は全力で大地を蹴った。

 パンと辺りに鳴り響いた乾いたような破裂音は、余りの力で打たれた大地の悲鳴か、音速に迫る勢いで引き裂かれる空気の絶叫か。

 妖気によって物理的な枷を外された体躯は、やはり妖気によって常識外のベクトルをはじき出した脚部から受ける力によって空へと舞い上がる。

 視界を下に向ければ凄まじい勢いで大地が遠ざかり、あっという間に家屋の屋根や電柱を見下ろせるほどの高度へと至った。

 少しして高さの限界点まで達した伊里髪の身体は一瞬止まったかと思うと、今度は重力によって下へと引き戻されようとする。

 逆らおうとすれば多少は抗えるのだが彼はむしろその力を利用して、手近にある電柱の上へと降り立った。

 そして暫しの間下界を見下ろし特等席の光景を堪能した後、次は足首の捻りの力だけで新たな電柱へと飛び移った。

 凡そ30m感覚で設置されている電柱の上を、まるで飛び石で遊ぶがごとくの勢いで走破していく。

 実際のところこれは伊里髪にとって遊びといっても差支えのない行為であった、爽快感を感じてストレスを発散出来ているのだから。

 時には足場を電柱から丈夫そうな家屋の屋根に変えたり、何もない場所では大地へと降り立ち駆け抜けてみたりもする。

 どちらも尋常ではない速度での移動は、車で走行中に窓から顔を出したときのような爽快感溢れる感触を彼にもたらし続けた。

 さて体表から外部に接した妖気は、まるで水に垂らした墨汁のように闇夜へと溶け込み、彼を中心に広がっている。

 段々と範囲を広げながらも、しかし決して伊里髪の傍から離れようとはせず同一のベクトルを伴い共に移動を続ける。

 既に体内の妖気は伊里髪の経穴経路を通し全身へと巡り一体化していた。

 だからこそ外へと放出され広がる部分は、まるで彼に五感を新たに増やしたかのような感覚を直接脳へともたらした

 全周の光景がはっきりと脳裏に描写される、周囲に存在する物体の感触が明確に想像できる、周辺の物体の匂いや味も同様である。

 聴覚もまた常人のソレを大きく上回る、広がった妖気がアンテナ張りのように遠方から細小の音までも余さず捉え伝えてくる。

 

 ――居るっ!!


 だからこそ伊里髪は決して見落とさない、目標の怨敵を。

 どれほどの数の電柱を飛び越えたかは覚えていないが、全く見覚えのない景色がkm単位で移動したことを理解させる。

 電柱から飛び降り人気はおろか家屋も見当らぬ河川敷へ走り、堤防の内側のまさに川岸に派生する無数の名も知れぬ植物群の内側に歪みを見つける。

 よくよく観察すれば常人の目にも、それが風もないのに不自然に揺らめくことが理解できたであろう。

 しかし今の伊里髪には、妖気を解放し妖魔と化しつつある彼の目には常世の領域のものをしかととらえた。

 異様なまでに身体のあちらこちらがブクブクに膨らんだ半透明の元人間がそこに居た。

 くぼんだ瞳には世界の全てを憎むかのような鋭さが感じられ、現に伊里髪が見ていることに気付くと怨念を露わに近づいてくる。

 

 『う・ら・め・し・や・っ・!』

 

 亡者のうめきは空気を震わすこともできず音として伝わることもない、けれども伊里髪の妖気は懇切丁寧に拾い上げ通訳してくれる。


 『よ・し・だ・さ・だ・は・る・ゆ・る・す・ま・じ・っ・!』


 続いて伝わる意志は恐らくは水死したであろう亡霊の死因が他殺によるものだと推察させるものであった。

 

 ――ならこんなところで遊んでないでさっさとそいつを殺しにいけよ


 一応そのような念を込めて見返してみるが、著しい反応はなかった。

 最も妖気を利用しての会話などというテレパシーじみた行為の仕方を伊里髪は知らないわけで、現世の言葉が届かない常世の住人と会話が成立するわけがなかった。

 そして亡者は……伊里髪を怨敵の身代わりとして一時的な欲求不満の解消を求めた。

 伊里髪に手を伸ばし恐らくは水辺に引きずり下ろし溺死させる腹積もりなのだろう。

 これが常人ならば抵抗もかなわず哀れな犠牲者となるであろう、そのような無差別に命を奪おうとする悪霊に対して伊里髪は……嘲う。

 

 ――まぁ気持ちはよくわかる、俺も同じさぁっ!!


 禍々しく嗤いながら伊里髪は哀れながらに脅威なる亡霊が伸ばしてきた手を、妖刀を抜き打ちがてらにあっさりと跳ね飛ばす。

 恐らくは生まれて初めて……ではなく死して初めて受ける負傷という現象に悪霊は目に見えて……目には見えないが妖気が捉えるに驚きを隠せない様子である。

 

 ――俺の憂さ晴らしに付き合ってくたばりやがれ亡霊っ!!


 折角生まれた隙を見逃す気はない、悪霊が新たな一手を打つ前に切り上げた刀を持つ手首を翻しそのまま袈裟切りにする。

 斜めに両断された亡霊は断面から血液の代わりに妖気を只漏らす、しかし伊里髪のように周囲に留まることはなく全ては光を拒絶する刀身へと吸い込まれていく。

 そして妖刀は、妖刀と一体化した伊里髪は、妖魔としての歓喜に打ち震える。

 

 ――美味し、美味し

 ――美味し美味し美味し美味し美味しっ!!

 ――愉悦、快悦、光悦、悦、悦悦悦悦悦っ!!


 動物が生殖を行う際に付随する感覚のように、識者が試験を超えた瞬間のように、選手が大会で優勝を成し得たときのように

 それのみを目的としたものがそこへと達した時に発生する、言葉にできぬほどの恍惚。

 今伊里髪の心を浸すのはそんな原始的ともいえる強烈な快楽であった。

 同時に吸い上げた妖気は刀の、そして伊里髪の力と化し条理を覆すための素となる。

 気が付けば完全に悪霊は消失して、体内には流れ込んできた妖気が総身を凍てつかせるほどの寒気を伴い満ち溢れていく。

 だが同時に心中に沸くのは溶岩のように熱い衝動、すぐにでも身体を動かさねば身を焼き尽くすほどの欲求。

 

 ――ああ、人を、獣を、生を、切りたいっ!!

 ――ああ、妖を、呪いを、死を、切りたいっ!!

 ――もっと、もっとだ、目に映る全てを切りたいっ!!


 妖刀という何かを斬るためだけの妖怪の意志が、一体化する伊里髪の意志とまた混じりあい思考の全てを染め上げていく。

 果たして彼が欲望のままに走り出さんとした最中、長年の習慣に従い無意識のうちに身体が刀を納刀せしめた。

 左腰のベルトを通す穴に吊り下げてある鞘へと収まった妖刀は鍔鳴りの澄んだ音を響かせる。

 即座に脳と心中を焼く悪しき意志は霧散してゆき、行き場を失った妖気がまたしても伊里髪の丹田を中心に周囲を蠢く。

 

 ――段々抵抗力が落ちてるなぁ

 

 抜き打ちで一閃、返しで一閃、さらには納刀をも計算に入れても抜刀していた時間は決して長くない。

 だというのに心は完全に妖刀に支配されていた、かつてはこのようなことはなかった。

 もはや抜いた状態での立ち合いはできそうにない、そのようなことをすれば完全に妖魔と化してしまう。

 

 ――いっそ成り果てたほうが楽かもしれないが


 今の伊里髪はいずれ訪れる死に怯え、現状は自身を取り囲む不幸に苛立ち、過去から続く因縁に苦しめられている。

 しかし妖刀の一部となれば思考は単純明白、ただただ一切合切を切り捨てるのみだ。

 悩みなど発生する余地はない、それはある意味苦しみからの解放を意味している。

 心の赴くままに暴れ快悦を味わうだけの、まさに化け物への変貌はかつては恐怖の対象であった。

 けれども伊里髪は今では悪くもないかと思えてしまう、そのほうが幸せなのではないかとすら考えてしまう。

 

 ――けど、まだだ


 だが伊里髪はもう少しだけ耐えようと思う、最もそこに大した理由などはない。

 単純に不可逆であるからだ、一度化け物としての欲に流され動けば後はその道を進むしかなくなる。

 そしてそうなるのはいつでも簡単にできる、ならば耐えれる間ぐらいは人間としての生き方を続けていようとそれだけの理由であった。

 辛く苦しいけれど、希望など欠片も存在しない人生だけれども……時折心中に抱ける優越感は、己が身を他者と比べうる知性のある人であるが故の感情だ。

 僅かな楽しみを喜べている間ぐらいはせめて、伊里髪は人であろうと思うのだ。

 ああ、けれども……


 ――こんなこと続けていたら俺は本当に化け物に成り果ててしまう

 ――こんなことでも楽しみがあるから俺はまだ人間でいられるんだ

 ――本当にいいのか、これは忌み嫌うべき力であって決して優越感を抱くべきものではないのに

 ――本当にいいのか、この程度の僅かな優越感すら失ったら俺は完全に絶望へ落ちてしまうのに


 妖魔から人へと還元したがために、悩みもまた舞い戻ってくる。

 考えても答えが出ないことはわかっている、伊里髪は悩みを振り切るべく新たな目標を探しに移動を始めるのであった。

 


 *******



 妖魔を切り裂き得た妖気は妖刀の力となり、妖刀から流れ出した妖気は伊里髪の身を通して発揮される。

 長きに渡り、それこそ数世代以上にかけて妖魔の類を屠り食らいてきた妖刀に込められたる妖気はもはや無尽蔵と称してもよい。

 そこから受け取る伊里髪が行使できる妖気もまた無限に等しく、妖気を用いることで彼は異常の能を発揮する。

 一つに肉体強化、単純に丹田から気を練り上げるのと同じ要領にて妖気を当該部位へと巡らせ人外の力を得るもの。

 結果として現れるのは目に見えてわかりやすい身体能力の強化、要するに怪力を発揮させる。

 二つに感覚強化、これは総身の経穴経路を循環する妖気を神経系統と連動させることで本来処理できる情報量を強化させるというもの。

 結果として現れるのは反射神経や五感の強化、夜間においては体外に放出できる妖気もつながりが絶たれてはいないがために直接外部の情報をも明白に収集させえる。

 三つに体質変化、外部から受ける物理的な干渉または身体に発生する直接的な欠損を無効化又は緩衝するもの。

 結果として現れるのは摩擦力の変動、常人からの視線遮断、衝撃の緩衝、障害物の通過、怪我の修繕、病魔の克服……空腹を満たすこともその一つである。

 伊里髪は妖気を行使して得られる効果を以上に大別した。

 このうち一番妖気を消費しうるのが最後の体質変化である、他二つは伊里髪自身の能力を向上させているにすぎず物理学を直接に打ち破るものではないからだ。

 しかし体質変化に類するのは世の中の科学を真っ向から否定する現象を引き起こすものであり、そのためにか非常に妖気を消耗する。

 空腹を満たすのもまた何もないところから栄養を生み出す行為が、ある意味で質量保存の法則に触れているためかやはり消耗が著しい。

 最も妖刀に込められた莫大な妖気をもってすれば些細な量ではある、しかし妖気の消費とはすなわち弱体化を意味する。

 それは、それだけは……いずれ訪れるであろう呪いへ敗北する未来を思えば決して許容できることではなかった。

 だからこそこうして伊里髪は食費が足りない日は、妖魔を駆逐して消費する妖気を補填しなければならない。

 逆に言えば妖気さえ足りていれば伊里髪は何を食べなくとも飢えることはない、無論睡眠も同じである。

 お陰で伊里髪は月2万などという少額でも、曲がりなりにも7年もの歳月を暮らしてこれたのだ。

 とはいえこれはもはや真っ当な人の生き方ではない、確実に妖魔としての領域に片足を踏み込んでいる。

 勿論初めは不安があった、忌避感も強かった。

 けれども結局人として死なないためには、化け物としての自分を許容するしか方法はなかったのだ。

 そして今では……この瞬間のためだけに人であり続けようとしているといっても過言ではなかった。

 人としての理性の元に化け物の能力を振るう優越感、化け物としての力でもって他の人魔両者の無力を嗤う優越感。

 いつからそうなったのかは伊里髪自身覚えていない、けれども自覚はあった。

 

 ――俺はもう既に心は妖魔に成り果てているのではないか?


 だが他にどんな道があったのだろう、いや一人では生きられない人間が子供のうちから孤独に陥れば他に選べる道などはなかったのだ。

 しかしこのようなことを繰り返していればいずれは完全に妖魔へと変貌するだろう、そうなれば伊里髪という人間は消え失せ後に残るのは一匹の名もない斬魔だ。

 だから伊里髪は今日も妖魔の力に頼ることで人としての生を一日伸ばし、妖魔の力に頼ったことで人としての生を一日削ったことになる。

 けれどもどうしようもないのだ、仕方のないことなのだ。

 それも当然だ……伊里髪という一族はとうの昔に滅んでなければならないのだから

 かつて条理を強引によじ曲げたものが戻ろうとしている、ただそれが伊里髪隼人の代であったというだけの話なのだ。

 どれほど理不尽であっても彼にはどうすることもできないことであった。



 *******

 


 ――っ!?


 河原沿いを走り抜け浮遊霊や動物霊などを三体ほど倒し、そろそろ帰宅せんとした瞬間伊里髪の五感は異常なる腐臭を捉える。

 周囲を満たす己の妖気のアンテナは、しかし臭いの元を特定することができない。

 それなりに開けている高水敷の空間だが、確かに雑草が成長しきった場所などには動物の死骸程度なら隠れていても不思議ではない。

 だがそこにも何一つ隠れてはいないことを、やはり強化された伊里髪の五感ははっきりと認識していた。

 何よりもこの腐臭は、鼻に詰まるというよりも肌で感じるような悪寒じみた悪臭は……現世のモノではあり得ないと伊里髪の経験は告げていた。

 

 ――何処からくるっ!?


 段々と色濃くなる臭気に嗅覚はやられ、目に見えそうなほどの悪意によって触覚もまた異常をきたしつつある。

 襲撃の時が近づいているのだ、しかしいまだに臭いの元を見出すことは敵わず伊里髪の精神はじわじわと追い詰められつつあった。

 もし妖刀を抜いて構えられるのならば仮にいつどのようなタイミングで襲い来ようとも迎撃するのは容易であった。

 だがそれは許されない、そんなことをすればそれこそ妖刀の呪いによって伊里髪の身は心身ともに奪いつくされる。

 だから伊里髪にできることはいつでも妖刀を抜けるよう両手をあてがうことと、意識を集中し体内の妖気を全開にして臭いを放つ元凶の襲撃を逃さないようにすることしかなかった。

 妖気によって強化された感覚は空間に満ちるあらゆるものを知覚せしめ、空気の動きすら見て取れるほど。

 妖気によって強化された感覚は時の流れをも割り、一秒を一分ほどに引き延ばし描写せしめる。

 世界中がスローモーションのように緩やかになる中、僅かな変化すら逃さぬと文字通り必死の覚悟にて警戒を続ける。

 そして伊里髪は、唐突に咽返るほど強くなった臭気が己に襲い来ることに気が付いた。

 遅れて彼の意識にははっきりと、頸と胴に分かれた犬の死骸のごとき怨念が前後より同時に迫っている様子が認識できた。

 

 ――ここまで踏み込まれるとはっ!!


 既にそこは伊里髪の妖気が蔓延する領域、彼の異常感覚の支配下にある空間。

 それでもなお伊里髪に寸前まで気付かせぬほどの恐るべき隠密性に、一瞬だが驚愕する。

 運が良かったというべきか、スローモーションの世界において彼の晒した隙は死の闇に追い付かれるほどではなかった。

 すぐに我に返った伊里髪は今にも背後から頸椎をかみ砕こうとする頭部と、正面から臓腑ごと腹部を切り裂かんと爪を立て飛びかかる胴体を見据える。

 前後から襲い来る脅威を同時に見るという不可能を、妖気によって可能とした彼は一拍の間もなく我が身に降りかかる凶刃を、両方とも返り討ちにするという新たな不可能を可能にすべく妖気を練りあげる。

 物理的な枷に囚われない妖気なるものは僅かにも刻を要さずに総身へと行き渡り、彼に異常の力を与える。

 現在伊里髪の知覚能力が緩やかに世界を認識せしめている中では、空気がまるでタールのように感じられ彼の速度をも抑え込もうとする。

 だが妖気によって得た怪力ならば強引に推し進めることができよう、しかしまだこれだけでは不十分である。

 人の神経を伝わる電気信号の伝達速度には限りがある、どれだけの力があろうとも脳から発せられた指令が部位に行き届くまでは身体は動くことができない。

 だからそれをも強化する、神経の伝達経路に本来通るべき電気信号を押しのけ妖気でもってやはり強引に代用せしめるのだ。

 先ほども述べた通り妖気に現世における時の流れは意味をなさない、この合わせ技により伊里髪はスローモーションの世界の中でただ一人早回しのように動く。

 柄を握る右手を持ち上げ左手で鞘をつかみ逆に下へと下ろすことで、抜刀にかかる時間を短縮し、露わになった刃を持ち上げる動きのままに正面から襲い来る胴体を逆風にて両断。

 次に後ろから来る頸椎への攻撃が届く前に僅かに上半身を前屈させることで少しの時間を作り、さらに全屈することで体重が前に傾いたことで振り下ろした左手が振り子のように半円を描いて背後へ向かい、握られた鞘が下から腐りかけの犬の頭部を打ち据えた。

 妖刀と一体化し妖魔と化している伊里髪の攻撃は身体はおろか所有物ですら妖気を帯び、常世のものへの干渉を可能にする。

 とはいえ所詮は鞘、武器としての使用を想定されていない物での一撃は致命傷になり得ずただ獣の攻撃をずらす程度に終わる。

 それで十分だった、下から押し上げられたことで前屈する伊里髪の身体を飛び越えることとなった敵は、結果として伊里髪に無防備な背後をさらすこととなる。

 即座に姿勢を正し両手を柄にあて、剣術に言う五行の構えのうち八相と呼ばれる形をとる。

 後は緩やかな世界に沿って緩やかに行進する犬の頭部を、急速に打ち据えるのみ。

 振り下ろされた妖刀は、僅かな抵抗を受けることもなく……しかし妙な手ごたえを残しながら頭部をあっさりと粉砕した。

 一瞬遅れて切り捨てられた頭部と胴体は、空気に溶けるように消滅し伊里髪の強化された感覚をもってしても何一つ感知できなくなった。

 他の妖魔を退治したときのように妖気が吸い込まれる感触はない、それも当然だ……退治など出来てはいないのだから。

 件の異臭が完全に去ったとわかった時点で即座に刃を鞘へと納めたが、今回は時間の流れが異常であるがためか納刀し終わるまで妖刀に魅了されることはなかった。


 ――ああ、こちらもどんどん手強くなる


 犬神の呪いの執念深さと、学習能力の高さに伊里髪はやはり自分の将来が長くはないのだと悟らざるを得なかった。

 毎夜毎夜ごとに襲い来る犬神の怨霊、いくら斬りつけようともその場しのぎにしかなりはしない。

 恐らくこの呪いは伊里髪の血脈に宿るのだろう、ゆえに伊里髪が生きている限り無限にわいてくるのだろう。

 伊里髪の中に宿る妖気が妖刀さえあればいくらでも補充できるのと同じことだ、だからきっと退治は不可能なのだろう。

 当たり前だ、もし退治できるのならば彼に至るまでの何十にもわたる世代交代の最中で誰かしらがとうに退治しているはずだ。

 逆に言えばそれほどの長きに渡り抵抗を続けてきてなお、どうにかする手段を見いだせてはいないのだから伊里髪が一代で見つけることなどできようはずもない。

 だが文句を言っても仕方がない、いや文句を言える相手など――とうの昔に皆くたばっている。

 

 ――どっちにする、化け物に化するか化け物に食い殺されるか


 伊里髪に出来ることは心中にて己が身の末路を自虐気味に問いかけることだけであった。

 


 ******



 前途した全てが伊里髪という人間の全てである。

 裕無く友無く優無く有するもの無し。

 幽であり憂であり猶であり裕でしかない。

 既に諦めにその身を委ねていた彼は、もはや手を差し伸べられようとも気付くこともできずこのまま絶望の淵から飛び降りることしかできないであろう

 もはや彼はいつ死んでもおかしくなかった、いつ死んでもいいとすら考えていた。

 ただ本人は気付いていないが己の身を不幸にした呪いに屈することへのほんの僅かな拒否感が、また本人も気付いている異能を振るう歪んだ喜びが彼を危ういところで現世に押しとどめていた。

 とはいえあくまで延期でしかない、いずれ訪れる運命に逆らおうという気概はもはや伊里髪には存在しない。

 

 ――だが運命とは、人知では計り知れないからこそ恐れられる

 ――しかし運命とは、唐突なる変貌を伴うからこそ敬われる


 まさに運命とでも言うべき得体の知れない何かによって不幸な人生を歩み続けてきた伊里髪。

 その人生はさらに掻き回されることとなる。

 まるでまだ楽になることを許さないというように、まるでまだ死ぬには早いというように。

 考えようによっては今日までの抵抗は意味があったとも言えるし、余計なことを抱え込む羽目になったと後悔することもできるだろう。

 とにかく、伊里髪の望む望まぬにかかわらず変化は起ころうとしていた。

 類は友を呼ぶとでもいうように、泣きっ面に蜂が寄るようにだ。

 それが彼の絶望に追い打ちをかけることになるのか、彼に僅かながらも希望をもたらすことになるのか。

 勿論先を見通す目を持たぬ今の伊里髪にはその何一つとして到底知り得ないことであった。

 


 ******


 やるべきことを終え自宅へと戻り休息をとった伊里髪は、やはり朝が来れば嫌でも学生として登校しなければならなかった。

 義務教育というものだ、逆らえばとても面倒なことになる……それこそ妙な調査が入りでもして妖刀を取り上げられたら敵わない。

 銃刀法という法律に照らし出せば、オカルトの類を認めないこの世界はあっさりと伊里髪から命綱を奪い去るであろう。

 だから伊里髪はたとえ無意味とわかっていても学校へ通うしかない、余計なちょっかいを出されないためにも出来る限りその他大勢に合わせた行動をとるしかない。

 

 ――最も目立ってはいるけれども


 学校へ着くまでの間、影から影へと渡り歩く伊里髪を露骨に避けて歩く同学の生徒を見ながら伊里髪は自嘲する。

 しかし特に何を思うこともなく……訂正、伊里髪に気付きもせず幸せそうに歩くカップルなどを見たときは苛立ちを覚えたりもするがとにかく彼は教室につく頃には気分は悪くなかった。

 途中で校舎裏にできた足跡について騒めいている様子が可笑しかったかったのも理由の一つだろう、昨夜に補給した栄養が全身に満ち満ちていたのもそうだ。

 結局あれだけ妖気を使用しながらも、最初に狩った悪霊がなかなか良質……悪質というべきか、だったために十分妖気を溜め込むことができた。

 即ち伊里髪はさらに強くなったのだ、その事実が彼が依存する唯一の感情である優越感を向上させえているのも気分を良くしていた。

 だから総合して考えると伊里髪は本日珍しくご機嫌であると言えた、だからだろう少しは眠らずに授業を受けてもいいかと思ってしまったのは。

 まさにこれこそが運命の分岐点になることを伊里髪は気付いていない、むしろ気付いているのは教室が妙に騒がしいということぐらいだ。

 最初は例の足跡について噂になっているのだと思っていた伊里髪だが、どうにも端々から洩れ聞こえる声からは違うことを話しているように思われた。

 やはり珍しく気分が良いためか普段なら気にも留めない他人の会話に興味をもって、伊里髪は聴覚を強化しようと朝だということも忘れて妖気を使用してしまう。

 

 ――っ!!?


 瞬間溶けた鉛を浴びせられたかのような激痛が伊里髪の耳を襲う。

 大気中に満ちる陽気と体表に流した妖気が触れ合ったことで、反物質が物質と反応して消失するように一方的にかき消されたのだ。

 丹田の奥底にしまわれていた時ですら苦痛を受けるほどである、まして表面で直接触れた面が受ける痛撃は恐ろしいまでである。

 また太陽が昇る外気に触れた妖気は一瞬にてかき消されるため、陽気の満ちた時間に妖気を使えばその消費量は甚だしい。

 だから彼は普段なら決して日が昇る間に使うことなどなかったのだが、一体どんな気の緩みか我を忘れて妖気を放出した己の馬鹿さ加減を呪う。

 即座に妖気を引っ込めるが耳には焼け爛れた後のような猛烈な苦痛が後を引き、やはり重症を受けたときのように眩暈、吐気、怖気、悪寒、頭痛などが列挙して押し寄せる。

 

 ――最悪だっ!!


 余りの苦痛に伊里髪は身を動かすことも敵わず、ただただじっとして苦痛が去るのを待つしかなかった。

 

 『転校生』


 そこまでの代償を払って聞き取れたのはその単語だけであった、或いはそれほどの代償を払ったがために必要な情報は手に入ったというべきか。

 最も今の彼にそんなことを考える余裕などはなく、せっかく聞き取れた情報を吟味する余地もない。

 必死に呼吸を整えて何とか何とか我が身を襲う苦難を乗り越えることに全力を費やしていた。

 お陰でそれほど時間はかからずに段々と症状は改善されてくる、物理的な損傷でないがために受ける苦痛に限りはないがその波が引くのは早い。

 とはいえ一度害した気分は覆ることはなく、彼は自分を責め続ける。

 

 ――せっかく昨日溜めた分が帳消しだっ!!


 伊里髪は心底呆れはてる、自分の間抜けさに。

 優越感も何も吹き飛んで惨めな自分が帰ってきて……これ以上起きていても落ち込むだけだと思われた彼はいつも通り眠って時を過ごそうとする。

 しかし先ほど受けた衝撃が心にこびりつき、どうしても睡魔は訪れてはくれない。

 それでも尚も眠ろうと躍起になり顔を伏せ目を閉じる彼の耳にチャイム音が聞こえ、教師がHRを行う声が続いた。

 全てを無視して眠ろうという行為に集中する伊里髪だったが、ふいに何か妙な違和感を覚えた。

 少し考えてそれが教室中から完全に音が消失したがためだと気付いた、教師の声も生徒の身じろぎの音すら聞き取れない静寂の刻。

 一体何が起きたのかとさすがの伊里髪も興味を持った瞬間、彼は信じられない言葉を聞くことになった。


 『私は呪われています』


 ――っっっ!!!!


 もはや条件反射ともいえるほどの勢いで顔を持ち上げた伊里髪は、そこで初めて彼女との邂逅を果たした。

 美しい、世俗を知らない伊里髪をしてその言葉が即座に思い浮かぶほどの美貌の持ち主であった。

 真珠のような光沢をも感じさせるほど清らかな肌、濡れ鴉とでも称すればよいのか艶やかに揺れる長髪。

 顔立ちもまたよく整い、その表情と眼差しが健在であれば恐らくは一種の芸術品にすら思われたかもしれない。

 けれども宝玉のように輝かしいはずの瞳は薄暗く乾き淀んでおり、また何かに怯え縮こまる様子と相まって折角の魅力は伝わらずただ憐憫なる感情を抱かせる。


 ――ああ、あの目はっ!?


 見覚えのある眼に愕然とする、嫌になるほど見続けてきた眼差しに呆然とする。

 

 ――俺だ、あれは俺だっ!!


 「私に関わった人は皆不幸になりました。どうか話しかけないでください触らないでください近づかないでください」


 鈴が転がるような美しい声音は、逆に彼女の悲惨な感情を痛切に伝えてきた。

 どこまでも整った美少女は、常ならば決して孤独になどなり得ようもないはずの彼女は、懇願するように一人を望んだ。

 そして最後に彼女は一応の義務であるかのように、読ませようとする意図も込めず小さく小さく名前を黒板に書き記した。

 

 『江塚琴奈』

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