舞台裏「ヒーロー健康ランド」
実はかなり苦戦しました。(*■∀■*)
社会は慣習で動いている。以前からうすうす感じてはしていたけど、この一年は特にそれを感じる年になった。
目まぐるしく変わる社会、常識、環境。基盤から、歴史すら含めてすべて粉砕されるレベルで変貌をとげた世界にあって尚、続けられていた慣習は容易に変えられない。それは同時に、よほどでなければ変えるべきではないもの、変えなかった理由のあったものが大半である事に気付いた。これは特定のルールや法律に限った話ではなく、社会全般に根ざした構造の話である。
一つ一つがそれぞれ複雑に絡み合い、もはや全体像すら理解できないほどに膨張したのが現代社会だ。一部を変えただけでも、それがどこに波及するか分からない。長年現場で活躍していたベテランどころか、ひょっとしたら誰も理解していないかもしれない。場当たり的で洗練されていない現場ルールのようなものでさえ、結局はなるべくしてなった形である事が多いのだと。中には本当に意味のないルールまで紛れ込んでいるからタチが悪い。
それは河の構造に似ているようにも思える。そして、私たちはその河の激流に呑まれて摩耗されつつ流される小石のようなものなのだろう。
-1-
年々暑くなってく夏の過ごし方も、時代に合わせて少しずつ慣習が通用しなくなり、形を変えてきたものの一つだろう。
親世代の教室には空調などなかったというし、その上ともなればエアコンそのものが存在しなかったはずなのに、今やそんな夏は想像できない。
そんな事を、文明の危機で室温が下げられた居間で考えていた。
「なんかね、推薦決まりそう」
「へー、おめでとう?」
高校に進学したら疎遠になりそうだと思っていたお隣さんは、その激動の時代の影響故か関係が深くなっていた。
気が付けば家にいるし、お風呂に入っているし、泊まっていくし、拡大しつつある家庭菜園で何かしら育ててたりする。いつの間にか両親と仲良くなっていたりするし、両親同士も結構……あれ、むしろ私だけ蚊帳の外のような。まさか、私のポジションが乗っ取られる?
……阿古君に関してはなんか彼女のキャラクターな気がしないでもないけと、以前の社会が続いていたならこうはなっていなかっただろう。
「といっても、行くかどうかは分からないんだけどね」
「あーうん」
そんな私たちのもっぱらの話題は進路についてだ。場所は居間。飲み物は緑茶。茶請けは収穫した野菜の漬物という、まるで女子高生っぽくない光景である。
本来、真面目な学生なら進学に向けて色々と頑張っている時期ではあるけど、さすがに今の時点で明確な結果が出ているのは早過ぎるだろう。しかし、実を言えば私も似たようなもので、内定に近い回答はいくつももらっているのだ。しかも、別に打診していないような大学からのものも含む。
……そう、何故か選ぶ側なのである。もちろん試験は受ける必要があるものの、大学によってはそれさえ……って事があるかもしれないとは言われている。
まあ、傾向だけなら去年の大学進学率を見て予想できなかったといえば嘘になるのだけど、少し極端ではないかとも思う。
受験が楽になったと能天気に構える同級生や、自分たちの頃と比較して羨ましいと言う教師が少なからずいるが、冷静に考えて本当にこんな激動期に進路を決めたいのか問い正してみたい。少なくとも私は例年通りのほうが良かったとはっきり言える。
「……やばいよね。教室の中スッカスカだよ」
「ウチは再編したからスカスカではないけど、クラス自体が減ってるね」
ちなみに、再編したのは年度更新の際だけでなく複数回だ。少し前までは教師不足が叫ばれていたけど、今はそれよりも生徒不足のほうが深刻で、その結果教師の負担が多少マシになったという、いいのか悪いのか分からないパターンだ。
中退、休学者は多いし、無断欠席も多い。親の許可の上で休む者が多く含まれるのが、今の世情を良く表しているといえる。
ついでに入学生も少ない。ウチは比較的人気のある学校なので、これでもマシなほうらしく、学校によってはとんでもない受験倍率になっているのだとか。
それらの影響がモロに大学進学率ならぬ進学人数に関わってくる。いや、進学を控えるという人も増えているらしいので、率もか。
いじめなど、高校側のトラブルでドロップアウトしたわけでもないから、改めて大学を受験という形にもならない。ぶっちゃけ、教育体制が崩壊しかかっている。
具体的に廃校になった例はまだ少ないけど、それは結果が出る時期の差であって、数年後にはバタバタと廃校が続出するはずだ。
「ミナミさんなら、海外の学生がどうなってるのかとか知ってる?」
「具体的な例は知らないけど、目も当てられない状況らしいね。すでに教育崩壊済と言っても過言じゃない国ばっかり」
もちろん、留学なんて言葉はほとんど聞かなくなった。受け入れ先が減っているのだから当然だが、そもそも外国に行こうとしてないのだ。
さすがにずっとこのままって事はないだろうけど、元に戻るにせよ、改善されて再編されるにせよ先の話だろう。崩壊過渡期な今ではない。
世の中は、昔一万円だった人が見たら嘆きそうな世の中になってしまっている。
そんな中で私が気になるのは現状そのものよりも、その状況にあって既存の慣習を変えない、変えようともしない環境そのものだ。
悪いとは言っていない。少し前までなら理解できていなかったからもどかしさを感じていたかもしれないが、ここまでの推移を見て少し意見が変わった。
教育現場に限らず、既存の体制を急速に変更したほとんどは一気に瓦解した。何も考えずに仕組みを変えて崩壊したところも多いけど、多分現状を分析した上で慎重に変えただろう事例ですらだ。
一部、その改革が上手くいった例が目立ち、それに続けと構造改革をする企業・団体は多く、業界そのものがそうなっているケースも多い。
かといって、基盤ごと崩壊しそうな状況でただ静観もできない。これまでなら日和見な方針が許されていた立場でも、現状維持では確実に衰退・崩壊するのが目に見えていれば動かざるを得ない。そうして、成功例の比にならない量の失敗例を積み上げるのだ。
表面上だけでも安定しているように見えるのは、大量の資本と人材、そしてノウハウを抱え、試行錯誤と失敗が許されている大企業くらいだ。ここ数ヶ月で見ても、どれだけ知っている企業が倒産したというニュースを見たか分からない。割と知名度のあるブランドでも、その母体である企業の体力はそこまででもないという事例は結構多いと知った。
案外、これが進むと全体的に健全化するのかもしれないけど、現在だけ見ると社会が急速に崩壊しているようにしか思えない。
たとえば、これが他の国のように……日本の担当ヒーローがマスカレイドさんではなく、普通のヒーローだったらと考える事がある。
どう楽観的に見積もりしても今よりいい結果になる気がしない。当然、大学進学に悩む今のような光景もなかったはずだ。
日本がなくなっているとは思えないけど、東京が丸ごと消失している可能性は絶対に否定できないものだから。……その場合は私も死んでるか。
「ウチもさ、大学行かないでしばらく家でのんびりしてたら? なんて言い出したよ。いや、前からやんわり言われてはいたけど、三年生になってからはかなり強く言われるようになった」
「家事手伝いという名のニートか」
「明日香のお兄さんを笑えない事になるなんて……」
いや、その事例はちょっと方向性が違う気がしないでもないけど。
ただ、状況が落ち着くまで休学とか、ご両親の考えは理解できない事もない。実際、そういう考えの者はかなりいるはずだ。
「進学するにしても、就職するにしても、最低限自宅から通えるところじゃないと駄目だって。一人暮らしなんて論外」
「ご両親は不安なんだろうね」
「……そうなんだよね。分かっちゃうから文句も言えないんだよー。バイトすらできねー」
だから暇を持て余して家庭菜園を始めるのだ。阿古君は思った以上に凝り性だったのか、今では私なんかよりよっぼどレベルが高い。
「となると、選択肢はあんまり多くないんだよね。推薦とれそうな近場の大学か、専門か、ニートかって事になりそう」
「就職は?」
「進学率と比べて、馬鹿みたいに倍率高いんだよね。ウチってば一応進学校だから、あんまり就職に強くないし、それなら普通に進学かな」
「まあ、これだけバタバタ企業が倒れてればね」
新入社員を受け入れる枠どころか、箱ごと倒れている状況ではそうなる。倒れたところからの転職者が出れば尚更。
地方開発が活発化している現在、雇用がそちらに吸われているからまだマシだけど、あのメガフロート計画でそれが加速していなかったら今よりひどい不景気が訪れていた事だろう。
「ちなみにミナミさんはどうするの? 大抵のところは行けそうじゃない? なんならもう推薦内定してたり」
「うーん、今考えている本命は受かるか怪しいんだよね」
「ミナミさんでも? まさか、知らないウチに成績落ちてたとか。……ないわー」
別に成績は落としていない。生活態度に瑕疵もないはずだし、全体で見ても優等生なつもりだぞ。
「募集要項もどれだけ枠があるかも決まってないんだよ。新設校だから」
「このご時世に新設? なんてとこ? まさか遠くとか?」
「名前はまだ決まってない。一応東京都だけど、遠いのは遠いね。四国の南だし」
多分だけど、銀嶺大学とかそういう名前になるんじゃないだろうか。
「四国の南? ……え、あのメガフロートってやつ? 学校なんて造るんだ」
「小中高の一貫教育校と大学一つは確定してる。政府肝いりの計画だから、頓挫する事はない……と思う。というか、大学以外は一応もう動いてるみたい」
「でも、あそこってまだ立入禁止じゃないの?」
「関係者家族が通ってるんだと思うよ」
「あー、そういう用途」
できるだけ関係者は島内で需要を完結させたいというのが本音らしい。観光需要を狙った四国の自治体は多少宛てが外れたようだが、交通機関の整備などで恩恵自体は大きいだろう。
一応、専用のサイトでは完成予想図的なCGアートが掲載されていたりするけど、公開前の今、関係者以外はぶっちゃけ何をやっているのか分からない場所だ。裏で実情を聞かされている私としてはまずないと確信できるが、世間からは不透明に見えるはずだ。
あの手の完成予想図って、たいていの場合完成したものを見たらガッカリってパターンだし。
「そこでなんかやりたい事があるとか?」
「どんな学部ができるのかも決まってないよ。……単純に、世界で一番安全な場所になりそうだから」
「あー、確かに」
あそこがヒーロー……というか、マスカレイドさんが大きく関わっている場所という事は世間でも広く認知されている。
だから移住したいという人も多いわけだが、関連企業の社員として潜り込むのは相当にハードルが高い。黎明期の今は特にだ。
だけど、学生の身分であれば、社会人よりはかなり難易度は下がる。設立予定の学校も島勤務者の家族だけで賄うような規模ではないようだし、募集枠がある事自体は確認すれば分かるくらいなのだから。
もちろん狭き門ではあるのだろうが、私の場合、コネで捩じ込んでもらうって手もなくはないし。……いや、グレーなのは分かっているけど、こんなご時世なんだから使えるものは使うよ。
「あと、メインの目的じゃないけど、クリス君には会い易くなるね。つまり明日香君とも」
「え、なんで? ……あー、ヒーロー関連の施設だからとか?」
「いや、例の広報機関の本部がそこに置かれるんだってさ」
「はえー。じゃあ、あそこに住んでるんだ」
「それは知らないけど」
住んでない事は知っている、彼女が住んでいるのはどこにあるのか分からない謎の地下施設だ。家族揃ってそこに保護されているらしい。
時々はホテルに泊まる事もあるらしいが、仕事を含めて基本的には建物から外に出る事もない生活をしていると聞いている。
彼女にコンタクトを取りたくて仕方ないマスコミ関係者は、さぞかしやきもきしているだろう。移動時間的に、普通なら絶対間に合わない複数の場所で会見したりもするらしいし。ひょっとしたらからかっているのかもしれない。
「じゃあ、順当にいけば来年度にはミナミさんは一人暮らし?」
「受かれば、だけどね。あ、別に菜園は勝手に使ってもいいよ」
「ご両親は二人っきりになっちゃうのか。心配じゃない?」
「あー、うん。なんかね、この機会に姉夫婦が引っ越してくる事になったんだ。仕事がリモートメインになってるし、ウチの親が子供の世話もできるし」
むしろ賑やかになるんじゃないかな。
「なるほど。まだ見ぬ長女さん夫婦か。そういえば、二番目のエロミナミさんは?」
「とっきどき顔見せに帰って来るけど、戻っては来ないだろうね。自由人だし」
事情を知っていれば帰って来れるはずない事は分かる。むしろ、職務放棄して帰って来たら世界の危機を覚悟する状況に違いない。
「あ、帰っては来てるんだ。今何やってるの?」
「さあ? 親は納得してるみたいだから、やばい事には手は出してないと思うけどね。私だったら絶対に手綱外せないんだけど、ウチって代々放任主義気味だから。変な風習も多いけど」
「代々って?」
「江戸時代から?」
「おーすげー」
上手い事、姉ミナミから話を逸らせた。
まあ、姉ミナミに関するバックストーリーはあらかた決まっていて、尋ねられた時にどう返すかも決まっている。元々自由人な姉ミナミの事だからある程度は納得してもらえるが、説明が面倒な私は詳しく知らないという事にしているのだ。
さすがに今は両親も姉ミナミが何をやっているのかは知っているし、納得して受け入れている。姉がやる必要がある事なのかと言われれば謎だが、確実に世のため、人のためになっている仕事だからだ。そこは誰も否定できない。
私としては、アレは世に出してはいけない存在だと思っているから、むしろありがたくて仕方ない。このままマスカレイドさんが抑え込んでくれる事に期待だ。
「でもそっかー、クリスかー。確かに全然会ってないなー。いつかのプチ旅行以来?」
「テレビやネットでは結構見かけるけど? ほら、コレとか」
「……なんでミナミさんがクリスのフィギュア持ってんねん。ファン?」
「匿ってもらった時のお礼だって送られてきた」
「そ、そうなんだ。……ふーむ、あ、パンツ見えた」
「やめなさい」
阿古君は詳しくないだろうが、パンツに限らず、このフィギュアの造形はとんでもない出来だ。
ネット上での検証サイトで見る限り、あきらかに数万以上はする出来で、造形師が唸り頭を抱えているのだという。それが公式ショップならせいぜい数千円である。
「うーん、コレもそうだけど、あたしの中だとクリスのイメージじゃないんだよね。別人にしか見えない」
「それはまあ……」
そこまで交流があったわけじゃないけど、記憶の中にある彼女と同じ存在には見えない。いつかの、電車を間違えて取り残されていた彼女のイメージは遥か彼方だ。
「完全に他所向きで、実際に会ったら元のままって気はするんだけどね。いくら人が変わるものっていっても不安」
「なら直接会えばいい。それこそ、例の島に移住するとか」
「あたし、そこまで頭良くないんだけど」
「その手もあるけど、別にそれだけじゃないよ。政府的には怪人被害の関係者……特にクリス君の関係者は、ある程度動向を把握しておきたいらしい」
「な、何かの陰謀とか?」
「逆だと思うよ。ほら、マスコミがうるさかったじゃない? 私も、実はそんな事情があるらしいって進路指導から聞かされた」
「あー、まだ時々いるんだよね。直接的な接触はないにしても、なんか見られてるっていうか」
政府のボディーガードも混ざっている気がするけど、そういうのもいるだろう。中には職を失ったマスコミ関係者が混じっていたりもするらしいし、かなり危険なのだ。
「だから、強制的にとまではいかなくても、ある程度交流があった相手やその家族なんかは移住優先度が上がる……らしい。案外、お父上の仕事関連でそういう転勤話が出てたりね」
「聞いてはないなー。でも……という事は、ひょっとして私も推薦もらえたり? ミナミさんとまた同級生になっちゃう?」
「それは知らないけど、あり得なくはないかも。募集要項が決まってないから話に出てないだけで」
「ほー」
「興味があるなら、進路指導担当の先生に聞いてみれば?」
言えないけど、実際には希望すればほぼ確実に受かる。学費も免除されるし、生活費まで支給されるだろう。島の関連施設への就職まで幅を広げれば尚更。それくらい政府は気を使っている。クリスに対して、ひいてはマスカレイドさんに対して。金で片付く問題なら手間とも思わないだろう。
いざ入学して、授業についていけるかは別問題だけど。
問題は来年度までに間に合うかってところだけど、実際どうなんだろう。途中編入って手はなくもないけど、それだと不自然さが目立つ気がするし、できればやりたくはないだろう。となると無理やりにでも間に合わせりするのかな。
「ほー、これが完成予想図かー」
「CGの予想図だから、実物は変わるだろうけどね」
それから、政府サイトで公開されているメガフロートの完成予想図を見て、あるかもしれない未来について語り合う。
フェイクは入っているらしいが、すでに完成している施設については実物の写真も掲載されていた。
実際のところは、常に物々しい警戒態勢が敷かれ、移動手段を含めてかなり窮屈な雰囲気もあるというが、治安の面でここ以上の場所は存在しないだろう。それはヒーロー関連施設という事でテロや怪人に狙われる可能性を加味してもだ。
「おー、メイドさんがいる。すげー」
それは、自衛隊や警察に混じり、あのメイドさんたちの巡回先になっている事からもあきらかだろう。
この無表情でピースしてるのは多分……プラタさんかな?
-2-
阿古君にはあんな事を言ったけど、実のところ私は自分の進路を決めかねていた。
今の世で大学進学する事になんの意味があるのかと、かなり多くの人が抱えるのと同じ疑問を抱いているのだ。もちろん専門学校だったらとかそういう意味じゃなく、単純に道を決めあぐねている。
やりたい事があるなら、それに向かって進路をとればいい。それが大学でも専門でも就職でもいい。だけど、私は特別やりたい事はない。
あるいは自分探しの旅にでも出てしまいそうな精神状態だ。今のご時世で旅など、世界はもちろん国内だって危なくて止められるから選択肢にはならない。許されるご時世ならそもそもこんな心境にならなかっただろうから、結局同じ事ではあるのだけど。
何かしなければならないというのは自惚れだろうか。机にしまってある、安っぽい旗を思い考える。
自分は特別な立場にある。姉、ひいてはマスカレイドさんとここまで近しい立ち位置にある者はそう多くない。
同じく近しい立場のクリス君は特別になった。明日香君だって似たようなものだろう。例の大学へ進学するのだって、どこかでそれを考えていたからだ。
『これで、史上最強戦力に貸しが一つできた。贔屓だから、何に使うか良く考えろよ』
贔屓……そう、贔屓だ。本人的には別段そこまで強い意味で渡してきたものじゃないだろう。しかし、この貸しを持ち出せば極端な無茶……いや、無茶であっても強引に叶えようとする気がしてならない。その人となりを詳しく知っているわけではないけれど、なんとなくそんな気がするのだ。
そして、それは叶えられる。たとえば、月に連れて行ってと言えば悩む事もなく実現するだろう。あの旗は、そんな無茶を実現するチケット。
史上最高戦力への貸しはとてつもなく重く、強力な切り札にさえなり得る。それは日々価値を増している。
何故、私は特別にならなければいけないと考えているのか。そもそも、私は特別になりたいのか。
私が持っていた人生設計は平々凡々で、多少夢を見ようが一般的なそれの延長線上にあるものだった。だけど、間違っても平凡とは言い難い姉二人に対して、特別なものを何も持たない私がただ萎縮していただけではないのか。
これまでの世であれば、それで良かったのだろう。だけど、今は違う。大きく変容した世界は平凡な存在に許される枠を狭めている。
……平凡の淘汰は、もう始まっている。
「……つくづく劇薬だな、あの旗は」
アレは選択肢だ。本来ならあり得ない選択すら許してしまう強力なものだ。
本人が何を考えていたのかなんて知らないけど、厄介なものを渡されたと思う。
いや……ひょっとしたら、何もかも見透かして渡してきたのかもしれないとさえ考えてしまう。……考え過ぎだとは思うけど、何故だか否定し切れない。
だけど、いらないとは言えない。もちろん、投げ捨てたいとも思えない。誰かに移譲するなら考えるが、それは多分許されないだろう。
私は決断できそうにない。決められた、常識的な選択肢の中で決断する事は得意だけど、そこから逸脱する事にひどい恐怖を感じる。
だから、私は穴熊明日香を尊敬してやまない。
最初から逸脱しているような姉は論外として、クリス君はやむにやまれぬ事情があっての今だ。だけど彼女は普通を選べる立場にあった。
なのに、兄の存在や友人のためという理由はあれど枠から外れる事を自ら選び、踏み出した。それがどれだけ覚悟のいる事か。
あるいは、特になんの気負いもなしに選んだという可能性もあるけれど、むしろそちらのほうが眩しく感じてしまう。
いっそ、何かの理由で逸脱しなければならない事情でもあればいいのに。臆病な私では、自分で踏み出す事ができそうもない。
ぐるぐるぐるぐると頭の中で選択肢が渦を巻く。気が狂いそう。
……悩みの種の一つである姉から連絡があったのはそんな時の事だ。
『健康ランドに行かんかね?』
社会の動向からあまりにかけ離れた、能天気とも言える誘いを聞いて、いろいろなものがどうでも良くなりそうだった。
-3-
「はー、こりゃすごい」
いつかのように転移した先に待っていたのは、想像以上に大規模な施設だった。田舎の大型ショッピングモールがこんな感じと聞いた事があるけれど、実際に目の当たりにするとただ圧倒される。
周りを見渡すと、割と近くに多分、以前私たちが海水浴に来た海岸らしき場所が見える。あの時はこんな目立つ建物はなかったから、新たに造られたものなのだろう。こんな謎空間がある時点で考えても仕方ないけど、改めて超常現象にビビる。
「あ、ミナミさん」
そんな建物の入口前にボーッと立ち尽くしていたら、中から人が出てきた。明日香君だ。
「ごめん、あまりの事に呆然としてた。ここ、前に来たところだよね?」
「そうみたい。あそこに見える海の家とか、前に使ったやつ」
「だよね……」
いや、海が用意できる時点で超常現象なんだけど、あきらかな人工物……海の家のような簡素なものではなく、ここまで大規模ならものを突きつけにれるとまた違った印象を抱いてしまう。
案内されて入った内部も、極々一般的な……多少高級な部類に入るだろうスパリゾートのものにしか見えない。ただ、他の客どころか従業員すらいない空間は異様ではあったけど。
「それで、ウチの姉……というか、他の人は?」
「えーと、姉ミナミさんはあっちの部屋で卓球してた」
「……卓球」
いやまあ、別に変ではないんだけどね。あまりに普通過ぎて違和感が強い。
こんな大規模なリゾート施設で温泉旅館みたいっていうのもあるけど、そもそも超常現象みたいな場所でやる事かと。
「ちょいやっ!!」
「うわーーっ」
大型遊戯室と書かれた部屋にまでやってくると、確かにウチの姉が卓球をしていた。すでに風呂上がりなのか髪をまとめた浴衣姿で、ついでに言うと大戦相手も同じように浴衣姿で。
「なんというか、なかなかにダイナミックな絵面だね」
「だよね。なんかだんだん白熱してきちゃったみたいで」
激しく打ち合う度にムダに巨乳が揺れる。周りを気にもしていないのか、はだける浴衣もそのままに。クーパー靭帯へのダメージやばそう。
姉ミナミだけならともかく、二人揃って何をしているんだって感じである。最早、卓球ではなくエクストリーム巨乳卓球とかそういう名前で呼ばれる別の競技だ。
ぶっちゃけ、ラリーは続いてるものの、どちらも別段上手くはない。なんというか、未経験者特有の、バタバタして危なっかしい感じ。
「というか、あの二人はなんで浴衣なの?」
「なんかね、昨日からここに来てるみたいで」
「泊まり?」
「うん」
「二人で?」
「うん」
「…………」
まあ、それなら分からないでもない……けど、あの二人で一晩過ごしたのか。一体どんな空気だったのか、どんな話をしたのか気になって仕方ない。
「あれ、そういえば、マスカレイドさんは?」
「兄貴? 来てないけど。元々来る予定だったのが、直前になって面倒になったって」
「はあ……」
引き籠もりの感覚なんて分からないし、ついでに男性の感覚も分からないけど、普通は女の中に男一人って嫌なのかもしれない。
てっきり来るものだと思って身構えていたのに、拍子抜けしてしまった。
「ちくしょーっ! 向こうから誘ったクセに、直前になって面倒臭いとか言い出しやがってーっ!」
「こっちだって、直前まで変な妄想で頭いっぱいになってたのにドタキャンとかふざけんなーっ!!」
……あの二人、会わせていいものか不安だったけど、なんで意気投合してるっぽいんだろう。ギスギスするよりはいいけど。
その後、グロッキーになるまで打ち合いを続けた二人は、近くにあった畳敷きのスペースで物言わぬ屍と化した。
二人とも、浴衣がはだけて大変な絵面になっている。見せる相手はいないのに……って、いたらさすがにこんな格好はしないか。
「で? そんな乳ほっぽり出して寝転がって、何あったのかな、不肖の姉よ」
「乳は関係ないでしょ……いやその……いろいろありましてね、妹よ」
それは見れば分かる。だいたい想像も付くし。詳しく聞いてみれば経緯はこうだ。
・仕組みは知らないが、とにかく新しい福利厚生施設として超巨大な健康ランドができたので行こうぜという話になった。
・前回のアレな海水浴の反省もあり、姉ミナミは内心奮起。普段別の事に割いている処理能力の大半を脳内シミュレートに使い妄想。
・予防線を張らなかったためか、極々自然に参加者が前回メンバーに追加クリス君の形になる。
・少々思惑とは違ったものの、ヘタレな姉はそれならそれでと妄想を修正。
・マスカレイド、面倒になる。
・どうせ女だらけだし、女子会気分で楽しんで来いと全力でぶん投げられる。
・盛大に梯子を外された姉。そして、現地でそれを聞かされたクリス君。
・なんか文句を言い合いつつ、温泉入って食事して寝て起きたらこんな事になっていた。
「……って、温泉?」
「そこに食い付くんだ」
「いや、健康ランドって言ってたからてっきり普通の……ああ、そりゃこんな超常的な施設なら温泉も用意できるか」
「日本の主要な観光地のモノに似せた成分の温泉を各種用意してます、はい」
それはすごい。……いやまあ、そこまで温泉好きってわけでもないんだけど、心は躍る。
というわけで、何故か用意されているパンフや案内板の紹介を見つつ、利用コースを計画する。
……というか、広過ぎでしょこの施設。一日使っても十分の一も回れそうにない。
「よーし、じゃー本日二回目の温泉巡りへゴーッ!」
「おーっ!!」
そんな感じで先行組二人の謎テンションに押され、大人しくついていく事にした。
ここのルールとか知らないから仕方ないけど、なんか変な成分混ざってないよね、ここの温泉。
-4-
「はー、なんか悩んでたのが馬鹿らしくなってくる」
疑似日本名泉巡りでふやけるくらい浸かっていたら、進路の事がどうでも良くなってきた。
いや、進路は別にどうでも良くなっちゃまずいでしょ。どうでも良くなったのは、ウダウダと身の丈に合わない悩みを抱える事だ。
「なんか悩んでたの? ミナミさん」
「つい、ふらふらと自分探しの旅に出そうだった」
「なんでっ!?」
一緒の湯に入ってきた明日香君は不思議そうな顔をしている。私としてはそちらの決断力のほうが不思議でならないんだけど。
ちなみに、姉とクリス君の巨乳コンビはサウナループでキマりに行っている。意気投合しているようで張り合っているような、奇妙な絵面だ。
「君は、クリス君のマネージャーになる時悩まなかった?」
「ひょっとして進路の話? うーん、なんとなくだけどしっくり来たというか、それが一番いいって素直に思えたっていうか」
「クリス君にとって?」
「私にとって」
そうはっきりと言い切る明日香君はやはりすごいなと思う。普通なら絶対に抱くだろう迷いのようなものが感じられない。
「というか、多分進学はする事になると思うよ」
「あれ?」
「多分クリスもだけど、例のメガフロートの大学に。すぐかどうかは分からないし、四年で卒業できるかはもっと怪しいけどね」
「……ああ」
なるほど。そういうルートもあるのか。てっきり、今の仕事に専念するのだと思っていた。
クリス君の場合、高認を受けても根本的に学業が難しいと考えていたけど、あそこなら様々な問題が排除できる。多分、唯一の選択肢だろう。
「とはいえ、馬鹿兄貴たちが言っている次のイベント次第ってところが大きいかもしれない」
「……ひょっとして何か聞いてる?」
「世間でそうじゃないかって言われてる事の答え合わせくらいは」
「となると、来年頭の動向次第って事か」
「あーうん、どうなんだろうね」
歯切れが悪い。何か藪を突いてしまったのかもしれないが、この感じだとそこまででもないのか。
「現段階だと、兄貴と姉ミナミさんの予想でしかないんだけどね。ひょっとしたら今回は短期で終わらないかもって」
「…………」
ああ、そうか。普段はできるだけ思考から遠ざけていたから思い浮かばなかったが、これまでの傾向や現時点の情報から見ればあり得なくもない。
「長期の陣取り合戦かな。特に海とか空とか、ひょっとしたら地中とかも舞台にした」
「すごいね。予想まんま」
「考えないようにしてただけで、多分予想付いている人は多いと思うよ」
ネットでそんな話を見た事あるし。
となると、例の月支配の件もそれを睨んだもの? いや、さすがにその規模は不自然だから、先手を打ったとかそういう事かな。
「つまり四月……私たちが進学する時期になってもイベントが続いてる可能性があると」
「そう予想してるみたい。となると、悠長にキャンパスライフしている余裕あるかなって」
ヒーロー陣営としても見ても、政府陣営として見ても実働部隊から距離はあるだろうから、別に通えない事はないだろうけど、スケジュールや物理的な問題でなく世界が大混乱になっているだろう状況でって話だ。
マスカレイドさんが極力被害を出さず、早期決着を狙ったとしても、世界規模の戦線をすべて支え切れる気はしない。
個では限界がある。……なんか、それを加味しても斜め上のパワープレイで解決してしまいそうな気もするけど。
「考えても仕方ないか。よし、私は私の道を歩く事に決めたよ」
「悩んでたんじゃ……」
「言っただろ? 温泉に浸かってたら馬鹿らしくなったって」
私ごときが悩んで、下手に違う事に手を出したところで足を踏み外すだけだ。安易に慣習へのメスを入れて崩壊した事例を見て、自分がソレよりマシなんて自惚れはしない。できる事、自信のある事の範疇で全力を尽くすのが私らしさだろう。
「何かできるかもしれないからって、必要もないのに逸脱する必要はないって事。だから普通に進学する。ひょっとしたら春から同級生かもね」
「はー。良く分からないけど、いいと思うよ」
明日香君は私の悩みを知らないけど、わざわざ相談するまでもない。アレはそういうものと考える。
「なるほど、さすがミナミの名を冠する者。己の領分は見極めると。実に至言です」
「うわあっ!?」
「ぶはっ!?」
唐突に逆側から声をかけられ、思わず跳ね上がった。高く舞い上がった波が明日香君にかかるが、びっくりしてそれどころじゃない。
「え、えーと……メイドさん? え、あ……えーと、明日香君もごめん」
おそらくは面識のある。だけど、パッと見ではそのどれか区別がつかない金髪美少女がいた。
「これは失礼。どうも、プラタです。いえ、実はですね。今回私は己の領分を顧みず、メイドとしての越権行為とも呼べる暴挙に出てしまったのです」
「は、はあ……」
妙に淡々と喋るから、いまいち深刻度が分からない。言葉の意味だけ聞けば問題のある行動をとってしまったのかなんて思うけど。
「つい、アルジェントに奉仕させるのも面白いかなと、こうして慰安休暇に来てしまいましたが、実に性に合わないのです」
「どこかで休暇とれって言われて来たんじゃ……」
どうも、明日香君は彼女がここに来る事自体は知っていたらしい。
「いえ、どうにも落ち着かないのです。メイドとしての本分を忘れて温泉休暇など……皆様への奉仕役として来たアルジェントへ嫉妬を抱いてしまうほどに」
聞いてると至極どうでもいい話っぽかった。
「今頃、あやつは私が苦悩している事を見透かし、ほくそ笑んでいる事でしょう。風呂上がりの私に冷たいものを差し出してニヤリを勝ち誇るのが目に見えるようです。かといって、一度休むと決めたところを明確な理由もなしに放棄するなど奉仕者としてのプライドが……うごごご」
なんか、頭を抱えながら沈んでいった。
「そういえばミナミさん、あとでメイクの練習させてもらってもいいかな。クリスだけじゃなくて、場数踏みたいんだけど」
「え? ああ、いいけど……というか、ちょっと興味ある」
何度もお風呂に入る事前提なら、そこまで苦にもならないだろうし。
そんな感じで、世界が緊張に包まれる中、女子会のような健康ランド体験は幕を下ろした。
姉たちはあと一日泊まっていくらしいけど、私はさすがに日帰りだ。泊まりなんて言ってないし。
-5-
そのあと、吹っ切れた私は正式に志願書を出し、これまで通りの生活に戻る。少し前までとはあきらかに違うだろうけど、極普通の、受験を控えた学生としての生活だ。
思った以上に健康ランドの体験は大きかったのか、実に晴れやかな気分だった。
そして、十月。私は一時的に雲の上にいた。
「まさか、飛行機で学校見学に行く事になるとは……」
「四国って遠いんだねー」
目的地は四国でなく、その更に南である。とはいえ、交通機関が整備されていないだけで、本来はそこまででもないはずだ。
本来想定されているルートは多分……船になるんだろうか。距離的に、橋をかけるのはさすがに厳しいと思うんだけど。
学校見学のため、小型の飛行機でメガフロートへと向かう私と阿古君。
結局、あれから阿古君も志願書を出したらしく、私と同じように厳正な抽選の上で見学ツアーに参加する事となった。
まだ受かってもいないのに、こんな極々少人数のツアーに二人揃ってなんて、とんだ厳正もあったものである。
「向こうにクリスもいるんだよね。どうしよ、あんた誰とか言われたら」
「さすがに忘れてないでしょ」
「でも、私の知ってるクリスって鶏頭だしな」
「それはさすがに馬鹿にし過ぎだと思うよ」
……そう、クリス君や明日香君がメガフロートにいる事は公式のスケジュールで決まっている。
この先行見学ツアーに合わせる形で、メガフロートの開設式典が行われるとの事で、それに出席するわけだ。
来年度、学生として移住する者は専用の出席枠が用意されているそうだが、一般の枠はとんでもない倍率で、本当の意味で厳選された来客で大々的に完成を祝うらしい。ますます、裏事情が透けて見える抽選である。マスコミなんて、席が取れなくて業界全体で阿鼻叫喚らしいのに。
「ど、どうしよミナミさん。今更緊張してきた……」
「え、クリス君に会うのが?」
「いや、飛行機が」
「もう飛んでいるのにっ!?」
相変わらず独特のペースで気が抜けるけど、変に気を張らなくていいかもしれない。
そんな私たちのやり取りが面白かったのか、近くの席に座っていた別の見学者の子と仲良くなって会話をしていたら、あっと言う間に目的地へと着いた。
真新しい飛行場は閑散としていて、他の飛行機も見当たらない。羽田に比べるようなものじゃないだろうけど、そこまで大きくない規模はこの飛行場の用途が限定的なものてある事を示している。
そして、その狭い空間にあって、結構な物々しさの警備体制が敷かれていた。なんというか、全体的に黒や茶っぽいカラーが目立つ。
そんな雰囲気に当てられたのか、他の見学者の中にも萎縮している子が多い。
「な、なんか厳戒警備って感じ。ここは、パスポート忘れたってネタを披露したほうがいいかな」
「当たり前だと思うよ。式典というか、このメガフロートは世界中から注目されているし」
海外からの賓客はほとんどいないはずだけど、それでも皆無じゃない。政府の重鎮だって数多く出席している。テロの標的になる可能性だってないとは言えないだろう。
とはいえ、それを実現できるとは思えない。全力の限りを尽くしたらしい警備体制もあるけど、ヒーロー陣営から見てもこの式典は一つのターニングポイントなのだ。何かあればメイドさんたちが飛んでくるし、場合によってはマスカレイドさんも出動すると言って待機しているらしい。
裏では電子的な工作も多いらしいけど、大量のアンドロイドがそれも尽く無効化し、反撃までしているのだとか。テロ目的でなくとも、こっそり覗き見しようとしただけで大ダメージになりそうだ。
だから、物々しい空気ではあるけれど、私としてはあまり心配はしていない。普通に考えるなら何も起きるはずのない状況なのだから。
しかし、怪人の蔓延る世の普通が、私の想像できる範疇に収まるはずないという事を改めて思い知らされる事となるのだ。
多分、ここまでが五巻収録になるはず。(*■∀■*)