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彼の幸せはわたしのお腹のなか

作者: たいちうみ


 母を亡くした私の前に現れたのは、ぞっとするほど美しい男のひとだった。

 おいで、と差し出された長い指の白さに、雨音のすべてが無になった。


 そのひとが連れていってくれたのは、新緑のやさしい色を映した離れだった。五月の梔子が甘く香っていた。

 今時にしてはちいさなちいさな家だった。けれども少女が暮らすには充分だった。

 彼は実彦と名乗った。少し風変わりだと思った。

 実彦はとても優しかった。昔のことも花のことも土のこともとても詳しいのに、自分については全然語らなかった。だから私は彼の透き通るような首筋に赤くてまっすぐな線が走っている訳をきけずにいた。よく考えたら彼がどこの家のひとでいくつなのかも知らなかった。

 いちど訊ねたとき、彼は薄く笑った。

「きみはね、ぼくの娘であり母でもあるんだよ」

 私はその意味がわからなかった。実彦の答えはいつもそんなふうだった。

実彦は毎日いるわけでもなくて、数日にいちど、気づくとやってきていた。

「近ごろはいろいろと面倒なことになってしまった。きみを立派なひとに育てて嫁がせるのも、ずっとぼくの手元にというわけにいかなくなってしまって」

 実彦がいなくても、母屋にいる母の弟夫婦が世話をしてくれた。学校もこの人たちのはからいでつつがなく通えた。

 父はすでに亡く、他に親戚もなく、母も逝ってしまった。そんな私が不自由なく暮らせたのは、実彦と彼らのおかげだった。

「私の母とね、京ちゃんのおばあさんがお友だちだったんだよ」

 おばさんが見せてくれた古いアルバム。母屋の留守番を頼まれた折にこっそり引っ張り出したことがあった。

母が大人でないこと、祖母が母や叔父によく似ていること、私にはどこか不思議に思えて、好奇心がふくらんだ。

 ぱたりとページをめくった私は、もうひとつよく知った顔そのままのひとと目が合った。

 似ているのは母も祖母も同じ。けれども、襟の合わせに見える、白黒の写真にうっすらと微かに走る線が、私には赤く浮かび上がって見えた。

 顔を上げると、彼は写真から飛び出してきていた。

 私は言葉を忘れて、平面の首を撫でる。それで事足りたようだった。

「ぼくだよ」

 彼の返事もそれだけで充分だった。すとんと私のなかに入ってきた。

写真の彼も目の前の彼も変わらず美しかった。

 長い睫毛を伏せて、実彦はゆっくり語った。

「ここ百年とすこしで、ずいぶん世が変わったよ。この時分はまだ新しいものに浮かれていたのだがね」

「実彦はいくつなの」

 覚えていない、と彼は言う。

「はじめはね、ちよ、だった」

 実彦は長い間ずっと国じゅうを彷徨いつづけていたという。昔は他所からやってきた人は今よりも珍しかったけれども、只人なくても生きやすかったのだと。

 彼が初めて、ずっとここにいたいと思ったのは、ひとりの姫君と出会った地。

 千代姫はそれほど有名な家の娘ではなかったが、良き許婚がおり、戦の気配はまだ遠く、幸せに暮らしていた。

 実彦はすぐに彼女を想うようになった。けれども一人娘を慕う異物を恐れた千代の父は、実彦に死を与えんと切りつけた。けれども実彦は死ななかった。もうそれより何百年も前から、彼は死ねないひとだった。

 実彦の傷から流れた血は大蛇となり、姫の父の躰に巻きついた。彼が怒らなくても加えられた害は跳ね返る。

 そこに千代姫は泣いて請うた。自分が嫁ぐから父を許してほしいと。

 実彦はようやく伴侶を得た喜びを味わえなかった。姫は実彦よりも許婚が好きだと知っていたから。代わりに約束させた。姫を娶らない代わりに五代おきに娘を差し出すと。その誓約を立てることで当主は許された。

 以後、家は相応以上の身分も富も得ないかわりに荒れることもなく、幾度の難を逃れて今日まで血をつなげてきた。彼は五代おきに姫の子孫である娘を娶り、彼女たちが死ぬまで添い遂げつづけた。そして次の妻が生まれてくるのを待つ。

「君で四代目」

 実彦は笑った。

「君の生む子が、ぼくの次の花嫁だ」

 それまでのどんなときよりも穏やかな声で、実彦は座る私の膝に頭を乗せ、私のお腹に触れた。いつもの美しい指で、宝物を愛でるような手つきで。

「女の子を、二人か三人くらい生んでくれたらよいのだけど」

 一人は花嫁、その他は家と彼らを守る番人として。叔父は三代目の番として、母の代わりに実彦と四代目の私を守っているのだという。

 のちに私は、母が周囲の反対を押し切って駆け落ち同然に父と結婚して私を生んだと知った。

 実彦は私たちの血にとりついた異形だった。けれども、叔父もその妻である叔母も、なぜか彼を好きだった。そして、私も。

「私は、実彦のお嫁さんになれないの」

 彼は薄いまぶたを貝のように閉じた。

「だめだよ、君は四代目だもの」

「私でもいいじゃない」

「決まりなんだ、ずっとぼくらが守ってきた」

 五代おき、という約束が彼と私をつなぎ、縛めている。

 私は彼のきれいな髪を手で梳いた。さらさらと流れ、ぬるい夏の雨のにおいがした。

「大丈夫、ぼくらはずっと一緒だったから」

 私の服に頬を寄せ微笑むその美しさは、不死ゆえのものか。

 お腹がゆるりと熱くて痛かった。まだ見ぬ我が子が未来の夫を恋しがっているかのように。

「君をすてきな女のひとに育てるよ。そして幸せな恋をするんだ」

 彼に百年とすこしぶりの花嫁を捧げるために。

「こども、生まれないかもしれないよ」

「それはないさ」

 そういうふうにできているもの。

 彼はまぶたを閉じたまま仰向けになった。

 残酷なまでに美しいその顔を、外の花を摘んで埋めて窒息させたくなった。そしてその花弁のふちに、そっと口づけをしたくてたまらなくて。

 そういえば窓を開けていた、と風と木々のざわめきを聞いて気づいた。蒸せ返るような緑の薫りが私と彼を包んだ。



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