夕立の二人
その雨は突然、夕暮れの街を濡らした。まったくついてない。孝介は軽く舌打ちをしながらスポーツバッグを頭の上に持ち上げ、傘代わりにして小走りした。
思えば最近ついてないことばかりだ。たとえば今日の部活なんかがまさにそれで、普段ならしないようなくだらないトラップミスで顧問の教師にこっぴどく叱られた。もう当分、サッカーボールは見たくない気分だ。
あるいは、自分を取り巻く環境の変化がそう思わせているのかもしれない。
いつかの夕食の席で、母から再婚の話を知らされたときには、素直に「良かったね」と笑顔をつくることができた。最近、両親が離婚するだとか、再婚するだとか、そういう類の話をクラスで耳にすることもなくはない。別段、珍しいことでもないはずだ。だから自分が特別に不幸だとか、そんな風に考えたことはない。そんなことをして悦に浸れるのは、世の中知ったような顔して生きている馬鹿な中学生か、外面だけ大きくなった視野の狭い高校生だけだ。そして自分も、どうしようもなくそんな高校生に違いないのが、たまらなく悔しかった。
母の話を受けてから、自分に家族が増えることを何度か想像してみたことがある。いつだって自己欺瞞に思えてならなかった。
新しい父親になるサジョウという男には、連れ子の娘がいると聞かされている。すんなりと仲よくなれる自信なんて、なかった。肉親ではない人たちと食卓を囲んで、昔から仲のいい家族みたいに振る舞うだなんて、きっとできやしない。
そんな孝介の鬱々とした思考を体現するように、雨脚はしだいに強まっていった。どこかで雨宿りをしよう。周囲を見渡すと、塀に屋根のついていない住宅ばかりが目に入るなか、少し先に寺が見える。門に広い屋根がついているのを確認すると、孝介はその寺に向かって駆け出した。
屋根の下につくと、そこには先客がいた。成人しているかどうかは知れないが、おそらく年上であろう、着物姿の女性。軽い会釈を交わして、二メートルほど横に立つ。
しばらくそうしていると、どうにも気になってしまって、自然と視線が横を向く。
月並みな表現ではあるけれど、とにかく美人な人だと思った。やわらかそうな黒髪を肩のあたりで切りそろえて、その隙間から覗く、透き通るような白い肌とのコントラストに孝介は思わず息を飲んだ。
「これ、変わった着物でしょう?石田縞っていうのよ。」
孝介の視線に気がついたのか、唐突に話しかけられた。思わず声が上擦ってしまう。
「石田縞、ですか?」
いわれて視線を向けてみると、なるほど確かに特徴的なストライプ柄の着物だった。
「うん、福井のほうの名産なの。聞いたことないって顔してるね。」
「ええ、その、すみません…」
「謝るようなことじゃないわ。」
女性はひらひらと笑ってみせる。雨にぬれた黒髪も、同じようにゆらゆらと揺れた。そんなちょっとしたしぐさに、孝介は自分の鼓動がどうしようもなく早まってしまうのを感じた。全身の温度が上がる。だが不思議とそれは熱さを感じさせず、むしろ心地よかった。雨水に冷やされ、雨音に静められた孝介の心に、その暖かさはじんわりと広がっていった。
雨のやむ気配はない。ただひたすらにアスファルトに打ち付けられながら、街を濡らしていくだけだ。
早織は雨が嫌いではなかった。湿ったような匂いも、人の気配を感じない静寂も、普段なら心を落ち着かせてくれるものだが、隣に佇むすっかりと濡れてしまった少年を見ていると、早くやんでくれないものかと考えてしまう。
濡れて肌に張り付いているシャツや、水滴の浮かぶエナメル生地のスポーツバッグから考えて、高校生だろうか。丈夫そうな男子高校生とはいえ、これでは風邪をひいてしまうかもしれない。
「あの、福井県の出身なんですか?」
雨空を眺めるふりをしている早織に、少年は唐突に尋ねた。
「うん。この町に引っ越してきたの。」
ああ、びっくりした。石田縞のことが気になったのだろうか。それとも、沈黙に耐えかねて話題を振ってくれたのか。なんとか平静を装って答えたものの、これは心臓に悪い。でもやはり、年下であろう少年にたじろいでしまう姿は見せられない。
快活に会話を交わすようなタイプなのだろうか。今一度、少年のほうをよく見る。少年の頬は若干赤く上気していて、その視線は前に置かれたスポーツバッグに向けられている。どうやら少年のほうも、初対面の早織と話すのは少なからず緊張するらしい。なんだ、たいして変わらないじゃないか。早織は立ち込めていた雨空に、ふと晴れ間が見える情景をイメージした。そうしていると何だか、隣に立つ少年が赤の他人だとは思えなかった。
「この近くの高校に通ってるの?」
「あ、はい。今日は部活の途中で雨が強くなっちゃって。それで何だか、中途半端な時間に帰されちゃったんですよね。」
確かに、部活帰りというには少し時間が早いようにも思える。きっと少年も自分と同じように、雨が降るなんて思わなかったのだろう。早織は、新しい町を開拓したいがために、天気予報を見ることをしなかった今朝の自分を恨んだ。
「引っ越してきたばかりなんですよね。このあたりに住んでるんですか?」
「ええと、実はまだ家には行ったことがないの。私だけ今朝この町に来て一日いろいろ見て回ってから、父親と合流して家にいく手筈だったんだけど…」
「あいにくの雨ですね。」
最後を引き取った少年の顔にはまだ少し緊張の色が見えたが、きっと彼本来のものであろう明るさが見えた。そしてそれは、早織も同じだったのかもしれない。沈黙を破るためではなく、単純にそうしたいから、早織は少年に話しかける。
「でも私、雨は嫌いじゃないよ。『遥か届かないあの空の匂いを、雨は連れてきてくれる』わけだし。」
「映画か何かの台詞ですか?」
「前読んだ小説の雨の場面で、そんな表現があって。すごく素敵だと思ったんだけど、ナチュラルに会話で使うとかなり恥ずかしいね、これ。」
「ですね。」
少年は初めて早織に笑顔を見せた。学生らしい、明るくて爽やかな笑顔だった。早織はふと、緊張からでなく、自分の顔が火照っていることに気がついた。そして密かに、やっぱりもう少し、雨が止まなければいいのにと願った。
ああ、もう少し雨が止まなければいいのに。孝介はこの心地いい時間を噛み締めるように、目を閉じて、ゆっくりと湿った空気を吸いこんでから、それをまたゆっくりと吐き出す。もう、濡れたシャツが肌に張り付くのも気にならなかった。それくらいに、体の奥から溢れる熱を感じていた。
自分は果たして、この名前も知らない女性を好きになってしまったのだろうか。馬鹿な、きっとそれは幻想だ。頭のどこかで冷静な自分が、孝介を諭す。この不思議な状況が、まだガキな自分を盛り上げてしまっているだけだ。数日も経てば忘れるし、もう会うこともないだろう。こんな雨宿りのような恋は、雨が上がれば終わるのだ。理性が熱を冷ましていく。確かに、その通りだ。第一、こんな高校生を相手にするだろうか。熱が消えそうになっているのを感じた。
いや、違う。孝介は目を閉じて唇を噛み締めた。ここで諦めれば必ず後悔する。熱は覚悟となって、再び孝介を包む。ずっと聞くべきだったことを尋ねるべく、口を開く。
「あの、お名前、聞いてもいいですか。」
女性はすこし驚いた顔をして、それからまたすこし微笑んで答えた。
「佐城、早織です。」
どこかで聞いた名前だなと思った。そして思考は、すぐに思い当たる節に行き着いた。
ああ、そうか。それなら今日引っ越してきたというのも納得がいく。孝介は、もうすぐ佐城孝介となる少年は、静かに悟った。
「初めまして、今日あたりから佐城孝介といいます。」
早織は少しきょとんしてから、目を丸くして驚いていた。その様子が可笑しくて、孝介は声を出して笑った。新しい家族のことをたまらなく不安に感じていた自分自身を、笑った。
「お姉さんって呼んでもらってもいいんだよ。」
「違和感がなくなったら、そうします。」
どれくらい時間が経っただろうか。雨脚はだいぶ弱まっていた。真実を知った後でも、熱は冷めそうになかった。こんなにも可笑しくて、幸せな話がほかにあるだろうか。
「それじゃあ家に帰ろう、孝介君。」
すぐ隣、孝介の頭より少し下のところで、早織の柔らかそうな髪が揺れた。
「ええ、お姉さん。」
夕暮れ、小雨の降る中家路についた。孝介は隣を歩く、石田縞の裾をひらひらさせながら微笑んでいる早織を見て、ああ、もうすぐ雨はあがるだろうなと予感した。