走れ!決戦兵器!弾丸列車!
太平洋戦争末期の日本軍の決戦兵器と言えば、読者の皆さんは何を連想するだろうか?
超大和型戦艦?噴進式戦闘機?百トン超重戦車?
それとも、殺人光線?原子爆弾?
どれも完成には程遠かったので、筆者が決戦兵器として挙げたいのは「弾丸列車」である。
「弾丸列車」とは「弾丸のように高速で走行する列車」という意味で、高速鉄道のことである。
装甲列車を除けば自ら戦う訳ではない鉄道を決戦兵器に挙げるのを疑問に思う読者もいるであろう。
だが、戦争で最も重要な「兵站」の一部である「輸送」を担う鉄道は、戦略的に重要な兵器であり、まさに決戦兵器と言っていいだろう。
鉄道が発達する以前は、歩兵たちは文字通り戦場まで歩いて移動していたし、補給物資は荷馬車で細々と運んでいた。
しかし、鉄道網が発達すると、戦場の近くまで兵士たちも補給物資も列車で迅速に大量に輸送されるようになった。
鉄道は後方から前線への輸送だけでなく、近代戦では最も重要な国の生産力を維持して増強するために使われる。
現代においても自動車よりも鉄道が大量輸送については優位である。
原材料を工場に運び、工場の生産物を各地に大量に運ぶのに鉄道に勝るものはない。
さて、日本の東京から大陸への輸送で最も使われたルートは、東海道本線・山陽本線で下関まで行き、そこから朝鮮半島の釜山への連絡船に乗るルートである。
太平洋戦争が始まる数年前、国の発展に伴い東海道・山陽両本線の輸送量は旅客も貨物も激増した。
大陸へ連絡する輸送量も増加し、既存の鉄道施設では輸送力は限界になると予想されたのであった。
両本線の輸送量は国鉄の総輸送量の約三割を占めており、輸送力の増強のために速やかに対策を立てるのは急務であった。
軍事的だけではなく、社会的にも経済的にも輸送力増強は必要であった。
鉄道省では新しい幹線鉄道の建設が計画された。
もちろん、新しい鉄道を建設するのではなく、在来線の改良も検討された。
線路等の鉄道設備がそのままで輸送量を増加する方法としては、1列車当たりの輸送量の増大、列車本数の増加などがあるが、両本線ではこれらによる対応策は限界であった。
在来線の線路を増設する手段もあるが、それだと在来線にとらわれない新しい別の線と比べると、勾配・曲線等は劣ったものになり速度向上は望めず、工事のための費用は新しい別の線を造るより高くなる。
そこで、新しく別線を建設することにして、検討の結果二つの案にまとめられた。
それが、狭軌別線案と標準軌別線案である。
狭軌とは二本のレールの間の長さが1067ミリのことで、標準軌とは1435ミリのことである。
二本のレールの間の長さを軌間・ゲージと言うが、イギリスで誕生した世界初の鉄道の軌間が1435ミリであり、それが国際的な軌間の標準になったため、「標準軌」と呼ばれている。
明治の始めに日本で最初の鉄道が開通した時、狭軌が採用された理由については諸説ある。
その内の一つは日本に鉄道を指導したイギリス人が標準軌より費用が安い狭軌を勧めて、日本側が採用したからとされている。
「弾丸列車」でも前述したように狭軌と標準軌どちらにするのか検討された。
狭軌は標準軌に比べて建設費用は約半分という試算であった。
しかし、弾丸列車に採用されたのは「標準軌」であった。
その理由は、標準軌は狭軌より大きな車両が使用できるので輸送量が増加する。
列車の速度においても狭軌より標準軌が優れているのは明らかであった。
狭軌である日本国内では昭和5年から東京・大阪間8時間の特急「つばめ」が走り始めて、最高速度は時速95キロであった。
それに対して標準軌である大陸の満州で昭和9年から走り始めた特急「あじあ号」は、最高速度は時速120キロであった。
輸送力における標準軌の優位は明らかであり、「弾丸列車」は標準軌で建設されることになった。
東京・下関間の開通を目指して建設は進んだが、太平洋戦争の開戦により、対アメリカの戦争が重視されて、大陸との輸送のための弾丸列車の建設は一時中止も検討された。
しかし、陸軍が「大陸での中国との戦争は継続中であり、将来ありうるソ連との戦争に備えるためにも弾丸列車は必要である」と主張したため建設は続行となった。
そして、昭和20年1月1日、弾丸列車は開業日を迎えることになった。
本来ならば盛大な式典が催されるべきであったが、戦時中のため小規模であった。
東京駅を出発した一番列車には一般の乗客は一人も乗ってはおらず、乗客は大陸の戦線に送られる兵士たちと公用の役人たちだけであった。
戦時中には観光旅行は禁止されていたからだが、日本初の高速鉄道としては寂しい出発であった。
初期の弾丸列車は、現在ならば高速鉄道と言えば誰もが思い浮かべる各車両に電動モーターが設置された「電車」ではなく、蒸気機関車や電気機関車が無動力の車両を牽引していた。
戦時中のため弾丸列車で重視されたのは旅客列車よりも貨物列車であった。
以前は、下関に到着した貨物列車から大陸行きの貨物が降ろされると、下関の港で釜山行きの連絡船に積み込まれる。そして、船が釜山の港に着くと、釜山の駅で貨物列車に積み込まれる。
このように、船での貨物の積み降ろしに手間が掛かっていた。
しかし、弾丸列車が東京・下関間に開業すると同時に、新型の連絡船が下関・釜山間に運航された。
その連絡船の内部には標準軌のレールが敷設されており、貨車を直接船に積み降ろしできるようになった。
朝鮮半島・満州の鉄道は標準軌であり、これで日本本土と大陸で直接鉄道車両の遣り取りができるようになったのである。
弾丸列車が太平洋戦争で最も活躍したのは戦争末期のことであった。
昭和20年8月1日ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して、対日戦に参戦したのだ。
日本はナチス・ドイツが降伏した昭和20年5月からソ連が兵力を極東に移動しているのを察知していたので、元々は本土決戦用に用意していた部隊を弾丸列車を使って満州に送り込んだ。
日本が本土の守りを薄くしてまで満州に兵力を移動したのは、アメリカの極東における戦略の変更が理由であった。
ドイツが降伏して残る枢軸国は日本だけとなり、アメリカが盟主である連合国側の勝利で戦争が終わるのは確実であった。
「戦後」のことを考えたアメリカ政府は、ソ連の「取り分」が多過ぎるのではないかと考えるようになったのだ。
すでに東欧諸国がソ連の属国になるのは確定しており、その上で満州・朝鮮半島までソ連が占領するのは、「取り分」として多過ぎると判断したのだ。
しかし、ソ連に言葉だけで手を引くように言っても言うことを聞くわけがない。
アメリカとソ連は同盟国同士であったから武力で脅すこともできないし、アメリカには満州・朝鮮半島に派遣できる兵力も無かった。
そこで、アメリカ政府は日本政府に対してソ連の対日戦争計画についての情報をワザと漏らしたのだ。
漏らした情報により日本が兵力を満州・朝鮮半島に移動させれば、日本軍にソ連に対抗してもらえるし、日本本土は手薄になるので、アメリカにとっては二重に好都合だからである。
日本政府も情報を漏らしたアメリカの思惑を推測したが、敢えてアメリカの思惑に乗った。
ソ連に占領されるよりアメリカに占領された方がマシだと考えたからである。
日本が本土から満州・朝鮮半島に兵力の移動を始めたのを確認すると、アメリカは日本本土への空襲の手を緩めた。
特に弾丸列車への空襲は禁止となった。
そのため日本軍の兵力移動は円滑に行えた。
弾丸列車により満州に送り込んだ兵力により、日本軍はソ連軍の侵攻を満州南部で食い止めることに成功した。
もし、弾丸列車が無かったら日本軍の兵力移動は上手く行かず。ソ連軍に満州全土が占領され、朝鮮半島にまでソ連軍が攻め込んでいたというのが歴史の定説である。
前線への兵力の輸送だけでなく、後方への民間人の避難民の輸送にも鉄道は活躍した。
昭和20年8月8日正午、昭和天皇の玉音放送により戦争は日本の敗戦で終わった。
アメリカによる占領と国の改革を受け入れた。
日本は数年後に独立国として再出発することになった。
日本は戦後の冷戦体制の中で西側に所属することになり、満州・朝鮮半島は日本から独立した。
朝鮮半島は「朝鮮民国」となった。
満州はソ連に占領された北部が「満州人民共和国」となり、西側陣営の南部が「満州王国」となった。
東西ドイツと並んでソ連崩壊による南北満州の統一まで冷戦の最前線となった。
戦後、昭和39年に東京オリンピックに合わせて、営業運転で最高速度が時速200キロ以上の画期的な超特急用新型電車0系が開発された。
「弾丸列車」という名称は平和の祭典であるオリンピックにふさわしくないということで「新幹線」と名称が変更された。
現在では本州・北海道・九州・四国を結ぶ新幹線による鉄道網が完成している。
日本列島だけではなく、対馬海峡トンネルにより海を越えて直接新幹線は朝鮮半島・満州に乗り入れており、中華人民共和国が経済解放してからは北京行き直通列車が走っている。
新幹線は旅客輸送だけでなく貨物輸送も重要な位置を占めており、日本・満州・朝鮮・中国の物流を支える重要なインフラである。
戦争中に決戦兵器として建設された「弾丸列車」であるが、平和な今でも「新幹線」と名を変えて、日本の経済と国民の生活を支える重要なインフラであると筆者は考えている。
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