公募ガイド 虎の穴 第9回 投稿作品 『水面』
第9回課題
背筋も凍る怖い話。思わずぶるっとくる怪談を
「水面」 あべせつ
向こうから男が渡ってくる。
夏の日の夕刻の薄闇のせまる中、仲間と川遊びをしていた辰也は、その男の気配に気づき顔を上げた。
男は水の中を胸までつかり、音もなくこちらに向かって歩いてくる。
辰也は何かしら怪訝に思い、その姿を凝視するが、男はうつむき加減に顔を伏せ、さらには目深にかぶられた麦わら帽子のせいで表情が見えない。
男が進むと水面がかき分けられて、左右に波が立つ。男はまるで消音したテレビのようにしずしずと近づいてくる。
何気なく見ていた辰也は、その瞬間、あっと声を上げそうになった。
この川は両岸こそ浅瀬になっているが、中央部分は相当深く、人の背は立たない。
並の人間ならば歩いて渡ることなど、到底できないことなのだ。
それに気づいた辰也は仲間たちに声をかけ男の存在を知らせた。
「見えた」のは辰也の他には一人だけ。
他の少年たちには男の姿は見えないらしい。
辰也は見えた和彦と顔を見合わせた。
「麦わら帽子、かぶってるよな」
二人の蒼白な顔に最初は悪ふざけだと思っていた仲間たちも一斉にその方向を見据えた。
誰もいないはずの水面に切り裂かれていく波頭。その波の切っ先が速さを増した。
見つかったことに気づいた手負いのシシが襲い来るような緊迫感に満ちている。
見えないはずの少年たちも、得体のしれない不安に満たされ、ざわめきだした。
「見える」二人は男の姿から目を離すことができない。見ちゃいけない、見ちゃいけないと思いながらも、体は硬直したままだ。
あと数メートルというとこまで来たとき、男がふいに顔を上げた。
辰也は男と眼が合った。怨念に満ちた深い底なし沼のような禍々しい二つの穴。
そこに引き込まれたら、永遠に虚無をさまようだろう闇の深淵だった。
「これは、やばい」
辰也の体中の血が沸き立ち、毛穴という毛穴が総毛だった。
固まる辰也の横で、和彦が逃げろと叫んだ。
その声で呪縛が解けたのか、皆が蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げた。
辰也も和彦と一緒に高台の神社に向かって走り出した。
神社仏閣なら、ああしたものは近づいてこないだろうと思ったからだ。
しかし男は追ってきた。
神仏への恐れを忘れるほどの恨みがあるのかと、そら恐ろしく二人は後ろも顧みず、自宅まで駆けに駆けた。
和彦の家にたどりつく頃には、男も諦めたのか、姿が見えなくなっていた。
二人はようやく安堵した。
和彦と別れ、辰也は一人自宅に戻った。
四階までの階段を上がる間も、あの男が来るのではないかと、何度も振り返ったが気配はなく、玄関を開け見慣れた我が家にたどり着いた時には、へたり込みそうだった。
母はまだ仕事から戻っていない。
部屋は日中の暑さを留め、熱気に満ちている
辰也は外の風を入れようと、窓を一気に開け放し・・・
「ギャアー」
辰也は声にならない悲鳴を上げた。
窓の外の格子にべったりと張り付くあの男の姿が。
その二つの漆黒の瞳は明らかな意思を持って辰也を凝視していた。
彼は辰也を選んだのだ。
辰也は卒倒しそうになる自分を叱咤激励し、震える手で窓を閉めた。
カーテンを固く閉め、布団を頭からかぶって、ひたすら男が入ってこないことを祈った
翌日、辰也は熱を出した。
「あらまあ、夏風邪かしらねえ」
母親は心配したが、辰也はどうしても母親に話すことが出来なかった。
話せば心配をかけるだろうし、また信じてももらえないだろう。
母親に厄災がふりかかるかもしれない。
二三日寝込んだけれども、その後、辰也はすっかり元気になった。
連れて行かれずに済んだようだ。
それから辰也は川には行かない。
完