第1章 おまえはもう死んでいる その1
その1 おまえは、もう死んでる
もう限界だ。
もうこうするしかないんだ。
僕は旧校舎の屋上へと向かう階段を駆け上がっていた。
五月最後の月曜日のことだ。
ちょうど一時間目が始まったところで、階段に他の生徒の影はない。みんな今頃ノンキに授業を受けてるはずだ。これなら誰にもジャマされずにすむだろう。
とはいえ、そんなにノンビリしてはいられない。
途中で教頭とすれ違った。こいつはふだんちょっと生徒がふざけてるのをみつけただけで、どこまであるのかわからない額を真っ赤にして怒り出すハゲ親父だ。けど、今日は僕のあまりのいきおいに恐れをなしたんだろうか。「授業をサボって屋上に向かう生徒の姿なんて見えません」と言わんばかりにスルーしてくれた。
そろそろウチの担任に連絡がいってる頃かもしれない。
とっとと済ませてしまおう。
ウチの中学の旧校舎は四階建で、しかも隣にあるのはアスファルトの駐車場だ。あそこから落ちて命があるとは思えない。
そういえば、最近同じ三年生の女子が屋上から飛び降りる事件があった。詳しくは知らないけど、たしか救急車が来たときには死んでいたって話だ。
きっと僕も、あっという間にあの世にいけるだろう。
* * *
いろんな事情を取っ払って簡単に言うと、僕はクラスでイジメを受けていた。
クラスメイトに無視されたり、教科書を隠されたり、殴られたり蹴られたりはしょちゅうだ。体育の着替えのときにパンツを脱がされたこともあったし、千円以上のお金をもってることがバレたら放課後にはきっちりカツアゲされていた。
イジメのきっかけは、半年前、クラスメイトのほんのささいな一言だった。
僕の鼻の下には、二つつながるようにホクロがある。
「おまえなにハナクソつけてんだよ?」
最初に言ったのは吉沢アキラだった。吉沢は、学年に六、七人いる柄の悪い連中のリーダー的存在だ。それ以来、僕のあだ名は「ハナクソ」になった。
よく、「イジメはイジメられる側にも原因がある」なんて言うヤツがいるが、そんなヤツに僕は聞いてみたい。
僕のどこが悪かったのか? ホクロがあるのがそんなに悪いのか? 僕のホクロが誰かにメーワクかけたか?
毎日毎日、人間とは思えない扱いを受けながら、半年間僕はじっと耐え忍んでいた。中学生活もあと一年で終わる。それに夏休みになったらみんな高校入試一色になるから、そうそうくだらないイジメなんかにかかわっちゃいられないだろう。もう少しの辛抱、そう思っていた。
それなのに今朝、とうとう我慢の限界を突破する出来事がおこった。
今から五分ほど前のことだ。僕が教室に着くと、机の上に花瓶が置いてあった。
葬式ゴッコのつもりらしい。
それ自体は、別に珍しいことじゃなかった。吉沢たちのグループがよくやる嫌がらせだ。花瓶を片付けようとするときっとまた殴られる。僕は、そのまま机に着席した。
クラスのみんなはそんな僕の様子をチラチラと眺めている。
みんなの目つきはいつもと同じ。まるで「ドナドナ」の歌にある、売られて行く子牛を見ているようだった。
僕にはわかっている。彼ら全員が僕をイジメたいワケじゃない。
みんなは吉沢たちを怖がって逆らえないだけなんだ。
そう考えたら僕がイジメられているのもそれなりに意味があるってことだろう。僕がいなくなれば、他の誰かがやつらにイジメられるに決まっている。
一時間目は英語だ。英語の汐下先生はうちのクラスの担任だった。先生が来たら、この花瓶を移動させよう。それなら吉沢たちも文句を言ってこれないはずだ。
とりあえずそれまで、僕はまるで本当に死んでるかのように息を潜めていることにした。目を閉じて自分に言い聞かせる。
(僕はもう死んでいる。ここにいるけど、もうここにはいないんだ)
五分もしないうちにチャイムがなって、汐下先生がやってきた。
彼はまだ二十代後半で、オジサンというよりはオニイサンに近い。けっしてイケメンじゃなかったけど、スラっと背が高くて明るい好青年教師は生徒に結構人気があった。汐下先生が担任になってまだ二ヶ月だっていうのに、もう数名の女子が先生に本気になってるってウワサだ。
その汐下先生はクラスにイジメがあることを知らない。僕は何度か先生に相談しようと思った。先生なら何とかしてくれるんじゃないか、そんな期待はあった。それと同時に、イジメられているカッコ悪い自分を知られたくないという気持ちもあって、結局、後の気持ちのほうが勝ってしまっていた。
英語の教師なのにいつもジャージを着ている汐下先生が、今日は珍しくスーツ姿だった。先生は教壇に立つなりハンカチを目に当てる。
僕は花瓶を動かす許可をもらおうと、さかんに手を上げた。けれど、どういうわけか、先生に全く無視されてしまう。
それどころか、先生はみんなに向かって驚くようなことを言った。
「みんなも知っての通り、昨日、下条聖二君が自殺しました」
はあ?
下条聖二が死んだって?
いきなり何を言い出すんだ、この人。そんなことありえないだろ。
だって、下条聖二は――僕なんだから。
「先生、何言っちゃってるんですか?」
僕は椅子を蹴倒すように立ち上がると、大声で叫んだ。
でも、先生は僕の言葉に耳を貸す素振りすら見せない。先生だけじゃなかった。クラスのみんなが僕を見向きもしない。
「下条、なんで死んじゃったんだ」
突然、吉沢が泣きそうな声を上げた。しらじらしい。見え透いた猿芝居だ。
それを聞いて、僕はやっとこれが吉沢たちの仕組んだ葬式ごっこの一環だってことに気がついた。にしても、汐下先生までこんなくだらないイジメに加担するなんてひどすぎる。
先生だけは味方だって信じてたのに……
僕はいたたまれなくなって教室を飛び出した。何も考えずにただ廊下を走る。そして気がついたら旧校舎の屋上へ向かう階段を上っていた。