第五幕 北国街道血舞
戦場は人を狂わせる。それは神とて同じ。
血の匂いが、数多くの死体が、略奪がすべてを狂わせる。
だから夜は怖い。
血も死体も夜の闇に隠れてしまえば残ったのは狂った、狂ったつもりだった小さな自分の心だけ。
戻ってはいけない。また明日も殺し合いをしないといけないのだから。
戻った者は戦場から逃げる。
今の平家は負け戦。夜が来るたびに兵が消えてゆく。
それがまた、他の者に飛び火する。
もちろん知章にも。
怖い。怖くて仕方ない。
だから、胡蝶が欲しくて仕方ない。
(何を考えている!
その胡蝶が祟り神となる仕打ちをしたのは我ら平家ではないか!)
闇夜を見上げながら、知章は必死に心を静める。
それは己の狂気よりも胡蝶に対する欲情を糊塗するかのように。
「どうなさいました?
知章様」
闇夜に囁くのは胡蝶の声。
鎧を外した胡蝶の姿は、都の姫君のように美しく艶やかだった。
「どうして、私について来てくれた?」
あの夜から繰り返し問うた言葉。
まるで呪詛のように知章は己の口から吐き出す。
「惚れたからではいけませぬか?」
胡蝶の言葉も繰り返しの答えを繰り返すだけ。
それ以上は何も聞いてくれるなと言わんがごとく。
「わからないんだ。
今でも胡蝶ならばこの身体八つ裂きにしてくれてもいいと思っている。
それだけのことをしたはずなのに……
何故許せるのだ?」
胡蝶の体を抱きしめたいのを堪えて半ば自身に問う形で知章は尋ねる。
胡蝶はその葛藤を知っているのか知章に近づこうとしない。
「嬉しかったからです。
貴方方があの島に来てくれた事。
あの管弦の宴。
射貫かれて倒れた私に涙してくれたこと」
「けど、私は何もしていない。
郎党達が胡蝶を射るのを止めれなかった。
倶利伽羅峠で棟梁以下を谷の底から救うこともできず、今の戦では胡蝶を助けることすらできない」
ぽつりと漏れる知章の苦悩。
それに対する答えを呟いて胡蝶はまた闇の中に消える。
「けど、忘れ去られるより……ましです……」
寿永2年(1183年)五月 加賀 安宅の渡
「来るかな?」
その言葉は疑問として。
「来ますとも」
その言葉は確信として。
船橋は一昼夜をかけて平家軍を対岸の篠原の方に運び終えていた。
残すは平経正率いる一万と各地で留まりながら安宅に向かってくる殿のみ。
これだけで、木曽勢五万を迎え撃たないといけない。
「手はずは?」
「整えております」
斉藤実盛の言葉を聞きながら平経正は命ずる。
「斎藤実盛。
そなたに兵三千と殿の指揮を預ける。
お前の判断で動け」
「はっ!ありがたき幸せ!
この斉藤実盛にお任せください!」
その間にも、伝令が次々に情報を持って来る。
「木曽本隊!小松を通過!
こちらに向かってきます!!」
「畠山重能殿到着しました!
預けられし兵の殆どが討ち取られたとも事!」
「小山田有重殿から伝令!
今井兼平と交戦中!
後詰を頼んできております!」
「平知章様から伝令!
平景清殿と合流し楯六郎と山吹御前相手に奮戦しておるとの事!」
状況は悪い。
思った以上に木曽軍の足が速く、このままでは平家軍本隊すら補足されかねない。
「経正様。先にお渡りください。
後は斉藤実盛が引き受けまする」
斉藤実盛は平経正を促す。
一瞥して平経正は警護の騎馬武者と共に橋を渡ってゆく。
その姿を見届けて斉藤実盛は戦場になろう地を見つめる。
「皆の者!平家の勇猛ぶりを木曽勢に見せてくれようぞ!!」
それは、平家が倶利伽羅以後初めて行う能動的攻勢だった。
同時刻 小松 木曽本陣
木曽軍の追撃はかなりの打撃を平家の殿に与えていた。
とはいえ、木曽軍とて全て状況が優位に進んでいる訳ではない。
「もはや兵糧が……」
巴が書状を受け取り義仲に差し出す。
それは、加賀国人衆からの兵糧の提供拒否の書状だった。
加賀はこの合戦にて兵糧だけでなく、人の損害も多くこれ以上の戦に耐えられなかったのだ。
平家が敗走するならばしてくれ。
後は越前あたりの者に負担してもらえというのが偽りない本音だったのである。
平家は安宅の渡で渡河中で本陣は篠原まで出ている。木曽軍を邪魔していた殿は安宅の渡の方に退却しており、今井兼平、楯六郎、山吹御前等が追撃をしていたが思うような効果をあげていない。
「どうみる?巴?」
義仲は巴に尋ねる。
「おそらくは、誘っているのでしょう」
巴の意見に義仲も同意する。
木曽軍が騎馬の機動力を使って篠原の平家本陣を突いたなら、安宅にいる軍勢が逆襲して木曽軍を挟み撃ちにするつもりなのだろう。
逆に安宅を叩けば、篠原にいる平家軍は越前に逃げ込んで叩けなくなる。それは兵糧に不安のある木曽軍にとって絶対に避けなければならなかった。
かといって、軍を分けるのは愚かの極み。兵は集中して運用してこそ力が出る。
考えこんでいると本陣の外が騒がしくなる。伝令が来たらしい。
「伝令ぇ!」
駆け込んだ騎馬武者が馬から下りて本陣諸将全員に伝令を伝える。
「楯六郎殿より伝令!
平家隊合流し我らと合戦中!
女狐の奮戦で我が方押されております!!」
「今井兼平殿より伝令!
平家側に新手が現れて我が方押されております!
平家新手の大将は斉藤実盛殿とのこと!!」
場が一瞬静まり、耐え切れずに義仲が笑い出す。
「あっはっは……そうか……あの老体、まだ戦場で馬を駆っていたか!!」
敵としてではない響きで斉藤実盛の事を笑う。
「では……」
巴も嬉しそうな声をあげる。
安宅方面には例の女狐がいる。
「ああ。
全軍を挙げて安宅を叩く!
篠原の平家は京で潰してやるから、安宅の平家を皆殺しにしろ!!」
荒々しき獅子の咆哮で義仲が叫ぶ。
義仲はこの決断で、二つの運命が決まってしまったことを知らない。
篠原の平家三万は京まで逃れてのちに義仲に禍根を残すことと、文学史上「倶利伽羅峠の火牛戦法」 におとらない名場面となる「安宅の沈み橋」の舞台に上がってしまったことを。
北国街道 安宅の渡付近
合戦というのは騎馬の数が勝敗を決める。
その機動力、馬上からの高さ、馬そのものも武器(蹴り倒されて無事な人間などいない)である。
だからこそ倶利伽羅峠で大量の騎馬を失った平家はこの戦全体の敗北を覚悟し、負けない戦を展開していた。
安宅から篠原にかけては柴山潟・木場潟などに囲まれた湿地帯であり街道からそれると騎馬での移動は著しく制限される。
そんな場所で平家殿と木曽追撃隊の死闘が佳境を迎えていた。
安宅を守備していた平家軍が合流。
矢を放ち、薙刀で囲んで湿地に捕まった木曽の騎馬武者を一騎、また一騎と葬っていっていく。
多くが討ち取られたとはいえ殿は本軍に合流するためにも全員が騎馬武者で構成されており、木曽軍の追っ手の方が追撃戦で討ち取られた兵力を補充していなかった。
それは、倶利伽羅以後初めて騎馬も兵力も平家が圧倒するという事を意味していた。
「ひるむなぁ!押せやぁ!!」
揺れる白旗。動揺する郎党。乱戦の中把握できない戦場。
「おぅ!
そこにいるのは六郎殿ではないか!」
「兼平殿!どうしてここに…」
平家の郎党を切り捨てながら盾六郎は今井兼平の元に駆け寄る。
「小山田有重を追っていたらここに来た。おぬしは?」
「こちらも平景清を追ってきたのだが、平家の殿全てがこの安宅に集まっているみたいだな」
今井兼平は軽く首を振って矢をかわす。
さすがに木曽四天王の二人の周りには誰も近寄ってはこない。
「後詰は?」
盾六郎の問いに今井兼平はにやりと笑う。
「既に出しておる。
何しろあれではの……」
今井兼平はある方向を見つめる。
「巴殿が戦いたがっていたあれか。
我らでも危ない」
その方向、激戦地では女武者二人が血と死体に戯れていた。
北国街道 最激戦地
「私に触れるなぁぁ!!」
鉄扇一閃で郎党達が倒れる。
ある者は首を飛ばされ、ある者はかまいたちで真っ二つに分かれ、手足を切り取られてのた打ち回っているものもいる。
「女と生まれて言い寄る男を喜ばぬか!祟り神!!」
一閃で平家郎党を刀で切り捨てて山吹御前が叫ぶ。
その手には葵御前の形見となった青白い光を放つ薙刀が光を放ち続けている。
「ふん!
黄泉に行きし者の形見すら使うか!人間!!」
胡蝶の皮肉も乱戦では中々相手に通じない。
胡蝶一人を狙うのでは無く平家軍全体を狙うほうに山吹御前が作戦を変えた結果、この乱戦が繰り広げられている。
当然平家側も山吹御前に群がり胡蝶に近寄せない。
その結果が郎党を切りながらの罵倒合戦となっている。
「我らが平家を祟る手間を省いてやったのに!
感謝される覚えはあっても恨まれる覚えは無い!」
胡蝶よりも獣じみた動きで郎党を切り捨てる山吹御前の烏帽子が飛び、長い黒髪が血霧と共に舞う。
「ほぅ。
ならば感謝として今度は木曽を祟ってやろう!
受け取れっ!!」
鉄扇一閃。
山吹御前はかわしたが、胡蝶のかまいたちに逃げ送れた数人がまだ犠牲になる。
「邪魔!」
「退けぃ!」
女武者二人の血の舞踏で郎党たちも間合いを取り始めるが、二人が刃を合わせる。口もでる。
かくして、罵倒合戦に変化が現れたのは木曽軍の叫び声だった。
「援軍だぁ!後詰がきたぞぉ!!」
安宅の北、小松から向かってくる無数の白旗の群れ。
「この勝負、預ける!」
「逃げるなぁ!卑怯者!!」
山吹御前の罵倒すら胡蝶には心地よい。
「何とでも言うがいい」
馬首を返して引き上げようとする胡蝶。
それを阻止しようとする山吹御前と平家郎党との間でまた小競り合いとなる。
「行かせないわ!囲めぇ!」
山吹御前の一声で胡蝶の周りに郎党と郎党が取り囲む。
「邪魔だぁ!!」
数え切れないほどの薙刀が胡蝶を捉える前に空に飛び上がり、一気に駆けてきた知章めがけて降りてくる。
「胡蝶!」
刀を捨て手綱を放して胡蝶を抱きしめる。
その衝撃で落馬しそうになるが、女性一人支えきれずに武士を名乗っていられるかと必死に耐えて戦場から離脱する。
最大の目標が後方に下がったこともあり、急速に戦そのものは収まっていった。
「ひとまず休んで……後はそれから……」
悔しそうに山吹御前は敵陣を見つめる。
「みとめてあげるわ。
あれは、私では勝てない。
けど、それを義仲様に貫けると思う?」