第四幕 葵御前散華
寿永2年(1183年)五月 加賀 北国街道途中 木曽軍本隊
街道に沿って屍が並んでいる。
折れた旗は白いのも赤いのもあるが、立っているのは白い旗。
矢が刺さり、刀や薙刀で切られ、馬に踏まれて血と泥に塗れた平家の兵士達は二度と起き上がることができない。
「終わりました。
平忠教以下千騎を討ち取りました」
ため息をついて刀をしまうのは巴。
忠教を討ち取ったのも彼女。
勝てる勝負だったとは言え、虐殺に近い形で人を殺した後に罪悪感が残る。
「殿か」
ぽつりと呟く大将木曽義仲も言葉が重い。
平清盛の末弟として平家一門として権勢を支えていた男がまた一人散った事に哀愁を感じずにはいられないが、彼の死によって木曽本隊が平家本隊を補足し損ねた事の方が重要だった。
手取川では一人の祟り神に進撃を邪魔され、渡ってからは決死隊に進路を妨害される。
木曽軍は騎馬を先行して渡河させて追撃に移っていたが、騎馬の無い平家軍は殿を置いて本隊を逃がし、彼ら全員は手取川から北国街道沿いに次々と討ち取られていった。
だが、木曽軍も損害が大きい。
何よりも、その先々で起こる小規模な合戦に巻き込まれて大軍が動けず、合戦を終えた後の将兵を動かせないという理由もある。
「兵糧は?」
「持ってあと一月かと。
信濃に兵糧を送るよう伝令は伝えておりますが、安宅で捕まえないと」
義仲の質問にすらすら答える巴。
「我らも飢えるか」
「はい」
木曽軍もぎりぎりのとこまで来ていた。
だが、平家も必死なのだ。
「あの平家の殿は例の?」
「ええ。あの女狐です」
治承4年(1183年)五月 加賀 北国街道途中 平家軍殿
「ええい!何故討ち取れぬ!
敵は一人のみぞ!!」
木曽方大将である野宮八郎光宗の叫びはもはや悲鳴に近い。
三千いた軍勢のうち雑兵は逃げ出しているし、騎馬武者はあらかた討ち取られた。
相手は徒歩。こちらは騎馬なのに立っているのは徒歩の方。
無数の返り血を浴びた彼女は、遠巻きに囲んでいる木曽側の雑兵など気にしない様子で血塗られた鉄扇を振って血を拭っている。
この戦闘だけをみればどちらか勝者か分からない。
加賀国人衆にとって、胡蝶というのは祟り神の名に相応しい災害を振りまいていた。
加賀国府攻撃で加賀国人の纏め役だった林光明を討ち取られ、手取川では退却渡河中の平家軍をほぼ一人で支えつづけた。
さらに巴御前との一騎打ちの詳細が伝わるにつれその恐怖と功名心が入り混じり、「加賀国人の名にかけて胡蝶を討ち取れ」が加賀国人集の合言葉になった。
木曽本隊が騎馬で平家殿を迂回して平家本隊を叩く間、殿を引きつけておけばいいという巴の進言に従わずに、胡蝶に猛攻をかけて屍を大量生産しているのにはこんな理由がある。
「ええい!この化け物……」
野宮光宗の罵倒がそこで終わったのはその化け物に首を飛ばされたからである。
光宗とその化け物の間は雑兵が壁になり十分な間合いを取っていたのに、胡蝶の獣のような跳躍を誰も止められなかった。
「失礼ね。
祟り神だっていっているでしょうに」
首の無い光宗の体が地面に落ちる。
その様子を見て胡蝶はゆっくりと囲んでいる雑兵ににっこりと微笑む。
「で、次にこうなりたいのは誰?」
雑兵が逃げ出すさまを眺めてそのまま平家側の方に足を向ける。
殿という事で数少ない騎馬を全員に与えられた平家側約千騎にはまったく被害が出ていないのだが、皆一様にその顔が青い。
(敵にならなくて良かった)
一人を除いた平家側全員の心の叫びが青白い顔から浮かんで見える。
「何をしている!水を持て!
代えの服と鎧を持ってこい!
胡蝶。せめて血を洗い流してくれ」
味方にすら恐怖される胡蝶をただ一人恐れなかったのは殿の大将として志願した知章。
知章は何もしていない。矢すら放っていない。
胡蝶だけが戦をしていた。
それが悔しい。
できることなら知章も共に戦いたい。
だが、少しずつ将として成長していた知章はここで騎馬を失う愚を知っていた。
だから、せめて知章にできるのは胡蝶を見つめる事のみ。
その暖かさを胡蝶も分かっていた。
平家将兵の前で鎧を脱ぎ鎧直垂も脱いで裸になる。
黄金の髪に大きく突き出た狐耳、白い身体は赤く染められていた。
木曽方将兵の返り血はそこまでこびりついていた。
胡蝶は淡々と水をかぶり、血を洗い流しておく。
血塗られた夜叉から神々しい姫に胡蝶が戻ってゆく。
知章以下平家将兵は誰も動けない。
胡蝶の裸の禍禍しさと神々しさを見せ付けられたから。
身体を拭き、新しい鎧直垂を身に付け鎧を着なおす。
「来ます」
ただ一言胡蝶がつぶやく。
その耳は迫りくる騎馬の音が聞こえていた。
その鼻は荒々しい武者の匂いを取らえていた。
だが、その目はまっすぐに知章を見詰めたまま。
やがて、数騎の騎馬武者が姿を見せる。
「ふぅん。
次は楽しませてもらえそうね」
同時刻 北国街道途中 木曽軍追手
(この体、もはや持たぬ……)
木曽軍にも中での争いというのはあり、そんな中でも女の争いは激しい。
才あり、男勝りの無双を平家相手に見せる巴御前に、同じく勇あれどもそれに溺れずに木曽義仲の側に控える山吹御前と違い、葵御前はそんな武勇を持っていなかった。
それゆえに人外の力を頼ったのだ。
その代償に日々精気を吸われている葵は命を代償に無双の力を得ていると言っても良かった。
その選択が愚かしいとは葵は思っては居ない。
ただ、途中で倒れるのが悔しいとは思っているが。
(ならば、その力を持ってあの祟り神を鎮めなければ。
それが義仲様への最後の奉公になろう)
雪のように白くなった肌は昼間でも青白く光る薙刀の光を返し、病的な美しさを見せる。
それは、蝋燭が最後の輝きを放っているのに等しい。
「見えた!
これより先は私一人で構わぬ!
祭られし祟り神よ!
わが命をかけてそなたを鎮めん!!」
「平家十万を呪いし我が力を一人で鎮めるか!
やれるものならやってみるがよい!」
互いの啖呵の切り合いから葵は徒歩のままの胡蝶に馬を走らせる。
鉄扇の刃を広げて胡蝶は一閃、挨拶代わりのかまいたちを送るが、その空気の刃は葵が持っていた青白い薙刀によって切断される。
そのまま葵の薙刀が胡蝶に振り下ろされるが、澄んだ刃音が胡蝶の鉄扇によって防がれた事を脇から駆けた葵に教えていた。
「ほぅ。
面白い技を使う。
木曽の巫女よ。
何を捧げた?」
同じ人外であるからこそ、葵が持つ薙刀の異様さを胡蝶は人目で見抜く。
今の葵にとって、胡蝶に一太刀浴びせるごとに命が削れるようなものだからだ。
葵の雪色の肌に無数に汗の玉が浮かぶ。
己が捧げた精気に、胡蝶から発する禍々しいまでの呪詛を一身に浴びているからに他ならない。
「この姿を見て、わからぬか?
祟り神」
「わかっておるが、もたぬぞ。
あと数太刀も残ってはおるまいて」
間合いを取って葵が肩で息を吐く。
その息からも命が零れ落ちるのが、胡蝶には見えていた。
「なんの。
祟り神を鎮めるには十分な生よ!
参る!!」
葵は一気に胡蝶めがけて駆けてゆく。
胡蝶も、鉄扇を張りなおして葵めがけて飛ぶ。
「させるか!」
捕らえたはずの薙刀は地面を突き刺すのみ。
胡蝶はその薙刀の横にいた。
葵は薙刀を振るのを諦めて馬で跳ね飛ばそうと前脚を胡蝶に叩きつけようとするが、胡蝶はそれも読んでいた。
「捕らえた!」
「ぐっ!!」
葵の薙刀を掴んで一気に葵を落馬させる。
乗り手無き葵の馬が暴れたので葵と胡蝶は再度間合いを取らざるを得ない。
「やってくれたわね……」
葵の薙刀を掴んだ際についた傷の治りが遅い。
それだけの代償を葵が払っている証拠である。
「諏訪大社に奉納されし一振り。
効いたか?」
葵の薙刀そのものが業物だからこそ、これだけの力を捧げられたのか。
静かに青白く輝くその薙刀にて葵は胡蝶に切りつけるが、胡蝶は扇を開いて葵の薙刀をしっかりと受ける。
だが、先ほどつけられた傷の痛みが刹那の時だけ胡蝶の対応を遅らせる。
それは、命を捧げて薙刀を振るう葵には十分な隙だった。
鉄扇は開ききった体はがら空き。
そこを葵が一突きし、左肩にその青白い薙刀が深く刺さる。
胡蝶の垂れた左腕から血が止まらない。
「あははっ!
祟り神を恐れぬか!
上等ぉ!!」
胡蝶は葵めがけて鉄扇を閉じて突き刺そうとするが、その突きは葵に届く事は無かった。
その突きが届く前に糸が切れた人形のように葵が崩れ落ちる。
彼女に灯っていた命という蝋燭が尽きたのだ。
「届かぬか……」
それは、黄泉路に旅立つ葵の慙愧の言葉。
手を空に向ける姿は、稚児が何かを求める姿にも見えた。
「よく言う。
とんでもない事をしおってからに」
左肩を押さえながら胡蝶が葵に言葉を返す。
垂れ続ける血のせいか胡蝶も吐く息が荒く、立っているのがやっとな姿である。
「ここで、そなたを討ち取ったが故に、木曽義仲が鬼になってしもうた。
はなからそれが狙いか」
吐き捨てる胡蝶の言葉に、葵は嬉しそうな笑みを胡蝶に向けた。
その笑みを向けるべき殿方は、後方の本陣にいるというのに。
「祟り神を鎮めると言ったのはまことよ。
これで、木曽にもそなたの因果が伝わろう。
喜ぶがいい。祟り神。
そなたの因果にて平家は全て義仲様に討ち取られようて」
葵の最後の景色は平家軍にてじっと胡蝶を追いかけ続けていた公達武者に注がれていた。
胡蝶の鉄扇の刃が葵の心臓を貫いたのは、葵が吐く呪詛を胡蝶が聞きたくなかったから。
知章に聞こえなかった葵の最後の言葉は、間違いなく胡蝶に与えた最大の傷となった。
「あの武者も義仲様に討ち取られよう。
そなたの因果によって」
葵御前の亡骸と共に届けられた薙刀は青白い光を失わず、木曽義仲にその光を照らし続けていた。
彼は何もいわず大将としての責務をこなし平家軍追撃を命じたが、巴と山吹の二人は蛍のような淡い光を放つ薙刀に照らされた木曽義仲の頬に涙が一粒こぼれたのを知っていた。
それ以後、木曽軍の追撃は苛烈になってゆく。
同時刻 安宅の渡
渡というぐらいだから、先の手取川以上の船が浮かんでいた。
だが、船と船の間に板が張られ両岸を繋いでいる。
「船橋とは」
感心しながら斎藤実盛は平経正を見つめている。
「手取川とくらべて流れが緩やかゆえにできることです」
経正はじっと船橋の上を見つめる。
それほど、バランスのいいものでもないので一度に運べる人馬の量は限られているが、それでも船での輸送に比べたらはるかに速い。
手取川と同じく木曽の追撃が予想されるから両岸には盾を並べ、陣幕を張りめくらせている。
「それで、陣構はどうなっています?」
経正の言葉に実盛も答える。
周りに盾や陣幕が広がる様子は、ここにて木曽軍を迎え撃たんとする平家の執念を感じさせた。
「先鋒は越前に入ったとの事。
越前国府を抑えるめどが立ったと」
「本陣は?」
「知度様率いる本陣二万は篠原まで出ているとのこと。
二陣教盛殿一万の隊が今渡河をしており……」
それは数少ない朗報と言っていいだろう。
ここで踏ん張って木曽軍に一撃与えられたならば平家軍本隊は逃がせるという事なのだから。
「私が率いる三陣がここか。
実盛。我らは帰れると思うか?」
勝てるかとは聞かなかった。
平家はもう負けている。
倶利伽羅峠で馬を失った時点で、木曽軍の機動力と破壊力に太刀打ちできないことは分かっていた。
だからといって、みすみす残り全部討ち取られる気は毛頭ない。
加賀まで平家が略奪を繰り返していた事が今度は木曽軍の足かせになる。
加賀・越前共に大軍を食わせるだけの兵糧はもう何処にも無い。
信濃から兵糧を持ってくるにしても最速でも一月はかかる。
その一月で京にいる知盛――宗盛亡き後の平家棟梁――と共に最後の決戦を行う。
その一月の時間を稼ぐためにここで木曽軍と一戦して退けないといけない。
将兵を京に逃がすと共に、木曽に留まって貰うために兵を贄に捧げないといけない。
「殿は?」
こういう時の経正の顔は冷たい。
人に「死ね」と命ずる公卿の顔になる。
「忠教殿が木曽本隊を阻み討ち死に。
畠山重能殿が樋口兼光と、小山田有重殿が今井兼平と、平景清が楯六郎と、知章殿が野宮光宗とそれぞれ戦いながらこちらに向かってきておるとの事。
忠教殿の犠牲で木曽本隊は今日ここには来れますまい」
手を合わせる実盛を経正は見ていない。
木曽は五万。
今、ここにいる平家は四万。
手取川より数が減っているのは殿がこの場にいないからと、雑兵の逃亡・落伍者が相次いで出ているから。
越前国府に着くまでにさらに減り、京に戻れるのは今の半分だろう。
経正は涙が出てくるのをこらえる。
京を発った時には十万を数えていた平家がここまで打ち減らされるとは。
だが、ここで木曽を退けないと京に帰れる者は一万すら切る。
「皮肉なものよ」
ぽつりと経正が呟くのを実盛は聞き逃さなかった。
「平家を祟る神が救いになろうとはな」
手取川での胡蝶の名乗りは平家軍の多くが耳にしていた。
その一騎打ちが伝説になるにつれて、彼女の祟り神の側面が噂にならざるを得ない。
「経正殿。
そろそろ祟りについて教えていただけませぬか?」
祟り。
つまり胡蝶の事を聞きたいのだろう。
何をととぼけても良かったが、目の前の老将がそれで納得するはずも無い。
「加賀に来る前の話だ……」
小竹島での出会い、加賀国府で知章と共に現れた時の驚き、手取川での修羅のごとき活躍、全てを実盛に話した。
「あの御前にそんな過去が……」
絶句する実盛。
それはそうだろう。
滅ぼすと宣言した神が滅びる予定だった実盛達を救っている。
「我らがあの祟り神に滅ぼされるのは仕方ない。
その諦めは私にはある。
だが、彼女は自らで平家を滅ぼすためにまず我ら平家を木曽から助けないといけない。
おまけに、知章に惚れてしまった。
なんという皮肉だと思わんか?
滅ぼすために生まれた神が滅ぼす人を愛してしまったのだ」
自虐的な笑みを見せる経正に対して実盛は何も言わない。
だが、忠誠を尽くした平家に対する奉公の仕方が見つかった事を実盛は悟ってしまった。
この危機を救うため。
祟り神の呪いを解くために。