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第三幕 手取川一騎打ち

寿永2年(1183年)五月 加賀 手取川


「船が出るぞぉ!」

「焦るなぁ!先に馬と兵糧からだぁ!」

「盾を並べよぉ!

 木曽勢は必ず来るぞぉ!」


 手取川の両岸にはためく赤旗。

 必死になって渡河作業を行っている。

 近隣から船を徴発し、浅瀬を馬で渡り、場合によっては泳ぐ雑兵もいる。

 対岸には焚き火が並べられて濡れた雑兵を暖めると共に、元気な者から隊列を組んで越前へ向かって歩き出す。

 少ない馬のほとんどが兵糧を運ぶ荷駄に使われ、武者も雑兵も歩いての退却行である。


「木曽軍は来るかな?」


 ぽつりと知章。


「来ます」


 と胡蝶。

 迷いの無い言葉にかえって落ち着く。

 知章と胡蝶が立っているのは手取川の川辺。

 彼と彼女が率いている一隊は例外的に全員騎馬武者で構成されている。

 つまり、殿。

 渡河中の平家全軍の命はこの二人に握られているといっても過言ではない。


「おお、いたか」


 二人に駆け寄ってくる武者は経正。

 今回の渡河の全体指揮を取っている。


「経正殿。渡河は?」

「半分といった所だろう」


 眼下に広がる渡河風景を見つめる。


「渡河の最後の隊はそのまま手取川を下ってもらう手はずになっている。

 源氏も渡河に時間がかかるはずだから、それで大分時間が稼げよう。

 ところで……」


 なぜか咳払いをする経正。


「胡蝶殿。

 そのなりは……」


 胡蝶の正体を知っているのは経正と知章だけ。

 他の者には『加賀の国人が平家に通じる為につけてくれた姫』で押し通している。

 まぁ、


「落ち目の平家についているだけでもありがたい」


とは知度の言なのだが。

 胡蝶はとにかく目立つ。

 まず黄金色の髪。

 耳を隠すための烏帽子も大きいが、まぁそれは許そう。

 何よりも皆が唖然として、それは雑兵から大将まで忠告したのが彼女が鎧をつけずに巫女装束で(そのくせ腰にはあの鉄扇を吊り下げて)堂々と知章の後ろに控えている点。

 大合戦で万単位の矢が飛び交う戦場で一番矢が降り注ぐ大将の隣に鎧もなしに控えているというのは自殺行為に近い。


「経正殿はお分かりでしょう。

 矢ごときで私は殺せませぬ」


 にこりと笑う胡蝶の顔が経正には見れない。

 おそらく知章も胡蝶を見ることができない。

 なぜなら、最初に矢で彼女を射殺したのが平家の者だったのだから。


「一族を代表して詫びる。すまぬ」


 深々と頭を下げる経正。


「いいんです。

 私を弔った知章殿に恩を返しているだけです」


 平然と胡蝶はいう。

 知章は胡蝶を見ずに視線を北に向ける。


「ん?」


 何かを見つけたらしい。

 知章の視線の先を胡蝶と経正も見る。


「どうした?」

「おそらくは木曽方の物見かと」


 五感も知識も人以上の胡蝶が知章が見つけたものの正体を二人に言う。

 それは、戦の始まりを告げるものだった。


「物見に発見されたな。

 あの距離では弓も届かぬか」


 馬で潰したい所だが、平家は貴重な馬を全て渡河させていた。

 物見に対して何もできない事を悔しそうに知章が言うが胡蝶は意にかえさない。


「いいじゃないですか。

 どうせ見つかるのは分かっていたし」


 人より良い五感を持っていた胡蝶は遠くから見る物見の姿をはっきりと見ていた。

 数騎集まってこちらを見ている木曽軍の武者の中心に居る者の姿を告げる。


「若武者ですね。

 知章様と同じぐらいの」


 胡蝶の言葉に経正は口元に手を当てて考え込む。

 そのまま少しの時を代償に、経正は物見の若武者の正体を推測してみせる。


「多分、木曽四天王が一人、盾六郎だろう。

 信濃国横田河原の合戦にて城家一万を破った木曽軍の目となった武者で、木曽義仲の信頼も厚い」


 そんな信頼の厚い若武者率いる物見がここに来ているという事実。

 それは木曽軍本隊が近くまで迫っているという事に他ならない。


「まずいな。

 まだ渡河が終わっていない。

 ここを襲われたらひとたまりも無いぞ」


 知章の声に焦りの色が混じる。

 倶利伽羅峠の恐怖を思い出したのか顔からも汗が吹き出ているが、胡蝶は涼しい顔を崩さない。

 むしろ朗らかな笑顔を見せたまま、胡蝶はこんな事をほざいてみせる。


「手を振りませんか?」


 唖然とする二人を尻目に胡蝶は手を振って見せる。

 下手したら敵への寝返りとも取られかねない行為だが、この窮地にそれを見せない胡蝶の胆力に二人ともあきれ果てていたというのが正しい。


「きっと手を振ってくれますよ」


 にっこりと微笑んで物見に向かって手を振り続ける胡蝶。

 物見の若武者は手を振る胡蝶にあきれたのか護衛を引き連れて三人の視界から消える。


「……」

「……」


 知章と経正はお互い視線を向けて何か目で語っていたが、何を言っていいのか言葉が見つからなかった。

 その光景は手取川を渡る平家軍には見えていたのだが、誰も胡蝶に対して咎めようとしなかった。

 皆自分の命のことで精一杯ということもあるが、胡蝶の姿が一種の清涼剤みたいに見えたことも理由に挙げられるだろう。

 確かに戦は醜いし人を凶暴にさせる。

 けど、それは戦が始まってからでいい。

 せめて戦が始まる前ぐらい人として、この窮地を逃れるべく皆死から逃れようと必死になっていのだから。


「胡蝶殿。

 知章と共に渡河を指揮するのでこの場をお任せしてよろしいか?」


 経正の頼みに胡蝶は笑顔のまま胸に手を当て、その豊かな胸を揺らして答える。


「もちろん。

 平家の渡河が終わるまで、木曽軍をこれより先に進ませませぬ」


 そして、経正と知章が渡河の指揮を執るために川岸に下りてゆく。

 川の流れと人馬の雑踏にまぎれて呟いた経正の言葉は知章にしか届かなかった。



「『私を弔った知章殿に恩を返している』か。

 では、胡蝶殿を射殺した平家の仇は何時、どのようにして返すのだろうな?」








同時刻 加賀 手取川手前 木曽軍先鋒



 木曽軍先陣に盾六郎こと盾親忠が木曽軍の先陣に戻った時、木曽軍先鋒は既に平家追撃の準備を整えていた。

 先陣を任されたのは根井行親で、根井行忠と盾親忠、葵御前などが率いる隊が平家軍に襲いかかろうと盾親忠の報告を待っていた。


「物見ご苦労。

 で、平家軍は?」


 父親でもある根井行親が盾親忠に尋ねる。

 だが、横田河原の合戦にて平家軍の急行軍による人馬の消耗を看破した若武者は首をひねりながら己が見たままの事を伝えるしかなかった。


「手を振られました」


 その一言にて、木曽軍先陣一同は全員で頭に「???」を浮かべる。

 さもありなん。

 我に返った根井行忠が盾親忠を問いただす。


「呆けたか。六郎。

 戦場にて平家が手を振っただと?」


 若干の怒気が混じっている詰問に、盾親忠も負け時と言い返す。


「兄者に戯言を言ってどうする!

 平家のやつら手取川に船を浮かべ、川岸の高い場所にて我らを見つけた巫女が手を振っておった。

 隣には平家の公達武者らしき者が二騎おったぞ」


 最初の報告よりましな返答を出してしまったあたり、己が詰問されても仕方ない報告をしてしまった事に気づいて盾親忠は頭を下げた。


「すまぬ。

 父上、兄者。

 わからぬ報告をして迷わせてしもうた」


 この過ちをすぐに直す素直さを観察眼と共に木曽義仲も買っており、だからこそ物見という重責を任せているのだった。


「巫女、戦巫女か?」


 葵が巫女という言葉に引かれて尋ねる。

 神や物の怪がまだ近かったこの時代、先に平家に対して蜂起して敗死した源頼政は京を騒がせた物の怪である鵺を退治したように、そんな人以外の力が隣に居るのは当たりまえだっだのである。

 事実、葵はそんな人外の力を得てこの行軍に参加する資格を得ているのだから。

 それに対して盾親忠は見たままの事を告げる。


「そこまでは分からぬ。

 平家は西の厳島神社などに寄進をしたりと信仰厚い社がいくつかある。

 そこの戦巫女がやってきたとしても驚きはせぬが……」


 戦巫女というのは、自軍の勝利を神に祈る目的で従軍する巫女のことである。

 諏訪大社の戦巫女などが有名で、今回木曽軍に従軍している巴と山吹の二人は士気高揚の為に諏訪大社の戦巫女の真似事もやっていたりする。

 実際に人外の力を使ったのは葵だけなのだが、力というのは代償が伴うからで、己の武力で付き従える巴や山吹はその危険を避けたと言った方かよいのかもしれない。


「が、何です?」


「あの巫女の髪、烏帽子で隠していたが黄金色だった」


 その一言で葵はその巫女が人外と何か関わっていると確信する。

 なお、葵は雪のように肌が白いが、これは力の代償に精気を吸われているからで、その力によって得た青く輝く長刀は平家の武者の鎧を容易く切り裂いて勝利に貢献していたのだから。


「どうやら、向こうにも人外の技を使う巫女がいる様子。

 並の者では相手にならぬので、私が相手をしたいと思うのだがいかがか?」


 その葵の言葉を遮るものは出てこなかった。

 こうして、木曽軍先鋒の追撃が開始されるが、最初にその変化を感じたのは葵その人だった。


「どうした?

 葵殿?」


 ぴたりと馬を止めた葵に根井行忠が声をかけるが、葵は顔を青くして動けない。

 体は震え、額から玉のような汗が浮かんでは落ちる。

 その異変に葵の周囲にいた武者達もざわめいて様子を見るばかり。


「敵を前にどうして隊列が乱れ……

 葵殿、どうした?」


 もう眼前に手取川が見えるというのに乱れた隊列を訝しがって盾親忠が駆けてくるが葵には周囲の状況など目に耳に入らない。


「こわい」


 ぽつりと葵が呟く。

 震えて怯えている葵が感じるのは、圧倒的なまでの怨嗟と憎悪。


「何事ぞ?

 横田河原や倶利伽羅峠でも怯えた事など無かったのに」


 馬から落ちそうになる葵をあわてて根井行忠が支える。

 しがみつく葵の鎧を通じて彼女の震えが根井行忠に否応なく伝わる。


「近い」


 恐怖にに必死にあがらった葵は必要な事しか言えない。

 だが、彼女の言葉に周りが一斉に刀や長刀、弓を構えた。


「敵か?」


「物の怪……」


 葵の視線が先には盾親忠が見つけた巫女がいるはずである。

 なだらかな丘陵の先に平家の陣が見える。

 陣幕を丘陵上に張り巡らせた陣屋には少ないながらも兵が配備されている。

 そして、


「あれか」


 葵の脅えの原因である巫女は、陣屋の前に立ってこちらを見つめている。

 良く目をこらして見ると何か弓を討つ動作をしている。


「鏑矢を放とうとしてるな。

 平家全軍が襲ってくるぞ!」


 警戒しながら盾親忠はその巫女が射る様子を見つめ続けて、


「矢が上を向いていない……!

 まさか!!」


 巫女から放たれた矢がまっすぐ根井行忠に向かって来るのを、盾親忠は防ぐことができなかった。


「何事ぞ!」

「根井殿が射られた!」

「葵殿!

 お気を確かに!」

「盾を並べて防げ!

 陣を下げよ!」


 落馬した根井行忠に駆け寄る木曽軍将兵。

 根井行忠だけでなく体を支えていた葵を巻き込んで落馬して気を失っている。


「多分、大丈夫だ……」


 我に返った根井行忠が盾親忠の手を借りて起き上がる。

 体の節々が痛いが怪我は無いらしい。


「なめられたものだ。

 鏑矢だ」


 根井行忠が衝突した矢を拾ってみせる。

 音を立てる事を目的とした矢だけに殺傷力はほとんどなく、別に加工した後は無い。


「承久の乱の為朝殿なみの矢だな」


 彼が守った門はとうとう落ちずに、後白河方は別の門から攻めて落としたというくらいの逸話が残っているぐらいだから、その弓の威力はすさまじいものがあったのだろう。


「あの巫女だな?」


 根井行忠がまだ意識がはっきりしないらしい葵に尋ねるが、葵は息を荒く吐き出して震える指で射た巫女を指した。


「鏑矢は警告か。

 さて、どうする?」


 自虐の笑みを浮かべながら盾親忠は皆に問い掛けるが、誰も答えることなくあの巫女を見つめていた。

 それは、たった一矢で木曽軍先鋒がその戦闘意志を失った事を意味していた。




手取川手前 木曽軍次鋒 源行家陣


「先鋒は何を手間取っているのだ!」


 馬上で行家はいらついていた。

 倶利伽羅峠では義仲に危ないところを助けられ、評定では完全に浮いた発言をしてしまって功を焦っていた。

 そんな行家の元に伝令がやってくる。


「先鋒の将、根井行忠殿と葵御前が敵の矢に当たり負傷したとの事。

 隊列乱れ、現在先鋒全体が止まっております!」


「なんと言うことだ!」


 大げさに驚いて見せるが、内心ほくそえんでいる。

 これで堂々と先鋒を追い抜いて、一番槍が手に入るからだ。


「先鋒が止まってしまっては、隊列が乱れてしまう!

 先鋒には隊列整えて後から来るよう伝えよ!

 我等は先鋒を迂回して平家を叩く!!」


 当然、先鋒に入るであろう武功を横取りするわけだから、諸将に依存は無い。


「おぅ!!」


 彼らは、この二人が何によってやられたか知らなかった。


 行家隊が木曽軍先鋒の横を通り抜ける。

 先鋒は前を警戒すれども、先へ動こうとはしない。


「あとは任せられよ!

 ゆるりと我等の後からついてくるがよい!」


 堂々と木曽軍先鋒を徴発しながら行家隊が駆け抜けてゆく。

 そして、行家隊の前にも金髪の巫女が見えてくる。


「何だ?あれは?」

「良く見よ!

 あの巫女は平家の旗の下に立っておるぞ!」

「必勝祈願の戦巫女だろ!

 あの美しさに先鋒は止まったのかもな!!」


 卑下な笑いが行家隊に木霊する。


「弓を構えたぞ!

 射るつもりぞ!」


「当たらぬ!当たらぬ!

 そんな弓当たらぬ!!」


 巫女が弓を放つ。


「え?」


 一人、二人、三人が倒れる。

 前二人を貫通して三人目に刺さったのだ。


「何じゃ!なんじゃ!」

「あの巫女只者じゃないぞ!」

「なんの!剛の者ならば手柄にするまでよ!!」


 行家隊から一騎が飛び出て堂々と名乗りをあげる。


「やあやあ!

 我こそは源行家旗下の……」


 そこから先は言えなかった。

 巫女が矢を構えて名乗りをあげている武士を射抜いてしまったのだから。


「武士の風上にも置けぬやつ!」


 彼女が巫女であることを見事に忘れて勝手にいぎりだっているが、その間にも彼女の矢は行家隊に突き刺さり射殺してゆく。


「怯むなぁ!!

 相手は女一人ぞ!

 一気に突っ込んで討ち取れぇ!!」


 行家の声に従って行家隊が一斉に動き出す。

 視野に見えている平家の兵は千程度しかいなかったからなめてかかっていた。

 この時、行家は巫女一人に気を取られて彼女が立っている場所まで気が回らなかった。

 陣幕に隠れた向こう側は手取川で、平家軍が渡河作業をしているということを。

 巫女が片手を挙げて振り下ろす。

 その瞬間陣幕の張られた丘向こうから数万の矢が雨のように行家隊に降り注いだ。



手取川手前 木曽軍本陣 


「先鋒根井行忠殿と葵御前負傷!」


「次鋒、行家隊。

 敵の攻撃により総崩れとのこと!

 後退しております!!」


「敗残の平家軍に何をやっている!!」


 義仲が何か言う前に巴が怒気を露にして伝令を叱りつける。

 巴が怒れば山吹が押さえに回る。

 姉妹ゆえにそのあたりは良く分かっていた。


「平家も必死なのです。

 戦に誤りはつきもの」


「それは、分かっておりますが」


 そんな空気を木曽義仲が茶化す。

 彼が彼女達と共に暮らした当たり前の光景でしかない。


「ほら見ろ。

 お前の怒気で伝令が怯えておるではないか」


 義仲にたしなめられて赤くなる巴。

 こういう時の巴は女しくしおらしくなるから、義仲もそれがかわいく思える。


「申し訳……ございませぬ……」


 ほんの数瞬で緊迫した空気が弛緩し、皆の心が平常に戻ってゆく。

 焦りや怯えや怒りは敗北への第一歩だと幼き頃に教えを受けたのは誰だったか。

 そんな事をひとまず置いて、鎧姿で恥らう巴もまたいいものだと不謹慎に思ってしまう義仲。

 もちろん、凛として巴を抑えた山吹の静かなる美しさも良い。

 また、巴が怒ってくれたお陰で義仲は冷静になって状況を分析することができた。

 ちなみに義仲が怒った時でも山吹が抑えに回る。


「それにしても、根井が止まるとは」


 義仲旗揚げの中、一番古くから付き合ってくれている信濃武士団の中でも根井行親  率いる隊の武功は高く、倶利伽羅峠でもその功績は高く評価されていた。


「その事につきましては先鋒の盾親忠殿から文が」


 おそるおそる伝令が文を義仲に差し出す。

 そこには、平家の戦巫女によって先鋒と次鋒がしてやられた事が書かれていた。


「ふむ」


 一読して、文を巴と山吹に渡す。


「これは!」


 二人の目が輝く。


「『金髪の戦巫女。

 強弓を持ち、指揮に優れる。

 その姿、平家の巴御前のごとし。

 彼女が倶利伽羅峠にいれば谷に落ちたのは我らの方であろう』

 六郎もずいぶん敵将を持ち上げたものだ」


 笑い出す義仲に対して巴は不機嫌の極みだった。

 さすがに山吹も表情静かながら怒っていたので巴を止められない。


「義仲様!!」


「すまぬ。巴。

 そう怒るな」


 まだ義仲は笑っている。

 ここにきて二人とも我に返ったらしく山吹の顔に赤みがさしていたり。

 巴は巴で、


「もう、知りませぬ!」


 ぷんといじけた巴もまた可愛いと思っているのだから、義仲も意地が悪い。


「悪かった。悪かった。

 その巫女と相対したいのだろう?」


 女から将に戻って巴が答える。


「ええ」


 将の顔で凛々しく笑う巴。

 その目は平家の巫女と同じく獣の目だった。




手取川手前 平家軍陣 夕刻


「胡蝶。渡河が終わる。

 残るのはこの隊のみだ」


 知章が胡蝶に告げるが胡蝶は向こうの木曽陣を見つめたまま。

 木曽軍は動かないが、まだ戦意は衰えていない。


「先に行ってください」


「どうして?」


 知章にはまだ戦の機微が分かっていなかった。

 今、平家軍と木曽軍は危うい均衡を保っているに過ぎないという事が。


「戦とは獣の争いです。

 弱い方を見せたものが先に敗れます」


「けど、胡蝶はどうするのだ?」


 知章の方を見ずに胡蝶は話す。

 平家軍が渡河したら胡蝶一人取り残されることになる。


「あれで終わるほど木曽軍はやわではござりませぬ。

 必ず剛の者が出てきましょう」


「それこそ私が相手をしなければならないではないか!

 手柄を立てるのは武士の本懐なのだ!」


 意気込む知章に対して胡蝶は平静を保ったまま。

 それがそのまま戦場の勝敗につながる事を知章はまだ知らない。


「知章様」


 やっと胡蝶が知章のほうを振り向く。

 振り向いた時に烏帽子から数本金髪が乱れ、夕日に靡くのが美しいと場所を弁えずに知章は思ってしまう。


「殿方は戦を楽しんでおられますね」


 寂しそうな声で微笑む胡蝶に知章は見とれる。

 そんな知章の内心を知る事もなく、胡蝶は再度木曽軍を見つめる。


「獣はむやみな殺生はいたしませぬ。

 それは、余計な恨みを買わないことが生き残る道に繋がると知っているからです」


 胡蝶が何かに気づいて手を振る。

 知章が胡蝶の視線の先を見ると先ほどの物見の若武者がいた。

 胡蝶を見て敵意の視線を放っている。


「相手にも、子供がいます。親がいます。

 戦である以上、我らは敵を殺さねばなりません。

 けど、その事を忘れて殺すことを楽しまないでください」


 手を振り返しながら話す胡蝶の言葉には重みがある。

 行家隊の敗走時に胡蝶は追撃を行わせなかった。

 行えば、行家隊は崩れ行家の首も手に入っただろうが、それで戦が終わるわけでもなく、無傷の木曽本隊に包囲殲滅されていただろう。

 何しろ馬が圧倒的に少ないのだ。

 その結果、無用な血がさらに流れることになる。


「獣ですら分かる事を何故人は行えないのでしょうか?」


 母のように諭す胡蝶に知章は何もいえない。


(胡蝶は私に戦を教えようとしている)


 何も知らなかった公達武者の知章に合戦を教える様子は、母が子に狩りを教える獣のように思えてならない。


「日が沈みます。

 夜では大規模な追撃は行えません。

 次が最後の攻撃になるでしょう」

 

 知章は見届けることしかできない。

 まだ教えてもらうことしかできない。

 それが悔しい。

 胡蝶に守られているのが悔しい。

 胡蝶を守ってやれないのが悔しい。

 胡蝶が返してくれている恩に答えてやれないのが悔しい。

 歯を噛み締めて知章は木曽陣を見つめる。

 知章が木曽陣の動きに気づいたのはそのときだった。



手取川手前 木曽軍先鋒 夕刻


 木曽軍先鋒にはまったく被害が出ていなかった。

 行家隊の混乱、敗走時すら平家は追撃をかけてこなかった。

 あの巫女と木曽軍との間には源氏の屍が累々と横たわって斜陽の光を浴びている。

 先鋒は動かない。

 いや、動けない。

 あの巫女を迂回して手取川の平家を直接叩こうという意見もあったが、手取川周辺には遮蔽物もなくあの巫女から丸見えになる。


「どうしてくれようか」


 根井行親を前に集まって策をねってもあの巫女を何とかする策が出てこない。

 盾親忠はふと視線を巫女のほうに向ける。

 その視線に気づいたのだろう。

 巫女は手を振って微笑む。


「笑ってやがる」


 そりゃ笑いたくもなるだろう。

 時間は刻々と過ぎ、その間にも平家は渡河を進めている。

 夜になればもう追撃は行えない。

 改めて、巫女のほうを睨みつける。

 巫女は木曽軍先鋒の方を見て微笑んでいる。

 余裕の笑みだろう。

 どっちにしろ気分が悪い。

 茜色の背景に黄金色の髪がゆれて佇む彼女は本当に神々しかった。

 だが、ここから一歩でも先に進もうとすると巫女の笑みが般若に変わる。

 彼女は笑っているのに背筋が凍り、冷や汗が止まらない。

 五感に第六感までが『近づくな!』と警告する。

 それを無視して近づいたら、行家隊の二の舞になることは目に見えている。


「駄目だ」


 盾親忠はついにさじを投げた。


「父上。兄上。葵殿。

 手仕舞いを考えるべきかと」


 盾親忠の一言で空気が動き出す。

 撤退は攻撃以上にやっかいなものだからだ。

 さしあたって問題は二つ。

 無事に撤退できるかと、本陣の木曽義仲にどう釈明するか。


「構わぬが、良いのか?」


 思案顔で根井行親が尋ねる。

 平家追討の失敗は息子達根井行忠と盾親忠の経歴に傷がつく。

 だが、あの巫女の矢を食らった根井行忠が弟に賛同する。


「あれは無理だ。

 あの巫女を何とかしたいなら巴御前でもつれてきてくれ」


 あっさりと言う根井行忠の視線の外から聞きなれた女性の声が響く。


「来たわ」


 びくり。

 噂をすればなんとやら。

 こういうときの女性の顔は見たくない。

 顔は笑っているだろう。まちがいなく。

 だが、目は怒っている。

 そして、背後に怒気を背負っている。


「ぁ、と巴……」

「あれね」


 巴の笑顔を見て気がついた葵が脅えていたりするが巴は彼らを置き去りして陣前に立つ。

 己が討ち取るべき敵を瞼に焼き付けるが、血のように赤い夕焼けを背景にして間に広がる行家隊の屍の平原の先に、巫女は公達武者と共に佇んでいた。

 例えるなら獰猛な獣の領域。

 近づいたら食い殺されるが、近づかない限り無用な殺生はしない。

 一歩踏み込んでみる。

 巴にも伝わる圧倒的な威圧感。

 並みの兵ではあれは駄目だ。

 先鋒の将兵達は並以上だからここから動かなかったということか。

 笑いたくなる。

 嬉しくてたまらない。

 本気になれる、死力を尽くせる相手をついに見つけたのだ。

 さらに一歩踏み込む。

 巫女が弓を構えて巴に向けて射る。

 首を少しだけ横にずらす。

 背後に立てられていた盾に矢が突き刺さりその勢いに吹き飛ぶ。

 巴が弓を構えて射る。

 巫女は動かない。外れるのが分かっているから。

 巴が狙ったのは巫女がつけていた烏帽子。

 狙い誤らず烏帽子が吹き飛び、黄金色の髪がなびき、隠されていた耳が露になるが気にせず第二矢を放つ。


「違う!」


 巴の背後から聞こえる葵の悲鳴。

 戦巫女だから、人外の力を用いていたから分かってしまう。

 あの巫女のおぞましさを。


「違う!!

 あの巫女は物の怪なんかじゃない!!!」


 もはや巴には葵の混乱など気にしていない。

 体をひねって巫女の第二矢をかわす。


「どういうことだ!葵殿!!」


 巴と巫女の決闘を目で追いながら、根井行忠が葵に問いただす。

 その刹那の矢合わせの音が、まるで語り部が語る昔話のように盾親忠には聞こえた。


「あれは……あのお方は……」


 震える声で先の言葉を言おうとする。




「……祟り神よ」




 葵の言葉は巴にも聞こえた。

 当然、向こうの巫女にも聞こえているのだろう。

 だが、葵の恐慌などおかまいなく巴は第二矢を巫女に放つ。

 巴の第二矢は巫女の胸に向かう。

 巫女は微笑んだままかわすそぶりすらしない。

 そして、矢が巫女に突き刺さる。


「胡蝶!!」


 隣にいた公達武者が駆け寄ろうとするが、巫女は手でそれを制して笑ったまま第三矢を巴に向けて放つ。

 今度はかわす事もできず巴は弓で矢を払い落とす。弦が切れて弓はもう使えない。

 巫女の方は微笑んだまま胸に突き刺さった矢を引き抜く。

 巫女服が赤く染まり、胸から血霧が吹き出るがすぐに収まる。

 顔と髪についた血が彼女の様相を神々しいものから禍々しいものに変える。


「矢を受けるのは二度目よ」


 巫女が楽しそうに笑う。

 笑顔は変わらないのに、知章ですら後ろに下がってしまう。


「我が名は胡蝶。

 平家に仇なすために生まれしものなり」


 胡蝶も弓を捨て、腰にさしていた鉄扇を広げる。


(あの公達武者、あの巫女の正体を知っていたな)


 舌打ちをこらえて巴は胡蝶と名乗った祟り神をまっすぐに見つめる。


「名乗れ」


 神々しく禍々しい言霊が巴の魂を縛る。

 すべての意志を集中して彼女の呪縛を断ち切った巴は誇り高く名乗る。


「我が名は巴。

 木曽義仲様に使えし者なり!

 平家を呪いし者が何故平家を助ける!」


 薙刀を突きつけて胡蝶に切りかかる。


「決まっておる!

 仇なす前に、倶利伽羅峠でそなたらに邪魔されたからよ!

 今は、知章様の情により平家に組しておるまで!」


 広げた鉄扇を一気に撫で斬る。

 風圧とかまいたちが巴を襲い、巴の烏帽子と弓手袖を吹き飛ばすが巴は物怖じせずに胡蝶に切りかかる。

 巴の薙刀が胡蝶を捉える前に畳んだ鉄扇で薙刀を受け止め、がらあきだった巴の腹部を蹴り上げようとするが、巴は薙刀の柄を地面に突き刺して後ろに飛んで胡蝶の足はなびく巴の髪を捉えたに過ぎない。


「逆恨みもはだはだしい!」

「そんなことは分かっておる」


 巴の徴発ににやりと笑う胡蝶。


「だが、貴様らから助けたい殿方も平家におるのだ。

 それが真の理由よっ!」


 知章の方を一瞬だけ振り向いた胡蝶は、しゃがみこんだと思ったらその瞬発力を利用して一気に巴と距離を詰める。

 その動きは獰猛な獣に他ならない。


「ふん!

 殿方への想いならば私も負けんわっ!」


 巴も胡蝶のこの動きを読んでいた。

 薙刀を投げつけて胡蝶が薙刀を鉄扇で払う一瞬の隙を突いて、腰にさしてあった刀を抜き取り胡蝶目掛けて袈裟切りに振り下ろす。

 勢いがついた胡蝶は鉄扇で薙刀を払ったから刀を受けられずそのまま巴に突っ込む。

 手取川のほとりでまた血が飛び散る。


「胡蝶!!」

「巴殿!!」


 知章、盾親忠と根井行忠が駆けつけようとして、


「「双方動くな!!」」


 あたりに響く大音声は胡蝶と巴の口から発せられていた。

 肩口から袈裟切りで左手を落とされた胡蝶と、突っ込まれた衝撃で吹き飛ばされ受身も取れずに大地に叩きつけられた巴の二人は暫く動くことができず、辺りには薄暗くなった夜の風が吹き始めている。

 平家も木曽も動けない。


「ここまでの……ようだな……っ!」


 声を出したのは切り落とされた左手を持った胡蝶。

 左手を切り口につけると傷がみるみる治ってゆく。


「そうね。

 しかし、本当に化け物ね……」


 大地に倒れたまま大の字になって荒い息を吐き出しているのは巴。


「仮にも祭られていたのだ。

 そのあたりの物の怪と一緒にするでない」


 少しむっとする胡蝶。

 もう彼女から殺気は消えてしまっている。


「ならば、立派な傾国の祟り神ではないか」


 体が動けないのに楽しそうに笑う巴。

 神の腕を一瞬とはいえ切り落としたのだ。

 この世に未練は沢山あるが、武人としては後悔は無い。


「私の首取らぬのか?」


 ぽつりと巴。まだ全身がしびれて動けない。


「そなたの首取って義仲殿を鬼にしたら我ですら危ない」


 笑って見せる胡蝶。

 だが、切り落とされた腕の傷が思った以上に深いのが本音だろうか。

 血にまみれた彼女の顔は青白く脂汗が吹き出ている。


「平家は渡河を終えたの?」


 彼女は動くことができないから、何気なく胡蝶に聞いてみる。


「終わった。

 そなたとの一騎打ち前にな」

 

 風と共に胡蝶の声が聞こえる。


「そう。

 次は安宅かしら?」


 巴は分かっていた。

 もう一度胡蝶と剣を交えると。


(その時は、負けない!)


「そうね。また会えるわよ」


 巴の決意など分かった上だろう。

 楽しそうな胡蝶の声が遠ざかる。

 暫くして、盾親忠と根井行忠が駆けつける。

 起こされて手取川を見つめるが、平家はもう誰も残ってはいなかった。


「つかまれ」


 知章の元に戻ってきた胡蝶を何も言わずにおぶる。


「え、ちょっと……」


 丘を下る。

 そこには、二人を乗せるための船が一艘残っていた。

 対岸には平家軍が救ってくれた英雄を見ようと集まっている。


「いいから動くな」

「……」


 後ろから、木曽の兵士も見ているのだろうが知章はそんなのは気にしない。

 祟り神と名乗った胡蝶をおぶる。

 血まみれの胡蝶をおぶる。

 呪いがついた所で気にするものか!

 彼女は平家を呪っているがそれがどうした!!

 胡蝶の息が背中をくすぐる。

 胡蝶の暖かさが背中に伝わる。

 知章も決意する。

 胡蝶が呪わずにすむように己が強くなろうと。

 守るものができた男は、子を守る母並に強くなる。

 それは、彼が平家の勇将と呼ばれるようになるまだ前のこと。


「……」


 平家・木曽注視の中、胡蝶は嬉しいのと恥ずかしいのと疲れたので顔を知章の背中に伏せたままおとなしくしていた。



 この手取川合戦で木曽軍は損害こそ少ないものの、平家軍を取り逃がすという大失態を犯してしまった。

 そして、胡蝶の名前は巴との一騎討ちによって歴史の表舞台に踊り出ることとなる。

 倶利伽羅峠合戦最後の戦、安宅合戦の幕は各役者にそれぞれの思いを抱かせてその幕を開けようとしていた。

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