幕間 源平双方の倶利伽羅峠合戦の評価
寿永2年(1183年)五月 加賀 加賀国府
次々と将兵がこの国府に集まってくる。
国府には京に送る物資が集まっているから、ここを握っている限り飢えで苦しむということはしばらくは心配しなくていい。
このしばらくというのは、昨年の飢饉で穀物があまり集まっていないという点と、万を超える兵力を運用しているからだろう。
戦争にはとにかく金と食料がかかる。
国府に集まってくる将兵達は皆、刀折れ、血と泥に塗れ、生死の境を彷徨って来た兵ばかりだった。
かれらに惜しみなく食い物を与え、周囲を警戒している国府には見せびらかすように赤い旗がはためいている。
加賀国府は倶利伽羅峠で壊滅的打撃を受けた平家の北陸最後の拠点になろうとしていた。
今後を決める戦評定には空席が多い。
倶利伽羅前の将の数だけ椅子を用意していたのだから空席も目立つ。
特に総大将で平家棟梁の席はぽっかりと空いている。
空席の彼らのほとんどは討ち取られたか、捕らわれたか逃げたとしかとしか考えることはできなかった。
だが、席なし主に代わって席に座っている者もいる。
公卿大将が逃げ去った殿をつとめた平家歴代の将星達とこの敗戦で武士の血に目覚めた者達である。
副将の知度(清盛の七男)をはじめとして、忠教(清盛の末弟)、経正(清盛の次弟経盛の長男)、教盛(清盛の三弟)に、知章(清盛の四男知盛の長男)の一門に、斎藤実盛を筆頭に畠山重能、小山田有重、平景清等の侍大将達である。
平家一門はその栄華もあって多くの一門が居るが、それゆえにこのような場合、誰が指揮を取るかで揉める可能性もあった。
それゆえ、平家の栄華を築いた清盛を中心とした血と年齢を考慮してその序列を決める。
だから、現在の暫定大将は知度となる。
そんな戦評定の席に胡蝶は知章の後ろに立っている。
本来なら公卿と席を一緒にするのはご法度だが、敗軍の平家に求められているのは力で胡蝶はそれを十二分以上に持っていた。
「損害が分かりました。
ざっと五万というところでしょう」
戦評定で損害を口にした経正はできるだけ冷静にその言葉を口にする。
数字にすると一言だがその意味は果てしなく重い。
京都を出たときには十万を数えた平家の兵力は倶利伽羅峠で半分失われたことになる。
敗残兵を集めて聞き取ったところだからどれほど当てになるか分からないが、この加賀国府に集まった兵が四万を超えるぐらいしか来ていないから多分信憑性は高い。
時間経過で合戦を見てみると、木曽義仲の夜襲で倶利伽羅峠にいた平家軍のほとんどが壊滅。
この時に崖から落ちて命を失ったのは三万を超えたという。
この当時の合戦では前代未聞の死亡率である。
翌日。その勢いをもって木曽軍は北上して能登を攻めていた平家別働隊三万を撃破する。
この時の平家側は倶利伽羅峠の大敗の報告を聞いていたので、矢も合わせずに逃げ出したというがそれを責めるつもりは誰もないし、彼らがこの国府に集まったおかげで木曽軍も手を出しあぐねている。
また、同時刻に加賀在住の源氏方国人が蜂起して加賀国府に襲い掛かるが撃退。
ここを木曽側に取られていたら、兵糧も無くひたすら逃げねばならなかったのだから守り通した経正の功は大きく評定をリードしている。
「で、討ち取られた一門は」
そこで、経正一瞬言葉に詰まるが、毅然としてその言葉を口に出す。
「棟梁が討ち取られました」
ざわめく一同をよそに言葉を続ける経正。
ここで、経正もざわめきの輪に加わればそのまま何も決まらずにこの席は終わるだろう。
その冷静さは平家の公達武者に相応しいものだった。
「物見をだして木曽勢の陣に様子を見に行かせたところ、棟梁の首があったということです」
重くなる空気。だが、戦意まで衰えたわけではない。
そのあたりはまだ平家も武士らしかった。
「棟梁の弔い合戦じゃ!」
「そうじゃ!今度こそ義仲の首取って見せようぞ!」
畠山・小山田等の侍大将達の意気に対して一門のショックは大きく何も発言しない。
「無理です」
あっさりと、冷や水を浴びせる声が響く。
知章の後ろに控えていた胡蝶だった。
「馬が足りませぬ」
その一言が分からぬ者はこの場にいなかった。
平地での先頭は騎馬武者の機動力が勝負を決める。
平家軍はその騎兵を倶利伽羅峠でほとんど失っていた。
「やはり引くしかないのか……」
悔しそうにつぶやく知章に忠教が案を出す。
彼はなんとしても木曽軍に一矢報いようと熱り立つっていた。
「ならば、再度国府に篭って木曽勢を待ち受けるのは?」
「兵糧が足りませぬ」
忠教の言葉に今度は経正が首を振る。
包囲されて兵糧攻めにされたら五万の将兵すべて餓死してしまう。
「兵糧は持ってあと数日でしょう。
その間に兵糧を確保しませんと」
忠教が立ち上がって叫ぶ。
生き残っただけで、未だ平家は死地に居る事を認識したからに他ならない。
「何処にそんな兵糧がある!」
「越前国府」
忠教の言葉に即座に返したあたり経正もその問いが来る事を予想していたらしい。
そして、経正はこの場にて平家が取りうる唯一の方針を示す。
「残念ながら、もはや我等は戦うことすらできませぬ。
生きて京に戻りたくば何としても越前国府を木曽勢より先に抑えねばなりませぬ!」
経正の悲痛な声が平家の現状を端的に表していた。
数に驕り略奪を繰り返した平家軍は、倶利伽羅峠の敗北後から痛烈な落ち武者狩りに悩まされている。
「ならば」
と斉藤実盛が地図を見て呟く。
方針が示された途端にその実現に動くあたり、彼もまた戦慣れした武者らしい。
「徒歩で守りやすく、越前に引きやすい所で陣を張り一戦で木曽を退けて、その間に越前国府を抑えるか」
地図を見ていた将の視線がある一点に注がれる。
徒歩で守りやすく、越前に近い場所。
「安宅の渡」
知度の一言が平家の運命を決める地を示していた。
ここが最終防衛線になるだろう。
「しかし」
とは教盛。
手は安宅より北の川を指している。
「手取川で木曽勢に補足されませんか?」
寿永2年(1183年)五月 加賀 金沢 木曽義仲本陣
「手取川で平家を補足して殲滅すべきです!」
評定で凛とした声で意見を述べるのは巴御前。
木曽義仲の庇護者だった中原兼遠の娘で、この席で同じく義仲の寵愛を受けている妹の山吹御前や葵御前と共に倶利伽羅峠合戦にも参戦するなどその将才も認められている。
ここにいるのは木曽四天王と呼ばれる、木曽義仲の乳兄弟でもあり巴や山吹の兄でもある樋口兼光と今井兼平の兄弟、根井行忠と楯親忠の兄弟と二人の親であるの根井行親、軍師として大夫坊覚明や海野幸広等の侍大将達、客将源行家もこの席にいる。
木曽軍は信濃という山奥からの蜂起から勢力を拡大させた事もあって、旗揚げと共にした信濃武士団とその勢力に取り込まれた烏合の衆という側面を持つ。
それゆえ、指揮官層の繋がりも強固で、木曽義仲を匿った中原兼遠は息子達である今井兼平、樋口兼光、巴とともに育てられている。
また、先ごろ亡くなった中原兼遠に代わって旗揚げを共にした根井行親がまとめ役として重きをなしていた。
葵御前はそのような地縁血縁関係は無かったのだけど、彼女は戸隠山や善光寺など領地としていた栗田寺別当大法師範覚の娘で、武力で巴や山吹に劣っていた彼女は人外の者と契約を結びこの戦にて多大な活躍をしてこの席に居る事を許されていたのである。
彼らのみで方針を決め、それによって動く意思決定の速さは木曽軍の強みとなっていた。
「それは構わないが、兵馬の疲れ著しい。
もう少しゆっくり休息しても良いのでは」
と実に場違いな意見を言って場から浮きまくるのが行家。
どちらかといえば、平家の陣にいるのが相応しいような公達武者だが、それも彼が源氏の出で以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達した源氏蜂起の立役者の一人という事を考えればある意味納得がいく。
(元はといえば貴方が能登の平家を潰していればこんな追撃をしなくて良かったんです!!)
内心の声を笑顔で押し殺しながら巴は続ける。
能登の行家軍は平家に押されまくられ、倶利伽羅峠の敗報で撤退した平家軍に追撃をしかけなかった。
その結果がこの評定である。
七万の平家軍を倶利伽羅峠で壊滅に追い込んだのに、能登の平家軍を中核として散って落ち延びた平家軍が再編されてしまった。
「加賀国府に集まりし平家の残党は約五万。
数は同じですが、相手は棟梁宗盛以下多くの将を失って混乱しています。
一気に叩いて京まで!」
盤上の地図に両手を叩いて巴は続ける。
何で彼女が強硬論を吐いているかというと、行家みたいな弱腰論を正すと共にそれに反発するであろう木曽軍に途中参加した他の将兵向けというのもある。
彼女を立たせて恨みを買えばそれは木曽義仲までは届かないし、恨みを買ってもそれを跳ね返す武もある。
「今の時期、手取川は梅雨初めで増水しており渡河には時間がかかります。
この機会を逃すと平家は越前まで落ち延びて戦が長引くのは必定かと」
「だが、同数だ」
また消極的意見を吐く行家。
思わず巴が行家を見つめる。
義仲の時の官能的な視線ではなく敵を相手にする殺気こもった視線で。
「い、いや、追撃に依存は無い。
だが、もはや加賀に兵糧は無いと考えるべきでは?」
うろたえる行家。
無能では無いのだが優柔不断がはなはだしい。
ただ、行家の意見は的をついていた。
去年の飢饉にもかかわらず北陸で源平合わせて15万の兵力が激突した結果、義仲が押えた越中・能登・越後の兵糧は尽きかけていた。
さらに、捕虜を尋問して越前・加賀の兵糧状況が輪をかけて酷いのも知っていた。
平家は越前国府に向かわないと餓死する。それは我々も同じ。
これ以上追撃するというのは、平家と同じ飢餓道を走る事になる。
「ところで」
ふと気づいたようにおそるおそる行家が口を出す。
「何故、他の者は黙っておるのだ?」
「何故とは?
我等は殿の命に従って戦うのみ!」
あっさりと言ってのける今井兼平の言葉に行家は悟らされる。
はなから皆、やる気なのだと。