仮面のリップは雨に落ちる
「ねえ、お姉さん。少しだけ、いいですか?」
声をかけた瞬間、佐伯蓮は、自分の勝ちを半分だけ確信した。
古いアーケード商店街の端、閉店した金物屋のシャッターには、雨上がりの街灯がぼんやり映っていた。日曜の夜。昼間の人出は引き、残っているのは、駅へ急ぐ会社員と、安い総菜を抱えた老人と、目的もなく歩く人間だけだった。
蓮は、その「目的もなく歩く人間」を探していた。
白のブラウス。薄い水色のロングスカート。肩にかかる黒髪のボブウィッグ。控えめなリップ。薄く入れたチーク。目尻を下げるように描いたアイライン。
清楚で、無害で、少し困っている女。
それが今夜の蓮の姿だった。
成人して数年。身長は高すぎず低すぎず、骨格も細い。声帯の使い方も独学で鍛えた。電話口なら、ほとんどの人間が女だと信じる。対面でも、表情と姿勢と間合いを間違えなければ、まず疑われない。
蓮はその技術を、まともな場所では使わなかった。
昔は、ただ鏡の中の自分が変わるのが面白かった。女物の服を着て、声を変え、歩幅を狭める。自分ではない誰かになれる。その自由さが好きだった。
けれど、いつからか蓮は、その自由を金に替えるようになった。
相手に近づき、同情させ、少しずつ責任を感じさせる。最後には、相手が自分から財布を開くように誘導する。直接奪わない。強い言葉も、なるべく使わない。相手が「自分が悪いのかもしれない」と思った瞬間に、勝ちが決まる。
その夜、蓮が選んだ相手は、アーケードの出口近くに立っていた女だった。
いや、女に見えた。
濃紺のタイトなワンピース。腰の位置で細く締まり、胸と腰に厚みがある。いわゆる、ボン・キュッ・ボンのお姉さん。肩には艶のあるロングヘアが流れ、赤みを帯びたブラウンの口紅が、雨上がりの光を拾っていた。年齢は二十代後半から三十代前半に見える。派手すぎず、しかし確実に目立つ。
金を持っていそうだ、と蓮は判断した。
さらに都合がいいことに、その女は一人だった。
「どうしたの?」
女が振り返った。
低すぎない、落ち着いた声だった。余裕のあるお姉さんの声。蓮は少しだけ警戒した。慣れている人間の声だ、と思った。
だが、引く理由にはならない。
「すみません。変な声のかけ方をしてしまって」
蓮は両手で小さなバッグを抱え、目を伏せた。
「実は、友達と待ち合わせしていたんですけど、連絡が取れなくなってしまって。スマホの充電も切れそうで……」
「駅なら、すぐそこよ。交番もあるけど」
即答だった。
蓮は内心で舌打ちした。普通なら、ここで「大丈夫?」と一歩近づいてくる。だが、この女は最初から出口を提示した。
簡単ではない。
だからこそ、少し面白い。
「交番に行くほどではないんです。ただ、少し怖くて。知らない場所なので」
「ここ、駅前だけど」
女は軽く笑った。
蓮も微笑んだ。
「ですよね。私、方向音痴で」
蓮は、相手の反応を観察した。警戒している。けれど、切り捨てるほどではない。視線は柔らかいが、足元が逃げる向きになっていない。
捕まえられる。
「お姉さん、少しだけ一緒に歩いてもらえませんか。駅の改札まででいいので」
「私でよければ」
女はあっさり答えた。
蓮は一瞬、拍子抜けした。だが、そのあっさりさを利用することにした。
「ありがとうございます。優しい方でよかった」
「優しいかどうかは、まだ分からないわよ」
「え?」
「夜に知らない人へ声をかける子も、声をかけられてついていく私も、どちらも少し不用心でしょう?」
女はそう言って、蓮の隣を歩き始めた。
ヒールの音が、濡れた石畳に細く響いた。蓮は半歩後ろにつく。目立つ女だ。通行人が一度は振り返る。その隣に清楚な若い女が並んでいても、不自然ではない。
蓮は計算を修正した。
この女は、優しいだけの相手ではない。自信がある。自分が主導権を握っていると思っている。
ならば、少し崩せばいい。
「お姉さん、すごく綺麗ですね」
「ありがとう。あなたも可愛いわ」
「そんなことないです」
「その返しまで含めて、よくできている」
蓮の笑顔が、わずかに固まった。
「よくできている?」
「服と声と仕草。清楚系として完成度が高いって意味」
蓮は、心臓の奥を指で押されたような感覚を覚えた。
この女、何か見ている。
「変な言い方ですね」
「職業病みたいなものよ。人を見る仕事をしているから」
「モデルさんですか?」
「そう見える?」
「はい。すごく」
「残念。違うわ」
女は足を止めた。アーケードを抜けた先に、小さなセルフ写真館があった。証明写真機ではなく、無人で衣装撮影や記念写真が撮れるタイプの店だ。店内には白い背景紙とリングライトが見える。夜でも営業しているらしく、ガラス扉の内側に青白い照明がともっていた。
「充電、困っているんでしょう。あそこなら貸し出しケーブルがあるかもしれないわ」
蓮は一瞬、迷った。
本来の筋書きでは、駅近くまで歩かせ、途中で小さな事故を装うつもりだった。バッグの中に入れてある安物の化粧瓶を割り、相手にぶつかられたと言い、弁償の話へ持ち込む。金額は大きすぎないところから始め、相手の反応次第で上げる。
だが、写真館なら都合がいい。
人目が少ない。相手も逃げにくい。防犯カメラはあるだろうが、蓮は直接的な脅しを使うつもりはない。言い方さえ間違えなければ、映像には「話し合い」にしか見えない。
「いいんですか?」
「ええ。困っているんでしょう?」
女は蓮を先に入らせた。
店内は無人だった。白い壁。淡いグレーの床。受付用のタブレット。カーテンで仕切られた撮影ブース。消毒液と、メイク直し用の鏡が置かれている。空調の音がやけに大きく聞こえた。
蓮はバッグを抱え直した。
「お姉さん、本当に親切ですね」
「親切とは限らないと言ったでしょう」
「また、それですか」
「ええ」
女は鏡の前に立ち、自分の髪を軽く整えた。
その仕草は完璧だった。肩の力が抜けている。腰の角度も、指先の動きも、女として見られることに慣れている人間のものだった。
蓮はその姿を見て、わずかな嫉妬を覚えた。
自分は清楚系を作れる。儚げな女も、無害な妹も演じられる。だが、この女のような圧は出せない。体の曲線、視線の置き方、相手を見下ろすようでいて包むような空気。
派手な女装は、粗が出やすい。
それなのに、この女には粗が見えなかった。
「充電器、そこにあるわ」
女が受付横を指した。
「ありがとうございます」
蓮はスマホを取り出し、ケーブルにつなぐふりをした。実際には、充電はまだ十分残っている。
次だ。
蓮はバッグの口を少し開け、内側の小瓶に指をかけた。
そのとき、女が言った。
「そのバッグの中、割れ物が入っているなら、床に置いた方がいいわよ」
蓮の指が止まった。
「……どうして分かるんですか?」
「動かすたびに、硬いものが当たる音がしているから」
「あ、そうなんです。化粧品が入っていて」
「大切なもの?」
「はい。母からもらったもので」
嘘だった。
女は振り返らなかった。ただ鏡越しに蓮を見た。
「そう。なら、なおさら大事にしないとね」
蓮は笑った。
もういい。
この女は察しがいい。だから、先に崩す。
蓮はバッグを持ち替え、わざと足を滑らせるように一歩踏み出した。肩が女の腕に軽く触れる。バッグの中で小瓶が割れる音がした。
「あっ」
蓮は声を震わせた。
女は動かなかった。
蓮は床に膝をつき、バッグの中を見た。安いガラス瓶が割れ、あらかじめ入れておいた赤い液が内布に広がっている。
「どうしよう……」
「大丈夫?」
「これ、母の……」
そこで言葉を切る。涙は出ない。だが、目元を潤んで見せることはできる。
蓮は顔を上げた。
「ごめんなさい。今、ぶつかってしまって」
「ぶつかったのは、あなたからよ」
女の声は平坦だった。
蓮は泣きそうな表情のまま、唇だけをわずかに結んだ。
「そんな……。でも、私、急に押されたような気がして」
「そう」
「これ、本当に大切なものなんです。修理とか、同じものを探すとか、そういうことをしないと」
「いくら必要なの?」
蓮は内心で笑った。
早い。
だが、ここで焦ってはいけない。
「分かりません。でも、同じブランドのものはもう売っていなくて。以前、似たものを探したときは、かなり高くて」
「かなり、というと?」
「十万円くらいは……」
女は鏡から離れた。
「十万円」
「もちろん、全額払ってほしいなんて言っていません。ただ、お姉さんにも少し責任があると思うんです。私、怖くて、知らない場所で、頼れる人もいなくて……」
「なるほど」
女は、蓮の前に立った。
ヒールの先が、割れた瓶のそばで止まる。
「よくできているわね」
蓮の表情が消えた。
「何がですか」
「声を震わせるタイミング。相手に罪悪感を持たせる言葉。金額を最初から断定せず、相手に聞かせる流れ。全部、手慣れている」
「ひどいです。私、本当に困っているのに」
「そういう顔も上手い」
女はバッグからスマホを取り出した。
画面には、録音中を示す表示があった。
「最初から?」
「声をかけられた時点から」
蓮は立ち上がった。
もう清楚な少女の顔ではなかった。目元の柔らかさを消し、声の高さだけを保つ。
「盗み聞きみたいなことをしていたんですか?」
「自衛よ」
「私を疑っていたんですか?」
「ええ」
女ははっきり答えた。
蓮は笑った。
「お姉さん、性格悪いですね」
「あなたほどじゃないわ」
空気が変わった。
蓮はスマホへ視線を走らせた。録音だけならまだいい。問題は、相手がどこまで掴んでいるかだ。
「返してください」
「何を?」
「その録音。私の声が入っています」
「あなたが自分で話した声よ」
「無断で録音するなんて」
「無断で人から金を取ろうとするよりは、まだ説明がつく」
蓮は一歩近づいた。
「返して」
「嫌よ」
女はスマホを持つ手を後ろへ引いた。
その瞬間、蓮は清楚な顔を完全に捨てた。手を伸ばし、スマホを奪おうとする。女は予想していたように体をひねった。ヒールなのに、動きが速い。
蓮の指が、女の髪に引っかかった。
ふわりとしたロングヘアが不自然に浮いた。
蓮は一瞬、息を止めた。
ウィッグだ。
次の瞬間、女の手が蓮の手首を払った。反射的に、蓮は相手の髪を掴み直す。固定ピンが外れる乾いた音がした。長い髪がずれ、額の生え際が見えた。
「やめなさい」
女の声が低くなった。
それは、さっきまでのお姉さんの声ではなかった。
蓮の背筋に、冷たいものが走った。
だが、引けない。
「そっちこそ、何なんですか」
蓮は女のウィッグを引き剥がそうとした。女は蓮の肩を押し返す。その手が、蓮のボブウィッグの内側に入った。
今度は蓮の番だった。
ピンが弾ける。黒髪のボブが斜めにずれ、下に隠していた短い地毛がのぞいた。
「離せ!」
蓮の声が割れた。
高く作っていた女声が、ほんの一瞬、素の低さを帯びる。
女の目が細くなった。
「やっぱり」
「何が、やっぱりだよ」
蓮はとっさに口を押さえた。
もう遅い。
女はウィッグを片手で押さえながら、もう片方の手で蓮のスカーフを掴んだ。もみ合ううち、蓮の襟元が乱れた。ブラウスの内側に固定していた補正ベストの留め具がずれ、胸元に入れていたパッドが片方、床に落ちた。
柔らかい音。
蓮の顔が赤くなる。
「見るな!」
「自分で仕込んだものを見られて怒るの?」
「うるさい!」
蓮は女の腕を振り払い、反撃のように女の肩口を掴んだ。濃紺のワンピースの下、体型を作るための補正具が硬く歪む感触があった。女は舌打ちし、蓮の手をねじる。
その拍子に、女の腰を細く見せていたコルセットのラインがずれた。さらに、バッグに引っかかっていたヒップパッドが床へ滑り落ちる。
蓮は息を呑んだ。
「お前も……」
女は乱れたウィッグを外した。
長い髪が手の中に落ちる。下から現れたのは、短く整えられた黒髪だった。濃いメイクの奥の骨格が、急に別の意味を持ち始める。
女ではない。
少なくとも、蓮が思っていた「女」ではない。
相手は深く息を吐いた。
「ばれたなら、もうこの声でいいか」
完全に男の声だった。
蓮は動けなかった。
相手は口紅の端を親指で拭った。赤い色が皮膚の上に伸び、作られていたお姉さんの顔が少し崩れる。
「九条麗奈。今夜の名前はね。本名は鷹宮透」
「……男?」
「お互い様だろう、清楚さん」
透は蓮のずれたウィッグを見た。
「君の名前は?」
「言うわけないだろ」
「佐伯蓮」
蓮の呼吸が止まった。
透はスマホを持ち上げた。
「商店街で何度か同じような相談が出ていた。清楚系の若い女性に声をかけられて、あとから弁償だの迷惑料だの言われた、とね。顔は毎回違って見えたらしいが、声と歩き方に特徴があった」
「探偵ごっこかよ」
「近い。調査の依頼を受けただけだ」
「女装して?」
「相手が女に警戒を解くなら、こちらも女に見えた方がいい。君と同じ発想だ」
蓮は奥歯を噛んだ。
屈辱だった。
女装で負けたことも、手口を読まれたことも、自分が狩る側だと思っていた相手に狩られていたことも。
「ふざけるな」
蓮は床に落ちたパッドを拾おうとした。だが、その前に透が足で軽く押さえた。
「返せ」
「逃げる準備か?」
「返せって言ってるだろ!」
蓮は再び飛びかかった。
透は腕を受け止めたが、蓮の指が透の顔に触れた。アイラインが乱れ、つけまつげが片方外れる。透は顔をしかめ、蓮の手首を掴み返した。
「子どもみたいに暴れるな」
「誰のせいだ!」
「君自身のせいだ」
透は近くのメイク台からクレンジングシートを取った。蓮がそれを奪おうとして、二人の指が絡む。袋が破れ、湿ったシートが数枚、床に散った。
蓮は一枚を掴み、透の頬を乱暴にこすった。
「偉そうに言うなら、お前も全部落とせよ!」
ファンデーションが剥がれ、シートに肌色が移った。透の頬の陰影が消え、作られていた柔らかさが崩れる。
透は眉を寄せた。
「なるほど。そういう勝負にするのか」
次の瞬間、透も蓮の顎を押さえ、別のシートで蓮の頬を拭った。
「やめろ!」
「君が始めた」
蓮の白い肌が、みるみるうちにまだらになった。チークが落ち、涙袋の影が消え、口元の色が薄くなる。鏡の中の清楚な少女は、崩れたウィッグと半分落ちたメイクのせいで、ひどく不安定な姿になっていた。
蓮はその鏡を見て、腹の底から怒りが湧いた。
女装を暴かれるのが嫌だったわけではない。
自分が作り上げたものを、他人の手で雑に剥がされることが許せなかった。
蓮は透の胸元に手を伸ばし、外側から補正具の位置を掴んだ。
「こっちも外してやる」
「やめろ」
透の声が、初めて鋭くなった。
だが、蓮は止まらなかった。ワンピースの内側に固定されていた胸パッドの片方がずれ、床に落ちた。続いて、腰を作っていた補正ベルトの端がほどける。
透は蓮の腕を強く払い、距離を取った。
呼吸が荒い。
互いにウィッグは外れ、メイクは崩れ、補正具は床に散らばっている。数分前まで、清楚な女と華やかなお姉さんだった二人は、今やどちらも中途半端な姿で向かい合っていた。
蓮は笑った。
笑うしかなかった。
「何だよ。完璧なお姉さんも、結局これか」
「そうだ。結局、作っている」
透は落ちたウィッグを拾わなかった。
「だが、作っていること自体は悪くない」
「説教か?」
「違う。区別の話だ」
透は乱れた口紅を袖で拭い、まっすぐ蓮を見た。
「女装は、人を騙す道具にもなる。自分を守る道具にもなる。表現にもなる。ただ、君はそれを、人から金を取るために使った」
「綺麗事だな」
「綺麗事じゃない。実務の話だ。君がやったことは、被害者がいる」
「大した額じゃない」
「額の問題じゃない」
透の声は低く、冷えていた。
「君に声をかけられた人間は、自分が悪いことをしたのかもしれないと思って金を払った。怖かったから払った人もいる。恥ずかしくて誰にも言えなかった人もいる。女に見えた相手に責められたから、強く言い返せなかった人もいる」
蓮は黙った。
「君は見た目を使ったんじゃない。相手の良心を使ったんだ」
その言葉だけは、蓮の胸に刺さった。
反論しようとした。
だが、言葉が出なかった。
蓮は、自分が何をしているか分かっていた。分かった上で、金が必要だったとか、世の中が悪いとか、自分は暴力を使っていないとか、いくらでも理由を並べてきた。
けれど、相手の良心を使った。
それは、否定できなかった。
「……お前だって、俺をはめた」
「そうだ」
透はあっさり認めた。
「私は君をはめた。ただし、金を取るためじゃない。これ以上、被害を出さないためだ」
「正義の味方かよ」
「そんな立派なものじゃない。依頼を受けて、証拠を集めて、報告する。それだけだ」
「じゃあ、警察にでも突き出せよ」
「その前に選択肢を出す」
透はスマホを操作した。画面には、録音と店内カメラの保存確認が映っている。
「これまで取った金を返す。分かっている範囲の被害者へ謝る。商店街には二度と同じことをしない。そうするなら、依頼人にはそのように報告する」
「しなかったら?」
「この録音と映像を持って、正式に相談する」
蓮は笑おうとした。
だが、笑えなかった。
床には、蓮の胸パッドが落ちている。透のウィッグも落ちている。二人分のメイクがついたクレンジングシートが、白い床に散っている。
滑稽だった。
けれど、その滑稽さの中に、逃げ場のなさがあった。
「……なんでそこまでする」
「昔、似たようなことをされた人を知っているから」
透は言った。
「女装している人間は、笑われやすい。疑われやすい。だからこそ、悪用する人間がいると、全体がさらに疑われる」
「俺一人のせいにするな」
「君一人のせいじゃない。だが、君のしたことは君の責任だ」
蓮は鏡を見た。
半分だけ女の顔。半分だけ素の顔。
どちらも自分だった。
そして、どちらも今は醜く見えた。
「返せばいいんだろ」
蓮は低い声で言った。
「返すだけでは足りない」
「謝れって?」
「最低限は」
「謝ったら、許されるのか」
「許すかどうかは、被害者が決める」
透は膝をつき、床に落ちた蓮のパッドを拾った。雑に投げ返すことはせず、メイク台の上に置いた。次に、自分のウィッグと補正具も拾い上げる。
「直せ」
「は?」
「その姿で外に出る気か?」
蓮は一瞬、言葉を失った。
透は鏡を指した。
「女装を壊すことと、君の逃げ道を全部奪うことは別だ。話が済むまで、見た目くらい整えろ」
「……さっき無理やり落としたくせに」
「君も落とした」
「お互い最低だな」
「その通り」
透は、初めて少しだけ笑った。
二人は無言でメイク台に向かった。
蓮はずれたウィッグを直し、落ちたパッドを補正ベストに戻した。指が少し震えていた。リップを塗り直そうとして、やめた。もう清楚な少女の顔を作る気にはなれなかった。
透もまた、ロングウィッグを被り直した。胸パッドと補正ベルトを整え、口紅を引き直す。数分もすると、鏡の中には再び、華やかなお姉さんが現れた。
ただし、蓮にはもう分かっていた。
それは魔法ではない。
技術だ。意思だ。選択だ。
そして、自分はその選択を間違えた。
「佐伯蓮」
透が言った。
「明日の午後、商店街事務所に来い。逃げたら、こちらも次の手を取る」
「脅しかよ」
「警告だ」
「同じだろ」
「似ているが、目的が違う」
蓮はバッグを持った。割れた小瓶は、もう使い物にならない。赤い液で汚れた内布を見て、急に馬鹿馬鹿しくなった。
「なあ」
「何」
「お前、なんでそんな女装うまいんだよ」
透は少し考えた。
「必要だったから始めた。続けたのは、嫌いじゃなかったからだ」
「……俺も、最初は嫌いじゃなかった」
「今は?」
蓮は答えなかった。
透も追及しなかった。
写真館を出ると、雨は完全に上がっていた。アーケードの先で、駅の照明が白く光っている。人通りはさらに少なくなっていた。
蓮は一歩先を歩いた。
透は後ろからついてくる。まるで、最初と逆だった。
「逃げないわよね?」
お姉さんの声に戻っていた。
蓮は振り返らずに言った。
「その声、むかつくくらいうまいな」
「ありがとう」
「褒めてない」
「知ってる」
駅前の交差点で、信号が赤に変わった。
蓮は立ち止まった。ガラス張りのビルに、自分の姿が映っている。清楚系の女。少しメイクの薄い、疲れた顔の女。
その奥に、派手なお姉さんが立っている。
どちらも嘘だった。
だが、嘘だから価値がないわけではない。
蓮は初めて、そんなことを思った。
「明日、行く」
信号が青になる直前、蓮は言った。
「逃げても面倒そうだし」
「賢明ね」
「あと」
蓮は振り返った。
「金は返す。分かる範囲で」
透は何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
青信号が点滅を始める。
蓮は歩き出した。
その夜、蓮は誰からも金を取れなかった。
代わりに、清楚な仮面を剥がされ、ウィッグを取られ、メイクを落とされ、胸パッドもコルセットも見破られた。完璧だと思っていた女装は、同じように女装を知る男の前で、見事に崩された。
けれど、駅の改札を抜けるころ、蓮はバッグの奥に残っていた未使用のリップを取り出した。
少し迷ってから、薄く塗る。
今度は誰かをはめるためではない。
崩れた顔を、もう一度、自分の手で整えるためだった。




