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天井のシミ

作者: 神木満
掲載日:2026/04/07

手に取っていただきありがとうございます。よければ最後まで読んでいただけると嬉しいです。

 影山は、執筆途中のペンを止めた。


 三千字。いつも三千字のあたりで、続きがわからなくなる。わからなくなる、というより、書いている意味がわからなくなる。微妙に違う。


 深夜二時。アパートの窓の外は静かだった。


 手が伸びた。脳波が腕に信号を送り、煙草に手が伸びた。手が動いているだけ。もはや義務だ。


 三分の一になった煙草を、少し残った缶チューハイの中に入れ、

ベッドに横になって天井を見た。

手についた甘ったるいような鈍い匂いが、鼻をくすぐる。


 一週間後に締め切りがある。三十二年間生きてきて、初めて応募しようとしている文学賞。エントリーフィーは三千円。バイト三時間分。


 三千字で止まっている。


 "天井のシミ"が、見る角度によって人の顔に見えた。昔からそう見えていた。引っ越してきた日から、ずっと。


 誰の顔かは、わからなかった。






---






 翌日、十二時からシフトだった。


 店長の森田は、影山が入ると「今日もよろしく」とだけ言って事務所に消えた。

五十二歳。離婚歴あり、らしい。らしい、というのは本人から聞いたわけではなく、他のバイトが話しているのを聞いただけだった。


 影山は制服に着替えながら、森田のことを考えた。


 この人は、ここで終わった人間だ。そう思っていた。悪意はなかった。ただ、そう見えた。五十二歳、コンビニ店長、離婚。点と点を繋げると、そういう輪郭になった。


 レジに入る。客が来て、去る。来て、去る。


 十六時頃、バイトから上がる時間。森田が珈琲を二つ持って出てきた。一つを影山の横に置いた。


「寒いから」


 それだけ言って、また事務所に戻った。


 影山は珈琲を見た。


 飲んだ。温かかった。


 感謝の言葉も思い浮かばなかった。







---







 家に帰宅。机に向かった。


 何も思い浮かばなかった。いつ文字の悪魔から抜け出せるのだろう。


 全てから逃げたかった。仕事、人間、声、言葉。全てから。


 しかしそれは叶わない。

お金を稼がなければ生活はできない、


人と関わらなければお金を稼げない,


声を聞かないと会話はできない、


言葉がないと会話はできない。


 逃げたら全てがなくなる。逃げるメリットはない。それはわかっている。


 でも逃げたかった。


 煙草に手が伸びる。缶チューハイを片手に。あたかも両手が塞がっているから文章は書けませんと誰かに示しているように。自分に示しているのかもしれない。


 現実逃避。それだけが今自分自身にできる最善の"逃げる"だ。


 机にある秒針を見ると時刻は22時。散々逃げた後、することはトイレだ。トイレに全て流して今日は寝た。


 フリーターになった10年前から何一つ変わっていない。意味もない高校に通って大学にも進学して、結局なったのはフリーター。親に顔向けはできない。だから実家から出て一人暮らしをした。


 もはやいっそ死んだ方がいいのかもしれない。だがそれは許されない。死のうとしても死ねない。"逃げて"しまうからだ。







---







 カーテンの閉め切った四畳半の部屋で目が覚め、コードに繋がれている真っ暗な板を真っ先に見る。指でつっつくとデジタル時計は10時を指していた。



 また1日が始まる。そう考えると気分が憂鬱だった。



 他のことを考えようとしても、生涯何もしてこなかった影山の頭の中には酒と煙草しかなかった。食欲はない。色欲もない。財欲はあるが働きたくない。


 本当に人間なんだろうか。時々わからなくなる。本当は人間じゃなくて


"天井のシミ"なんじゃないかって。


 "天井のシミ"から他の人の生活を盗み見て、

自分が生活していると錯覚しているシミなんじゃないかって。


 シミがよかった。シミになりたかった。


 もう時間だ。


3階建てのアパートから出てアルバイトに向かった。






---





 店内に入店の音が鳴った。その音とは別に怒鳴り声が聞こえる。


「このボールペン今さっき買ったのにインクが出ないんだけど!返品できないの?」


 老婆が普段出さないような大きな声を出している。


「申し訳ございません。買った時のレシートがないと返品できないんですよ」


 森田がクレーマーを対応しているみたいだ。


「そんなの持ってるわけないじゃない!いいから返品しなさい!!」


 同じようなやり取りが続いて「もうくるか!」と吐き捨てて、鈍い足をあげ店を出ていった。


「大変ですね。でももうこないと言っているし。よかったですね」


 口論のうちに制服に着替え、レジを引き継ぎしようとバックルームから出た時、何も考えずにただ言った言葉。


「あの人は常連さんだよ」


 森田は淡々と口を動かした。「あの人、人と話したいだけなんだ。きっと」


 人と話す機会を失った年寄りがコンビニで人と話す。それだけなのに、人間性が違うとこうも違うんだなと感心した。


あの老婆は足りない"人と話す"をコンビニで補給しているのかと。




---




 労働を終え、3階建てのアパートへ歩き出す。何も変わらない帰り道。

今日は少し変わった行動をしてみたくて本屋に寄る。


 キリスト教の本に目を奪われ手にとる。読み進めていくと"死が真の救済"と書いてあった。


 その通りかもしれない。死んでゼロに戻れば逃げてばかりの生活はなくなる。俺はそれを求めていた。


 今日、本屋に寄ったことで俺が"求めるもの"がわかった。それは文学賞に出す、誰の目に止まるかわからない文字ではなく。救済だと。


 気づかせてくれた本を手に取りレジに持って行き、購入した。



---



 数ヶ月後、俺はキリスト本の隣で"床のシミ"になれた。



ようやくなれた。



 "1階の天井"から他の人の生活を覗き見する。床には汚らしく転がった缶チューハイ、煙草の吸い殻と灰皿。


 この人も求めているのではないか。そう感じた。俺のように、救済を。


 ―完―


最後まで読んでいただきありがとうございます。

これからも好きに小説を書いて行きたいと思うので、フォローして待っていただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
"三千字で止まってる" 主人公が書きたい理由、書けない理由が明かされるのかなあと、先へ読み進めました。 でも、森田がくれたコーヒーに、言葉が出ない。この時点で、ああ、この人はもう心が動けなくなってる…
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