第一話 「銀白色の訪問者」
『月のひげを持つ猫』第一話 「銀白色の訪問者」
夜中の十一時。ソフィアは自分の小さな部屋で、窓の外を眺めていた。
山々に囲まれた村は、この季節、月がとても綺麗だった。満月の光が雪のように白く、森の木々を照らしている。でも、ソフィアの心はその美しさを感じる余裕がなかった。
明日、父親が村を出ていくのだ。
父は仕事を失い、何ヶ月も新しい職を見つけられていない。母は毎晩、小さな声で泣いていた。ソフィアは十歳だったが、子どもながらに家計の大変さを感じていた。そして明日、父は大きな町へ仕事を探しに行くことになったのだ。どのくらい帰ってこないのか、誰も言葉にしなかったが、ソフィアにはわかっていた。長くなるのだと。
「どうか、父さんが仕事を見つけられますように」
ソフィアは心の中でそう願った。でも、その願いは空に消えるだけだと思っていた。願いなんて、そんなものだ。子どもであっても、世界の厳しさぐらいはわかっていた。
その時だった。
窓の外から、柔らかな音がした。鈴のような音ではなく、もっと繊細な——まるで月光そのものが音を出しているようなの。
ソフィアが窓に顔を近づけると、庭の真ん中に、一匹の猫が立っていた。
銀白色の、信じられないほど美しい猫だ。その毛並みは月光を吸収し、放出しているかのように輝いていた。しかし、ソフィアを驚かせたのは、その外見ではなく、猫の「ひげ」だった。
普通の猫のひげは、白くて短い。だがこの猫のひげは、銀糸のように長く、柔らかく、そして——光っていた。夜空の星々から集めたかのような、淡い輝きを放つひげが、猫の顔をふんわりと包んでいたのだ。
「…何これ」
ソフィアは思わず呟いた。幻だろうか。疲れているせいだろうか。でも、その猫はゆっくりと首を動かし、ソフィアの方を見た。琥珀色の瞳で。
その瞬間、ソフィアは確実に感じた。この猫は、自分を見ている。いや、自分の心を見ている。
ソフィアは窓を開けた。冷たい夜風が部屋に流れ込んだ。猫は動かない。ただ、じっと待っているように見えた。
恐る恐る、ソフィアは階段を下りて、家の戸を開けた。両親はもう寝ている。足音を立てないように、裸足のまま庭へ出た。
夜の冷気が肌に刺さった。でも、ソフィアは前に進んだ。猫の方へ。
「あ、あの……」
声が出なかった。何と言ったらいいのか、わからなかった。でも、猫はゆっくり近づいてきた。その銀白色の体は、月光そのもののように柔らかく見えた。
ソフィアが膝をついた。猫は彼女の顔の高さまで来ると、ゆっくりと首をかしげた。
「君、誰……?」
猫は返事をしなかった。代わりに、その長いひげがゆっくりと光った。淡い銀色の光が、ひげから放射状に広がり、ソフィアの顔を包み込んだ。温かかった。光なのに、温かい。
その光に包まれながら、ソフィアは感じた。自分の心の中にある、あの「願い」が、猫に伝わっているのだと。
「父さんが……仕事を見つけられますように。家族が、一緒にいられますように」
言葉に出した願いは、光に溶け込んだ。猫のひげがさらに強く輝いた。
やがて、光は消えた。猫はそのまま、ソフィアの頬に鼻をつけた。触れた感覚は、本物だった。温かい、生きた猫の感触。
その時、猫が口を開いた。人間の言葉で話しかけてきたのだ。
「約束します」
ソフィアは呼吸を忘れた。猫が、言葉を話したのだ。
「あなたの心からの願い、聞きました。月のひげが光った。それは、その願いが本当だからです。だから、叶うのです」
ソフィアは目を大きく開いた。
「ほ、本当ですか? 父さんが本当に仕事を見つけられるんですか?」
猫の琥珀色の瞳は、深く、古く、そして優しかった。
「あなたの心からの願いなら、そうです。ただし」と猫は続けた。「願いは、すぐには形にならないかもしれません。あなたと、あなたのお父さんが、心を動かす必要があります。願いは、きっかけに過ぎないのです」
ソフィアは首をかしげた。
「きっかけ、ですか?」
「そう。私の力は、心と心を繋ぐこと。その先は、あなたたち人間の決断と行動です。私は、ただそのお手伝いをするだけ」
猫は落ち着いた声で説明した。
「でも、お父さんはまだ……」
ソフィアが不安そうに言うと、猫はゆっくりと首を振った。
「もう、変わり始めています。あなたの願いが光った瞬間、その光は月を通じて、この村全体に広がりました。気づかぬうちに、あなたのお父さんの心にも届いているのです」
ソフィアには、その意味がよくわからなかった。でも、猫の言葉には嘘がないように感じられた。
「あなたは勇敢な子ですね。夜中に、見知らぬ猫のために庭に出てきた。その勇敢さが、願いを強くしました」
ソフィアは少し照れた。
「勇敢じゃないです。怖かった……」
「怖さを感じながら、それでも前に進む。それが、本当の勇敢さです」
猫は言った。その言葉は、ソフィアの心に深く届いた。
「私の名は、ルナ。この村の月のひげを持つ者です。昔からこの村を見守ってきました。あなたたちの心からの願いを聞き、光に変えるのが私の仕事です」
「ルナ……」ソフィアは繰り返した。「綺麗な名前ですね」
「月の光から生まれた名前です。これからもときどき、あなたの前に現れるでしょう。その時は、また心の中の願いを聞かせてください」
ソフィアは頷いた。
「ルナ、本当にありがとう。父さんのこと、よろしくお願いします」
ルナは、ソフィアの頭にそっと自分の頭をこすりつけた。猫がするように。
「もう大丈夫です。月が見守っています」
ルナは言うと、ゆっくり立ち上がった。そして、庭を横切って、月光に溶けるように消えていった。いや、消えたのではなく、月光そのものになったのだ。
ソフィアは、その場にしばらく立っていた。冷たい足の感覚も、もう感じていなかった。
心の中に、温かい光が残っていた。
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翌朝、ソフィアが目を覚ますと、昨夜のことが夢だったのではないかと思い始めていた。でも、足には庭の土がついていた。そして、頬には、猫のひげが一本、銀色に輝いたまま付着していたのだ。
朝食の時間、父が卓に着いた。顔色が悪い。出発の時間が近いのだ。
「お父さん」
ソフィアは勇気を出して声をかけた。
「何だ、ソフィア」
父は娘を見た。
「お父さんなら、大丈夫です。きっと良い仕事が見つかります。僕……私は、そう信じています」
父は、娘のその言葉に、少し驚いたように見えた。
「そうだな。お前がそう言うなら……」
父は少し笑った。その笑顔は、何日も見ていなかった。
その日の午後、父親が出かける準備をしていた時のこと。突然、村の商人から連絡が入った。父の古い友人が、大きな町で新しい仕事を紹介してくれたというのだ。しかも、給料は前の職より良いという。
父は呆然とした。
「え……本当か……?」
母は涙を流した。
「良かった……本当に良かった……」
ソフィアは、頬に付着した銀色のひげを、そっと自分のノートに挟んだ。
月のひげを持つ猫は、約束を守った。
ただし、その願いを叶えるために、ソフィアの父が友人に助言を求める勇気を持つ必要があった。その勇気を、父はどこから得たのだろう。もしかすると、昨夜、ソフィアが庭に出た時の、わずかな足音が父の耳に届き、何かを感じさせたのかもしれない。あるいは、ソフィアの心からの願いと勇敢さが、何らかの形で父の心を動かしたのかもしれない。
ルナが言ったように、願いはきっかけに過ぎなかった。その先は、人間の心と行動が形作るのだ。
ソフィアは、銀色のひげを何度も眺めた。
「ルナ、ありがとう」
窓から月を見上げながら、ソフィアは呟いた。月は相変わらず、静かに輝いていた。でも、今は違う。その光の中に、優しい存在を感じることができた。
そしてソフィアは気づいたのだ。本当の魔法とは、外から降ってくるものではなく、自分の心と、他の誰かの心が通じた時に起こるのだということを。
月のひげを持つ猫は、ただ、その通じ合いを助けるだけなのだ。
第一話 完
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