第42話「生還」
数日後。東京に戻った日常は、あの山奥での出来事が嘘だったかのように淡々と流れていた。
悠真は、自室のデスクでノートパソコンに向かっていた。画面には、書きかけの原稿が映し出されている。タイトルは『鬼守トンネル崩落事故・隠された二十年の真実』。
彼は、超常的な現象については一切触れなかった。書けることだけを書いた。二十年前に起きたとされる「ガス爆発事故」の不自然さ。当時のずさんな捜査と、地元有力者による隠蔽の疑惑。そして今回、危険が指摘されていたにも関わらず、何の対策も講じられていなかった廃ホテルの管理責任。
記事の最後を、彼はこう締めくくった。
『我々は、忘却という名の罪を犯してはならない。過去から目を背けた時、悲劇は必ず繰り返される』
書き終えた彼は、エンターキーを押す。記事は編集部へと送信された。それが世に出て、どれほどの反響があるかはわからない。だが、これが自分にできる唯一の弔いだと思った。
ふと、机の端に置かれたものに目が留まる。あの日、影山から渡され、ポケットの中で熱を帯びた護符の燃えカス。そして、美咲が地下祭壇で拾った、黒曜石のナイフ。警察の現場検証では見つからなかったのか、それとも見つけても無視されたのか、混乱の中で彼女が持ち帰ってきていた。
悠真はナイフの柄を握ってみた。ひんやりとした感触。 目を閉じると、今もあの化け物の絶叫と、血の匂いが蘇る。
(俺は、本当に人間に戻れたのか?)
その問いは、これからも彼を苦しめ続けるだろう。
ピンポーン、とインターホンが鳴った。 ドアを開けると、そこには美咲が立っていた。あの日以来、初めて会う彼女は、少し痩せたように見えたが、その目には以前と同じ芯の強さが戻りつつあった。
「……高木さん、お邪魔してもいいですか?」
「あ、ああ。どうぞ」
二人は、どちらともなくリビングのソファに腰掛けた。ぎこちない沈黙が流れる。先に口を開いたのは美咲だった。
「私、会社、辞めることにしました」
「え……」
「あのホテルで……母の最期かもしれない場所を見て、色々考えたんです。雑誌の仕事は楽しかったけど、もっと直接、誰かを助けられることがしたいなって。看護師になろうと思ってます。彩花さんみたいに」
そう言う美咲の表情は、晴れやかだった。
「そっか……。君なら、きっといい看護師になれる」
悠真は心からそう思った。
「高木さんは? これからどうするんですか?」
「俺は……」
悠真は言葉を詰まらせた。
「俺は、書き続けるよ。あのホテルであったこと、その裏にあった人間の愚かさ。忘れないために」
「鬼のことも?」
美咲が真っ直ぐに彼を見た。
悠真は小さく頷いた。
「ああ。いつか、あの現象がなんだったのか、解明できる日が来るかもしれない。それまでは、俺が『監視者』だ」
二人の間に、再び静寂が訪れた。だが、それはもう息苦しいものではなかった。 悪夢を共有し、生き残った者同士にしかわからない、静かな絆がそこにはあった。
「……怖かったですね」
美咲がぽつりと言った。
「ああ、怖かった」
美咲が、そっと悠真の手に自分の手を重ねた。あの日、彼がしてくれたように。
「でも、あなたは私を守ってくれた」
「君がいたから、俺は……俺でいられた」
二人はどちらからともなく、ゆっくりと顔を寄せた。 それは、すべてを失った者同士が、お互いの存在を確かめ合うような、静かで、優しいキスだった。
窓の外では、東京の喧騒がいつも通りに響いている。 だが、あの山奥の廃ホテルであった出来事は、決して消えることはない。 彼らの心に巣食った「鬼」は、今も眠りにつきながら、次の悪夢の始まりを静かに待っているのかもしれない。
それでも、二人は生きていく。 互いの手の温もりを、確かに感じながら。




