第41話「夜明けの残響」
夜明けの灰色の光が、降り止んだ雨に濡れた森を照らし始めた。鬼守荘は、もうない。そこにあるのは、無残にねじ曲がった木材と瓦礫の山だけだった。まるで最初から、悪夢だけが存在していたかのように。
悠真、美咲、岡田の三人は、泥にまみれ、疲労困憊のまま呆然と立ち尽くしていた。
「……助かった、のか?」
岡田が、信じられないというように呟いた。彼の足は折れているようだったが、アドレナリンがまだ痛みを麻痺させている。
悠真は、まだ震えが止まらない美咲の肩を支えていた。彼女は無言で、涙を流し続けている。失ったものの大きさは、まだ実感として追いついていなかった。
「ああ。終わったんだ」
悠真はそう言ったが、自分の声がひどく乾いていることに気づいた。彼は自分の手を見下ろす。昨夜、爪が伸び、黒く変色したはずの手は、今は泥と血に汚れているものの、まぎれもなく人間の手に戻っていた。だが、あの内側から溢れ出そうになった暴力的な衝動の記憶は、生々しく残っている。
「高木さん……」
美咲がようやく口を開いた。
「あれは、全部……本当だったんでしょうか」
悠真は答えられなかった。どう説明すればいいのか。自分があの夜、一時的にせよ人ならざるものに変貌したことを。
「とにかく、ここを離れよう」
悠真が岡田に肩を貸し、三人はお互いを支え合うようにして、ぬかるんだ山道を下り始めた。あの狂気の夜が嘘のように、鳥のさえずりが聞こえ始めている。
数時間後、彼らは麓の道路にたどり着いた。泥だらけで憔悴しきった三人の姿に、通りかかったトラックの運転手は驚愕し、すぐに彼らを最寄りの町へと乗せてくれた。
病院で手当てを受け、警察の事情聴取が始まった。 何を、どう話せばいいのか。
悠真は口火を切った。
「バスが土砂崩れで立ち往生して、近くの廃ホテルに避難しました。ですが、ホテルが……老朽化で、崩落したんです」
岡田と美咲も、その言葉に合わせた。
「他の乗客は?」
と若い警官が尋ねる。
「……逃げ遅れました」
悠真は目を伏せて答えた。
「助けようとしたんですが、あまりに急で……」
「大変でしたね」
警官は同情的な目を向けた。
「あのあたりは地盤が脆いことで有名でした。台風も重なって、最悪の事態になったんでしょう」
警察はあっさりと彼らの話を信じた。いや、信じるしかなかった。まさか、ホテルに潜む「鬼」がいて、二十年前の儀式がどうのと、報告書に書けるはずもない。
死体は、瓦礫の山に埋もれてほとんど見つからなかった。田中翔、小林優奈、中村彩花、山本啓太、石川清一、そして、影山。彼らは公式には「豪雨による土砂災害及び建物崩壊事故の犠牲者」として扱われた。
ただ一人、林玲奈という少女の存在だけが、最初からどこにも記録されていなかった。まるで、彼女だけが本当に「幽霊」だったかのように。
病院のロビーで、治療を終えた悠真と美咲は、迎えに来た警察の車を待っていた。岡田は骨折の治療のため、別の病院へ搬送されていった。
「これから、どうするんですか?」
美咲が静かに尋ねた。
「……東京に、帰ります」
悠真は答えた。
「そして、この記事を書く」
「記事……?」
「ええ。もちろん、鬼のことは書けません。でも、二十年前の事件が隠蔽されたこと、そして、今回の事故が起こるべくして起こった人災である可能性は書ける」
彼は、ポケットから取り出した、焼け焦げた護符の欠片を見つめた。
「あの場所で何があったのか、俺は忘れない。絶対に」
美咲は、そんな悠真の横顔をじっと見つめていた。 彼女もまた、失ったものが多すぎた。だが、同時に、命を救われたという事実もあった。
「高木さん」
「はい」
「ありがとうございました。……生きて、帰してくれて」
悠真は何も答えず、ただ静かに頷いた。 朝日が、病院の大きな窓から差し込み、二人の疲れた顔を照らしていた。 悪夢は終わった。 だが、その傷痕は、二人の心に深く刻み込まれていた。




