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廃ホテルの十一人 ―鬼守の血統―  作者: 猫森満月


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第38話「黒い衝動」

 清一の骸から立ち上った黒い霧は、まるで意志を持っているかのように、悠真の口や鼻、そして皮膚から体内へと侵入していく。


「ぐ……あああああっ……!」


 悠真は両膝をつき、激しく喘いだ。先程までの高揚感とは違う、もっと凶暴で、根源的な「飢え」が内側から突き上げてくる。視界が再び赤く染まり、今度はもう、元の色には戻らなかった。


 筋肉が軋み、骨がきしむ音が響く。 彼の背中が盛り上がり、肩甲骨のあたりから何かが皮膚を突き破ろうとしているかのように蠢いた。爪はさらに鋭く、黒檀のように黒光りし、指の関節が一つ増えたかのように歪に伸びる。


「高木さん…! いやっ…!」


 美咲は恐怖に後ずさった。目の前にいるのは、もう高木悠真ではない。それは「鬼」だった。 悠真はゆっくりと立ち上がった。その動きはしなやかで、力強く、もはや人間のものではなかった。彼は顔を上げ、美咲を見た。


 その顔は、まだ悠真の面影を残していたが、目は爛々と輝く深紅色に変わり、口は耳元近くまで裂けていた。そこから覗く歯は、鋭い牙へと変貌している。


『ミ……サ……キ……』


 その声は、悠真の声と、複数の低い獣の唸り声が混ざり合ったように聞こえた。 「鬼」は美咲を認識していた。だが、それはもはや仲間としてではなく、古文書に記された最後の供物――『鍵』としてだった。


「だめ…来ないで……」 美咲は震えながら、壁際まで追い詰められる。もう逃げ場はない。


「そうよ、悠真さん。彼女を喰らいなさい」 玲奈が、恍惚とした表情で囁いた。 「彼女は『鍵』。彼女の血をこの祭壇に捧げ、その魂を喰らうことで、あなたは完全な『鬼守様』になる。二十年間、私たちが待ち望んだ、この地の新しい神になるの」


『喰らエ……』 『スベテヲ……ヒトツニ……』


 悠真の頭の中で、無数の声が歓喜の声を上げる。 彼は美咲に向かって、ゆっくりと一歩を踏み出した。


(違う……俺は……)


 悠真の意識は、その肉体の奥深く、嵐の中心の静かな場所で、かろうじて自我を保っていた。彼は必死に叫んでいたが、その声は外には届かない。


(やめろ……やめろ! 美咲を傷つけるな!)


 だが、「鬼」の本能は、悠真の意思を嘲笑うかのように、美咲へと手を伸ばす。 その手が、美咲の喉元に触れようとした、その瞬間。


「……っ!」


 悠真の動きが、ぴたりと止まった。 美咲が、恐怖に震えながらも、その両手で悠真の頬を包み込んでいた。 彼女の掌から伝わる、か弱くも温かい感触。それは、この世の何よりも純粋な「生」の証だった。


「高木さん……」 美咲の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。 「ダメ……あなたまで、化け物になっちゃダメ……!」 彼女は泣きながら、悠真の胸に顔をうずめた。


 その温もりが、絶叫が、悠真の奥底に閉じ込められていた「人間」の部分を激しく揺さぶった。


『……邪魔ヲ……スルナ……』 「鬼」が唸り、美咲を振り払おうと腕を上げる。


 だが、その腕は振り下ろされなかった。 悠真の理性が、本能との凄まじい闘争を繰り広げていた。彼の顔は苦悶に歪み、赤かった瞳が、激しく点滅し始める。


「美咲……」 かろうじて、人間の声が漏れた。 「……逃げ……ろ……」


「いやよ!」美咲は彼の胸を強く叩いた。「戻ってきて! あなたは高木悠真でしょう! こんなものに負けないで!」


 その言葉が引き金だった。 悠真の全身から、黒いオーラのようなものが激しく噴き出した。 「ぐああああああああああああっ!」


 それは、人間の絶叫であり、鬼の咆哮でもあった。 二つの意志がぶつかり合い、その肉体を内側から引き裂こうとしていた。悠真は祭壇に背中を打ち付け、苦しみに身をよじる。


「さあ、もう少しよ!」 玲奈が甲高い声で叫んだ。 「喰らいなさい!その女を喰らって、全部終わらせて!」


 悠真の視界が、赤と黒で明滅する。 美咲の泣き顔と、血を求める本能が、激しく火花を散らした。

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