第36話「生贄の選択」
【視点:高木悠真】
「……殺せ」
頭の中で、声が響く。 いや、それはもう声ではなかった。命令だ。俺の存在そのものを乗っ取った、絶対的な衝動。
目の前に、佐藤美咲がいる。 恐怖に目を見開き、しかし、まっすぐに俺を見つめている。彼女の白い喉が、血を欲する獣の本能を刺激する。
『そうだ。その喉を掻き切れ』
俺の手が、ゆっくりと持ち上がった。もう俺の手ではない。黒ずんだ皮膚、獣のように鋭く伸びた爪。その手が、美咲の首筋へと吸い寄せられていく。
(やめろ……やめろ……!)
心の奥底で、まだ「高木悠真」である部分が必死に叫んでいた。だが、身体は動かない。快感すら感じていた。彼女の恐怖を、その命の輝きを奪うことに、言い知れぬ悦びを感じ始めている自分がいた。
『喰らえ。喰らえば、お前は完成する』
ああ、そうだ。これが俺の運命だ。このためにここに来たんだ。 爪が、彼女の柔らかな肌に触れようとした、その瞬間。
「……高木さん」
美咲が、震える声で俺の名前を呼んだ。 そして、彼女の手が、そっと俺の頬に触れた。
その温かさに、俺の中の「鬼」が怯んだ。 刹那、激しい頭痛とともに、記憶が逆流する。
―――雨の中、バス停で待つ彼女の姿。 『あ、高木さん! おはようございます!』 ―――取材中、真剣な眼差しでメモを取る横顔。 『この仕事、大変ですけど、すごくやり甲斐があります』 ―――さっき、この暗闇の中で、俺の腕を掴んでいた彼女の小さな手。 『私、高木さんと一緒なら……』
「……美咲……」
俺の口から、俺自身の声が出た。 頬に触れる彼女の手は、まだ震えている。だが、その瞳は俺をまっすぐに見つめ、諦めていなかった。 怯えている。死ぬほど怖いはずだ。なのに、逃げない。
『何をためらう!殺せ!』
内なる声が再び咆哮する。 だが、美咲の体温が、その呪いよりも強かった。
「う……あああああああああっ!」
俺は自分自身に向かって絶叫した。 美咲を殺すくらいなら。 彼女にこんな顔をさせるくらいなら。
俺は、彼女に触れようとしていた右手を、そのまま自分の左腕に叩きつけた。鋭い爪が深く食い込み、俺自身の黒い血が噴き出す。激痛が全身を貫き、内なる「鬼」の支配がわずかに揺らいだ。
「逃げろ……早く!」
俺は残った理性を振り絞り、美咲を突き飛ばした。
「俺が……俺がお前を殺す前に……行けっ!」
ゴゴゴゴゴゴ……!!
その時だった。 地下室の入り口から、轟音と共に、あの「なりそこない」の化け物が姿を現した。 石川清一の変わり果てた姿が、俺と美咲を、二つの獲物としてロックオンした。
「高木さん!」
美咲が叫ぶ。
「行け!」
俺は叫び、床に転がっていた鉄パイプを拾い上げた。影山が落としたものだ。
「あいつは俺が引き受ける!お前は逃げろ!」
『そうだ、殺せ。そいつを喰らえ。そいつの力も、お前のものだ』
「うるさいッ!」
俺は、化け物に向かって吼えた。
「お前が欲しいのは、俺の血だろ!」
「グオオオオオッ!」
清一だったものが、俺の挑発に応じ、その巨大な鉤爪を振りかぶり、飛びかかってきた。 もう後戻りはできない。 俺は、美咲を守るために、鬼になることを選んだ。




