第35話「最後の呼び声」
「あなたが……鬼……?」
玲奈の無慈悲な宣告が、美咲の鼓膜で反響した。目の前で苦悶する悠真の姿が、理解できない現実となって突き刺さる。
「う……ああああああ!」
悠真の喉から、もはや人間のものとは思えない呻き声が漏れた。彼の身体が異様に痙攣し、筋肉が服の下で蠢くのがわかった。ジャケットの袖が耐えきれず、ビリビリと音を立てて裂けていく。
(高木さん…!)
美咲の脳裏に、数日前の、まだ日常だった頃の彼が浮かんだ。 編集部で、少し照れくさそうに笑いながら原稿を渡してくれた姿。取材に向かうバスの中で、この廃ホテルの怪談を真剣な表情で語っていた横顔。恐怖に震える彼女の手を、さっき、この地下室で握ってくれた、その温かさ。
『大丈夫だ。俺が、絶対に君を守るから』
そう言ってくれた彼が、今、目の前で「鬼」になろうとしている。
「や……めろ……」
悠真が苦悶の表情で、自分自身の手を抑え込もうとしていた。その指が、黒く、鋭い鉤爪のように変形していく。皮膚は土気色に変色し、血管が黒く浮き出ていた。
「高木さん!」
美咲は、恐怖を忘れて彼に駆け寄ろうとした。だが、玲奈が冷たく立ちふさがる。
「ダメ。もう手遅れよ。彼はもう、『器』として目覚め始めた。あなたのお母さんみたいに、彼を止めようなんて思わないことね」
「私のお母さん…?」
「そうよ」
玲奈は淡々と言った。
「二十年前、あなたのお母さん…『佐藤恵』は、『鍵』だった。逃げ出した『器』…高木静子を止める役目だったのに、彼女はできなかった。親友だからって、情に流されて逃がしてしまったの。だから、儀式は失敗した」
衝撃の事実に、美咲は息を呑んだ。 すべては、二十年前の因縁の繰り返し。
「あなたも、同じよ」
玲奈の視線が、美咲を貫く。
「あなたも『鍵』。あなたの血には、鬼を鎮める力と、同時に鬼を完成させる力の両方がある。でも、今のあなたじゃ、あの『なりそこない』にすら勝てない」
ゴゴゴゴゴゴ……!!
玲奈の言葉を裏付けるように、地下通路の奥から凄まじい地響きと咆哮が迫ってきた。石川清一だった化け物が、もう間近まで来ている。
『殺セ…』 『喰ラウ…』 『アノ女ヲ…ササゲロ…』
悠真の口から、いくつもの声が混ざり合ったようなおぞましい音が漏れ出す。彼の目は、もう人間のものではなかった。赤黒く濁り、飢えた獣のように美咲を捉えている。
「高木さん…っ!」
美咲は後ずさった。目の前にいるのは、もう彼女の知る「高木悠真」ではない。 それでも。 それでも、彼女は逃げ出すことができなかった。 あの優しかった笑顔を、自分を守ろうとしてくれた手を、彼女はまだ覚えていた。
「いや……」
悠真の手が、ゆっくりと美咲に向かって伸びてくる。黒く変色し、獣のように太くなった腕。その指先が、美咲の喉元に迫る。
美咲は、恐怖で体が動かない。だが、彼女は目を閉じなかった。 (もし、これが運命なら……) 彼女は、涙が一筋流れるのを感じながら、自分を殺そうとする男の、その苦悶に満ちた瞳を、まっすぐに見つめ返した。
(せめて、あなたの手で……)
その瞳には、恐怖と絶望の底に、消えることのない信頼の色が、確かに宿っていた。




