第34話「覚醒、そして饗宴」
意識が戻った、という感覚はなかった。 むしろ、今まで押さえつけられていた何かが、ついに肉体の主導権を握ったという感覚だった。悠真の視界は、今や赤く染まっている。だが、暗闇だったはずの地下祭壇は、まるで真昼のように明るく見えていた。
空気が、匂う。 恐怖。絶望。そして、何よりも甘美な、血の香り。
「ああ……」
声を発したのは、もはや高木悠真ではなかった。それは低く、獣の呻き声と、何人もの人間が同時に喋っているかのような、歪んだ響きを持っていた。
「高木……さん……?」
か細い声に、ゆっくりと首を巡らせる。 そこに、美咲がいた。壁に背をつけ、腰が抜けたように座り込んでいる。その瞳に映るのは、純粋な恐怖。
『美味そうだ』
声が、思考が、頭の中で反響する。 悠真は、自分の手を見た。指は長く伸び、先端は黒く鋭い爪に変わっている。ジャケットは筋肉の膨張によって引き裂かれ、皮膚は不気味なほど蒼白く、硬質化している。
「玲奈……ちゃん……」
美咲が、かろうじて動く唇で助けを求めた。
だが、玲奈は静かに首を横に振った。
「もうダメ。彼は『鬼守様』になった。私たちの役目は終わったの」
そう言うと、玲奈の体は足元からゆっくりと光の粒子に変わり、霧散し始めた。
「ありがとう、解放してくれて……」
満足そうな笑みを浮かべ、少女の姿は完全に消え去った。
「待って!行かないで!」
美咲が叫ぶ。
だが、悠真――いや、「鬼」となった存在は、もうそんなことには関心がなかった。 目の前には、二つの餌がある。
「お、おい……よせ……」
入口付近で震えていた岡田が、這うようにして後ずさろうとする。 悠真は、ただ一歩、踏み出した。 その一歩で、十メートル近くあった距離が一瞬で縮まる。
「ひっ!」
岡田が声にならない悲鳴を上げた。 悠真の腕が、鞭のようにしなる。 岡田は必死に腕で庇おうとしたが、鋭い爪は肉を容易く貫き、コンクリートの壁に彼を縫い付けた。
「ガ……ハッ……」
岡田は両目を見開いたまま、絶命した。 だが、悠真は止まらない。 飢えている。まだ足りない。 彼は岡田の亡骸から腕を引き抜くと、ゆっくりと最後の獲物に向き直った。
「た……高木、さん……」
美咲は、腰を抜かしたまま後ずさろうとするが、壁に阻まれる。涙が頬を伝い、恐怖で声も出ない。 悠真は、獲物をいたぶる獣のように、ゆっくりと一歩ずつ近づいていく。 赤く染まった視界の中で、怯える美咲の姿は、ひどく美しく見えた。
「ああ……そうだ……」
悠真は、自分の指先についた岡田の血を舐めた。 甘美な味が、脳髄を痺れさせる。
『そうだ。お前はもう、人間じゃない』 『お前は、この場所を守る、鬼だ』
「や……やめ……」
美咲がか細く懇願する。 悠真は、その目の前で立ち止まり、ゆっくりと手を上げた。 もう、あの優しいライターの面影はどこにもなかった。 あるのは、何百年もの飢えを受け継いだ、絶対的な捕食者の冷たい瞳だけだった。




