第23話「古文書」
(ここまで、か……)
悠真の腕が、限界を超えて悲鳴を上げていた。燭台とナイフが擦れ合う不快な音が、彼の敗北を予告しているかのようだ。化け物と化した清一の顔が、すぐ目の前にあった。血走った瞳が、獲物を嬲るように悠真を見下ろしている。
(死ぬ)
その二文字が、脳を白く塗りつぶした瞬間だった。 ジャケットの内ポケットの中で、何かが、焼けるようにカッと熱くなった。
影山から渡された、あの護符だ。
その熱は、単なる熱ではなかった。まるで、凍り付いた血管に熱湯を流し込まれたかのような、激しいエネルギーの奔流が、護符から悠真の全身へと駆け巡る。
「うおおおおおおおおおおっ!」
自分のものではないような、野太い雄叫びが喉から迸った。 悠真は、どこから湧いてきたのかわからない力で、化け物を突き飛ばした。清一は数メートル後方まで吹き飛び、壁に叩きつけられる。
「な……に……を…?」 化け物は、信じられないという顔で、よろめきながら立ち上がった。
悠真は、震える手でポケットから護符を取り出した。それは淡い光を放ち、まるで生きているかのように微かに脈打っている。 これだ。これがあの化け物に対抗できる、唯一の武器だ。
「貴様……鬼守の……血……!」
化け物は、護符を見て初めて恐怖の色を浮かべた。
悠真は、床を蹴った。 今度は、俺の番だ。 化け物が再びナイフを振りかぶるより早く、その懐に飛び込む。そして、光る護符を、その化け物の額に強く押し当てた。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!」
化け物の口から、先ほどとは比較にならないほどの、断末魔の絶叫が迸った。 護符が接触した額の部分から、白い煙が上がり、肉が焼け焦げる匂いが祭壇の間に充満する。化け物は、凄まじい力でのたうち回り、悠真を振り払おうとするが、悠真は必死で護符を押し付け続けた。
その時、今まで戦いを見守っていた玲奈が、静かに口を開いた。
「その人は鬼じゃない。鬼の力に当てられて、おかしくなっちゃっただけ」
彼女は、苦しむ清一を憐れむような目で見つめていた。
「本当の鬼は、もっと静かで、もっと賢くて……もっと、お腹を空かせているもの」
玲奈の言葉は、この惨状には不似合いなほど、淡々としていた。 やがて、清一の体から力が抜けていく。膨張していた筋肉は萎み、血走っていた目は元の老人のものへと戻っていく。だが、その瞳から、完全に光は失われていた。
ドサリ、と。 石川清一だった抜け殻が、床に崩れ落ちた。もう動かない。
悠真は、荒い息を繰り返しながら、その場に膝をついた。手の中の護符は、もう光を失っている。 勝ったのか? いや、違う。
玲奈の言葉が、頭から離れない。 『本当の鬼は、もっとお腹を空かせている』
悠真は、今が唯一の好機だと悟った。
「ここから出るぞ!早く!」
悠真は美咲の手を掴み、祭壇の間の重い鉄の扉へと走った。 美咲は、呆然としながらも、彼に引かれるままに走り出す。 二人は必死で扉の外へ転がり出ると、残る力を振り絞り、外側から閂をかけた。
ガシャン!という重い金属音。 その直後、扉の向こう側から、凄まじい力で扉を叩く音が響き始めた。
ドン!ドン!ドン!ドン!
それは、もはや人間の力ではなかった。鋼鉄の扉が、内側からミシミシと音を立て、大きくへこんでいくのがわかる。 清一は、まだ生きている。いや、彼に取り憑いた「何か」が、まだ。
悠真と美咲は、扉に背を預け、ただ荒い息を繰り返すことしかできなかった。 いつの間にか、玲奈が二人の隣に立っていた。 彼女は、激しく揺れる鉄の扉を、静かな目で見つめていた。
彼らは逃げ出したのではない。 より広い檻へと、怪物と共に移動したに過ぎなかった。 扉の向こうの怪物が、静かになるその時まで、彼らはただ、闇の中で息を潜めるしかなかった。




