第22話「鬼憑き」
「儀式の邪魔は、させん…」
石川清一の唇から漏れたのは、もはや彼自身の声ではなかった。低く、嗄れ、まるで墓石を爪で引っ掻くような、不快な響きを帯びていた。 その瞬間、彼の身体に明らかな異変が起こり始めた。
「ひっ…!」 美咲が息を呑む。 清一の痩身だったはずの身体が、ミシミシと音を立てて膨張していく。着ていた古びたスーツは、内側からの圧力ではち切れんばかりに張り詰め、その下で血管がミミズ腫れのように蠢くのが見えた。彼の目は、どす黒い血の色に染まり、白目との境界を失っていく。それはもはや、人間の目ではなかった。
「石川さん!正気に戻れ!」 悠真は叫んだが、その声は届いていない。目の前の「それ」は、石川清一の皮を被った、全く別の何かだった。
「そうだ…」化け物は、首をありえない角度に傾けながら言った。「だからこそ、今度こそ成功させなければならんのだ。正しい『生贄』を捧げて、鬼を鎮め、この呪いを終わらせるのだ!」
その血に染まった瞳が、ゆっくりと悠真と、その背後にいる玲奈を捉えた。 正しい生贄。 その言葉が意味するものを悟り、悠真の全身の血が凍り付いた。
「そのためには、まずお前からだ、影山!」
次の瞬間、化け物は床を蹴った。老人のものとは思えない、獣じみた跳躍。血に濡れたナイフが、最短距離で影山の死体――の横に立つ悠真の喉元へと迫る!
「危ない!」
悠真は、咄嗟に美咲と玲奈の二人を突き飛ばした。床に倒れ込む二人を庇うように、化け物の前に立ちはだかる。 ヒュッ、とナイフが空を切る音が耳元を掠めた。ジャケットの袖が浅く切り裂かれ、じわりと熱が走る。
【視点:佐藤美咲】
突き飛ばされ、硬い石の床に背中を打ち付けた。息が詰まる。 顔を上げると、信じられない光景が目の前に広がっていた。 高木さんが、あの化け物と対峙している。 石川さんだったはずの「何か」は、もう人間の形を保っていなかった。背は伸び、肩幅は広がり、指先は鉤爪のように歪んでいる。
(いや……いやだ、死なないで、高木さん!)
声にならない叫びが、喉の奥で詰まる。 高木さんは、明らかに追い詰められていた。化け物がナイフを振るうたびに、紙一重で避けているが、それはいつまでも続かない。一太刀でも食らえば、それで終わりだ。
(何か、何かできることは……!)
恐怖で体が動かない。助けを呼びたくても、声が出ない。ただ、涙だけが頬を伝っていく。 高木さんが、床に転がっていた石を拾い、化け物に叩きつけた。ゴッ、という鈍い音が響く。 やったか!? だが、化け物はよろめきもせず、ギギギ、と首を悠真に向けた。額から流れる血が、その狂気をさらに際立たせる。
『……痛イ……痛イデハナイカ……』
終わった。もうダメだ。 絶望が、私の心を黒く塗りつぶしていく。 その時だった。私の視界の隅で、何かが鈍い光を反射した。 祭壇の隅に、打ち捨てられたように転がっている、鉄製の古い燭台。 あれなら!
「高木さん!これ!」
私は、最後の力を振り絞って叫んだ。
【視点:高木悠真】
石の一撃が、全く効いていない。 目の前の化け物は、もはや痛みさえ感じていないようだった。
(ダメだ、こいつにはもう、物理的な攻撃は通用しない…!)
絶望に心が折れかけた、その時。 美咲の叫び声が聞こえた。彼女が指差す先、祭壇の隅に転がる鉄の燭台が目に映る。 あれだ!
化け物の注意が、一瞬だけ美咲の方へ向く。 その千載一遇の好機を、俺は見逃さなかった。 床を蹴り、燭台へと駆け寄る。ずしりと重い鉄の塊を、両手で掴み、盾のように構えた。
キィィィィィィン!
鼓膜を突き破るような甲高い金属音。 化け物が振り下ろしたナイフを、燭台が辛うじて受け止めた。凄まじい衝撃に、腕の骨が軋む。火花が散り、鉄の焼ける匂いが鼻をついた。
「コノ……ガキガ……!」
化け物は、ナイフを握ったまま、全体重をかけて押し込んでくる。俺は歯を食いしばって耐えるが、人間離れした力に、足が床を削りながら、じりじりと後退していく。
(ここまで、か……)
腕の感覚がなくなっていく。燭台を持つ手が滑り、死が目の前に迫る。 俺は、このままここで、喰われるのか。 美咲の顔が、脳裏をよぎった。




