第19話「二人の容疑者」
『たすけて…おにが…』
死んだはずの岡田の声がノイズの向こうに消えた後、特別室は墓場のような静寂に包まれた。床に転がる無線機は、まるで悪趣味な冗談のように、今はただの鉄の塊に戻っている。
岡田と清一は、互いを掴んでいた手を離し、幽霊でも見たかのように青ざめていた。もみ合いで流れた岡田の血が、点々と床を汚している。その血痕の先に、悠真が見つけた黒い爪の破片が、不気味な光を放っていた。
「外に…いるのか…?」
啓太が震える声で呟いた。
「扉を、破ろうとしてるんじゃ……」
その言葉は、生存者たちの間に新たな恐怖を植え付けた。今までは、この部屋にいれば大丈夫だという、根拠のない安心感があった。だが、それももう終わりだ。あの鋭利な爪は、この重厚な扉をいずれは引き裂くだろう。
「ここにいても、じり貧だ」
悠真は、決意を固めて言った。
「扉を破られて、全員殺されるのがオチだ」 「でも、どこへ行くっていうのよ!」美咲が悲鳴のような声を上げた。「外は嵐だし、廊下には何がいるか分からない!」
「地下へ行く」 悠真の言葉に、全員が息を呑んだ。 「啓太さんが見つけた、あの祭壇へ」
「正気ですか!?」美咲が信じられないという顔で悠真を見た。「鬼の巣窟に、自分から入っていくなんて!」 「答えは、そこにあるはずなんだ」悠真は必死に説得した。「二十年前の儀式のこと、鬼の正体、そして、あるいは、この呪いを解く方法が…。何もわからずにここで殺されるくらいなら、万に一つの可能性に賭けるべきだ!」
その提案に、最も激しく反対したのは石川清一だった。 「馬鹿なことを言うな!あの場所へだけは行ってはならん!あそこは呪われているんだ!」 彼の狼狽ぶりは、その言葉が真実であることを逆に証明しているかのようだった。
その時、今まで沈黙を守っていた影山が、重い口を開いた。 「……こいつの言う通りだ」
影山は、悠真の目を真っ直ぐに見つめて言った。 「祭壇へ行くしか、俺たちに残された道はない」 そして、彼はゆっくりと清一の方を向いた。その瞳には、凍てつくような憎悪が燃え盛っていた。 「それに、石川先生。あんたが二十年前にやり残した『後始末』も、そこにあるんじゃないのか?」
「ひっ…!」 清一は、蛇に睨まれた蛙のように後ずさった。 影山の言葉は、決定打だった。このままここに留まっても、外の「鬼」か、内の憎悪か、いずれにせよ破滅は避けられない。
悠真は、床に落ちていた爪の破片を拾い上げた。黒曜石のように硬質で、鋭い。それを握りしめた瞬間、ズキン、と再び激しい頭痛が彼を襲った。 (――暗い廊下。何かを、引き裂く感触。歓喜――) 「うっ…!」 悠真は頭を振り、おぞましいビジョンを追い払う。彼は、誰にも気づかれぬよう、震える手で爪の破片をジャケットのポケットに滑り込ませた。
「行くぞ」 影山の低い声が、合図となった。 生存者たちは、もはや反論する気力も残っていないようだった。絶望的な状況が、彼らから選択の自由を奪っていた。
バリケードをずらし、重い扉をゆっくりと開ける。 廊下は、不気味なほど静まり返っていた。先ほどまで聞こえていた建物の軋む音さえも、今は聞こえない。まるで、嵐の目の中心にいるかのようだ。
悠真を先頭に、一行は息を殺して廊下へと踏み出した。美咲は悠真の腕に固くしがみつき、彩花は虚ろな優奈の亡骸を抱きしめたまま、岡田と啓太は互いを支え合うようにして続く。 そして、その後ろを、影山と清一が歩いていた。
二人の間には、誰にも踏み込めない、殺意に満ちた空気が流れていた。 影山が、清一の耳元で、凍えるような声で囁いた。
「今度は、逃がさないぜ。先生」
清一の手が、ゆっくりと、古びたスーツの内ポケットへと伸びていくのを、悠真は見逃さなかった。 彼らの視線の先、地下へと続く階段が、まるで地獄の入り口のように、黒々と口を開けていた。




