第五章 絆
「轟、おい、轟」
轟は、耳元の囁きと両頬を軽く叩くその痛みで目を覚ました。目を開けると、白く眩い光と二人の人影がいるのがわかった。だが、しばらく焦点があわず、ぼやけてよくわからなかった。
「お目覚めかね、轟君」
カズキの声だ。でも、まだぼやけてその顔があまりよく見えない。
「カズキさん?」
轟は薄目で辺りを見回し、そしてゆっくりと半身を起こした。体中がこわばっている感じがする。全身が筋肉痛になった様な気がした。
「大丈夫か? 轟」
日下が慌てて轟の背中に周り、起き上がる手伝いをしてくれた。
「ここは?」
「ラグマ・リザレックの、そうだな、医務室ってところかな」
と、カズキが答えた。
見渡せば、なるほどベッドが整然と並んでいた。轟は、その一番奥側のベッドに寝ていたのだ。
「敵は?」
「心配するな。撃退した」
「よくやったよ、轟。本当によくやった」
そう言って日下は、轟の肩に手をやった。
「ま、これで一段落ついたって訳だ」
カズキが、そう言って隣のベッドに腰を降ろす。その瞬間、彼の腹の虫がギュルギュルと豪快に鳴った。
「いっけね。腹の虫が」
と、カズキは慌ててその腹を両手で覆った。その仕種に、日下もそして轟もつられて失笑を漏らした。
「そうだよな。あれから、何も食べていないんだ。無理ないさ」
日下がしかつめらしい顔で、そう言った直後に、その日下本人の腹の虫がギュルルと騒いだ。
カズキと轟が、それを更に大きな声で笑う。
医務室が、笑いで満ちてゆく。緊張がほぐれていった。
「よし、補給倉庫から食糧を持ってくる」
カズキが威勢よく、医務室を飛び出した。
三人は、何時間ぶりに満ち足りた食事をし、そして一時の眠りについた。
それは、束の間の安息の時間だった。
デュビル・ブロウ中佐の率いるデリバン連合王国第2次攻撃部隊は、無事にレインボーホールを通過して、ガイア暦0999年へと辿り着いた。
一旦デリバン連合王国の軍事基地である月、ルナベースへと彼らは帰還した。
本国へ連絡を入れた後デュビル・ブロウには、地球のデリバン連合王国首相ガルフラン・ジュダックより、出頭命令が出された。
デュビル・ブロウは専用の高速シャトルで、地球のデリバン連合王国本国へと向かった。
0999年の地球の大気は淀み、地表は赤茶けて、海はヘドロで汚染されている。なまじ0444年の美しい自然を見たばかりに、その汚染具合が際立って見えた。
デュビルは胸を締めつけられる思いで、デリバン連合王国本国の軍事司令部に降り立った。
ガイア暦0999年の地球は、大幅な大陸の変動で現在は二つの巨大大陸しかない。西側にあるアゾン大陸と、東にあるユーコム大陸と呼ばれるものがそれである。このアゾン大陸を領土としているのが、デリバン連合王国であり、もう一方のユーコム大陸を占めているのが、ギネル帝国という訳である。
「愚かなものよ」
デュビル・ブロウは呟いた。あの自然に満ちた惑星の姿が、瞼に浮かぶ。あの惑星とは、あまりにかけ離れた地球の姿だった。
軍事司令部で手続きを済ませ、デュビル・ブロウは首相官邸へと向かうこととなった。
首相官邸は首都デリグレードにある。
二時間ほどでデリグレードの首相官邸に到着した。
歩けば床に埋まるのではないかと思われるほど毛足の長い絨毯を敷きつめ、豪華な調度品が並ぶ応接間に通され、そこでまた待たされた。
デュビル・ブロウは特に緊張するわけでもなく、ぼんやりと、そしてただひたすらに待った。戦場のテンションがない空間での過ごし方は、苦手だった。
やがて観音開きの重みのあるドアが静かに開いて、三人の男が入ってきた。
デリバン連合王国首相のガルフラン・ジュダックとその側近だ。
齢七十歳。でっぷりと太った体躯に、頭髪の全くない禿頭をデュビル・ブロウへと向け、ガルフラン首相は真向かいのソファにゆっくりと腰を降ろした。丸い顔に太い眉が、精力的な印象を与える。
デュビル・ブロウは立ち上がり、敬礼を送った。
「まあ、座りなさい」
ガルフラン首相の言葉は、七十とは思えないほど声量があり、そしてよく通った。
「ハッ」
デュビル・ブロウは、再び柔らかいソファに腰を降ろした。
「報告を聞いてはいる。異常空間に呑み込まれてしまったということらしいが」
「はい。月軌道上に突如出現した異常空間に、我々は呑み込まれ、空間を移動。その先には美しい自然にあふれた惑星がありました」
「うむ。そう聞いている。映像データも検証した」
「その結果」と、ガルフランの側近一人が口を開いた。「デュビル中佐が辿り着いた惑星は、過去の地球である可能性が高い」
「なんですと」
今度は、デュビルの方が驚く番だった。
「あれが、過去の地球? そんなバカな」
「太陽系としての位置や、デュビル中佐が持ち帰ったサンプルデータから解析して、これはほぼ間違いないと考えられます」
「すると、あの七色の異常空間は?」
「タイムトンネル、と言えるでしょう」
「そんな、バカな」
デュビルはもう一度呟いて、かぶりをふった。有り得ないことだ、と思った。
だが、これはどうやら事実らしい。ガルフランも側近も、この事実を深刻に受け止めているらしい。
「デュビル中佐。我々は、この地球に移住しようと考えている」
ガルフラン首相が、ソファに座り直しながら答えた。
「移住? 過去の地球にですか?」
「そうだ。あの異常空間が存在しているうちにな。科学技術庁には、あの空間をホールドするシステムの開発にとりかかるよう命令を下した。とはいえ、その開発より先に、あのタイムトンネルが消失してしまうかも知れん。事は、急を要する」
「首相。ですが、向こうの地球がすんなり、受け入れてくれるでしょうか?」
「無論。向こうにも、戦う力があるだろう。デュビル中佐。第二次攻撃部隊の残存艦隊を再編成して、過去の地球への制圧部隊として出撃してほしい」
ガルフラン首相の言葉は、丁寧でへりくだったもの言いだが、それが絶対的命令だと言うことを、デュビルは理解している。だが、それでもデュビルは言わずにいられなかった。
「首相。過去の地球と戦争をすると言うことは、祖先と子孫が戦うということになります。それがきっかけで、どんな恐ろしい事態が起こるかわかりません。私はデリバン連合王国にとって、ここで制圧にでるのが正しいとは思えません」
「デュビル中佐の心配もわかるが、それについては厳密な調査を行う。過去の地球を占領する。この後、議会に諮り承認を得るが、私はデリバン連合王国としてこの決定が最善のものと確信している。それに、デュビル中佐。国の方針を決定するのは、君の領分ではないよ。それは、私と議会の仕事だ」
デリバン連合王国は今や、事実上ガルフラン・ジュダック首相の独裁体制だ。議会など傀儡に過ぎない。ましてやガルフランは首相であり、軍事行動においては最高総司令官である。
「デュビル・ブロウ中佐。貴官を地球占領作戦司令官に任命する。頼んだぞ」
そこへドアが静かに開き、別の側近が慌てふためいてガルフランの側へと歩み寄った。
「なんだ。騒々しい」
「ガルフラン首相。ラナス・ベラ皇帝より、ホットラインです」
「ラナス皇帝から?」
「はい。いかがいたしましょうか?」
「わかった。別室でとる。デュビル・ブロウ中佐、急用ができた。今日のところは、これで失礼する。後でもう一度、来てもらおう」
そう背後に言い残し、ガルフラン首相と側近達はそそくさと立ち去っていった。
一人部屋に残ったデュビル・ブロウは、己の運命が全く違う方向へ導かれているのを感じていた。
ギネル帝国皇帝ラナス・ベラとのホットラインを終え、ガルフラン・ジュダック首相は、側近を従えクリーンランド島へと向かった。
アゾン大陸とユーコム大陸との、ほぼ中間に位置するクリーンランド島。ここはデリバン連合王国、ギネル帝国ともに干渉を許さない唯一の中立地である。
かつてここで戦闘空域の限定、核使用の禁止、宇宙艦隊戦の定義などを取り決めた「クリーンランド条約」を調印した場所である。
再びギネル帝国、デリバン連合王国の両大国は、その代表者が集まり、新たな会議が進行していた。
そしてその会議は歴史上異例の速さで進行、締結に至った。
ラナス皇帝の申し出により、デリバン連合王国首相ガルフラン・ジュダックはギネル帝国と休戦協定に調印したのだ。それだけではなく、レインボーホールの先にある惑星、ガイア暦0444年の地球を占領する作戦を両国共同で展開、占領が完了する一定期間において、ギネル帝国とデリバン連合王国は軍事同盟を結ぶことになったのだ。
その議会は、当然紛糾した。
「つまりです。現在において我々ギネル帝国と貴国デリバン連合王国のなすべきことは、あの惑星への移住です。そこまで解っていて、この地球の殆どと言っていいほど資源のない、枯渇した地球を傷つけ、争うことはありません。我々の利害は一致しているのです。両国は、停戦に入る時期を迎えたのです」
「一つ、慎重に判断しなければならない問題があります。それは、移住先の惑星が過去の地球だと言うことです」
議会がざわざわとざわめき出した。
「待ってください。それでは、我々は祖先と戦争することになると言うのですか?」
「祖先を殺すと言うのですか」
「あの惑星は過去の地球に間違いないのですか?」
「間違いありません。わが艦隊司令のガデル少将がそれを確認しています。あの惑星は、過去の地球。ガイア暦0444年の地球です」
「あれが過去の地球だとすれば、そこで人を殺すということはその後の我々の存在は、消滅してしまうのではないのか?」
「グランドファーザーパラドックスという奴です。私が、タイムマシンで祖父の結婚を邪魔したとする。祖父が結婚できなかったら、私の父が生まれないことになり、私は存在しないことになる。この矛盾が生じてしまう」
「歴史が狂うぞ」
議会中央に備えられていた大型スクリーンに、0444年の地球の姿が浮かび上がった。どこからともなく、感嘆の息が漏れた。
美しい姿だった。宇宙空間にひっそりと浮かぶサファイア。その清楚な輝きは何ものにも例え難い。
誰もが、言葉を失い沈黙してしまった。
「美しい星です。かつて、地球はこれほど美しい星だったのです。この星で、我々は再生の道を辿るべきです。二度と過ちを犯さないために」
「タイムパラドックスの問題は、慎重に調査しなければなりません。ですが、それはあくまで理論であって、実際はどんな問題が、いや、問題そのものが起こるのかさえ誰も知りません。現に、ギネル帝国もデリバン連合王国もこの惑星で既に戦闘行動を行っております。戦争の爪痕を残してしまっているのです。そこで特異な事件、事例がおきているでしょうか?」
誰もが、沈黙のまま首を横に振った。
「過去の地球の歴史が必然であるならば、現在の地球にレインボーホールが出現し、過去の地球へと占領作戦を展開するのもまた、歴史の必然なのかも知れない」
「だとすれば、これは歴史に裏付けられた運命ともいえる」
「歴史はそれ自体強い力をもっていて、自己修復するものかもしれない」
都合のよい解釈であるし、自己弁明、自分本位の意見が議会を通り抜けていく。誰もが心の底でそれを理解し、良心を傷つけていた。だが、その良心の痛みよりも現実のガイア暦0999年の地球の痛み、そこに住む人類の痛みの方が彼らには痛かった。
「この惑星を占領するとは言え、その被害は最小限に押さえなければなりません。軍事基地を筆頭に、敵の戦闘力を奪うことに最大の目標をおきます。また、過去の地球であること、それを攻撃すること、このことを一般人に漏らすわけにはいきません。反政府感情を充分にあおるものです。クーデターすら、おきかねません。この情報は、完璧に隠匿すべきです」
「0444年の地球などと呼ぶわけにもいかないでしょう」
「そこで、コードネームを命名します。プラネット444(トリプルフォー)。4(フォー)はFOR。ギネル帝国のために、デリバン連合王国のために、そしてガイア暦0999年の地球のために」
議会に失笑が広がった。
誰かが呟いた。
「同じ時代で戦争をするよりも、過去の地球と戦争をする方がまだ気が楽だ」
地球単位の親殺し作戦が発動された瞬間であった。
ガルフラン首相はクリーンランド島での調印を終え、帰国するとすぐにデュビル・ブロウ中佐を首相官邸に呼び出した。
デュビル・ブロウは、ガルフランが驚くほど早く彼の前に出頭した。
「デュビル・ブロウ、首相命令により、出頭いたしました」
ガルフランのデスクの前に立ち、デュビル・ブロウは敬礼をして直立不動の姿勢をとった。
そんな彼を一瞥してガルフランは立ち上がり、デュビル・ブロウに対し背中を向け、後ろ手に手を組んだ。
首相官邸の執務室。その窓外の景色にガルフランは目をやった。夕暮れでもないのに、赤く染まる空を見た。
デュビル・ブロウは、ガルフランの言葉を待っている。
静寂が執務室を包んでいた。放射能中和剤の散布の音がかすかに聞こえた。
「我がデリバン連合王国は、ギネル帝国と休戦、並びに軍事同盟を結んだ」
おもむろにガルフラン・ジュダックが淡々とした口調で口火を切った。
「同盟?」
デュビル・ブロウの顔つきが変わり、彼は思わずガルフランに向かって一歩踏み出した。とたんに、首相側近がそれを押し留めるようにデュビル・ブロウの行く手を遮った。
「デリバン連合王国はギネル帝国と協同作戦をとり、ガイア暦0444年の地球、コードネームプラネット444(トリプルフォー)を制圧、占領作戦を展開する。デュビル中佐。君には、制圧部隊をギネル帝国のガデル少将とともに率いてもらう」
「ガ、ガデルと手を組め、とおっしゃるのですか」
「そうだ。出撃は、3日後。明日はそれについての軍事会議がある」
「何故です。何故、制圧なんです。和平交渉の余地はないのですか? 何故、武力で制圧なんです」
それを耳にして、ガルフランは幾分ムッとして答えた。
「君に、それを説明する理由はない。命令は制圧だ。これ以上何も言う必要はない。復唱したまえ」
「…………」長い沈黙のあとデュビルはようやく口火を切った。「デュビル・ブロウ、プラネット444(トリプルフォー)制圧部隊指揮官の任につきます」
そう一言怒鳴るように言い残して、デュビル・ブロウは歯噛みしながら首相官邸を後にした。
「ガデルと……ガデルと一緒に手を組んであの自然豊かな星を破壊するとは。俺の運命、弄ばれているようだ。こんなことになるとは」
彼は移動中の車の中で、一人大声で笑い出した。それは、自分で自分の運命を嘲笑っているようだった。
ギネル帝国。
ラナス・ベラ皇帝は、あの暗黒の聖堂の中にいた。
その奥、中央にはギネル帝国で崇拝されている万能神ラグマザンの像が鎮座している。
ラグマザンの神。その像は黒くつややかな金属で作られており、その大きさは三メートルほどもあった。ラナス皇帝からは、ちょうど見上げような大きさだ。その顔の最大の特徴は、頭部に二本の角があることだ。切れ長の目に、高い鼻。その口は真一文字に閉じられている。その表情は、非常に穏やかな顔だちだった。だが、そこに鬼のような角がある。いや、それは鬼と言うよりも宗教画に出てくる悪魔といったイメージが強い。その二本の角が異様にねじれ、その背中には羽根があるからだ。
不思議な神像だった。見る者によって、畏怖と安らぎを同時に与える事ができる。
ラナス皇帝は、ラグマザンに向かい話かけた。
「重機動要塞ブエル以下の攻撃隊が全滅しました」
ラナス皇帝は、怯えていた。
一泊の間をおいて、ラグマザンの神像から機械的な声が発せられた。
「ナニ? 誰ガ出撃命令ヲ出シタ」
恫喝するような物言いに、ラナスはますます怯えた。
「は、ラグマ・リザレックなる巨大戦艦を発見しましたので、マクロム司令に報告しましたところ、自ら出撃なさいました」
「ラグマ・リザレック? 無限エネルギーノラグマカ」
「確証はもてません。ですが、何らかのカギを握るものと」
「ブエルハソレニ撃墜サレタノカ?」
「はい」
「倒サレタノハ、マクロム・ラガン司令ト言ッタカ?」
「はい」
「プラネノイドリバースナンバーハ?」
「はい。C―42004Rです」
「……ラナス、相手ガラグマヲ持ッテイルト思ワレルナラバ、ソノ巨艦ハ必ズ奪取セヨ。補給ハ無限ダ」
「わかりました。必ず」
「吉報ヲ待ッテイルゾ」
「もう一つ、報告がございます。重機動要塞アガレスが完成いたしました」
「ソウカ。良クヤッタ。トウトウ完成シタカ。ギネル帝国ニトッテ最初ノ反次元エンジン搭載機ダ。シテ、パイロットハ?」
「コンプリートアサルトソルジャーに、抜群に腕の立つものが一人おります」
「コンプリートアサルトソルジャーカ。デハ、βμデハナイノダナ。マァ、ソレハオ前ニ任セル。重機動要塞アガレスヲ駆ッテ一挙ニソノ巨艦ヲ叩ケ」
その後ラナス・ベラは今までの経過を逐一報告し、ラグマザンとの通信を終えた。
溜め息をついて彼女は皇帝室へと戻った。
その皇帝室にて一人、放心状態で時を素通りさせていた彼女は、やがて意を決してテレホンを取った。
「コンプリートアサルト、CA部隊を非常召集させなさい」
その目は妖しく光っていた。
ギネル・デリバン同盟の報道は、その両国民の心の中を激動として走り抜けた。
世論がまだ収集つかぬ状態にありながら、別の場所では、時代の奔流が大きなうねりとなって人々を巻き込み、流れ始めていた。
ガデル少将とデュビル・ブロウ中佐が中心となって、プラネット444制圧のための軍事会議がクリーンランド島にて始まった。その会議の出席者の中にはレナード中尉や、ゼラー兄弟などの姿もあった。
制圧部隊の艦隊構成、命令系統の確認など議事決定をなす事項は山積していた。だが、それも着々と進み、デリバン連合王国から先発隊として、ワイル・マクレガー少佐が率いる艦隊が明日発進することが決まった。目的は、プラネット444の軍事基地の掌握である。
「デュビル・ブロウ中佐。司令として、最後の打ち合わせをおこなおう」
一旦、会議が締めくくられた後、ガデルがデュビル・ブロウを呼び止めた。
「わかりました、ガデル少将。どちらで」
「くつろいで、話したいものだ」
彼らは場所を変え、とある酒場にでかけた。
「こんなところで作戦会議ですか?」
少しばかり、デュビル・ブロウ面食らった。
「まあ、よかろう」
ガデル少将は悪戯っぽく笑うと、率先して店の中に入っていった。
ここが、中立地帯のクリーンランド島でなければ、ガデルもデュビル・ブロウも酒場に来ようとは思わなかったろう。これがどちらかの国の酒場なら、今まで戦争していた相手だ。見つけた瞬間に銃撃されかねない。それだけガデルはデリバン連合王国を、そしてデュビル・ブロウはギネル帝国の人間の血を流してきた。
彼らは、店の一番奥の席に腰を降ろした。
酒場の中は、騒がしかった。スローテンポのジャズの音色が、煙草の煙と人いきれに溶け込み、たゆたっている。
軍人が、数多く店にたむろしていた。今回の軍事会議に出ている面々もいた。中にはずいぶんと羽目を外している者もいる。誰しも、ここでは陽気だった。
この店のマスターが、注文を取りに来た。格幅のいいオヤジだ。大きなエプロンで突き出た腹を覆っている。少しばかり、頭が薄くなっていた。
ガデルがバーボンを注文し、デュビル・ブロウもそれに倣った。
無愛想な主人は、憮然とした顔つきで注文を取るとそのままカウンターの奥に消え、すぐにボトルを持ってテーブルに現れた。
彼は無言でテーブルにボトルとグラスを置くとニヤリと笑って、
「あんたたちも軍人かい?」と軍服を着た二人を見比べた。「同盟を結んだってなぁ、ギネルとデリバン。それに新しい惑星を見つけたって言うじゃないか」
ガラの悪い喋り方だ。
「その惑星を制圧したら、戦争は終わるのか? 俺たちは平和になるのか? 軍人さんよ、俺の息子は戦争に行って、帰ってこなかった。正直、もう戦争はたくさんだ。終わりにしてほしいんだよ」
マスターは踵を返すとカウンターに戻り、ややしばらくして大皿にチキンやスパゲティを盛りつけた料理を運んできた。ガラの悪い喋り方とウラハラに、サービスは満点だ。
「こいつは俺のおごりだ。頼むぜ、軍人さんよ。戦争を終わらせてくれ」
マスターは言うことだけ言って、再びカウンターに戻った。
「戦争を終わらせてくれ、か。そう願いたいものだ」
ガデルは、独り言のように呟いた。
デュビル・ブロウは、バーボンを勢いよくあおった。グラスを置くと、中の氷がカラカラと乾いた音をたてた。
「酒、強いんだな」
ガデルは顔色一つ変えないデュビル・ブロウを見てから、自分もグラスを煽った。
酒の減り方に比例して、作戦の話も進み、やがて話はラグマ・リザレックの事に移った。
「プラネット444の戦力で最も懸念するのが、ラグマ・リザレックの存在だ」
「同感です。あれを沈めることができなければ、この制圧作戦は成功しないでしょう」
「その通り。だが、あれは難攻不落だ。何しろ奴は宇宙創生エネルギーなどと言うものを持っているかもしれない相手だ」
「宇宙創生エネルギー? そんなものが存在するんですか?」
「するらしい。それは無限のエネルギー。名をラグマと言うらしい」
「ラグマ?」
「私もよくは知らん。全てラナス皇帝から聞いた話だ。私は今の通りを聞いただけだ」
そう言いながら、ガデルはアルコールで体がほてってきたのか、腕まくりをした。その太く逞しい腕がむき出しになった。
突然デュビル・ブロウは、その腕を見て慄然とした。
まくり上げられたガデル少将の二の腕は、手術の傷痕だらけだった。縦横に傷痕は走り、それもひどく乱雑だ。その傷の長さも、十針や二十針どころの長さではない。その中でデュビル・ブロウ中佐が最も目を引かれ、圧倒されたのはその左腕の内側を真一文字に切り裂かれた四十針もあろうかという大きな傷痕だった。ガデル少将のその部分だけは、まるで別の生き物のように赤く盛り上がっていた。
驚いているデュビル・ブロウの顔を見て、ガデルは不適な笑みを浮かべて言った。
「驚いたかね。体全体で、こんな傷が全部で五十ほどある」
「総て戦闘で受けた傷ですか」
呆然とガデルの傷を見つめていたデュビル・ブロウが、ゆったりとした口調で尋ねた。
「大半はそうだ。なにしろ最前線にばかりいたのでな。満足な治療も受けられないまま、こんな傷痕になってしまった。……だが、それだけではないらしい。大半は確かに戦争の傷痕だ。どの戦役で受けたものか記憶している。だが、その他のものは私自身知らない傷痕もあるのだよ。そう、例えばこの左腕の大きな傷跡もな」
ガデルは自分の左腕、真一文字に走る傷跡を自分でなぞった。
「知らない?」
「私の記憶は十年以前が白紙なのだ。だから、私はガデルとしか呼ばれない。姓がないのだから、やむを得ない」
「記憶喪失……ですか?」
ガデルは無言で頷くと、かぶりをふって酒をあおった。
「いや、つまらんことを喋ったな。すまんな。忘れてくれ」
ガデルはそう言うと、それまでのことを帳消しにするように、更にグラスを重ねた。
「デュビル中佐は、何故軍人になったのだ?」
不意のガデルの問いに、デュビル・ブロウは口元に運んだグラスの手を止めた。
「さあ、何故でしょうか。ですが、私が生まれた頃には既に戦争が始まっていました。軍隊に入る以外に選択するものは、なかったように思います」
「ご両親は?」
「いません」
「兄弟は?」
「いません」
「天涯孤独か?」
「…………ですが、それを苦には思いません」
「そうか」
天涯孤独なのは、ガデルも同じだ。なんとも自分と似た境遇のこのデリバン連合王国の若き指揮官の、その整った容貌をガデルは改めて見直した。
「ガデル少将は、何故軍人に?」
今度はデュビルが問い返した。
「私か。私は……何故軍人になったのだろうな。記憶喪失だから、気付いた時には既に最前線で戦っていたと言うのが、実際だがな」ガデルは、自嘲気味に少し笑って言葉をつないだ。「だが、最近は少し思うところがあるな。戦争を終わらせてくれと、この店の主人も言っていたが、私は戦争を終結させるために軍人を続けているのだと、今、感じているよ。プラネット444を見てから、特にその思いが強い」
「…………」
「プラネット444を初めて目にした時、忘れかけていたものがたくさん甦ってきた。太陽、海、山、平和な時代にその自然の恩恵の中で、我々はたくさんの楽しみを持っていた。デュビル中佐、君はベースボールというスポーツを知っているかね?」
「知識としては知っています。ですが、戦争が激化するに連れ、スポーツ全般が封鎖されてもう何年になりますか? 我々の世代でベースボールを経験した人間を捜す方が難しいでしょう」
「そうだろうな。私は知っているんだよ、ベースボールを。平和になれば、そのベースボールだって復活し、プロリーグのスタジアム観戦だってできるようになる。憧れの選手のサインボールをねだる子どもたち。ホームラン競争に息をのみ、スイングアウトをとるピッチャーのスピードボールに目を凝らす。ビールを片手に、もう一方の手にはホットドッグを持つんだ。このホットドックには、マスタードをたっぷりきかせてかぶりつく。これが最高に美味いんだ。私は、息子とプレーに一喜一憂し…………」
ガデルはそこで、言葉を切った。
「どうしました?」
「いや、私には息子がいるのかどうかもわからんことに気付いてな」
寂しげにガデルは呟いた。これがギネル帝国の戦鬼と恐れられた男と同一人物か。なんだか、急に年老いたようにデュビルには思えた。
(それにしても)
ガデルの言葉に、そしてその左腕の傷痕に激しく揺れ動いている自分の心に、デュビルは動揺していた。
「ガデル少将、本当に記憶がないんですか?」
「本当だ」
デュビルは口を噤んだ。彼は再び、ガテルの傷痕を見た。
デュビルには、丁度こんな傷痕に記憶があった。
幼いときに見た惨劇。デュビル・ブロウの記憶の深奥に深く突き刺さって、抜くことのできない短剣。心の中が血に染まり、断末魔の叫びが、その耳朶にこびりついて残っている。あの凄惨な場面。デュビルには、彼しか知らない地獄のような過去が存在していた。
「いずれにしても、デュビル中佐」
「は、はい」
「我々は平和を勝ちとるために、全力でプラネット444の制圧にあたる。例えどんな弊害があろうとも、だ。ラグマ・リザレックとて例外ではない」
その瞬間のガデルの顔は、戦士に戻っていた。ギネル帝国にその人ありと恐れられている鬼神のような指揮官の姿だった。
デュビルは強く頭を振った。総てを追い払うように。そして、ガデルに視線を向け、力強く「了解」と答えた。答えながら、デュビルはもう一度だけ、ガデルの傷痕を見ずにはいられなかった。
ルナベースよりデリバン連合王国の先発隊が発進した。ワイル・マクレガー少佐が率いる、航空戦力を軸に、空母を主力に構成された艦隊である。
目的はプラネット444の軍事基地の情報収集である。
「全艦、亜空間カテドラル生成フォーメーション。シュゲレリークォーク、インパクト。ショートSWN、フォールイン」
宇宙の一点にマクレガー少佐の声が渡り歩く。
彼の指揮どおり、艦隊はワームホールを生成してSWNに入った。航行時間は短く、すぐに目的座標に到達し、レインボーホールの鼻先にサーフェスアウトした。
「全艦、レインボーホールへ突入せよ。通過直後、すぐにプラネット444の空域に入ると言う話だ。全艦ステルスバリアーの準備をしておけ」
マクレガー少佐は、慎重な男だった。彼の任務は、プラネット444の軍事基地の掌握だ。無用な戦闘は避けるべきものと心得ていた。敵の監視網にかかるような事態にならぬよう、細心の注意を払う。また、彼はそういった隠密行動と情報収集を得意とする司令官だ。
レインボーホールを抜けると同時に、ステルスバリアーを張り、敵のレーダー網に探知されぬよう低空飛行に入る。ソノブイ投下。しかるのちに、着水。無人偵察機を射出し、対空監視を行う。敵監視網を完全に欺いたことを確認し、ステルス機能を持つシャドー・ロッツの編隊を発艦させる。彼らは優秀だ。短時間でプラネット444の軍事基地の位置を突き止め、情報を丸裸にしてくれるだろう。そんなふうにマクレガー少佐は、自分なりにシナリオを描いていた。そのシナリオは今まで概ね外れたことがない。今回の任務もシナリオ通りに進むものと、マクレガー少佐は信じて疑わなかった。
ガイア暦0444年。
ラグマ・リザレックは、太平洋のほぼ中間の深海に身を潜めていた。
船体圧潰深度は、千五百メートル。それ以上の深度を潜航すれば、水圧の餌食になる。そして、魚雷圧潰深度は八百メートル。これが今、日下の頭の中にある地球連邦マリンフォース攻撃型潜水艦のデータだ。
化け物なみの性能を見せつけているラグマ・リザレックではあるが、こと潜航能力に対しては、一体どういう性能があるのか皆目わからない。日下は、船体圧潰深度まで潜る判断はできなかった。魚雷圧潰深度以上の千メートルの位置で、日下は潜航をやめ、身を潜めることにしたのだ。
従来であれば、それで良かった。だが、現在ラグマ・リザレックは、大塚参謀長にとって逃すことのできない反逆罪の艦だった。大塚は日下の記憶しているデータを遥かに上回る性能を持った、就航間もない最新鋭潜水艦を、彼らが潜航したであろうポイントへ解き放った。
パッシブソナーの効力を最大にして、マリンフォース最新鋭艦シーパンサー五艦はラグマ・リザレックの探査にあたっていた。その研ぎ澄まされた深海の聴力が、目標の艦を補足した。
「ノーマン艦長、深度一千。ソナーに感。パッシブソナーのデシベルをあげて確認しますか?」
「そうしてくれ」
シーパンサーのソナーマンはヘッドフォンを片手で押さえながら、パッシブソナーの音に耳を澄ました。
「艦長、見つけました。巨大な輝点、目標艦です」
ソナーマンからの報告にシーパンサーの艦長は、ニヤリと笑みを浮かべた。「鯨じゃないだろうな?」
「こんな巨大な鯨はいませんよ。ノーマン艦長」
「動きは?」
「静かです。機関は停止状態と思われます。かすかに、艦の機能音がします」
「全艦、機関停止。ベント開け。バラストタンク注水。無音航行で更に潜航する。深度千二百だ」
深海では音だけが頼りだ。今、無音航行に入ったシーパンサーが近くにいてラグマ・リザレックを補足している事など、日下達は知る由もなかった。
ガイア暦0444年の地球上空で、マクレガー少佐率いる艦隊はレインボーホールを通り抜けた。そして、まさに彼の書いたシナリオ通りに、地球連邦のレーダー網をくぐり抜け、見事に侵入を果たした。
しばらくラグマ・リザレックの様子を見ていたシーパンサーのノーマン艦長は、敵が全くこちらに気付いていないことに確信を持つと、攻撃を決断した。
「水雷長、一番から十番まで魚雷装填。魚雷発射用意」
「了解。魚雷装填」
「魚雷発射管、注水」
「魚雷発射管注水完了」
「魚雷、外扉開口」
「魚雷、外扉開口」
「アップトリム一〇」
「アップトリム一〇」
「よし、探信音波用意」
「探信音波用意」
「打て」
深海に音が鳴り響いた。シーパンサーが、獲物にとびかかる瞬間だ。ソナーマンが反響する探信音波で、敵の距離と方角を正確に割り出した。
「敵艦捕捉、方位2―2―5」
「魚雷全門発射」
「発射!」
シーパンサー五艦から、獰猛なスピードで一斉に魚雷が発射された。魚雷は自らアクティブソナーで音波を放ちながら、ラグマ・リザレックに向かい。その牙をむいた。
シーパンサーが放った探信音波を受けた瞬間、ラグマ・リザレックのスリープ状態だった艦のシステムが一斉に反応し、警戒警報が鳴り響いた。
「な、なんだ?」
一瞬、彼らは何が起こったのか理解できなかった。
日下達は全く油断していた。こんな深海まで攻撃の手が伸びてくるなぞ予想もしていなかった。慣れぬ巨艦にいるとは言え、それでも警戒システムをチェックもせず働かせていなかった日下達の、これは全くの油断であり、怠慢だった。
魚雷が命中してラグマ・リザレックは激しく揺れた。
日下、カズキ、轟の三人は一斉にベッドから飛び起きて、そこから一番手近なラグマ・レイアのブリッジへ向かった。
途中魚雷の第二波が来て、その衝撃に三人が三人とも床に放り出された。
「日下さん、一体なにが始まったんだ」
「わからない。けれど。魚雷攻撃を受けているのだけは確かだ」
「魚雷? 潜水艦が攻撃してるのか」
ブリッジに飛び込んだ日下は、艦長席に着いた。その両脇からカズキと轟がコンソールを覗き込んだ。
日下はコンピュータガイダンスを受けながら、やっとの思いでソナーシステムを立ち上げた。
正面メインモニターに、ソナーがスキャンした超音波による三次元画像が映った。
「潜水艦が五艦。相手はどこだ」
カズキが、日下の顔を覗き込んだ。
その時魚雷の第三波が来て、コンピュータがアラームメッセージを送ってよこした。いかにラグマ・リザレックの装甲と言えど魚雷プラス水圧となれば、状況は非常に危うい。
「アラームメッセージ、現状フィールドでの戦闘は当艦にとって極めて不利。好転の兆しなし。急速浮上を要す」
コンピュータガイダンスが再度メッセージをよこす。
その時、艦長席の通信回線の一つが開いて、音声が流れてきた。
「日下大尉に告ぐ。我々は地球連邦マリンフォース、第七潜水艦隊所属シーパンサー級マーキュリー、艦長のノーマンだ。我々は、貴君の艦を完全に射程に捕らえた。無駄な戦闘は止め、投降せよ。方位0―9―2、距離6千の位置に浮上せよ。浮上、投降の意志を確認した後、哨戒機を向かわせ貴君らを逮捕する。浮上後更に逃亡するようであれば、我々は貴君の艦にハープーンミサイルを発射する。なお、ハープーンミサイルの弾頭は通常にあらず。以上だ」
一方的に通信は切れた。強制勧告の内容に日下は、呆然とし両手で顔を覆った。
「弾頭は通常にあらず、ってどういうことだ?」
カズキが、日下の肩越しに尋ねてきた。
「核弾頭だよ」
ポツリと日下が言った。
「核ミサイル?」
轟がその破壊力を想像し、恐ろしさに思わず後ずさった。轟の顔がみるみる強ばっていく。
「攻撃型潜水艦の怖いところは、そこなんだ。深海に潜む彼らから発射される核を防ぐ方法がない」
「じゃあ、ここで戦うしかないだろう」
カズキが勇んで、別の席に走り出そうとする。
「待て」
日下がカズキの手を掴み、その行動を制する。
「なんだよ。このまま、やられるわけにはいかないだろう。反撃するんだ」
「待ってくれ、カズキさん。彼等は、我々と同じ仲間だ。こちらから攻撃はできない。彼等はギネルでもデリバンでもないんだ」
「確かにそうだ。だが、その仲間が俺たちを攻撃しているんだ。目には目をだろ」
「待ってくれ。違うんだ、カズキさん、わかってくれ、彼等は仲間なんだ。ノーマン艦長なんて顔も見たこともない。話もしたこともない。だけど俺にとっては地球連邦軍所属の同じ仲間なんだよ。その仲間に攻撃はできない」
「じゃ、どうするんだよ」
「指定のポイントに浮上する」
「それじゃ投降するのか? 日下、それだけは俺は認めない」
「そんなつもりはない。とことん話し合うさ」
「話し合う? 日下さん、あんた軍人には向いてないよ。そんなことが通用すると思っているのか」
魚雷攻撃が、更に続いている。
「アラームメッセージ。第二十六ブロック浸水。第五十二ブロック浸水。なお浸水箇所増加中。隔壁遮断を要す」
コンピュータの音声ガイダンスが、切迫した空気を更に追いつめる。
「隔壁遮断」
日下がコンピュータの音声コマンドに向かい、指示を出す。
「レディ。戦闘フィールドの変更指示を要す」
「浮上。方位0―9―2」
「レディ」
「日下」
「カズキさん、俺に任せてほしい」
「投降だけは、絶対に承知できないからな」
「わかっている」
ラグマ・リザレックは急速浮上を開始した。
ちょうどラグマ・リザレックが浮上を開始したときと、マクレガー少佐の艦隊がソノブイを散布したのとが全くの同時だった。
ソノブイのアクティブソナーが、急速浮上してくるラグマ・リザレックを捕らえた。
広い地球でありえない確率で、マクレガー少佐率いる艦隊とラグマ・リザレックは遭遇してしまった。それも、史上最悪のタイミングでだ。
マクレガー少佐にしてみれば、それは全くの出会い頭であり、あまりに突然過ぎた。しかもラグマ・リザレックが放つエネルギーはあまりに強大であり、総ての面での反応が強すぎた。
「高エネルギー反応、急速接近。海洋より浮上してきます。巨大です」
せっかくこれまで慎重に監視網にひっかからぬよう侵入してきたところを、こんな偶発的なことで不意にしたくない。そんな心理も働いたのだろう。
「ミサイル発射」
ソノブイのレーダーオペレーターの逼迫した声に、マクレガー少佐は反射的に浮上してくる巨艦に対して、攻撃命令を出してしまった。隠密行動をとらねばならぬはずが、先制攻撃をかけてしまったのだ。
彼の描いていたシナリオにはない、突発的で、そして予想外の出来事だった。
本来の目的だった軍事基地の情報収集のための作戦行動がとれなくなったことを認めると、マクレガー少佐はラグマ・リザレックの攻撃を更に強めた。
驚いたのは日下達も同じだった。
マリンフォース第七潜水艦隊シーパンサー、ノーマン艦長の指定ポイントへ浮上したとたん攻撃を受けたのだ。無理もなかった。
「こ、今度はなんだ?」
「て、敵だ。あれはデリバン連合王国の艦隊じゃないか」
「いつの間にこんなところに」
「このままじゃ、我々は標的じゃないか」
「くそ、更に浮上し、海面から脱出する。すぐにハープーンミサイルがくるぞ。轟、席についてベルトをしめておけ。カズキさんもだ」
日下は、操縦レバーを引き上げ、ラグマ・リザレックのエンジンの出力を上げた。ラグマ・リザレックは加速度を増して陽光きらめく中、全身から水飛沫をふるい落としながら海面からジャンプした。
水平安定がとれる高度で、日下はラグマ・リザレックを空中で停止させた。
間発をいれずに、二機のハープーンミサイルが海中から飛び出した。シーパンサーが放ったミサイルだ。
「日下さん。核ミサイルですか?」
轟が泣きそうな声で叫んだ。
「違う。これは威嚇だ。ノーマン艦長は、マリンフォースは安易に核を撃たない」
日下は反射的にそう答えていた。確証はない。だが、それは日下自身の願望でもあった。そう信じたかった。
三人は身をすくめ、コンソールに向かい顔を伏せた。自分の体の中で時限爆弾のように時が刻まれてゆく。緊張で体が破裂しそうだった。
ハープーンミサイルが命中した。鈍い衝撃がラグマ・リザレックの艦底から伝わってきた。
「日下。この衝撃は?」
「どうやら核ではない。やはり通常弾頭だ。おかしな真似をすれば、いつでもハープーンミサイルを撃つという、警告と威嚇だ」
「脱出しようぜ。海からは潜水艦、上空からデリバン連合王国じゃあまりに不利だ」
「だめだ。今、我々がこの位置から回避したらデリバン連合王国の攻撃にマリンフォースがやられてしまう」
ラグマ・リザレックは上空で停止し、微動だにしなかった。
「今は耐えるんだ。ひたすら、このまま」
0444年の地球と0999年の地球。そして、日下たち三人と地球連邦。日下は必死でつなぎ止めようとしていた。このふたつの、か細い絆が切れてしまわぬように。
「ラグマ・リザレックはどうしている?」
「わかりません」
「よし、潜望鏡深度に浮上だ。状況を確認する。バラストタンクブロー」
シーパンサー、ノーマン艦長は浮上を命じた。
ラグマ・リザレックが指定ポイントへ向かい、ほっと胸を撫で下ろした彼だが、一抹の不安もまたノーマン艦長の胸中に存在していた。
日下たちが更に浮上し、上空へと飛び立った瞬間には、さすがに肝を冷やした。
すぐさま威嚇の通常炸薬を装填したハープーンミサイルを発射した。
だが、その後の様子がどうもおかしい。
サブマリナーが信用するものは、あくまで自分の目と耳と勘だ。ノーマン艦長は自分の勘を信じ、そして状況を自分の目で確認せずにはいられなかった。
「艦長、潜望鏡深度に到達しました」
「潜望鏡を上げろ。水上レーダーオン」
シーパンサーは、洋上の状況を捕らえた。どうやらラグマ・リザレックは、別の艦隊に攻撃を受けているようだ。だが、上空に浮かぶラグマ・リザレックの艦底が視界を遮り、敵の正体まではつかめない。
「三番から十番、魚雷発射管にハープーンミサイルを装填。魚雷発射管、注水。前部バラストタンクブロー、アップトリム二〇」
一気にそこまで指示をだすと、艦内無線を切りノーマン艦長は一旦大きく息を吐いた。
「ソナー、水上レーダーから識別信号を発信しろ」
「了解」
「ノーマン艦長、味方の識別信号に反応しません」
「よし、水上レーダー収納。三番から六番までハープーンミサイル発射用意」
「発射用意」
「三番から六番、発射。続いて七番から十番発射用意」
「三番から六番発射」
「七番から十番発射用意」
「七番から十番発射」
「発射」
「急速潜航、ベント開け。バラストタンクネガティブブロー。ダウントリム七〇」
ノーマン艦長はデリバン連合王国の艦隊にも、その照準をセットしていた。
「海の中からミサイルが来ます」
轟の声に、日下は反射的にラグマ・リザレックをそのミサイル発射ポイントに動かした。
シーパンサーがデリバン連合王国に向けて発射したミサイルだ。だが、これをデリバン連合王国の艦隊に命中させる訳にはいかない。これが命中すれば、デリバン連合王国艦隊はマリンフォースに向け、容赦ない攻撃を加えるだろう。そうなったら、もうこの戦争を止められない。双方はともにその戦力を注ぎ込むだろう。互いの絆の意味も省みず、自ら悲劇の引き金をひくことになるのだ。
なんとしても止めなければ。
日下は体をはって、シーパンサーのミサイルをラグマ・リザレックで受け止めた。衝撃が艦を揺さぶる。
デリバン連合王国とマリンフォースの狭間で、日下は戦争回避の方法を考えていた。やがて意を決し、日下はデリバン連合王国の艦隊に向かい、通信回線を開いた。
「上空の艦隊に告ぐ。我々に対する攻撃を直ちに中止せよ。我々は、地球連邦に所属する者だ。攻撃を中止せよ。ここは、地球連邦。ガイア暦0444年の地球だ。貴君らの攻撃を、即刻中止せよ」
日下の必死に呼びかけに、デリバン連合王国の艦隊が反応し、一時的に攻撃がやんだ。
やがて、ラグマ・リザレックのモニターに一人の男が映った。ワイル・マクレガー少佐だ。
「我々は、デリバン連合王国プラネット444(トリプルフォー)制圧部隊。私は、艦隊司令のワイル・マクレガー少佐だ」
「マクレガー少佐。私は地球連邦最高総司令部所属、日下炎大尉。通信を感謝する。マクレガー少佐、即刻我々に対する攻撃を中止していただきたい。何故、我々に向かい攻撃をするのか」
「我々ギネル・デリバン同盟は、貴君らの惑星を制圧する。貴君らが降伏の旗を上げぬ限り攻撃を止めることはできない」
「何故だ?」
「私にそれを答える義務も権限もない。私は命令を遂行するだけだ」
「待ってくれ。貴君らはガイア暦0999年の地球人類と聞いた。よく聞いてくれ。我々はガイア暦0444年の地球人類だ。つまり、我々はあなたがたの祖先という事になる。これを理解してほしい」
「…理解している」
「では、我々が戦うことが無意味なことが解っていただけると思う」
「もう一度言う。我々は貴君らの地球、0444年の地球を制圧する」
「何故だ? 祖先と子孫が戦う。こんな馬鹿げた話があるか。タイムパラドックスがおきるぞ」
「タイムパラドックス…だが、それがおきない、としたら」
「なに?」
「日下大尉。確かに我々はガイア暦0999年の地球からやってきた。既に私たちは砲火を交えた。だが、その影響が全くこちらの地球には出ていない。私たちの地球、そしてあなたがたの地球。それが独立しているとしたら」
「独立している?」
「祖先と子孫が戦う。確かに愚かしい事かもしれない。だが、歴史の中では、戦場で親と子が刃を交えたケースはいくらでもある。我々は我々の未来のため、この作戦を成功させなければならない。以上だ。では、通信を切る」
「待ってくれ。マクレガー少佐」
日下の叫びも空しく、通信は切れた。
「くそ。これで戦争を止める手段がなくなった」
日下はガックリと肩を落とした。絶望とはこんなことを言うのだろうか。日下は真っ白になるくらい両の拳を握りしめた。
再び砲撃が始まった。
「日下、反撃だ」
カズキが、日下の方に向き直りながら叫んでいる。
「だめだ」
「わからない奴だ。奴等は俺たちから独立しているんだ。もう、遠慮はないはずだ」
「だめだ」
「何故だ。日下、お前は軍人だろう。何故、ここを、この地球を守ろうとしない。お前が守ろうとしているのは一体何だ?」
「俺が守ろうとするもの?」
「俺たちがしなければならないことは一体何だ?」
「俺が、守るものは……全て、だ」
「全て? 全てなぞ守れるわけがない。それは理想すら通り越した夢物語だ」
「日下さん」轟が叫んだ。「ノーマン艦長から通信が来ています」
「なんだ?」
「日下大尉。この空域から退避しろ。我々はデリバン連合王国に対しハイパー核ミサイルを発射する。何を考えているのか知らないが、邪魔をするな。いいか、すぐに退避するんだ」
「待ってください。ノーマン艦長」
「いいか、これ以上邪魔をすると君らの安全も保証しかねるぞ。わかったな。退避しろ」
「艦長! ノーマン艦長!」
「日下、デリバン連合王国が何か発射したぞ」
カズキの言葉に、日下はメインモニターに目をやった。マクレガー少佐の空母が洋上にむけ、無数のミサイルを発射した。
「対潜ミサイルか? マリンフォースが危ない」
デリバン連合王国の艦隊が発射したミサイルは、着水すると同時にシーパンサーに向かい、探信音波を出しながらその航跡を伸ばしていく。
しばしの静寂の後、爆発とともに巨大な水柱が連続して上がった。
「マリンフォースがやられた?」
「日下、これが現実なんだよ。お前がグジグジしているだけ、犠牲者が増えるんだ」
カズキの罵声を聞きながら、日下はコンソールに拳を叩き付けた。
(ノーマン艦長。俺は、まちがっているのか?)
「日下さん。デリバン艦隊からミサイルです」
そう言ってから、轟は更に言葉をつないだ。
「海からもミサイル来ます」
「ワーニングメッセージ。熱反応、過大。警戒を要す」
「……核だ…」
最後に生き残ったシーパンサーが、核ミサイルを撃ったのだろう。
「何故だ? 何故、こうなってしまうんだ‼」
日下の叫びに、彼の右手の「ラグマの紋章」が反応した。
核ミサイルがデリバン連合王国のミサイルを巻き込んで、殺戮のエネルギーを爆発させた。その破壊の只中にあったデリバン連合王国の艦隊は、一瞬にして消滅してしまった。
焼き尽くす熱風。吹き上がるマッシュルームクラウド。そして放射能の猛威は、ラグマ・リザレックすらもその腕の内に取り込んだ。
悪魔の爪痕が、その空域に取り返しのつかない破壊を刻み込んだ。全ての命を奪い去った死の空間。だが、その中に一つだけ空中に静止しているものがあった。
ラグマ・リザレックだった。
ラグマ・リザレックを繭のようにエネルギーが包み込んでいた。強力なバリアーフィールドだった。
バリアーに包まれたラグマ・リザレックは、この破壊された空間にあって、只一艦、なお損傷を受けることなく存在していた。
消滅してしまった生命が、確かにここにあったと示す墓標のように。
デュビル・ブロウは無人の会議室で、一人思いを馳せていた。中間照明がほんのりと柔らかい光を投げかけている。
軍事会議が行われた会議室だ。だが、今はその時の喧騒の欠片もない。静寂が時の流れすら堰き止めてしまったように、その椅子に腰を降ろしたデュビルは、身じろぎ一つもしない。
デュビル・ブロウは封印していた過去を、敢えて掘り返そうとしていた。彼の意識の奔流は過去へ過去へと遡る。
そしてその思いは憎しみの濁流となって流れ出す。
「オヤジ…傷…オヤジ……傷…」
デュビルは繰り返し繰り返し、同じ言葉を呟いていた。
ガイア暦0983年。
既にギネル帝国とデリバン連合王国は交戦状態となっていた。
開戦当初の無差別報復攻撃が、互いの領土をあっという間に蝕んでしまった。クリーンランド島において、条約締結が行われたのは丁度この時だった。
戦場の激戦もさることながら、この時、軍隊による強制的な思想コントロールが始まった。
デリバン連合王国で、当時「βμ思念波増強論」と「反βμ思念波論」という二つの思想が混沌と入り乱れていた。
βμの特殊能力のひとつである思念波。これを兵器へと拡大転用しようと言う考え方と、それに反する思想である。
思念波とは、単純に言えば脳神経を圧迫できるほど強力なテレパシーのことだ。これを増幅し、兵器として使用する。極めて軍隊が考えそうな思想であり、戦時にあってはある意味当たり前の動きでもある。
だが、これをすこぶる危険だと反する者もまた、数多くいた。思念波は脳神経を直接圧迫し、悶死させる。苦しみのたうち回る被害者を考えたとき、人道的な見地から考えて、これは悪魔の研究と烙印を押すに値する。
もう一つは、思念波能力の差による差別問題が生じる畏れがある。さらに、この兵器を軍隊に持たせたとき、軍隊と政治が結託してファッショへと発展する危険がある。逆らう者には思念波の洗礼を浴びせれば、簡単に人を押さえ込む事ができる。
この二つの思想は対立を生んで、しだいに過激な方向へと進んでいた。
それにしても皮肉なもので、そもそもこの思念波を兵器転用すると言う思想が生まれたきっかけは、平和利用の目的でテレパシー増幅装置というシステムが開発されたことにある。
βμといっても特殊能力の個人差はある。これを、均一化する目的で開発された。能力が均一化するということは、それを規格化できるということだ。スタンダードができれば、それに則って様々な物やサービスを展開できる。それは、測り知れないメリットだった。そういう平和利用のためのものが、ひとたび視点を変えれば殺戮兵器への転用となる。
全世界が、危ういバランスの上に成り立つ時代だった。
そんな時代の背景の中、デュビル・ブロウは当時四歳だった。
デュビル・ブロウの記憶に、母の顔も父の顔も既にない。だが、おぼろげながら幼少のときの、柔らかく温かなぬくもりをかすかに覚えている。
父はいつも帰りが遅く、普段は母と一緒に過ごすことが日常だった。
ある夜、そのデュビル・ブロウの父は血だらけになって帰ってきた。
とっくに寝ついていたデュビル・ブロウが、その物音で目を覚ますほどの騒ぎだった。
父は身体のあちこちに深い傷を負っていた。その表情は蒼白で血の気がなかった。必死で介抱し、傷の手当てを行う母の傍らでデュビル・ブロウは動転し、ただただその様子を見つめていた。
「せ、政府は、我々反βμ思念波論を唱える者に対して弾圧を始めた」
デュビル・ブロウには、もちろん父の言葉の意味は理解できなかった。わかるのは、父が殺されかけたということだけだ。
「明日には、どこかに身を隠さなければならない」
戦争という死神を祭る時代の潮流は、不利益な反対分子をその濁流で押し流そうとしていた。血生臭い触手を次々に伸ばし、それが今デュビル・ブロウの父に降り掛かっているのだ。
次の日の夜。デュビルたち家族は、逃亡の機会を息を潜めて待っていた。四歳のデュビルにとっては眠くて仕方のない時刻だったが、父母の緊張した面持ちにそれを我慢していた。
ふと傍らにいる父を見た。父は、腕の包帯を巻き直していた。その太く逞しい頼れる腕には、真一文字に走る生々しい傷痕があった。
「お父さん、痛くないの?」
「デュビル」
デュビルの耳に入る父の声も、今は霧で覆われ記憶に薄い。
「デュビル。この傷はな、お父さんの勲章だ。とても痛いけど、お父さんは我慢する。これは、男の勲章だからな。お父さんはな、自分が正しいと思ったことを守り通したんだ。今、お父さんは、たくさん人とお話をしてお父さんの考えていることをわかってもらおうしとている。けれど、それが、なかなかわかってもらえない。それでとうとう……」
「ケンカしたの?」
「ケンカ? そうだな。ケンカしたんだ」
「ケンカはよくないんだよね」
「そうだ。ケンカは、よくない。でも、どうしてもしなきゃならないケンカもあるんだ。そういうケンカもあるんだ」
「…………」
「デュビル、大きくなったらわかるよ。男の子は、自分の正しいと思ったこと、決めたことは守り通すんだ。それが、とても強い男なんだ。その時にケンカした傷は男の勲章なんだぞ。デュビル、自分の正しいと思っていることをちゃんと言える男になれ。とっても強い男になれよ」
そのとき、ドアを蹴破り、銃をかまえた武装兵が侵入してきた。それは「反βμ思念波論」提唱者の虐殺を命じられた秘密部隊の兵士だった。
武装兵は何事かを怒鳴り散らすと、いきなり銃を乱射した。
母が恐怖に悲鳴をあげた。デュビルは母に抱き寄せられ、その温かく柔らかい胸に包まれた。
父は二人を庇うべく武装兵の前に立ち塞がった。が、それ以後、母の体に押し包まれたデュビルの視界は遮られ、もう何が起こっているのかわからなかった。
武装兵の罵声と銃撃と悲鳴が渦巻く。
母は何度悲鳴をあげただろう。銃声が轟く。不意に母の悲鳴が途絶えた。それと同時にデュビルの顔が、生温かい液体で染まっていく。
デュビルは母の胸を抜け出し、武装兵の前に躍り出て向かっていった。
「やめろ。何をするんだ。お父さん、お母さんに何をするんだ」
デュビルは、その小さな拳で武装兵の膝を叩いた。
その儚い抵抗を、兵士はニヤニヤと煙草に汚れた歯ぐきを見せながら、薄笑いを浮かべていた。
だが、それも束の間で「ガキが、うるせぇ」と、罵声を漏らすとその銃床でデュビルの頬を打った。デュビルは吹っ飛ばされ、壁にぶつかり失神した。
気付いたとき、その部屋は血に染まっていた。椅子やテーブルは倒れ、ガラスやシャンデリアは砕け、床に落ちている。その奥でめらめらと火が揺らめいていた。
デュビルは泣きながら、母の遺体を見つめた。母の目は見開き、背中からは赤黒い血の流れた痕があった。その優しい顔だちは見る影もなく、骸の母の顔は恐怖に強ばっていた。
その光景は、デュビルの心に焼きつき、彼の心にトラウマを残すことになる。
惨劇の光景の中から、デュビルの父の姿は無くなっていた。遺体もなかった。家族を全て失い、父の名前すらわからなくなった。
火が回り始めた。焦げ臭さと、煙が蔓延してきた。
どこをどうして逃げたのかは、覚えていない。だが、デユビルはかろうじて火を放たれ、燃えさかる家を脱出したのだ。
現状のままでは、何も好転しない。むしろ、次から次へとギネル帝国とデリバン連合王国が襲来し、その度に地球連邦がやられていく。戦力の差は明らかであり、これ以上核を使用させるわけにはいかない。
そして、ギネル・デリバンとまともに戦えるのは、このラグマ・リザレックしかない。
日下達は、これからどうするべきか頭を抱えていた。
たった三人。たった三人で抱えるには、問題が大き過ぎた。
しかし、日下達に考えあぐねる時間は、与えられなかった。
不意に、ラグマ・リザレックの船体が突然震えだした。
「何だ? なにが起こっているんだ?」
艦全体が、小刻みに震えている。普段の震動ではない。それが、徐々に大きくなっていく。司令艦橋で、日下達はそのチェックに追われるはめになった。
しかし、その震動の原因がわからない。エンジンに異常はなかった。不安が高まる日下達をよそ目に、震動は更に激しくなって、不意にラグマ・リザレックは、急上昇を始めて大気圏を突破した。
訳がわからず、日下達はシートにしがみつくので精一杯だった。
宇宙空間に出ても、ラグマ・リザレックは停止しなかった。その先に、レインボーホールがあった。
「まさか、異常空間に突入するのか?」
ラグマ・リザレックは、レインボーホールに突入しようとしていた。
思わぬ展開に驚く日下達に構わず、躊躇いなく直進し、そして突入した。
日下達は、叫び声をあげた。
異常空間を、あっという間に抜け出たとたん、彼等の視界に飛び込んできたのは、火星のように錆ついた惑星だった。それが、ガイア暦0999年の地球だった。
異常空間を背後に置き、前方に赤い地球。両方をメインモニターに捕らえて、日下は二つを見比べた。
(これさえ出現しなければ、こんな惨劇になることはなかったのに)
錆ついた惑星はしだいに距離を縮めるに従い、日下達の目に大きく広がり視神経を圧迫していった。




