序章 月の虹
地球の内部に向かって、得体の知れない光が突き刺さった。宇宙空間がわずかに歪み、水面に石を投じた波紋のような波動が、地球の端から端へと通り抜けていった。
それはまだ、地球に人が発生する以前の時代のことだった。
地球、ガイア暦0522年。
突如数万にのぼる宇宙艦隊が、襲来した。
地球が一つに統合され「地球連邦」が誕生し、国家の概念が惑星単位の規模に認識されて500年。紀元名をガイア暦と制定し、地球内で初めて紛争の火種が消えた時代。いわば、人類にとって最も平和で理想といえる社会を実現した時代だった。そこに住む人類は、その平和が永遠に続くと信じて疑っていなかった。戦争の緊張がなくなった防衛システムは形骸と化し、軍隊は成長を止めた。
戦う術を忘れかけていた人類にとって、突然の侵略者はあまりに圧倒的だった。逃げ惑う人々を満足に守ることもできない不十分な軍備の防衛軍は、ひとたまりもなく制圧された。
そしていつしか逃亡の果て、一部の人間がナスカ高原に集まった。そこには、半年前に地下から忽然と出現した、土と岩と泥にまみれた巨大なメカニズムの塊があった。それは「ラグマ」と名付けられていた。
窮地に追い込まれた人々は、このメカニズムに逃げ込んだのだ。
その集団の中に新米の軍人バロラ・メルタ、物理学者のアレック・アルベルン、地質学者であり、このメカニズムの調査責任者のモルガン・大門がいた。いつしか、この三人が指導者的立場に立ち、逃げ惑う人々をまとめあげていた。
しかし、その「ラグマ」にも攻撃の手は伸びてきた。
「このメカニズムは、1ヵ月前に、巨大地震とともに地下から突然浮上した。そう、大地震と共に浮き出てきたんだ。つまり、地球の圧力に耐えてきた。そう簡単には、破壊されたりはしない」
モルガン・大門の言葉は、皆を安心させるための気休めに過ぎなかった。それでも、その言葉に人々は安堵した。このメカニズムは、彼らにとって最後の砦、いわばシェルターになるはずだった。が、その安息も長くは続かなかった。
メカニズム上空に、不気味な飛翔音と共に敵の艦隊が迫ってきたのだ。
ナスカ上空の青空を黒色の艦隊が埋め尽くした。ゆったりとした速度で進攻し、我が物顔で「ラグマ」上空に停止した艦隊から、おもむろに恫喝するような声が響いた。
「我々はギアザン帝国。我が末裔、子孫たる地球人類よ。我々は、子孫という関係を断ち切りに来た。降伏せよ。我々は諸君らを全滅させるつもりはない。が、諸君らの返答如何によっては、それも保障の限りではない。我々は、無差別攻撃を開始する。一時間以内に回答を送れ。降伏か、死か。君たち次第だ」
メカニズムの真上に、ひときわ大きな三隻の宇宙戦艦が並行して停止していた。警告はその三隻の戦艦の中央に位置する艦からだった。しかも、その警告は完全な地球の言語で発せられていた。
メカニズム内の人々は、ここで初めて戦う意志を持った。追い詰められて、窮鼠猫を噛む、の心境に近かったのかも知れない。
「む、無差別攻撃?」
「降伏か死か、どちらかを選べというのか!」
警告の間中、ひっそりと息を殺して静まり返っていたメカニズム内が、どよめきで沸き立った。
アレック・アルベルン博士が叫んだ。
「諸君、我々は今まで逃げて、逃げて、逃げ回ってきた。しかし命あるものが、ただ黙って死に至らしめてなるものか。それは、命に対しての陵辱だ! 戦わなければならない! 我々には、生きる権利がある。そして、それは今だ!」
アレック・アルベルン博士は拳を振り上げ、全人に訴えた。人々は強く同調し、戦う意思がメカニズムを包み込んだ。
そして、その意志に答えるが如く、突如メカニズムにエネルギーが通い、全体が唸るように鳴動を始めた。
「ア、アレック博士。エ、エネルギーがこいつに! システムが起動しました!」
モルガン博士が、驚愕の声をあげた。
メカニズムが覚醒し、脈動を開始した。
「バロラ君、メカニズム始動だ。わかるか?」
「わかります。始動します!」
バロラ・メルタは、作動レバーを一気に引いた。
メカニズムは作動した。次の瞬間、メカニズム内の人々は強烈なGと、細胞のひとつひとつを剥がされるような苦痛を感じ、叫び声とともにそのまま気を失った。
ギアザン帝国の三隻の戦艦は、七色の光の渦に包まれ消えていく巨大なメカニズム「ラグマ」を見た。
彼らが再び目覚めたその窓外の風景には、敵の影も戦火の爪痕も見られなかった。
警告を発するように明滅を繰り返すコンソールパネルのタイムカウンターは、ガイア暦0400年を示していた。
その夜空に、月が美しく輝いていた。ただの月ではなかった。
月虹。望の月の光に、虹が生じていた。淡い淡い、とても儚い七色の虹。息を吹きかけたら、消えてしまいそうなくらいに儚げだった。
月虹を見た者には幸せが訪れる、という言い伝えがある。
しかし、バロラ・メルタもアレック・アルベルンもモルガン・大門も、そんなことは知る由も無かった。
それから、二十六年後。
一面にコスモスの群生が咲く丘の小さな宿泊施設で、幼い男の子と女の子が、目を丸くして夜空を見上げていた。
「お月様がいつもとちがう! すごーい」
「きれーい」
二人は、そこに輝くお月様に圧倒されていた。初めて見る月の虹、月虹だった。
年に一度の、孤児院のお泊り会。そこで育つ仲の良い二人は、もちろんそれが月虹という、めったに見ることができない現象だとは知らない。
「ほのおちゃん、すっごいきれいだね」
「うん、すごいね、みつきちゃん」
ただただ、美しい月に心を動かされていた。
菜の花畠に 入日薄れ
見渡す山の端
霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて におい淡し
里わの火影も 森の色も
田中の小路を たどる人も
蛙のなくねも かねの音も
さながら霞める 朧月夜
美しい月の光景に触発されたのか、みつきと呼ばれた女の子が「朧月夜」の唄を口ずさんだ。まだ幼いから、なんとなく舌足らずな歌い方だったが、神秘的な月とその歌が、ほのおという男の子には、なにか映画のワンシーンのような、現実でありながら非現実的な特別な世界のように見えた。
みつきの口元、下顎には小さなホクロがあった。普段の夜なら、きっとそのホクロには気付かないだろう。けれど、今宵は月明かりに照らされて、そのホクロが唇とともに動くのが見えた。口ずさむ口元が、小さくてなんだかとても可愛らしかった。
月の虹は、バロラやアレック、モルガンが見た時と同じように、儚げで美しかった。