第6話 日常の終わり
5分後。
悠真は自転車を飛ばして、約束の場所まで来ていた。
橋と言っても大きいものではなく、生活道路の一部である。
アパートは住宅街の端の山際にあり、その山林を突っ切ったところにこの場所はある。そのため、周囲には川と山、そして細い県道しかない。
一分ほど遅刻である。だが、事情を考えれば、上出来だろう。
河原まで降り、橋桁のそばに自転車を立てて、息を整えて周りを見渡す。
誰もいない。
空には雲ひとつなく、太陽が照りつける。
ちょうどこの辺は、浅瀬で川べりが広く、かなり大きな広場になっている。
夏はバーベキューをする人で賑わうのだが、平日昼間のこの時間には誰もいない。自分以外の気配といえば、はるか遠くの空から聞こえてくるヘリコプターの飛行音と、川のせせらぎだけだ。
おかしいな……。
思わず頭をひねる。
駅からも遠く、バスも通っていない場所だ。車で来るんだろうと当たりをつけて、土手を見上げても、車一台通らない。
もしかして、騙されたとか……
急にそんな疑念が湧き上がる。
異世界に行って勇者にならないかなんて誘いを真に受けた自分が、バカだったのだろうか。
急に現実に戻ったのか、腹が大きく鳴った。せっかくの香澄の手料理を食べ損なったと思うと余計に腹が減って来た。
「ん?」
ふと、先ほどから聞こえていたヘリコプターの音が徐々に大きくなってきたのに気がついた。上を見上げると、ちょうど自分の真上に差し掛かったらしく、普通より大きな機体が豆粒大ながらはっきり見える。
ところが、なんとはなしに、行き過ぎるところを見ていたら、上空に留まったまま、轟音を響かせて自分めがけて降下してくるではないか。みるみるうちに機体が大きくなる。
な、なんだ?
思わぬ状況に思考が停止する。すでに、ヘリは着陸態勢に入っていた。相当に大きな機体である。
機体の両側につけられたティルトローターの風が地面の石を吹き飛ばし、下生えを猛烈に揺さぶりながら、ゆっくりと降下し着陸する。自分からは2~30メートルは離れているが、それでも風を感じる。
しかもそれは、ただのヘリではない。ミリタリー系は嗜み程度の知識しかなかったが、見た瞬間に分かった。
おそらく日本で最も有名な機体といってもいいだろう。
軍用航空ヘリMV-22B、通称オスプレイだ。
やがて、後部ハッチが開き、中から、濃い色のスーツに、腰まで届くような黒髪を風になびかせ、一人の女性が優雅に降りてきた。この距離からでもモデル並みの美人に見える。
彼女は、悠真のそばまで来て微笑んだ。
おそらく二十才半ばと思われるその女性は、切れ長の大きな目に、ルージュの引かれた唇が艶かしく、大人の色香と知性に溢れていた。
甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
思わず悠真の息が止まった。
「初めまして、神代くん。私が秋月薫よ」
微笑みを浮かべて、薫がさり気なく手を差し出す。
「え、あ、ど、どうも」
動揺して口がうまく回らない。
握手して挨拶などしたこともない。しかも、容姿端麗な女性の手を握ることにドギマギしながら、ぎこちなく手を握り返す。
彼女は上品なしぐさでチラリと腕時計を見た。
「遅れてごめんなさいね。さあ、行きましょう。あまり時間がないの」
「い、行くってどこに……ですか?」
「海の底よ」
「へっ?」
もう頭は状況に全くついて行っていない。何をどう突っ込んでいいかの判断すらできなかった。だいたい、なんだ? 軍用ヘリで迎えに来て、海の底って。
その時、何かが悠真の日常が終わりを告げた気がした。そして、とてつもない非日常が始まる予感。
「な、なんで、また……そんなところに……?」
動揺だけが先に立つ中、ようやく口に出せたのがこれだけだった。
「それは当然……」
悠真の反応が面白かったのか、彼女は楽しそうに笑った。
「異世界への入り口がそこにあるからよ」