第5話 『削除終了』
『異世界に行って、勇者をやってみるつもりはない?』
悠真は、薫のこの言葉を笑い飛ばすことはできなかった。
彼女にからかう様子はなく、そして、どこか切迫した響きが感じられたのだ。
だが、同時にこの妙な成り行きに戸惑ってもいた。
「……どういうことですか?」
『今言った通りよ』
「言っている意味がわからないんですけど」
雄弁なため息が聞こえてくる。
『……たしかにそうね。でも、説明する時間があまりないの。それに、本当に行けるかどうかは分からないし……。それならこうしましょう。今からそちらに迎えに行くから、その時に説明させて。それなら、構わないかしら?』
「い、今からですか?」
『あなたの住んでいるマンションから数分のところに川があるわね。……小和川っていうのかしら。その橋の近くにいてちょうだい。30分後にそこで会いましょう』
「え、でも……」
あまりの展開の早さに、めまいがしてくる。
異世界で勇者なんて馬鹿げた話がなんの例えかは分からないが、手間をかけてまで説明しに来るというのは、少なくとも相手にとってそれだけ重要だということだ。
だが、自分は単なる普通の高校生だ。別に隠しスキルも特殊能力もない。なのに、三顧の礼じゃあるまいし、そこまでしてもらえる理由が分からない。
悠真は彼女の意図が読めず躊躇した。
「……」
『お願い。私たちも急いでるの。会ってから全てを説明するわ」
「で、でも……」
『フェリスに会いたくないの?』
彼女が実在の人物であるような言い方だった。
やはり、VRMMOでも完成したのかとも思ったが、さすがにそんなうまい話はないだろうと頭の中で打ち消す。
だが、そうでないなら、どんなお為ごかしを言ったとしても、結局はゲームの画面で『会う』だけのはずだ。それなら、自分の部屋で十分である。
それに、やはりこの話は怪しすぎる。
「べつに、今でも会えてますから……」
『そう……』
電話の向こうで、一瞬思案するような間が流れた。
『……わかったわ、無理強いはできないわね。じゃあ、もし気が変わったら連絡くれる? 私の名刺は持ってるわね?」
「ええ」
『じゃ、電話待ってるわ』
電話が切れた。
何だったんだ、今のは……?
思わずスマホの画面を見つめる。
突然電話をかけて来て、異世界で勇者をやらないか、なんて妙な話だ。
しかも、その割にあっさり引き下がったのも気にかかる。
まあ、いいか。
腑に落ちないものを感じながらも、悠真は気を取り直して、再びパソコンに向かった。とにかくフェリスに話を聞こうと思ったのだ。
だが、スクリーン上ではおかしなことが起こっていた。
「あれ?」
ゲーム画面に「終了します」のメッセージが現れていたのだ。
キャンセルボタンはなく、OKしかないところを見ると、必ず終了しないといけないということなのだろうと察して、OKをクリックする。無論、再起動させるつもりである。
すると、「ご協力ありがとうございました」の文字が表示された。同時に、ハードディスクが激しく作動する音が聞こえる。
背中に冷たいものが走った。
アンインストールされてる!
すぐさま、プロセスを止めようとしたが、間に合わなかった。「削除終了」の文字がスクリーンに現れた。
「ま、まさか……」
焦ってハードディスクを引っ掻き回してゲームのプログラムを探すが、見つからなかった。フォルダごと消されたのだ。
「なんなんだよ……」
思わず独り言を呟きながら、それならばと、挿しっぱなしにしてあるUSBメモリにアクセスする。ヤマさんから渡されたゲームディスクだ。
ゲームは削除されたが別に慌てることではない。インストールし直せば済むのだ。
幸いなことに、このゲームは、ゲームの進行データ類は全て、サーバー側に残す仕組みになっている。こちらが再インストールしても、前のデータは残っているはずだ。
だが、インストーラを立ち上げるべくUSBメモリ内にアクセスして、頭を殴られたような衝撃が走った。
「そ、そんな……」
全てのファイルがものの見事に消去されていたのだ。全くの空である。
もうこれで、あのゲームをプレイすることができなくなった。
フェリスにも会えない。
この事実を受け止め切れず、呆然として、空のフォルダを見つめる。
だが、これで腑に落ちたことがあった。
なぜインストールディスクがDVDではなくUSBメモリだったのか。
そして、なぜゲーム中ずっと挿しっぱなしにしておかなければならなかったのか。
向こうの望むタイミングで、プログラムを削除したかったのだ。
さっきの電話と、何らかの関係があることは間違いない。というより、向こうが消したのに決まってる。
なんとかもう一度ゲームをインストールし直して、フェリスに会いたい。お別れも言えずに会えなくなるのは悲しすぎる。
異世界で勇者なんてなんの戯言かは分からないけど、どこにでも行ってデバッグでもなんでも付き合ってやる。
悠真は再びスマホを手に取り、名刺に書いてある電話番号に掛けた。
1コール目で薫が出た。
『気が変わった?』
さっきの電話とは打って変わって、なぜか背後で風を切るような激しい音が聞こえてくるが、それに構う余裕はなかった。
「話だけは聞きます」
『それでいいわ。今、そちらに向かっているところよ。じゃあ、15分後に』
電話は切れた。
愉快でも何でもなかったが、フッと笑いがこみ上げてきた。
もう薫は悠真がOKする前提で、すでにこちらに向かっていたのだ。
よほど会いたいらしい。だが、それは、一つの疑念を生じさせる。
どうして僕なんだ?
これまでの話し方だと、どうやら誰でもいいというわけではないらしい。だが、自分でなければならない理由が思い当たらないのだ。
まあいい。それは、相手に聞けばいいだろう。
思い直して、パソコンの電源を切り、身支度をする。
そして、そろそろ出ようかと立ち上がったとき、部屋のインターホンが鳴った。
「なんだよ、こんな時に」
新聞の勧誘だったら、速攻で追い返してやる。
少し、苛立たしい気持ちで立ち上がり応答ボタンを押す。
「はい」
『私よ』
インターホンの小さな画面には、香澄の顔が見えている。
(し、しまった!)
奈落の底に突き落とされたかのように、自分の思考が現実に戻ってくる。
昼食を持ってきてくれるって言っていたことを思い出した。さっきの一件で完全に失念していたのだ。
焦ってドアをあけると、香澄がお盆を持って入ってきた。
「お邪魔します。今日は、私の手作りハンバーグよ。ちょっとうまく出来たかなって思ってるの。昨日の夜に作って置いておいたのよ」
「あ、あの……」
香澄は、少し照れたように微笑んだ。その笑顔が心に刺さる。自分の顔がひきつっているのも分かる。
靴を脱いで上がると居間に入り、湯気が立ち上るお盆を嬉しそうにベッドの前のテーブルに置いた。それを悪夢にように見下ろす。
デミグラスソースのたっぷりかかったハンバーグも付け合せのジャケットポテトやにんじんもとてもこの上もなく美味しそうだった。なにより、相当に手間暇かけて作ったのだということが分かる。
だが、もう食べるヒマはない。少し遅れてでも食べていくという考えは、あの切迫した電話と、フェリスの顔を思い出して、すぐに消えた。
「えっと、あの、香澄……」
「何? 冷めないうちに召し上がれ」
悠真は、いたたまれなくなって、頭を下げた。
「いや、そうじゃなくて、あの、ご、ごめん、僕これから急用で出かけなくちゃいけないんだ」
「え?」
何を言われているのか分からないというか、聞こえたことを拒否するかのようなこわばった顔。
「どういう意味かしら?」
それがだんだん悲しげになっていくのを罪悪感に打ちのめされながら悪夢のように見つめる。
「いや、あの、えっと、さ、さっきある人から電話があって、その人と待ち合わせすることになったんだ。もう、行かなきゃ間に合わないんだよ」
「……そんなに大事な用事なの?」
「う、うん。僕にとっては大事なんだ。そ、それで、また帰ってからいただくから、ちょっとラップかなんかかけて、置いといてくれると嬉しい。いや、ホントに美味しそうだから」
「そんなに急ぐって、何の用事なのよ」
「いや、なんか、異世界で勇者にならないかって……」
しまったと思った時には手遅れだった。香澄の顔が一気に険しくなる。親戚が近くまで来たとでも言っていればよかったのだ。自分の機転の利かなさを呪う。
「何よ! またゲームの話なの? どうせ他のオタクと会うんでしょ。せっかく御飯作ってあげるって約束したのに。私のことよりそんな用事の方が大事なのね。ひどいわ!」
怖くて香澄の顔がまともに見られない。
いや、厳密には心が痛いのだ。彼女を傷つけてしまったことに対する罪悪感でいっぱいだった。
そう言えば、ここまで彼女を怒らせたことが、今までなかったなと思い出し、さらに落ち込む。
「い、いや、違うんだ。ほ、ホントに重要な話で……」
しどろもどろになって言い訳するが、もはや、香澄は聞く耳を持たなかった。
目の端に映る時計が、約束の時間まであと5分しかないことを示している。ここから自転車で飛ばしても5分はかかる。もはやタイムリミットだった。
「ご、ごめん、ホント、僕行かなきゃいけないから。こ、この埋め合わせは必ずするから、ごめん」
「……いいわよ。そんな大切な用なら行きなさいよ」
必死の謝罪が胸に届いたとは思えないが、少なくとも必死であることは分かってくれたようで、すこし矛先が緩んだ。
「あ、ありがと。じゃ、えっと、あの、鍵渡すからかけておいて」
「えっ?」
さすがにそれは驚いたらしい。でも、それを気にかける余裕はなかった。それに、香澄は大家の娘で、もともと彼女の親は合鍵を持っているのだ。べつに、ここで渡しても問題があるわけではない。
「じゃ、ごめんね!」
「あ、ちょっと、悠真!」
香澄の声にも反応せず、カギをテーブルに置いて、部屋を駆けて出た。
「もう。いつもこうなんだから……」
一人残された部屋で、香澄はぽすんと机のイスに座り込み、大きくため息をついた。
そして、テーブルの上に置かれた昼食を虚しく見つめる。
小さな頃から、悠真はいつもこうだった。好きなことに夢中になると、周りが見えなくなる。そして、その見えなくなるものの中に自分も含まれているのだ。
もう慣れたとはいえ、悲しいのは変わりない。
「何、これ?」
ふと、香澄は机の上に置かれた名刺を見つけ、拾い上げた。